AIに作成してもらった「ラノベ風の」タイトル、挿絵、あらすじです
俺が楽だと評判の学校に行ったけど
何か話が違う件について
〜不夜城に連行され歯車となる被害者の記録〜
【あらすじ】「自由な学風」の裏に隠された、知のディストピアへようこそ。
混沌とした退廃的な熊野寮を逃れ、のんびりと単位を乱獲した教養時代。
だが専門課程への進学とともに直面したのは、脱落者を容赦なくすり潰す狂気のカリキュラムと、学生を「無償の労働力」として使い捨てる冷徹な研究室システム不夜城だった。
高度な理数理論の美しさに魅了されながらも、理不尽な部隊規律と突発的な死線に翻弄され続ける日々。
己の知識と技術だけを武器に、過酷な知の現場をタフに生き抜いた、絶望と爆笑のリアル理系サバイバル手記!!
思い出したことや最近思ったことを少しずつ書き留めています。
まとまりのない読み物ですが、興味のある方はどうぞ。
序章 狂気の洗礼 山邊研究室での思い出(博士課程のエピソード)
1章 封印されていた記憶の欠片 寮生活(1年生の話)
2章 停留点 準安定の時代(2年生の話)
3章 人権の崩壊 知のディストピア (3年生の話)
4章 院試と研究 理想と現実 (4年生の話)
5章 Gears of Lab 村社会での生存戦略 (修士課程の話)
6章 予測不能な粒子たち 短編エピソード集
7章(別ページ) 自己無撞着な思考の日々 最近、普段の生活で感じたこと
資料(別ページ) ぽるしぇ? 自動車教習所の歌(作者不明)
私はこれらの経験を元に、現在の研究と教育システムを設計しました。過去の体験から紡ぎ出されたフィロソフィーやビジョン、そしてドクトリンからプロトコルにいたるまで、すべてに一貫性を持たせて構築しています。
ピンチはチャンスは嘘です。ただし、OSが上書きされる瞬間ではありますね。
(写真説明)山邊先生喜寿記念&山邊研究室同窓会
後列 康さん 今出さん 湯村先生 松浦先生 宮島さん 吉澤先生 加藤さん 立花さん
前列 蒲池先生 山辺先生 吉野先生 塩田
大学院博士課程: 常識崩壊による覚醒と不可逆な霊性進化
(※以下は同窓会誌 洛朋 の山辺研特集への寄稿文からの転載です)
私が山邊研究室に配属されたのはちょうど阪神大震災があった直後の平成7年4月でした。それから山邊先生退官までの間、学部・修士・博士と合わせて5年ほどお世話になりました。世界各国から訪問者の絶えない国際色豊かな研究室だったと記憶しています。
一番の思い出はD2のときに、山邊先生と日中理論化学シンポジウム(中国合肥市にて開催)に参加したときの出来事です。この学会は現地の大洪水により何度も延期となっており、日程も急遽決まったもので、プログラムも詳細は不明となっていました。山邊先生に「ポスター発表で参加するように」と言われて、A4でモノクロ印刷した原稿を携えて上海経由で現地に向かっていたときのこと。
山邊先生が「大変なことが起きたで。連絡の行き違いがあって、君は口頭講演やから」と冗談か本気かわからないような口調でおっしゃったのです。「先生、ポスターしか持って来てないですよ。」と返答すると、「ここに無地のOHPフィルムが12枚ある。これで15分もたせてくれ。君は運がええで、今はちょうど上海という都会にいるから、ホテルの複写機でポスターから口頭発表用の原稿を作るんや。これから行く所は中国の田舎やからホンマに何もないで、」と却下されました。
本当に幸運なのかな?と思いながら、しぶしぶ原稿作成に取り掛かることにしました。英語の口頭発表が未経験の私はというと、その日から心配と緊張で食事が喉を通らなくなってしまいました。物見遊山気分が吹き飛んで、最初はとんでもないことになったという思いで先生を恨みさえしました。しかし、心配+緊張+現実逃避+諦め気分が絡まった変な気持ちにより、発表時には“この先生について行けばどんな困難もたいしたことないと思って乗り越えられる”と超がつくポジティブ思考になっていました。
発表はどうにかこうにか終わり、山邊先生にも(初めてにしては)なかなか発表よかったよと元気づけられて非常にうれしかったです。当時は大変でしたが、今ではすっかり笑い話になっています。この事件のおかげで少々のことではビクともしないようになりました。
最後におまけとして、先日(平成25年9月14日)、山邊先生喜寿記念&山邊研究室同窓会 (85名参加)に参加したので、そのときの記念撮影の1コマを載せておきます。
山辺先生のおかげで鉄人になれました…。
学生時代は筋トレが趣味でした。
本文:熊野寮50周年記念誌に寄稿したものです。
写真:京都のビヤントに実際行ったという杉野君(2026・身の回りの化学・金1の受講生)からもらいました。ありがとうございます。30年たっても変わらぬ姿に感動しました。入寮したとき先輩に初めて連れていってもらったお店でした。とても辛くてこれが大人の味かと思ったけど、寮生活はもっと濃厚なものでしたね。
大学1年生: 始まりの地
(※以下は熊野寮五十周年記念誌への寄稿文からの転載です)
[序]寄稿依頼を受け、寮での日々を振り返ると自分でも忘れていたことを思い出してきました。“人生とは、その人の回想のことである“という言葉もあるので、この機会に熊野寮生活を書き下してみます(漫談筆)。
