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雨、時々ナゾトキ

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 久しぶりの外出は、お父さんの葬儀だった。
 入学式のとき以来、袖を通していなかった高校の制服を着て、私は棺に眠るお父さんをただ眺めていた。
 なんとなく、こういう場面になれば泣き崩れるものだと思っていた。けれど実際にその瞬間を迎えてみると、涙の一滴もこぼれなかった。きっと、涙も枯れたのだろう。
 隣に立つお母さんは、何度もハンカチで目元を押さえているのに、私の目は乾いたままだった。
 どうしてなのかと聞かれても、うまく答えられない。ずっと前からこの日が来ることは分かっていたから、ある程度の心づもりができていたとも言えるし、あまりに現実味がなさすぎたとも言える。
 そっと遺影のほうを見る。額の中のお父さんは、あのときのままの笑顔をこちらに向けていた。頬はまだ痩せこけていないし、髪の毛も抜けていない。元気だった頃の姿。この顔を、実物として見たのはいったいいつぶりだっただろう。
 焼香の順番を待つ人たちが、ひとりずつ立ち上がり、香炉の前に並んでいく。本当は頭を下げて礼をするべきなのだろうと思うのに、そこまで気を回す余裕もなく、私は小さくうつむいたまま動けなかった。
 ――数日前のことを、少しだけ思い出す。
 葬儀の打ち合わせの日。リビングのテーブルには、葬儀社から渡された書類が広げられ、その向かい側でお母さんがそれとにらめっこしていた。事前にある程度の準備はしていたとはいえ、いざとなると色々と考えなければいけないことがあるようだった。
「天音、ちょっといい?」
 お父さんの残していったナンプレを解いていた私は、すっと顔をあげる。
「うん」
「ひとつ、750円の返礼品。86人に配って……何円になる?」
「……64500円。お菓子だから……消費税合わせて69660円」
 お母さんの見ていたカタログをちらりと見て答え、もう一度ナンプレに視線を戻す。本当はもっと手伝ったほうがいいんだろうけど、何をどう手伝ったらいいのか分からなかった。
「ありがと。さすがね」
 お母さんは特に気にした様子もなくお礼を言って、再び見積書の束の中に潜り込んでいった。
 あのときは、まだどこか余裕があるように見えていたお母さんも、本番ではこうして涙を流している。きっと、私に見せていなかっただけで、どこまでも悲しんでいたのだろうと思えた。
 やがて読経の声が途切れ、花に囲まれた棺が静かに動き出す。係の人たちの手で、ゆっくりと祭壇から降ろされ、火葬場へと運ばれていく。
 その一連の流れを眺めていても、胸のどこかはやはり空っぽのままだった。
 火葬を待つあいだの食事の時間になった。
 配られた弁当のふたを開けて、箸を手に取る。口に運んだはずなのに、何を食べたのかさえ覚えていない。
「あの子、引きこもりなんでしょ」
 ふいに、どこからか声が聞こえた。
 一瞬だけ、その方向を見る。けれど、誰が言った言葉なのかは分からない。もしかしたら聞き間違いかもしれない、と自分に言い聞かせようとする。だけど、なんとなく、あれは聞き間違いなんかじゃないと分かっていたし、その言葉が決していい意味では使われていないことも分かっていた。
 目を閉じて、もう一度耳を澄ませる。
 お父さんとの思い出を語る、なんてことのない会話。その合間に、ときどき紛れ込むようにして、「冷たい子」「無愛想」「変」という言葉が胸の奥に突き刺さる。
 この言葉をそっと隠してくれる存在は、もうどこにもいない。
 私が迷ったとき、いつも「大丈夫だ」と言ってくれた人がいない。それが怖い――そう感じている自分が、お父さんそのものよりも「自分の不安」を悲しんでいるような気がして、そんな自分がどこまでも自分勝手で嫌だった。昔からそうだ。
 助けを求めるように母の姿を探す。けれど母も、次々に挨拶に来る親戚の相手に追われていて、こちらを見る余裕はなさそうだった。
 こんなに人がいるのに、ひとりぼっちな気がする。
「……お父さん」
 もうこの世のどこにもいない人を、小さく呼ぶ。
 優しく「天音」と呼びかけてくれる声は、当然ながら返ってこない。
 小さな紙コップが机に触れる音、誰かの笑い声、湯のみのふちが重なるかすかな音。ひとつひとつは大した音ではないはずなのに、全部が一度に耳の中に流れ込んでくる。
 周りの音がひどくうるさい気がして、私はそっと両耳をふさいだ。
 指先で耳を塞ぐと、ざわめきは少し遠くなって、その代わりに自分の心臓の音ばかりが大きく聞こえた。
 ――そこから先の細かい流れは、あまりよく覚えていない。
 火葬場の炉の前に立ったこと。白いタイルの床と金属の扉。その前で誰かが合掌していたこと。白く、骨だけになった姿が現れたこと。淡々としたその光景だけが、写真の一枚みたいに脳裏に焼き付いている。
 あの骨が、さっきまでお父さんの身体の一部だったことを、頭では分かっているのに、どうしても現実味が追いつかない。白い破片の並びを、どこか他人事のように見つめていた。
 順番が回ってきて、震えそうになる指先をなんとか動かしながら、一本の骨を箸で挟む。
 骨はとても軽かった。あれだけ大きかったはずの存在が、小さな骨壺にどんどん納められていく。
 車に乗り込むとき、その壺を一瞬だけ私が抱えることになった。そのときになって初めて、「もうお父さんはこの中にしかいないんだ」という事実を突きつけられた気がした。
 そのあとの記憶は、ほとんどない。
 ひとつだけ覚えているのは、夜になって雨が降り出した音を聞きながら、布団の中で目を閉じていたことだ。屋根を叩く音はやけにはっきりしていたのに、不思議と嫌ではなかった。誰にも泣き声を聞かれないように、外側から家を包んでくれている気がした。
 私は泣かなかった。泣けなかった。
 ――そして、四十九日を迎える冬の朝まで、私はまた家の中に閉じこもることになった。


