下図に示す緑枠の化合物をWagner-Meerwein 転位 によって赤枠の化合物へ導くことを意図した反応において,主生成物として予想外の生成物(青枠)が得られた.
生成物を再結晶すると,融点の異なる2種類の結晶が得られた.それらのPMRスペクトルデータは酷似していて立体異性体を示唆するものであった.構造として,複数の候補の中からAのエンド/エキソ異性体と結論した.A は形式上インドールとインドレニンの【2+2】反応ということになり,熱禁制であるためステップワイズな反応ではないかと考え速報した.
同年末,カナダの化学者 V. Dave 等は,我々の速報を追試し,CMRスペクトルの解析結果から回転異性体の可能性を速報で示唆した.論文のタイトルは "Atropisomeric indole derivatives: a structural revision" であった.
単結合の結合軸周りに回転させた際の立体配座が異なる異性体を配座異性体 (conformer) あるいは回転異性体 (rotamer, atrop isomer)と呼ぶ.室温では,単結合まわりの回転は比較的自由であるため,異性体として区別することはできないが,立体反発の大きな置換基が付くと回転障壁が大きくなり,核磁気共鳴スペクトルによって認識あるいは単離が可能な場合がある.典型的な例としてオルト置換ビフェニル誘導体が知られている.
当時,インドリンの1位のアミド基は柔軟な結合であり,2位インドール基の回転を常温で停止させるようなものではないというのが常識であった.もし,回転異性体を単離したということであれば,非常に珍しいことであり,特にC-N結合の束縛回転は初めての例であることをその道の専門家(大木道則博士)から指摘された.
そのような時に,X線結晶解析学の専門家の居ない九州大学薬学部に Syntex 社製の四軸回折装置が設置された.すぐに単結晶X線解析を実施するように田口教授に申し渡されたものの,重原子法のプログラムしかなく何から手を付けてよいのか苦悩していたところ,九大教養部物理教室の上田幾彦,河野重昭先生が手を差し伸べてくれた.先生方に教えを請うことで重原子の導入の必要のない直接法解析の道筋は見えたものの,すべての計算処理は大型計算機センターに出向いてパンチカードを使って実行する必要があり,実際に解析が完了したのは田口教授の退官間際であった.次図が一対の回転異性体のORTEP図である.
結晶解析結果を投稿したのは兼松教授の時代になってからであった.教授に相談せずに投稿したため問題になり,回転異性体の研究は「独り立ち」するまで封印せざるを得なかった.熊本大学薬学部へ異動後,本格的に研究を再開するには,X線回折装置が熊大に設置されるまで待たされ,九大に後れること十数年の歳月を必要とした.その間,2位に水酸基を有するインドリンと2-ナフトールとのBF3-Et2O 触媒による縮合反応を確立し,それによって得られた化合物群にC-C束縛回転を有する異性体を数多く見出すことができた.
平成の世になり,ようやく熊大薬学部にX線回折計が設置され,またそれまで九州大学の計算機センターに出かけて実行していた計算処理が熊本大学の計算機センターで実行できるようになった.ナフトール系回転異性体の解析結果を以下に示した(1992年).
一連のN-アシル体について反応を行い,得られた回転異性体を以下に示した.
単離したそれぞれの化合物を加熱すると同一組成の平衡混合物が得られる.
置換基効果を調べることで,芳香環間に相互作用が存在することを示唆する結果が得られた.
π-π相互作用の配座に及ぼす影響
異性体の比率に及ぼす置換基効果
次図に示すような3−メチルフェノール類とカップリングした系では回転異性体が単離できた.
anti mp 243.0-244.0 °C syn mp 246.0-247.0 °C
回転異性体の生成は,反応の経時変化を追跡することにより,エーテル体を経由することを明らかにした.交差反応の結果は分子間反応であることを示唆した.低温条件下の反応により中間体を単離し,X線解析によりその構造を明らかにした.
エーテル中間体の結晶構造
◇原料
●エーテル体
○回転異性体
束縛回転の様子をコンピュータで再現し,遷移状態の構造,エネルギーを算出した.その結果,回転の方向によって束縛回転障壁に差が認められ,C-N軸に関して時計方向に回転していることを示唆した.
半経験的分子軌道計算法では,AM1法では基底状態のアミド構造をほぼ再現するが,遷移状態計算では実験結果を支持する結果は得られなかった.すなわ ち,C2--Ar結合の360°回転計算を行うと,最も立体反発の大きい個所で,>N--COAr結合が回転し,アミドの配座異性化が起こり,4種の配座異性体が存在する可能性を予測した.これに反し,ab initio法や密度汎関数法では,>N--COArの配座は固定されており,束縛回転挙動を再現できることが判明した.この系の化合物の回転挙動は経験的力場計算,半経験的分子軌道計算では説明が不可能であることが判った.各種の計算法を精査した結果,束縛回転の再現にはDFT法が適していることが判った.