[入]私が一浪を経て京大に合格したのが1992年、その京都生活の出発点が熊野寮でした。当時はバブル期の終り頃でのんびりとした雰囲気が世の中を覆っていました。生活費を節約するためでしたが、愉快な仲間達に囲まれて奨学金(80千円/月)程度で十分生活できたのでいい時代だったと思います。熊野寮は大学からも近く、四条・河原町方面にもアクセスがよくて便利でした。
[学]希望に胸を膨らませて大学に入ったものの、教養部構内の「人と自転車のカオス」に嫌気がして、賀茂川、御所、岡崎公園などの自然散策、古本屋めぐり、府立図書館通いをしていました。単位不足に苦しめられていた寮の先輩から手ほどきうけていわゆる楽勝単位で固めていました。“単位は天から降ってくるので受け取るタイミングだけが大事、一年時は必要単位に専念し、興味がある科目は二年生でとればいい”というアドバイスが非常に役に立ちました。先輩達のオススメは“単位はあげるので授業には来ないでください”で有名な国憲の豊田先生で、この先生によって一年間にばらまかれる単位は4000単位とも5000単位とも噂されていました。あと、当時の生協パンフに掲載の特殊京大生理論なるものが印象的でした。授業の出席者Aは時間tの関数で一週間wごとに半減する関数A = A0 (2)^(-t/w)で示される。ただし、A0は初回出席者で、テスト前の一週間にはこの関数は不連続となり出席者はA = A0に復活する。
[務]寮の雑務は主に事務室当番と食堂関連でした。事務室当番は単なる電話番+荷物受取係なので、のんびりと漫画をよみつつ過ごしていました。“ある組織に命を狙われているので助けてください”とかの濃い電話は残念ながら私には縁がなかったです。その手の電話を受けた東Nさんは“はい、はい、頑張ってくださいね”とガチャ切りしたらしいですが…。寮の夕食は売れ残ると訪問販売の売り子をしないといけないのでこれが辛かったですね。まれにでるウナ丼は即完売なのに対して、塩サンマは全く売れないので知り合いに泣きついて買ってもらっていました。強アルカリ洗剤による皿洗いも新鮮な体験でした。
[食]平日は寮食(当時は昼230円、夜350円)に、休日は洋食 Sato、中華 唐山、辛口カレーのビヤント、ハイライト、丸二食堂などにお世話になりました。特にSatoのグリルドチキンとコロッケ入りトンカツがお気に入りでした。Satoはなくなってしまったそうですが、東山七条にある“里”の支店だったらしく、里でもSatoと同様のメニューを提供しているようです。
[遊]寮生活の中心でした。受験の反動からか退廃的な生活(主に麻雀とゲーム)に身を委ね、風呂無し生活と夜更かしの醍醐味を覚えました。朝は寝床でぐーぐーぐーって鬼太郎の歌にあったような?いまとなっては、桜湯(寮生だと20円引き?)の終了時間(24:00)までになぜ入場できなかったのか謎ですね。
[友]才能溢れる友人、先輩との出会いにより多くの刺激をうけました。蘊蓄とサブカルチャー談義はオタクの嗜みです。私達のローカルルールは、単に面白いという感想では不十分でその何が面白いか説明すべしというものでした。
[戦]廃寮に対抗するために防衛委員という仕事がありました。“常に我々は廃寮化攻撃にさらされている。寮生の諸君は、ガサに備えてサングラス、マスク、ヘルメットの3点セットを用意して川端署のテロリスト(=公安)に対抗するのだ!!”が記憶に残っています。
[集]集会といえば、ブロック会議、寮生大会、寮祭などがありました。下着泥棒事件(犯人は寮生)などの緊急集会も記憶に残っています。入寮そうそうに議長に任命されてしまったA3ブロック会議はまったくの盛り上がりに欠け出席者は2〜3人でした。あまりに暇で議事録にリップサービスで“日帝の横暴に寮生の怒りが爆発した”と書いたら自治会の人が現れて大変なことになったのは内緒です。寮生大会は非常に長くてつらかった思い出しかないです。
[買]サンプラザ*(入ると買い物するまで出れないシステムが斬新、たまに卵がやすいが全体的に高め)、ジャスコ(現イオン?、二条にあり UFOがたまに安い)、ヤオセン(野菜が安い)が食料の買い出し先でした。私は四条あたりにあったマルトミという激安衣料品店を愛用していて、1000円で入手した黒いジャンパーを喜んで着ていたら同じブロックで3人ほど同じものを着用していてあぜんとなったのはいい思い出です。 *補足 熊野神社の交差点に北東にかってはありましたが現在はなくなっていました。
[離]一年生の終り頃、生活環境を改めて真面目に過ごそうと決心して、二年生の4月に上高野(岩倉より少し手前です)の下宿に引越をしました。熊野寮という竜宮城を離れて、“修学旅行の夜”のような生活からの解放感を味わうと同時に何とも言えない寂しさを感じました。良くも悪くも濃密な時間でした。
[結]最近、研究室の同窓会があり、卒業後、いろいろな立場となり普段顔を会わせることはほとんどなくなってしまった旧友達と“昔はしょうもないことをしてたなぁ”と気楽にはなせる機会は得難いものだと実感しました。寮の同窓会を通して、元寮生同士の交流が深まることを期待しています。宀(うかんむり)にRという略字は寮を離れて以来、見ることはありませんが寮関係者だけが読める心に刻まれた秘文字ではないでしょうか。
【寮生カタログ(確認すると麻雀鬼強以外は普通だった)】