 十二月に入って、気温が一気に下がったように思う。とはいえ、私が外に出るのはベランダでの洗濯物干しか、せいぜいゴミ出し程度なので、それを肌で実感することはあまりなかった。窓の外の白さや、朝の空気の硬さで、ようやく冬を知るくらいだ。
「今日はありがとうございました」
 母が最後の客を送り出すのが聞こえる。四十九日の法要。正直、お葬式のドタバタからそんなに日が経っていないように感じる。それもあってか、来ていたのはかなり近しい身内だけだった。私はあまり参加する気にもなれず、読経のときだけ降りてきて、それ以外は自室に引きこもっていた。
「天音、ご飯にしましょう」
「うん。いま、行く」
 呼びかけに応じて階段を降りる。正直、お腹もすいていなかったが、朝も満足に食べていないのに、また抜くのもよくないだろう。
「今日はお弁当にしちゃった。鮭のお弁当でいいわよね?」
「うん。ありがとう」
 お母さんが当たり前のように渡すそれを受け取る。いつもの、あそこのお弁当屋さん。お母さんが時折通っている店で、私はいつも鮭なのに、一応確認してくれるらしい。
 いただきますと手を合わせてご飯を食べ始める。鮭が真ん中に載って、ごま塩が振りかけられたご飯。卵焼きとお漬け物が横に添えてあるだけの、オーソドックスなものだ。
「これで、一通り終わりかな。年が明けて少し落ち着いたら納骨して、だけど、納骨は私たちだけで済ましちゃいましょうか」
「すぐ、一回忌くるよね」
「まあね。でも、たいそれたことをするわけでもないし、今日と同じ人数ぐらいしか呼ばないから安心していいわよ」
「……うん」
 力ない返事が出る。安心していい……確かにそうかもしれないけど、今日来た中にも、私のことをよく思わない人がいたかもしれない。そんなことを思うと少し怖い。あのときの、私を揶揄する言葉の数々が、耳から離れることがない。
 そんな浮かない顔の私を見かねてか、お母さんがすっと立ち上がる。どこかへ行くのかと思っていたら、すぐに一枚の洋封筒を持って戻ってくる。
「正直、いつ渡すか迷っていたんだけど。今を逃すと、ずっと渡しそびれそうだから」
「なに?」
「お父さんから天音にあてて書かれた手紙。遺書、っていってもいいかもしれないわね」
 少しだけ動揺する自分がいる。そんな物を書いているそぶりもなかったし、そんなことを用意していたって、分かっていたことだけど、自分の死期をきちんと理解していたのにあんなに笑っていたのかと思うと複雑な気持ちになる。
「内容は、私も少しだけ聞いてるわ。だから、遺書というか、手紙というか、イタズラというか……」
「どういうこと?」
「お父さん、サプライズとかも好きだったでしょ?」
「うん」
 誕生日になれば毎回のように何か仕掛けを作っては、私たちを驚かせていた。それ以外にもちょっとしたことで何かしらお祝いを用意したり、少し変わった謎かけなんかも作っていたように思う。ちらりと、額縁に飾られている家族写真を見る。ただの写真ではなく、あれはパズルでできていたものだ。お父さんが張り切って作ったと言っていた。結局、完成まで二か月ぐらいかかったように思う。
「まあ、その延長というかね。百聞は一見にしかず。見てみて」
 お箸を置いて手紙を受け取る。淡い黄色の洋封筒を開けて、二枚組の手紙を読む。
『天音へ。
 これを読んでいるということは、お父さんはもうこの世にはいないということだと思う。なんて、一度は言ってみたい台詞から始めてみた。
 天音がこれをどのタイミングで読んでいるのかは分からないけど、もうお父さんがいない生活には慣れたかな? それともお葬式中に読んでいて、今大変なときかな?
 それを予言するのは難しいけど、第一感では初七日だと思っている。次点で四十九日かな。
 それは置いておいて、実は天音に最後のクイズを用意した。名付けて「謎解きツアー」だ。
 今からお父さんが用意した問題を解いていって、その指示に従ってほしい。そうして問題の通りに巡って、見事ゴールまでたどり着ければクリア。簡単だ。何日かかってもいい。それに、やるかやらないかも天音しだいだ。
 だけど、できれば参加してもらいたいと思っている。待ってるよ。
 父より。』