アミド基の配座異性ではないかと,その道の専門家に疑問視されたことがあった.まさにAM1法が予測したアミドの配座異性化である.その疑問は,X線解析によって払拭することができたが,ab initio法および密度汎関数法による in silico 解析も2位芳香環のC(sp3)-N(sp2)あるいはC(sp3)-C(sp2) 型束縛回転を再現した.
回転異性体合成基質である1-benzoyl-2-hydroxyindoline誘導体が溶媒のベンゼンを結晶抱接し, clathrateを形成することを明らかにした.抱接体のX線構造をもとに分子軌道法による構造最適化を行い.edge-to-face相互作用が抱接体形成に重要な役割を担っていることを明らかにした.
ArOHの代わりにArylアミン類を用いたところ,2-ナフチルアミンの場合,縮合反応,次いで脱水を伴う閉環反応が進行し,quinazoline誘 導体が生成することを見いだした.その詳細(X線解析,分子軌道計算,反応機構)について報告した.2-ナフトールの場合は,フェノール性水酸基がカルボ ニルを攻撃閉環した後,脱水による安定化が起きないので,閉環体が得られないものと推論した.
以上,「回転異性体との遭遇」と題してその経緯を紹介したが,その出会いは私の人生を変えた大きな出来事でもあった.有機合成化学者を目指している最中,結晶回折学,情報処理学を学ぶ機会を与えてくれた.科学技術の進歩により大型分析機器による構造決定法が劇的に変化し,さらに反応機構の決定には有機電子論に代わって量子化学的考察が必要になり,結晶解析で習得した計算機科学が大いに役に立った.
回転異性体 (atropisomer) は核磁気共鳴(NMR)スペクトル法の進歩により,その存在が確認されるようになった.しかしながら,常温で安定に単離された例は非常に少ない.近年,回転異性体を芳香環間等の弱い相互作用の解析に利用する研究が提案され注目されている
我々は,3H-インドールの研究の過程で,C(sp3)-C(sp2)型の回転異性体の簡易合成法を見出し,それぞれ一対の異性体を10種以上について単離し、単結晶X線解析により構造の詳細を明らかにすることができた.さらに,分子軌道計算により束縛回転の機構および分子内弱相互作用を解析することができた.
本研究に携わってくれた学生,院生の足跡を研究室ホームページに掲載していたが,後任教授の交代でホームページが更新されず,閉鎖されてしまった.ついには,本研究の情報が Google による検索でヒットしなくなってしまった.本ブログはその代わりをすることを期待して作成した.
本研究に携わった学生,院生を以下に記した.
研究協力者(敬称略)
熊本大学:古賀陽子,伊藤文一,北岡朋子,森口哲也,米田圭子,渡邉暁子,堀加奈子,佐藤英徳,宮添哉子,篠原格,堤喜代明,杉山優子,田中久俊,田代尚子,向井奈央,中本好美
崇城大学:鍬野哲
伊藤文一君(平成7年修士卒)はナフトール系束縛回転の研究内容をまとめて平成19年に博士号を取得した.
博士論文のPDFファイルを以下に示した.スクロールして閲覧可能である.
なお,実際に研究に携わった教員に関しては投稿論文の共著者(資料)に示す通りである.
資料
A General Synthetic Route of 3,3-Disubstituted 3H-Indoles and Rearrangement of Their Acyl Chloride Adducts. K. Takayama, M. Isobe, K. Harano and T. Taguchi, ・ Tetrahedron lett., ・1973 (5) , 365-368.
Atropisomeric indole derivatives: a structural revision. V. Dave, J.B. Stothers, E.W. Warnhoff. Tetrahedron Letters, 1973, 4229-4232.
3H-Indoleの研究 (第1報) Oxindole, Indolineを経る3,3-ジ置換3H-Indoleの新合成法. 磯部正雄、 原野一誠、 田口胤三,薬誌 , 1974, 94(3) , 343-350.
3H-Indoleの研究 (第2報) Acyl Chloride付加体の転位反応 その1. 高山和男、 原野一誠、 田口胤三,薬誌 , 1974, 94(5) , 540-547.
3H-Indoleの研究 (第3報) Acyl Chloride付加体の転位反応 その2. 高山和男、 原野一誠、 田口胤三, 薬誌,1974, 94(5) , 548-552.
1'-(4-Chlorobenzoyl)-2',3'-dihydro-2,3,3',3'-tetramethyl-1,2'-bi-1H-indole, C27H25ClN2O. The Diastereomeric Atropisomers. K. Harano, M. Yasuda, Y. Ida, T. Komori and T. Taguchi , Cryst. Struct. Comm., 1981, 10, 165-171.
Hindered Rotation in 2-Arylindolines. Isolation of Diastereomeric Atropisomers. T. Kitamura and T. Koga, K. Harano and T. Taguchi , Heterocycles , 1982, 19, 2015-2018.
1'-(4-Bromobenzoyl)-2',3'-dihydro-2,3,3',3'-tetramethyl-1,2'-bi-1H-indole, C27H25BrN2O. Isolable Atropisomer. K. Harano, M. Yasuda and T. Taguchi, Cryst. Struct. Comm., 1982, 11, 1223-1226.
