中村元博士訳
ダンマパダ、スッタニパータ、大パリニッバーナ経より抜粋
ブッダの教え(原始仏典)
礼拝
かの尊師・真人・正しく覚った人に敬礼したてまつる。
諸仏の教え
人間の身を受けることは難しい。死すべき人々に寿命があるのも難しい。正しい教えを聞くのも難しい。もろもろのみ仏の出現したもうことも難しい。
すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること、──これが諸の仏の教えである。
忍耐・堪忍は最上の苦行である。ニルヴァーナは最高のものであると、もろもろのブッダは説きたまう。他人を害する人は出家者ではない。他人を悩ます人は道の人ではない。
罵らず、害わず、戒律に関しておのれを守り、食事に関して適当な量を知り、淋しいところにひとり臥し、坐し、心に関することにつとめはげむ。──これがもろもろのブッダの教えである。
三宝印・四諦・八正道
さとれる者(=仏)と真理のことわり(=法)と聖者の集い(=僧)とに帰依する人は、正しい知慧をもって、四つの尊い真理を見る。──すなわち苦しみと、苦しみの成り立ちと、苦しみの超克と、苦しみの終減におもむく八つの尊い道とを見る。
これは安らかなよりどころである。これは最上のよりどころである。このよりどころにたよってあらゆる苦悩から免れる。
※四諦:苦諦、集諦、滅諦、道諦
※八正道:正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定
正しい見解、正しい思い、正しいことば、正しい行為、正しい生活、正しい努力、正しい気づかい、正しい心の落ちつき
三法印
「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
慈経
究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い上がることのない者であらねばならぬ。
足ることを知り、わずかの食物で暮し、雑務少く、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の(ひとの)家で貪ることがない。
他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。
いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも、悉く、長いものでも、大きいものでも、中ぐらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでもすでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。
何ぴとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。
あたかも、母が已が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生れるものどもに対しても、無量の(慈しみの)意を起すべし。
また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし。
立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥つつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。
この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。
諸々の邪まな見解にとらわれず、戒を保ち、見るはたらきを具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう。
勝利の経
或いは歩み、或いは立ち、或いは坐り、或いは臥し、身を屈め、或いは伸ばす、──これは身体の動作である。
身体は、骨と筋とによってつながれ、深皮と肉とで塗られ、表皮に覆われていて、ありのまま見られることがない。
身体は腸に充ち、胃に充ち、肝臓の塊・膀胱・心臓・肺臓・腎臓・脾臓あり、鼻汁・粘液・汗・脂肪・血・関節液・胆汁・膏がある。
またその九つの孔からは、つねに不浄物が流れ出る。眼からは目やに、耳からは耳垢、鼻からは鼻汁、口からは或るときは胆汁を吐き、或るときは痰を吐く。全身からは汗と垢とを排泄する。
またその頭(頭蓋骨)は空洞であり、脳髄にみちている。しかるに愚か者は無明に誘われて、身体を清らかなものだと思いなす。
また身体が死んで臥するときには、膨れて、青黒くなり、墓場に棄てられて、親族もこれを顧みない。
犬や野狐や狼や虫類がこれをくらい、鳥や鷲やその他の生きものがこれを啄む。
この世において知慧ある修行者は、覚った人(ブッダ)の言葉を聞いて、このことを完全に了解する。何となれば、かれはあるがままに見るからである。
かの死んだ身も、この生きた身のごとくであった。この生きた身も、かの死んだ身のごとくになるであろうと、内面的にも外面的にも身体に対する欲を離れるべきである。
この世において愛欲を離れ、知慧ある修行者は、不死・平安・不滅なるニルヴァーナの境地に達した。
人間のこの身体は、不浄で、悪臭を放ち、(花や香を以て)まもられている。種々の汚物が充満し、ここかしこから流れ出ている。
このような身体をもちながら、自分を偉いものだと思い、また他人を軽蔑するならば、かれは(見る視力が無い)という以外の何だろう。