私 田舎から上洛した途端、悪い人たちに洗脳されてしまった。おこづかいを麻雀でまきあげられたり、仕事を押し付けられたり散々な目にあい辛酸を舐め尽くして卒寮する。当時の楽しみはファミコンと漫画と自炊すること。四畳半神話体系で寮生活を思い出す。
Iさん 寮と学科の先輩。著者にラプラシアンの極座標変換を教えてくれたり、人生について教えてくれた人。S油化学科の過酷な生活についてもアドバイスしてくれた良い人。
K 寮の同期で経済学部、鹿児島から来た。名門T丸高校。教員自作の教科書みせてもらったけどレベル高さに驚いた。寮で沼って単位0となる年もあったが、4年で卒業して公務員になった。両手を両耳の上に置いて、頭を抱えてヒッデーが口癖だった。麻雀好き。私は彼の部屋に入り浸って遊んでいた。
S 寮の同期で教育学部、よく学校を休んでいた。少し沼ったようです。人生についていろいろ教えてもらった。私の同部屋。よく不二家のレモンスカッシュを買いにコンビニまでお使いに出された。麻雀鬼強。
I 寮の同期で経済学部、関東から来た。途中で退寮してしまったが、彼からも人生についていろいろ教わった。イタリア語の得意な彼女をよく自慢していた。
S 寮の同期薬学部、食いしん坊だった。いいとこのお坊ちゃんだったが、いろいろな不幸があり、寮に流れ着いた。
Hさん 寮の先輩で剣道部。Kと同部屋。初めてみたとき詰襟の学生服きてて声が低くて怖かった。部屋に剣道部のひといっぱい来て麻雀してた。麻雀鬼強。
Kさん 忙しくて寮からでてしまったお医者さん。よく寮に遊びに来てた。いま、A媛で大学教授してるらしい。麻雀鬼強。
Nさん 寮の先輩。自転車部でよく旅の話をしてくれた。同部屋だった。実家暮らしの女性に電話したとき父親が出てきてしまった場合のうまい説明方法を教えてくれた。それが私に生かされることはなかったが。
Oさん 寮の先輩で工学部、単位と下宿の距離は反比例するという理論を教えてくれた。著者に遊びを教えてくれた楽しい人。勉強以外は頼りになる。私は特訓と称して、昇竜拳の練習で親指の皮がむけるまでやらされたけど、強くならなかった(みんな強すぎ)。麻雀鬼強。
Kさん 寮の先輩で経済学部。いつも海外旅行してるお金もち。話をきくといまでも勉強になる。聖帝サウザー好き[ひかぬこびぬかえりみぬ」といって、振込んで「くー、お師匠ーさま」までが一連の様式美。麻雀鬼強。
S 寮と部活の後輩。みんなのおもちゃだったが、かれも底なしに沼ってしまった。合掌。麻雀鬼強。
Mさん 寮と部活の先輩。いろいろな活動に”精”をだされていた。N〇Kに就職された。
Iさん 寮の先輩で工学部、めちゃ賢いひとでなんでもできる人だったけど。Oさんと仲良し。沼って、インドの仙人みたいになって、その後は不明。麻雀鬼強。
T 体育の卓球で私と意気投合して、下宿に帰らず寮で沼ることに。私の親友。Oさんの弟子でもある。
隠れ家「井口邸」での日常と学生生活
(写真上)次の移住地は八幡前駅の周辺
(写真下)下宿エリアにある神社 狛犬でなくコマバト
(提供:Y田さん)
大学2年生: 北方の新天地
【住】拠点の移行
東竹屋町での退廃的かつ混沌とした寮生活から抜け出し、上高野での静謐な秩序に満ちた下宿生活を開始した。寮は大学の南に位置し繁華街からも徒歩圏内だったが、上高野は修学院よりさらに北にあり、田舎の雰囲気を多分に残している場所だった。田舎からでてきた私にはほどよい感じであった。
新拠点は井口家の中の一室で、いわゆる「貸間」という形態である。家賃は16,000円で敷金礼金なし。当時のアパートの平均家賃が3万円、ワンルームマンションなら5万円ほどだったことを考えると破格の条件だった(のちに「模範住人」ということで13,000円に値下げしてくれた)。そのため普通の学生も住んではいたが、それとは別にどこか胡散臭いというか、癖の強い人が多かった記憶がある。ちなみにシャワー(お湯がでる)、炊事場、トイレ、洗濯機(全自動)は共同だった(カッコ内は寮にはなかった良設備である)。生活費は寮時代の4万ぐらいからすこし上がったが、それでも予算内でトータル6万ぐらいで生活していたと思う。
【学】学業と読書
寮の誘惑にも耐え、なんとか1年生で65単位ほど取ることができた。そのため2年生では授業が週休3~4日ペースになり、専門の有機化学と物理化学、体育、語学、実験などを押さえておけば、ほぼ自由だった。
当時はバイトもせず、理数科目(文系A群、理数系B群、保健体育系C群、語学系D群と分類されていた)をたくさん登録していた。「登校せずに自学し、試験だけで単位を取るのがカッコいい」という風潮もあった時代だ。物理、数学、環境などが好きだったこともあり、結局、B群(理数系)を教養時代の2年間で72単位取得することになった。必要単位数34の2倍以上である。「あんなにきつい科目を倍も取るなんて(通常の教養科目の単位は天からふってくるが、理数系はテストでそれなりの点をとることが必要)」と友人たちからは変人扱いされた。昔は「授業料 ÷ 取得単位数」が大学のコスパだと考えていたのだ。実際は授業料免除で払っていないのだが、「いっぱい取ったほうが得じゃないか?」と思っていた(結局大学に9年在籍して授業料を払ってないので相当なコスパである)。
