大量情報時代の参照行為について
Reference in the Age of Massive Information
岩元真明
初出:建築雑誌 Vol.135 No.1734, March 2020に加筆
Reference in the Age of Massive Information
岩元真明
初出:建築雑誌 Vol.135 No.1734, March 2020に加筆
建築家は、過去あるいは同時代に建設された数多くの建物を参照して設計を行ってきた。かつて、参照を探すことは本や雑誌のページをめくることとほぼ同義であった。しかし今日の参照行為はもっとイージーである。インターネットの画像検索でキーワードを入力すれば、関連したイメージを即座に、大量に得ることができる。書籍が主な参照物であった時代には、紙をめくるという物理的制約が参照行為に大きな影響を与えていた。書籍には「文脈」があり、ゆえに参照物は建築理論や通史、あるいは同時代の傾向と結び付けられて受容された。また、紙という物理的存在は時間が経つと古ぼけ、色褪せる。情報の鮮度は紙にあらわれ、ゆえに新しい情報―たとえば建築専門誌の最新号―の価値は相対的に高まった。しかし、物理的媒体から解き放たれたインターネット空間では、あらゆるイメージはデータとして等価に扱われる。あるキーワードを入力すれば、太古の神殿も、近代の名建築も、できたばかりのインテリアも混然となってディスプレイに現れ、その中の一つを選べば、関連したイメージがさらに数多く提示される。それは便利だが、問題もある。量が多すぎるのだ。ディスプレイに映し出される大量のイメージをどう扱うか、途方に暮れる…。このような大量情報時代において、設計者による参照行為は、かつてとは異なる意味を帯びているのではないだろうか。
ピンタレストと「ときめき」:参照のパーソナライゼーションと大衆化
現代における参照行為を考察する手始めとして、2010年に開設されたピンタレスト(Pinterest)というウェブ・プラットフォームについて考えたい。これは画像の検索・保存・整理・共有を組み合わせたサービスであり、インターネット空間から好みのイメージを選んで「ピン」し、カテゴライズすれば、自分だけの「ピンボード」ができあがる。ユーザーはそれを整理することもできるし、他者と共有することもできる。
現在、ピンタレストは建築設計や建築教育の現場において活発に利用されている。建築家がピンボードをつくり設計時の参考にしたり、施主がピンボードをつくり自らの要求を伝えたり、学生がピンボードをつくり設計課題に取り組むことは日常茶飯事である。一方で、ピンタレストから得られる知識は、本や雑誌から得られる知識に比べて断片的・表層的であるという批判を耳にすることも多い。実際、ピンタレストで収集される建築のイメージは、建物全体を表すのではなく、部分やディテール、素材や色、あるいは空間の雰囲気を示すものが多い。
しかし、ピンタレストはそもそも開発当初から建築設計と建築教育のツールであった。ピンタレストの開発者の一人であるエヴァン・シャープはコロンビア大学大学院建築学部(GSAPP)出身であり、在学時に友人と協働してピンタレストのプロトタイプを開発していた。
建築学生だった私は、執拗なまでにイメージを収集していた。何千枚もの断面図や、レンダリングや写真などだ。私はそれらのイメージを管理し、参照することがきわめて難しいと感じていた。そこで私たちはプロトタイプを開発し、それを友人たちにも配布した。彼らの多くは建築家だった。(註1)
シャープは建築学生が集めた大量のイメージを管理し、参照するためのツールとしてピンタレストを開発した。しかしピンタレストはデザイナーの参照ツールという当初の想定を超えて発展をはじめた。インターネット空間からイメージを収集するというアイデアによって、ピンタレストは「シェア」を重視する他のSNSとの差別化に成功し一般の人気を得たのである―「ピンタレストはオンライン上の、ポジティブで楽観的な場だ。だれかとシェアするものではなく、あなたが求めるものに囲まれて、時を過ごすのだ」(註2)。
シャープは2018年にGSAPPで行ったレクチャーにおいて「イメージは夢の言語である」「夢は自己を映し、形づくる」(註3)と述べている。つまり、インターネット空間から選びぬかれたイメージ群は自己認識のための鏡であり、それが未来の自己を形づくるというわけだ。「求めるものに囲まれて」「自らの夢を認識し」「そこから未来の自己を形づくる」。これは参照のひとつのあり方といえる。しかも、「デザイナーではない多くの人々」が行うことのできる開かれた参照行為であった。