箭経
この世における人々の命は、定まった相なく、どれだけ生きられるかも解らない。惨ましく、短くて、苦悩をともなっている。
生まれたものどもは、死を遁れる道がない。老いに達しては、死ぬ。実に生ある者どもの定めは、このとおりである。
熟した果実は早く落ちる。それと同じく、生まれた人々は、死なねばならぬ。かれらにはつねに死の怖れがある。
たとえば、陶工のつくった土の器が終りにはすべて破壊されてしまうように、人々の命もまたそのとおりである。
若い人も壮年の人も、愚者も賢者も、すべて死に屈服してしまう。すべての者は必ず死に至る。
かれらは死に捉えられてあの世に去って行くが、父もその子を救わず、親族もその親族を救わない。
見よ。見まもっている親族がとめどもなく悲嘆にくれているのに、人は屠所に引かれる牛のように、一人ずつ、連れ去られる。
このように世間の人々は死と老いとによって害われる。それ故に賢者は、世のなりゆきを知って、悲しまない。
汝は、来た人の道を知らず、また去った人の道を知らない。汝は(生と死の)両端を見きわめないで、いたずらに泣き悲しむ。
迷妄にとらわれて自己を害なっている人が、もしも泣き悲しんでなんらかの利を得ることがあるならば、賢者もそうするがよかろう。
泣き悲しんでは、心の安らぎは得られない。ただかれにはますます苦しみが生じ、身体がやつれるだけである。
みずから自己を害いながら、身は痩せ醜くなる。そうしたからとて、死んだ人々はどうにもならない。嘆き悲しむのは無益である。
人が悲しむのをやめないならば、ますます苦悩を受けることになる。亡くなった人のことを嘆くならば、悲しみに捕らわれてしまったのだ。
見よ。他の(生きている)人々はまた自分のつくった業にしたがって死んで行く。かれら生あるものどもは死に捕らえられて、この世で慄えおののいている。
人々がいろいろと考えてみても、結果は意図とは異なったものとなる。壊れて消え去るのは、このとおりである。世の成りゆくさまを見よ。
たとい人が百年生きようとも、あるいはそれ以上生きようとも、終には親族の人々すら離れて、この世の生命を捨てるに至る。
だから(尊敬されるべき人)の教えを聞いて、人が死んで亡くなったのを見ては、「かれはもうわたしの力の及ばぬものなのだ」とさとって、嘆き悲しみを去れ。
たとえば家に火がついているのを水で消し止めるように、そのように知慧ある聡明な賢者、立派な人は、悲しみが起こったのを速やかに滅ぼしてしまいなさい。──譬えば風が綿を吹き払うように。
已が悲嘆と愛執と憂いとを除け。已が楽しみを求める人は、已が(煩悩の)矢を抜くべし。
煩悩の矢を抜き去って、こだわることなく、心の安らぎを得たならば、あらゆる悲しみを超越して、悲しみなき者となり、安らぎに帰する。
四諦
苦しみを知らず、また苦しみの生起するもとをも知らず、また苦しみのすべて残りなく滅びるところをも、また苦しみの消滅に達する道をも知らない人々、──
かれらは心の解脱を欠き、また智慧の解脱を欠く。かれらは(輪廻を)終滅させることができない。かれは実に生と老いとを受ける。
しかるに、苦しみを知り、また苦しみの生起するもとを知り、また苦しみのすべて残りなく滅びるところを知り、また苦しみの消滅に達する道を知った人々、──
かれらは、心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。かれらは(輪廻を)終滅させることができる。かれらは生と老いとを受けることがない。
苦しみと安楽
有ると言われる限りの、色かたち、音声、味わい、香り、触れられるもの、考えられるものであって、好ましく愛すべく意に適うもの、──
それらは実に、神々並びに世人には「安楽」であると一般に認められている。また、それらが滅びる場合には、かれらはそれを「苦しみ」であると等しく認めている。
自己の身体(=個体)を断滅することが「安楽」である、と諸々の聖者は見る。(正しく)見る人々のこの(考え)は、一切の世間の人々と正反対である。
他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。他の人々が「苦しみ」であると称するものを、諸々の聖者は「安楽」であると知る。解し難き真理を見よ。無知なる人々はここに迷っている。
欲望
欲望をかなえたいと望んでいる人が、もしもうまくゆくならば、かれは実に人間の欲するものを得て、心に喜ぶ。
欲望をかなえたいと望み貪欲の生じた人が、もしも欲望をはたすことができなくなるならば、かれは、矢に射られたかのように、悩み苦しむ。
足で蛇の頭を踏まないようにするのと同様に、よく気をつけて諸々の欲望を回避する人は、この世でこの執著をのり超える。
ひとが、田畑・宅地・黄金・牛馬・奴婢・傭人・婦女・親類、その他いろいろの欲望を貪り求めると、無力のように見えるもの(諸々の煩悩)がかれにうち勝ち、危い災難がかれをふみにじる。それ故に苦しみがかれにつき従う。あたかも壊れた舟に水が侵入するように。
それ故に、人は常によく気をつけていて、諸々の欲望を回避せよ。船のたまり水を汲み出すように、それらの欲望を捨て去って、激しい流れを渡り、彼岸に到達せよ。
老い
ああ短いかな、人の生命よ。百歳に達せずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても、また老衰のために死ぬ。