ほかにやっていたことと言えば、心理学に興味があったのでフロイト(後にウィーン大学の学会に行った際、家をK先生と見学した。)やユングなどを調べていた。心理学でアドラーまで読んでおけば、このあと出会う癖の強い人たちに振り回されることも少なかったのかもしれない。小説も好きで、図書館で尾崎紅葉、三島由紀夫、三浦綾子の小説を借りて読んでいた。
【語】語学の難易度は教員(の気分)次第
語学では、ドイツ語中級の「楽勝科目」という講義を受講したのだが、教室に行ってみると受講生は数人しかいない。「話が違うぞ」と思ったら、神経質で怖そうな先生が仁王立ちしていた。その後判明したことだが、夫婦でドイツ語講義を担当しており、情報不足で鬼教員の方を選択してしまっていたのだ(仏の奥様は産休でお休み)。当時は2年生の語学はクラス授業でなく個別の授業を選択するタイプで人気の講義はあふれてしまう。楽な講義を求めてあちこちに放浪する語学難民も発生する。かれらの行き先には過酷な鬼教員のクラスしか残っていないのだけどね。
予習は真面目にしていたのだが、ある日「辞書に載っていない単語があって分かりません」と答えたところ、「それはフランス語だ!仏語の辞書を見ないとダメだ!」と叱られた。なかなか厳しめの当たりである(今ならAIがあるから良い時代になったものだ)。さらに教員の趣味でドイツ語の歌を聞かされたりと、私にガセネタを持ってきた学友たちもまとめて被害に遭っていた。
しかし、よく分からないうちに苦しい授業は終わった。途中で無事にお子さんが生まれたらしく、いきなり「優しいパパさん」に変貌したときは、それはそれで怖かったのだが。試験も辞書持ち込み可となり、かなりマイルドになったので「実は良い先生だったのでは」と思い直した。(歌詞の翻訳を課題としてやらされたシューベルトの『冬の旅』を、今でも聴くことがある。失恋した男の悲しい話だが、旋律はとても素晴らしい)。過酷な訓練のおかげで簡単な絵本ぐらいであればドイツ語の本を読めるようになった。(使わないのでもう忘れてしまったのが惜しまれる。)
実は普段はそこまで厳しくないようで、文学部のK先輩が卒論をその先生に手伝わさせたというかほぼ代筆させたせいでストレスがマックスになっていた(確かにハゲかかっていた)ところへ、その他の圧力がかかっていたことが後に判明することになる。K先輩の「あの頃はみんな大変だったね」の一言で済まされたときは、泣きたい気持ちになった。
【食】食生活
帰宅途中にいろいろ店があり、スーパーによって食材を購入して自炊し、多めに作って食べるという「量重視」の日と、深夜の帰宅ではふらっと寄り道して外食(天下一品、天天有などラーメンやマックなど)するという「ジャンク」な生活を送っていた。筋トレしていたので、栄養についても勉強して、タンパク源として、ツナ缶と鳥胸肉とパスタをよく食べていた。あと、王将岩倉店のどんぶりシリーズ(おすすめは餃子丼だ、回鍋肉丼を頼むと餃子丼の餃子抜きが出てくるので注意)や、王将宝ヶ池店の綿あめ作りなども思い出深い。「中華料理 鷭(ばん)」などにハマりはじめたのもこの頃だ。(おすすめはもちろん、揚そば大とカレー丼大だ。)百万遍のハイライトのかつ鍋もお気に入りでいまでも近くまで行ったら立ち寄ることがあるかな。
【心】精神の安定
バイトもせず、奨学金で生活し、授業料も免除され、友人たちにも恵まれていたので、精神的には非常に安定した生活を送っていた。経済面から「この金額で暮らせるなら」と卒寮を決意したのも、家賃と生活費の安さゆえだ。将来の具体的な目標も特に無く、「どこかの会社に就職するんだろうな」と漠然と考えていた。
【技】思考と数理スキル
スキルとしては、ひたすらいろいろな公式を暗記し、物理や数学などの具体的な問題を解くことで「世界の現象を深く理解できた気になれる」という感覚にハマり、問題をこなしていた。このときはまだポテンシャルという状態関数によって力学系を記述する見方を知らなかったので、「私のリアプノフ関数は平衡点の安定性を示しているか?」というアプローチがお気に入りだった。今なら「ポテンシャルエネルギー面上で勾配が0になり、ヘッセ行列が正定値かどうか」と考えるのだろうけれど。
自動車免許はこの夏休みに合宿で取りに行った。教習所は愛媛の伊予三島にあり、宿舎は「ポルシェハイツ」という養豚場の近くに建てられたリアル豚箱だった。多数の面白い話があるのだが、それはまたの機会に。(教習所の歌だけは別ページに載せておく。)
【絆】サークルと出会い
サークル活動としては、適当にやっていた考古学研究会に加え、1年生の夏頃から体育会のバーベル部に入部して筋トレなどをしていた。そこで寮とは人種の異なるマニアックな人たちと交流し、濃厚な日々を味わった。F2氏やM園氏など、私の価値観を破壊する人たちに出会えた。二人とも心の師ではあるが、同時に「認知の歪み」というバイアスの存在を教えてくれた人たちでもある。部活の経験から、「力の強さ=人間の価値」「体重が多い=良いこと」「大食い=体重が増えやすい=良いこと」という、今思えば完全に誤った価値観が脳髄に刷り込まれることになった。M園氏とは北海道や九州一周などよく温泉巡りをメインにした長期旅行を楽しんだ。そのとき、M園経済学という珍妙な経済システムについての高説を聞くことになるのは別の話。当時は「勉強して頭を鍛え、筋トレで体を鍛えれば、パーフェクトな人間になれるのでは」と思っていた。そういう意味で、筋肉と文学に魅せられた三島由紀夫の思想も刷り込まれていたのかもしれない。それだけでは全然足りないのだということを思い知らされるのは、もう少しあとのことになるのだが……。