ピンタレストのピンボードにおける参照行為は、唐突に思われるかもしれないが、片づけコンサルタントとして一世を風靡した「こんまり」こと近藤麻理恵のメソッドとよく似ている。
心がときめくモノだけに囲まれた生活をイメージしてください。それこそ、あなたが手に入れたかった理想の生活ではありませんか?心がときめくモノだけを残す。あとは全部、思い切って捨ててみる。(註4)
こんまり流片づけの極意はモノの取捨選択であり、その最終目的は物を捨てるという行為ではなく、「何に囲まれて生きたいか」という個人的価値観の追求である。そのために近藤は「触った瞬間に『ときめき』を感じるか」(註5)というきわめてパーソナルな価値判断基準を導入した。ピンタレストも「こんまり」も、「大量なイメージ/モノ」の存在を前提としており、そこから「求めるイメージ/モノ」に囲まれた状態をつくりだし、「自らの夢/理想」を実体化する。このとき、「ときめき」というパーソナルな価値判断基準を高らかに宣言したのが近藤の新しさであった。同じように、ピンタレストにおける収集と参照の核心にもパーソナルな価値判断基準があり、だからこそ、それは「デザイナーではない多くの人々」をも惹きつけたのであろう。換言すれば、ピンタレストと「こんまり」が指し示す参照行為の現代性は、参照物のパーソナライゼーションと参照者の大衆化である。
ところで、現代では人工知能が行う機械学習によって、大量のイメージから「選択をせず」、そのすべてを使って新たなイメージを創り出すことも可能である。人間の脳が介在しない機械学習と、感性による参照物のパーソナライゼーションは対照的であり、大量情報時代における参照行為の2つの極を示していると考えられる。
ポストモダン的参照と現代的参照:断片性から関係性へ
感性を価値判断の基準においたとき、イメージの帯びている情報の多くはブラックボックス化される。たとえば、古く歴史的なものであろうが、新しく刹那的なものであろうが、「ときめくか否か」の二者択一の前ではフラットである。イメージは歴史性や地域性といったオリジナルのコンテクストから引きはがされる。
このような「イメージのフラット化」は今に始まったことではなく、1970〜80年代に隆盛したポストモダニズムの重要な論点であった。磯崎新はその中心的な論客であり、彼の議論には今日から振り返ってみても先見的な部分が多い。たとえば彼は、映画『2001年宇宙の旅』で描かれた過去と近代の様式が混在するインテリアについて次のように述べている。
あらゆる雑多な様式は、その発生とか系統とか、かつての時代における他の要素との関連性とかの意味を全部はぎとられてしまって、ただ採集された時点において空間的に配列されていた、という事実だけに絶対の重みがかけられる。(註6)
雑多な参照物が歴史的・地理的コンテクストから引き剥がされ、断片化し、共時的に存在する状態を磯崎はポストモダン的状況と考えた。これはピンタレストが示す参照物の集合と似ている。このようなインテリアを「テレヴィにのせられている架空のシーン」を合成して「異次元の超頭脳」が創出したという磯崎の指摘(註7)には、現代の人工知能を思わせる予言性すら感じられる。しかし、ポストモダンにおける参照と、現代における参照には大きな違いが存在する。それは、前者が参照物を「記号」へと抽象化し、その「断片性」を強調したのに対して、後者が参照物同士の新しい「関係性」を重視する点である。磯崎は記号、コード、シンボルといった言葉を駆使して参照物を記号化・断片化し、それらはアドホックであり代替可能であると論じた。ここでは、参照物を再構築する意味は事実上、放棄されている。美術史家ハル・フォスターが論じたように(註8)、ポストモダニズムにおいては「断片性」をみいだし、それを「共時的」に「並置」するだけで表現たりえたのである。これが、ポストモダン建築における「引用」と呼ばれる参照行為の本質であり、その結果は形態的・形式的な操作であった。しかし、今日においては断片性も共時性も私たちの前提条件であり、それのみで表現が確立する根拠とはなりえない。