A Convenient Synthetic Method of 1-Acyl-2-aryl-3,3-dimethylindoline involving Isolable Diastereomeric Atropisomers. T. Kitamura, T. Koga, T. Taguchi and K. Harano, Heterocycles, 1984 , 22(6) , 1315-1318.
Crystallographic Analysis of a Pair of Isolable Atropisomers of 2-Aryl Substituted Indoline Derivatives. M. Eto, K. Harano, T. Hisano and T. Kitamura, J. Heterocyclic Chem., 1992, 29(2) , 311-315.
Coupling Reaction of 2-Hydroxyindoline with Arenes by BF3・Et2O. A Convenient Synthetic Method of Isolable Diastereomeric Atropisomers. T. Kitamura, K. Harano and T. Hisano , Chem. Pharm. Bull. , 1992, 40(9) , 2255-2261.
ISOLABLE ATROPISOMERS OF 2-ARYLSUBSTITUTED INDOLINE DERIVATIVES. MO ANALYSIS OF RESTRICTED ROTATION. M. Eto, F. Ito, T. Kitamura and K. Harano, Heterocycles, 1994, 38, 2159-2163.
X-RAY STRUCTURES OF A PAIR OF ATROPISOMERS OF 1-(3'-SUBSTITUTED BENZOYL)-2-NAPHTHYLINDOLINES AND SOME COMMENTS. A. Watanabe, T. Moriguchi, F. Ito, Y. Yoshitake, M. Eto and K. Harano, Heterocycles, 2000, 53(1), 1-6. 3-置換ベンゾイル体を用いた一対の回転異性体のX線解析構造から,アシル基は自由回転していることが判明した.
Atropisomers of 1-(Acyl or Aroyl)-2-naphthylindolines. Isolation, X-Ray Crystal Structure and Conformational Analysis. Fumikazu Ito, Tetsuya Moriguchi, Yasuyuki Yoshitake, Masashi Eto, Shoji Yahara and Kazunobu Harano Chem. Pharm. Bull., 2003, 51(6), 688-696. 16対の回転異性体についての研究結果(カップリング反応,単結晶X線解析,平衡化反応,分子計算など)を詳報として報告した.
Reaction of 1-acyl and aroyl-2-hydroxy-3,3-dimethylindoline with arylamines catalyzed by BF3-etherate. formation of 12,12a-dihydroindolo[1,2-c]quinazoline. Akiko Watanabe, Koki Yamaguchi, Fumikazu Ito, Yasuyuki Yoshitake and Kazunobu Harano,* Heterocycles, 2007, 71 (2), 343-359. ナフトールの代わりにナフチルアミンにカップリングさせた場合,回転異性体は得られず,quinazoline閉環体が得られることを明らかにした.
Role of 2-Naphthyl Ether Intermediate in Formation of Isolable Atropisomers Derived from the Coupling Reaction of (2-Hydroxy-3,3-dimethylindolin-1-yl) (Substituted phenyl) methanones with 2-Naphthol. Masashi Eto, Fumikazu Ito, Hidetoshi Sato, Itaru Shinohara, Koki Yamaguchi, Yasuyuki Yoshitake, Kazunobu Harano* Heterocycles, 2009, 78(6), 1485-1496. 回転異性体の合成過程において,ナフトールの水酸基をアルキル化することにより生成するエーテル体が転位前駆体として存在する可能性を明らかにした.
Conformation of aromatic rings in isolable atropisomers of 2-arylindoline derivatives and kinetic evidences for π-π interaction. Masashi Eto, Koki Yamaguchi, Itaru Shinohara, Fumikazu Ito, Yasuyuki Yoshitake, Kazunobu Haranob,* Tetrahedron, 2010, 66, 898-903. 回転異性体に於いて対面する芳香環間の相互作用について,平衡定数の置換基効果および分子軌道計算の見地から解析し,π-π相互作用の存在を示唆する結果を得ることができた.
Role of edge-to-face interaction between aromatic rings in clathrate formation of 1-benzoyl-2-hydroxyindoline derivatives with benzene. X-ray crystal and PM6 analyses of the interaction. Masashi Eto,* Koki Yamaguchi, Itaru Shinohara, Fumikazu Ito, Yasuyuki Yoshitake, and Kazunobu Harano. Tetrahedron., 2011, 67 (38), 7400-7405. 1-benzoyl-2-hydroxyindoline誘導体が溶媒のベンゼンを結晶抱接し, clathrateを形成すること,さらに分子軌道法による構造最適化を行い.edge-to-face相互作用が抱接体形成に重要な役割を担っていることを明らかにした.
Isolable atropisomers of 2-aryl indoline derivatives: determination of rotational barrier by density functional theory approach . Masashi Eto a, *, Koki Yamaguchi a, Akiko Watanabe b, Kazunobu Harano, a Tetrahedron, 2014, 70, 1811-1817 .
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