結局、のほほんと過ごして3年生になり、専門教育の過酷さを知ることになる。
【三宅八幡偉人伝(印象深い井口邸の人々)】
大家の井口さん 一人暮らしで趣味で下宿屋を営む。筆者を「用心棒」として気に入り目をかけてくれた。
私(筆者)最終的に8年間住み続け、下宿業務を補佐する「執事」のような存在へ昇格。
住人A(元活動家)寮出身。学生運動に疲れ果てて上高野へ漂着。「替え玉受験のバイトで不合格だった」という噂を残し、知らぬ間に失踪。
住人B(布教者)筆者のTVを勝手に売り飛ばした男。出身大学の指導教員からの「罵倒書(推薦書)」を院入試前に自分で開封して絶望。その後、研究室で新興宗教の布教活動をして放逐される(筆者がのちに所属する研究室だったため詳細が判明)。
住人C(隠密の農学者)いつも不在のフィールドワーカー。
住人D(財布なき僧侶)大◯大学の僧侶。筆者と認識論を議論し、仏教用語を植え付けた。エッチなビデオ選びで30分悩み店主に説教される。その後、教育学の学位を取得してカウンセラーになったらしい。
住人E(謎の助手)山Gの大学からK大へ内地留学中だった助手(マルクス経済学)。「もっと良いところに住めばいいのに…」と周りから心配されていた。
住人F(農耕の士)隣の畑で作物を育て、筆者に植物の知識を教えてくれた良き人。「猿」に居室の備蓄食料や精魂込めた農産物を奪われる。D論が書籍化されたため筆者も購入した。
住人G(財閥系芸術家)潤沢な資金でアトリエとして井口邸の一室を借りる。学位取得後の結婚時、「嫁に見つかると激怒される愛蔵品」を筆者に託す。のちに助教授としてF大学に赴任したすごい人。
住人H(熱心な後輩)筆者の後輩。「濃厚な生活」を求めてわざわざ引っ越してきた猛者。
住人I(うっかり屋)巨大な鍋にたっぷりの水で「ゆで卵1個」を作ろうとし、火にかけたまま爆睡した危険人物。
ビヤントとハイライトの外観 (提供:Y田さん)
大学3年生: 霞む平和と過酷な日々
【教】Hすぎる教科書、壊れる鞄
3年生からは本格的な専門授業が始まった。「自由の学風K大であってK大でない」と言われる過酷なカリキュラムである。
講義は有機化学と物理化学がメインで、週に2回ずつ通年で実施されていた。『モリソン・ボイド有機化学』は英文の本体(ペーパーバックのくせに、「巨大(Huge)、重い(Heavy)、高価(High-cost)、さらに難しい(Hard)」の、とっても『4H』な本である。こんなぶっとい本で勉強するのかと誇らしげな気分になるのは最初の数日だ!)、章末問題の解答集(英文)、日本語訳(上中下)。『アトキンス物理化学』も上下巻に解答集。教科書なしで講義を受けていると怒られるが、初学者には英語テキスト+日本語講義というチグハグさにより理解が進みにくいので、前述のフルセットが必要になるのだ。また実験では手順書、それに辞書(実験書は、物理化学系だと日本語だが、有機化学系だと英語やドイツ語という狂った世界である。)が必要である。そして、全部持ち歩くと重すぎて鞄が壊れた。おしゃれなブランドバッグなど論外の世界である。筋トレしといてよかった。また、私が留学してたアメリカの〇〇では~と普段は散々自慢話してるが、ジュース飲んでるやつなんかいると激怒して「それは日本ではゆるされていない」などと言い出すのだから困ったものだ。
週の大半は、午前講義で、昼休みはダッシュで昼食後、実験控室で課題や実験の進捗などを学友たちと情報交換、午後は実験である。開始30分前の開門と同時に滑り込んで実験開始だ。実験手順はすでに頭の中、数の少ない機器を素早く待たずに回すために、時間を調整しながら複数の操作を並行させて、手際よく行うのだ。機器待ちの時間で実験が進まないなどあってはならない。
教養時代はそれほど熱心に化学を学習していなかったが、物理化学は圧倒的な数理スキルで乗り切り、有機化学はひたすら暗記でこなしていた。ある物化の授業は過去30年分の院入試(反応速度論)の問題を解くという授業であった。といっても、問題を数式に落とし込み、あの手この手で線形微分方程式解くだけなのだが、数学に弱い化学系の学友たちは四苦八苦していた。私はというと、ラプラス変換と演算子法を駆使して線形常微分方程式を驚異のスピードで処理していた。
選択必修は、物理化学A、工業数学D、化学工学概論、石油化学概論(=工業有機化学)である。選択は触媒反応工学(物化の反応速度論)と高分子化学序論、分析化学序論(=物化の化学平衡分野)、化学外国語(=ドイツ語)である。有機と物化+α(必要となる数学)をどれだけやらせるのだ。そのくせ、無機化学、生化学、酵素化学などは開講されておらず、他学科の専門科目などはとっても単位にならない。物化と有機とそれらの関連科目以外は勉強禁止という理不尽システム(「純粋な物化と有機合成で世界と戦うから、他は一切認めない(単位にしない)」という傲慢)であった。ちなみに4年生になると物化と有機から派生した分野である、励起化学、有機分光学、無機化学錯体、化学工学などが開講されるが4年生になると忙しいので、研究室の教員の授業以外は授業に行くことはない。