ピンタレストでは一つ一つのイメージがもつ記号性よりも、それらが集まってできた関係性が重要である。「ピンボード」は形態的・形式的なコラージュではなく、ユーザーが独自に構築したイメージの関係性、すなわち世界観の表明である。ブロードキャスト文化の時代は終わり、私たちはネットワーク文化の時代に生きている。大量の情報を前にして、私たちはそれらに歩み寄り、参照物と参照者の「新たな関係」をつくらなければならないのだ。
参照物の物質性とその可能性
参照物を「記号」として見ることをやめたとき、すなわち、距離をおいた立場からの「引用」をやめて参照物に歩み寄ったとき、参照物はその物質性を示しはじめる。ピンタレストにおいて収集されるイメージの多くが部分や素材、空間の雰囲気であり、物質的であるのは、ユーザーが参照物に接近した証左である。こんまりは「手に触れる」ことによって「ときめき」を感じる。このような物質性こそが、参照物の新しい関係を構築するための手がかりである。物質に触れた感性が取捨選択を行うことによって、参照物のパーソナライゼーションは完了し、その全体は参照者の求める世界の鏡となる。だが、ポストモダンの「引用」と同じく、そこではオリジナルのコンテクストが欠けており、感性の異なる他者との共有は難しい。これは、ピンタレスト的な現代の参照が抱えるジレンマである。
しかし、参照物の物質性には、パーソナライゼーションによって失われるコンテクストを取り戻す可能性すら秘められているように思われる。物質には時間と空間が凝縮されている。「スポリア」と呼ばれる部材転用において、形態や形式ではなく質感や物質性によって歴史性が継承されたように(註9)、参照物の物質性を掘り下げることによって歴史的コンテクストを呼び戻すこともできるはずだ。それは、痕跡に潜む歴史性を継承しようとする今日のリノベーション手法や、物質の生産や流通を追跡することによって、参照物の地理的・文化的コンテクストを召喚しようとする、近年みられる設計方法に通底するように思われる。
ポストモダン以降、参照行為は共時性的で非場所的な性格を強め、大量情報時代におけるパーソナライゼーションはそれを加速してきた。しかし、参照物に歩み寄り、その物質性を探求することによって、忘れ去られた通時性に光をあて、思いもよらぬ場所の繋がりを発見し、そこから参照物の新たな関係性を築くことも可能である。このとき参照行為はパーソナルな殻から脱し、ふたたび共有可能性が開かれるだろう。そのためには、大量の情報と物質に触れる感性、そして歴史の理解が役に立つように思われる。
* * *
2018年の暮れに、田根剛による展覧会「未来の記憶」(註10)をみた。そこで展示されていた「考古学的リサーチ」はピンタレストのピンボードのようであった。そこには、大量情報時代の参照行為のエッセンスが含まれているようにも思われた。
註1 https://archinect.com/features/article/39788357/working-out-of-the-box-pinterest-co-founder-evan-sharp(最終アクセス:2019.12.29)
註2 https://www.latimes.com/business/la-fi-himi-sharp-20181028-story.html(最終アクセス:2019.12.29)
註3 https://www.arch.columbia.edu/events/1084-evan-sharp(最終アクセス:2019.12.29)
註4 近藤麻理恵. 『人生がときめく片づけの魔法』. サンマーク出版, 2010, p.62.
註5 Ibid., p.59.
註6 磯崎新. 『建築の解体―一九六八年の建築情況』. 鹿島出版会, 1997, pp.102-103.
註7 Ibid.
註8 ハル・フォスター. 中野勉(訳). 「アーカイブ的衝動」. Я(アール) :金沢21世紀美術館研究紀要, No.6 (2016).
註9 加藤耕一. 『時がつくる建築:リノべーションの西洋建築史』. 東京大学出版会, 2017.
註10「田根剛|未来の記憶 Archaeology of the Future ─ Digging & Building」. 東京オペラシティ アートギャラリー, 2018. 10. 19 – 12.24
※本稿はフォスターの「アーカイブ的衝動」で示された論点に多くを負っている。