 そう締められた手紙。二枚目には、なにやら迷路のようなものと、その下に指示文がある。
 花を集めて管理人の元へ行け。
 というもの。
 迷路をよく見ると、各所に色々な模様や記号が描かれていて、その中の一つに花のマークがある。それを集めて移動せよということか。指示文には書いていないけど、恐らくは花のマークだけを集めてゴールを目指せということだろう。謎解きの初めによくあるタイプのものだった。
「……これ、どういうこと?」
「そのままの意味。天音もお父さんもこういうの好きだったでしょ? 私は謎解きとかさっぱりだったけど、二人で楽しんでいたじゃない。それで、最後に用意していたのがその謎解きらしいの。スタートは私から」
「これの答えは?」
「言えないわよ。というか、謎解きの方に関しては私は関与していないから知らない。だからあなたがひもといてほしい」
「…………」
 お父さんからの最後の謎。解きたいという気持ちもある。それはお父さんの期待に応えるためというものもあるし、単純に謎解きをしたいという思いもある。だけど……手紙の通りに考えるなら、これをやっていくには外出は絶対だ。恐らくは、何らかの意図をもって隠されていたりするところへ赴いていく必要があるのだろう。しかも、少なくとも初めの謎の答えが「花の管理人の元へ行け」なので、誰かと話すことになりそうだ。これが今後も続く可能性を考えると、どうにも思考が止まってしまい、二の足を踏んでしまう。
 窓の外はもう薄暗くなっていて、ガラスの向こうに冬の冷たさだけがある。そこへ出ることを思うだけで、喉の奥が少しだけ詰まる。
「天音」
「なに?」
「手紙の中にも書いてあったと思うけど、無理にする必要性はないわ。だけど、お父さん、いろんなところに回ったり、あなたにバレないようにお見舞いの時とかも隠してたぐらいだから……出来たら一問目だけでも見てほしいの。そしてお父さんからのメッセージを集めてほしい」
「……それは分かるけど。お母さんは、ついてこないんでしょ?」
「うん。これは私たちに渡されたものではなくて、天音に渡されたもの。だから天音が回ってほしい。だから私も無理はさせない。だけど……どう?」
 お母さんは無理をするなとは言ってくれてるけど、その瞳には期待に近いものを感じる。これを突っぱねるのは簡単だ。「やらない」「イヤだ」、その一言を伝えればそれでいい。
 だけど、そうするのもイヤだった。怖いというより、そんなことを言っていいのかと不安になる。もちろん、お母さんはそれで嫌な思いはしないと思う。だけど……だけど、どうしても喉からそれが出ない。
「……じゃあ、とりあえず、一問だけなら」
 結局出たのはそんなありきたりな言葉だった。いつでも突っぱねていいのであれば、一問目ぐらいやってもいい。とりあえずやって導き出して、それでも駄目でしたなら言い訳も立つ。
 お母さんはそれも見越していると思うけど、優しく微笑みを浮かべて頷いてくれていた。
「ありがとう。とりあえず、残り食べちゃいなさい。それから、謎を解いていって」
「うん」
 返事はするけど、箸は進まない。どこか落ち着かない気持ちで、鮭の皮をはいだ。

試し読みはここまでです。

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