友達に愚痴ったら医学部は講義全部必修で本も分厚く、高いから大変と嘆いていた。生物学のMolecular Biology of the Cellとかいうのはめちゃ厚いHな本だよ。もっと大変な世界もあるようだ。ベル◯ルクにでてくるモ◯クズ司祭の武器もこのあたりをモチーフにしたのではないかと想像する。
当時のS油化学科の教育理念では「炭化水素を基礎原料とする化学工業は人類社会におけるもっとも重要な基幹産業の一つとして、今日あらゆる生活必需品や工業材料を供給している。その学術的背景は炭化水素の化学と物理化学の研究であり、また新反応を可能にする触媒の研究や新技術の基礎となる工学の研究である。~略」となっていて、それが確実にドクトリンとして共有され、プロトコルとしてルールに落とし込まれていた。
【壁】立ちはだかる教育システムという名の理不尽
この学科にはドミノ式の留年トラップがいくつも張り巡らされていた。
教養で語学(英語4科目、第二外国語4科目)や体育(毎年1単位しか取れない)を落単 ➡ 実験履修不可 ➡ 研究室配属不可 ➡ 留年
専門の必修科目の物化II、物化III、有機II、有機III、実験を落単 ➡ 研究室配属不可 ➡ 留年
結局、定員55人(前期49名+後期6名)で入学したものの、4年生になれた生き残りの同期はわずか35人だった。転学部、転学科は基準の入試成績(入試点数に0.8を掛けて希望する学科の合格最低点以上)をクリアーし、学科主任のハンコさえもらえば申請できたため、脱落して姿を消す人も多かった。入試成績悪い人はもちろん強制居残りである。転学部も似たような感じだが、英語の成績をクリアーして、空きがあれば文転は簡単だ。そして、必ず空きがあるというのがぐーたらK大生(主に文系)のあるあるだ。「入るのは易しいが出るのは厳しい」と言われる化学系の真実を身をもって体験した。他の学部は以下のようなニックネームがついていた。パラ経(=パラダイス経済、当時は猫より暇と言われていた)、無のう学部、就職無り学部、脇やく学部など散々な呼ばれようだ。以前Q大にあった地球環境工学の「チカン」よりははるかにましだが…。転学部に失敗した人たちは中退することになるが、そうした転学部失敗組に加えて、進路を途中で変更したくなった人たちを合わせると、全体の約30%が医学部医学科に再入学している事実に驚いた。当時はK大のほうが国立医よりも難しかったので、学士、修士、博士の修了後に受験マシーンのパワーで進路変更する人が多かったと思う。つまり、医学部がサイエンスの壁を超えられなかった受験エリートのセーフティネットとして機能していたようだ。
[実]茨の道と破壊神の爪痕
ある実験では「手順書が英語とドイツ語で記述されており、先輩のマル秘メモを見たら間違いだらけ」といった巧妙な罠を回避しつつ、いかに手早くこなすかというタスク処理能力が問われた。1年生のときにやったどんな金属イオンがはいっているか?という高校化学の延長の無機定性実験とは一線を画す大変なものである。放射性化合物以外は何でもありである。わたしのサンプルにはヒ素が、となりのやつには水銀がといった感じである。有機定性実験というのも大変で、サンプル(主に有機物である)は各生徒ごとちがっており、それをいろいろなテストをすることで絞り込んで有機合成によって誘導体を合成してその融点、元素分析結果などから当てるというクイズとなっている。人によって必要な操作がことなるのだ。サンプルによってはとても同定の難しいものがあったりして、変なのに当たると地獄となる。入試で出題される化合物を同定するものは紙でとくより、実験によって絞り込むのはほんとに大変である。金曜日は本来安息日なのだが、単位を落としていると補習に追われる日々となる。実験は学生が全力で取り組まないと終わらないように設計されており、「学生運動などは暇な学生が行うものだ。だから常に暇にさせない」という意地悪なカリキュラムが組まれていた。
さらに、私の前年度に「伝説のシヴァ神」としてOさんが降臨したせいで、実験の監視体制は一段と厳しくなっていた。脱線するが、彼は濃○酸を排水溝にぶちまけてブクブクと沸騰させ、それを見た実験技官の先生が飛んできて「君、何を捨てたんだ!」と詰問したところ、「マッドなサイエンティストの雰囲気をだしながら、さあ、当ててみてください。(彼はクイズが趣味)」と返したという。一時が万事こんな感じで、「実験を多少サボっても、もう一回やらせたら死人が出るかもしれないから単位をあげた」という伝説すら流れていた。一人だけ色の違う溶液となってしまったナス型フラスコの話、風呂にはいらない、挨拶は”ウィー”など、エピソードには事欠かない。あまりの臭さに周りの受験生の不合格率が爆上がりしたという噂もあるが真実はわからない。
[惑] 教育理念の欺瞞とディストピア
あとになって理解したのは、S油化学科の謳い文句が持つ 「本当の意味」であった。
1年生から研究室内に招待されてのオリエンテーションがあり、教員が面倒見よく話を聞いてくれる
(=妙に馴れ馴れしくして、しがらみをつくり「お前たちは他学科・他学部には逃がさんぞ」という囲い込み)
徹底した基礎重視と力量ある研究者の育成