人々は「わがものである」と執著した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまっていてはならない。
人が「これはわがものである」と考える物、──それは(その人の)死によって失われる。われに従う人は、賢明にこの理を知って、わがものという観念に屈してはならない。
夢の中で会った人でも、目がさめたならば、もはやかれを見ることができない。それと同じく、愛した人でも死んでこの世を去ったならば、もはや再び見ることができない。
「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ、また聞かれた人でも、死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである。
わがものとして執著したものを貪り求める人々は、憂いと悲しみと慳みとを捨てることがない。それ故に諸々の聖者は、所有を捨てて行なって安穏をみたのである。
遠ざかり退いて行ずる修行者は、独り離れた座所に親しみ近づく。迷いの生存の領域のうちに自己を現さないのが、かれにふさわしいことであるといわれる。
聖者はなにものにもとどこおることなく、愛することもなく、憎むこともない。悲しみも慳みもかれを汚すことがない。譬えば(蓮の)葉の上の水が汚されないようなものである。
たとえば蓮の上の水滴、あるいは蓮華の上の水が汚されないように、それと同じく聖者は、見たり学んだり思索したどんなことについても、汚されることがない。
邪悪を掃い除いた人は、見たり学んだり思索したどんなことでも特に執著して考えることがない。かれは他のものによって清らかになろうとは望まない。かれは貪らず、また嫌うこともない。
死ぬよりも前に
「どのように見、どのような戒律をたもつ人が『安らかである』と言われるのか?ゴータマ(ブッダ)よ。おたずねしますが、その最上の人のことをわたくしに説いてください。」
師は答えた「死ぬよりも前に、妄執を離れ、過去にこだわることなく、現在においてもくよくよと思いめぐらすことがないならば、かれは(未来に関しても)特に思いわずらうことがない。
かの聖者は、怒らず、おののかず、誇らず、あとで後悔するような悪い行いをなさず、よく思慮して語り、そわそわすることなく、ことばを慎しむ。
未来を願い求めることなく、過去を思い出して憂えることもない。[現在]感官で触れる諸々の対象について遠ざかり離れることを観じ、諸々の偏見に誘われることがない。
(貪欲などから)遠ざかり、偽ることなく、貪り求めることなく、慳みせず、傲慢にならず、嫌われず、両舌を事としない。
快いものに耽溺せず、また高慢にならず、柔和で、弁舌さわやかに、信ずることなく、なにかを嫌うこともない。
利益を欲して学ぶのではない。利益がなかったとしても、怒ることがない。妄執のために他人に逆らうことなく、美味に耽溺することもない。
平静であって、常によく気をつけていて、世間において(他人を自分と)等しいとは思わない。また自分が勝れているとも思わないし、また劣っているとも思わない。かれは煩悩の燃え盛ることがない。
依りかかることのない人は、理法を知ってこだわることがないのである。かれには、生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない。
諸々の欲望を顧慮することのない人、──かれこそ平安なる者である、とわたくしは説く。かれには締めの結び目は存在しない。かれはすでに執著を渡り了えた。
かれには、子も、家畜も、田畑も、地所も存在しない。すでに得たものも、捨て去ったものも、かれのうちには認められない。
世俗の人々、または道の人どもがかれを非難して(貪りなどの過)があるというであろうが、かれはその(非難)を特に気にかけることはない。それ故に、かれは論議されても、動揺することがない。
聖者は貪りを離れ、慳みすることなく、『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものである』とも『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。かれは分別を受けることのないものであって、妄想分別におもむかない。
かれは世間においてわがものという所有がない。また無所有を嘆くこともない。かれは[欲望に促されて]、諸々の事物に赴くこともない。かれは実に平安なる者と呼ばれる。」
死別
アーナンダよ。わたしはあらかじめこのように告げてはおかなかったか?──
『愛しく気に入っているすべての人々とも、やがては、生別し、死別し、死後には生存の場所を異にするに至る』と。アーナンダよ。生じ、存在し、つくられ、壊滅する性質のものが、実は壊滅しないように、ということが、この世でどうして有り得ようか?このような道理は存在しない。それは修行完成者によって棄てられ、吐きすてられ、放され、捨てられ、投げ捨てられたものである。寿命の素因は捨てられた。
感興の言葉
与える者には、功徳が増す。
心身を制する者には、怨みのつもることがない。
善き人は悪事を捨てる。
その人は、情欲と怒りと迷妄とを減して、束縛が解きほぐされた 。
臨終の言葉
そこで尊師は修行僧たちに告げた。──
「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい』と。」
これが修行をつづけて来た者の最後のことばであった。