(=必修「教養の自然科学系30(必修)/34(必要数)、専門科目18(必修または履修推奨)/19(開講科目)」が多くてすぐ留年。配属後は異様に拘束時間が長い奴隷生活とそのアジトである不夜城がスタンバイ)
教育が行き届いており実業界から評価が高い
(=逆らわないように、徹底的に調教されており練度が高い。不夜城の管理コストは高く、下っ端教員が過労で倒れるのが様式美だ。)
アピール文言の裏にあるリアルを、存分に味わうこととなった。
【友】お前の顔も見飽きたぜ
教養部では複数学科混合のクラス科目を受けていたが、専門に入ると毎日同じ学科の授業と実験で顔を合わせることになる。名前と顔も一致し始め、学科の連帯感が生まれる頃だ。木曜日の実験が終わると、気の合う仲間とごはんを食べに行ったりしていた。ちなみに筆者は「対称性を完全理解した点群マスター」として、学友たちから重宝されていた。
【体】膨張する筋肉と体重、そして、自転車破壊へ
2年生でサークルは卒業し、運動は筋トレのみになった。面白いもので、鍛えた分だけ身体が成長するので、ヒョロガリからかなり体格が良くなってきた。主務になり体育会の仕事をこなす日々だった。「この頃、(実はもう少し後年のことなのだが、この肉体の改造の結末としてここに記しておきたい)、体重が増えすぎたせいで『自転車が折れる』という珍事件が起きた。ママチャリは女性が乗りやすいよう、フレームはサイクリング用とは異なり、細長い三角形で構造を維持しているのだが、サドル下が短い辺の構造になっており、そこの接合部が弱く、その部分の溶接部が外れてしまった。こうなるとV字で車体を支えることになるため、ペダルを漕いでいるうちにハンドルがどんどん体側に移動してくる(Vの字が閉じてくる)。そのたびにハンドルを押し戻していたのだが、3回目に押し戻した瞬間、金属疲労に耐えかねてフレームがポッキリと折れてしまった。こうして私は、バーベル部で培った筋肉の代償として『自転車を折った男』になったのである。」
【住】疲れた心身と安息の風景
下宿周辺は風致地区の閑静な里山だったが、住み始めてしばらくすると周辺に妙に病院や療養施設が多いことに気づいた。京都の北のほうには、昔から「いろいろな事情を抱えた人を人目につかない場所に置いた」(貴族は近親婚がおおく病弱で問題のおおい子息が発生しやすい下地があった)という歴史的背景があるらしい。なるほど、寮暮らしに疲れた私はここで回復しつつあるのかと自覚した。さらに学年が進み、過酷な学業と不夜城の洗礼に曝されてからは、この静謐な里山を必要とする『事情を抱えた一人』になっていたのだと深く実感したのだった。
【戦線を潜り抜けた戦友たち(力尽きたものたちも多い)+鬼教員】
私:理不尽な仕打ちにも反抗できずに、なすがままのサンドバッグとして専門課程を過ごすことになる。「一将功成りて万骨枯る」を目の当たりにする。
O:シヴァ神。伝説多め。先送りの結果、留年したため、同じ学年に。配属先の研究室では修士の先輩が代筆して卒論を書くことになる。実験の単位が認められたのは、実験室に絶対に入れたくないという担当者の総意だったようだ。
K:実験に来れずに脱落。彼女とベイビーに人生を捧げた。実験室からの大脱走を私がよく手伝った。(手ぶらで実験室をでた彼に、私が鞄を4階から投げてあげた)。
T:自炊しない派で晩飯はほか弁。4年で卒業したあと石油元売りに就職したあと、進路変更で医者になった。
Y:私の友達。エピソード多め。平戸の田舎から出てきた純朴な性格のため、みんなのおもちゃになることも。ユンケル中毒に注意。
N:理論物理をやりたいといってT大に進学して、行方不明。
I:酒豪。U研究室が肌に合わずT大へ脱出。革靴とスーツでテニスに出席し「単位をやるからもう来るな」と言わしめた伝説を持つ。一緒に独語を受ける。
K:真面目で実直な性格だったが、試薬アレルギーになり実験系を断念。その後、特許関連の職につく。るつぼ焼きはもういいと言ってた。
T:アメフトに人生を捧げたため、転学部。
T:ちょっといい加減で個性的でおもろい。几帳面なTと実験を組んでいたが、適当な操作で相手が怒り出すと、怒りっぽいねきみ江戸っ子やね~の一言で相手を脱力させる。反応速度論を落として脱落。
M:普段はさぼりがちだが、とても賢い。試験前の集中力がすごく、いつもテストでは負ける。なんでもこなせるすごい。
O:みんなの敵の鬼軍曹。私はレポートの実験装置のスケッチを適当にかいたらレポートの要件を満たしていないと0点にされた。
I:実験の統括責任者の1人。学生の失敗話を嬉しそうに話し、できの悪いレポートを辛辣に批判する様子が不気味だ。うすら笑いしてフェっフェっと嘲笑う姿が恐怖に拍車をかける(フランケンと呼ばれていた)。実験ノートのミスをみつけるとニヤニヤするが、どこが悪いかはおしえてくれない。授業はパワポで通常の3倍のスピードで進行するため評判が悪い。
その他の助手:ドイツ語の実験書について質問するとみんな一様にいやそうな顔をする。悪い人達ではないが、システムが極悪だとそこに乗っかって悪の手先になってしまうようだ。研究室に入るとおもったよりやさしかったりする。
当時の要覧である。1~2年生の配当科目 必(必修)または◎(必修ではないが履修していないと不都合を生じる)である。事実上の強制である。
3年生までは物化と有機と序論を少々、4年生になると無機化学と化学工学が解禁される。
大学4年生: 院入試は”普通の勉強”で対応せよ
[災]震災と混乱
Y教授の話でも触れたが、3年生の年明け(1995年1月)に阪神・淡路大震災が起きた。当時の惨状については記述を省略するが、コンビニからおにぎりが消え、高速道路や線路が倒壊し、恐ろしい事態となっていた。これを境に日本の耐震基準の見直しが行われ、新耐震基準からさらに現行基準(地盤に応じた基礎設計、接合金物の義務化、耐力壁の配置など)へと進化し、格段に耐震性が上がることになる。
大学でも試薬瓶の破損などが多発し、その後、転倒防止キャビネットなどが導入された。2月に姫路への工場見学があったのだが、交通網が麻痺しており、移動が非常に大変だった記憶がある。
[属]配属の謎ルール
当時の研究室配属は4月に行われ(そのため、研究室に実際に顔を出し始めるのはGWの前あたりだ)、成績順ではなく「話し合いで決める」というルールだった。歪んだカリキュラムだけあって、基本、有機と物化の研究室を選ぶという感じだった。当時は有機金属化学が花形で圧倒的人気を誇り、不人気だったのは物理化学、触媒化学、物理有機化学、離れ(=宇治)にある有機合成などであった。どうやって最終決定したのか全く覚えていないが、不人気のY研はすんなり決まったように思う。Y先生はどう見ても変人で授業も面白くなかったので、なぜそこに入門したのか自分でもよく覚えていない。当時はまだ個人でパソコンも持っていなかったため、この研究室で初めて「ワークステーション」というものに触れることになった。
研究室に入っても、先生が面倒を見てくれるわけではなく、実際には院生と一緒に研究を進めていくスタイルだった。教授と交わす会話といえば、半年に一回くらい「どのくらいできた?」と聞かれる程度。先輩に至っては「まあ、いつも同じ事を聞きはるからなー、喋る仏像くらいに思っておけば十分ですわ。どうせ、HOMO、LUMOはどうなってる?としか聞いてこないからね」という雰囲気であった。実際のミーティングでは、その先輩の想定通りの問答が繰り返された。
[戦]身内で争うのは大変
研究室への配属は6名であるのに対して、大学院の定員は4名である。身内で争う院試バトル(椅子取りゲーム)が始まった。一人が「理論物理をやる」と他大学に進学することを宣言したので、この時点でライバルは5となった。講義もいくつか登録してみたが、研究室の生活がそれなりに忙しかったので「授業にいくのはもういいや」となり、コスパ理論は廃棄されることになった。当時は200単位を目指していたが、結局172単位で終了となった。修士の単位が30ほどあったのでトータルでは200を超えた。単位が天から降ってくる大学では単位長者など何の意味もないのだが、まあ記念になったかな、と思う。
院試勉強を開始したが、型にはまった勉強というのが自分の好みではないということが分かった。結局、物理化学をやりつつ、久保亮五の『大学演習・統計熱力学』、メシアの『量子力学』でこれらを極めんと勉強していた。高めの難易度設定だが、解けたときの快感も大きい。そのため認知バイアスにより「院試ではこれがでるのでは」と勝手に思い込んで物理化学しか勉強しないという、誤った方向に進むことになる。実際にはかすりもしなかった。
あとから冷静に考えると、ヒルベルト空間の性質「離散的な l2 空間は常に完全だが、連続的な L2 空間はルベーグ積分を定義しないと完全にならない」という知識が、化学系の院入試に出るわけがないのだ。コットンの『群論の化学への応用』を愛読することで覚醒した「点群マスター」の私は、化学の群論の教科書では飽き足らず、ポントリャーギンの『連続群論』を読み込むことになる。院入試に対しては、これもまったく意味のない勉強であったことは自明だ。
退屈な勉強というのは飽きるもので、このころ『信長の野望』というゲームをやり始めてしまい、天下統一の一歩手前で院入試の日を迎えることになる。科目は物化、有機、無機、英語くらいだったが、物化以外はたいしたことのない出来のようだった。入試の面接では「英語の勉強をしっかりしておくように」と教員に注意されることになる。
研究室には残れたが、私以外は全員奨学金をもらっていたので、私は最後の4枠目に滑り込んだことが判明した(当時は成績順で上位の半分くらいに入れば、貸与型のものを申請できた)。とはいうものの、この「勘違い」で学んだことは、今後の研究の理解の深さへとつながっていくことになる。電子スピン1/2にはハール測度の概念が、酸素分子の項のエレガントな理解にはリー群が必須である。つまり、連続群論の概念は量子論の対称性における土台なのだ。
5番手で隣の研究室に移籍となったYは、親が送ってきたダース単位の栄養ドリンクを水代わりに飲んでいたせいでドーピング状態になり、本領を発揮できなかったようだ。充血した目で「おい、全然眠くないんよ。勉強が捗る」とか言う姿を見て、何かの中毒患者じゃないか?そんな状態では勉強の効率よくないだろうにと思ってしまった。大学院入試は普通に勉強するのがよいようだ。寮で事件を起こした人物は学科の先輩だったが、キツイが「オカシク」なることはないかな、と当時を振り返って思う。
[書]1勉強、2勉強、3、4がなくて5に勉強
院入試から解放されたら、とりあえず量子化学の勉強をということで、輪読としてJJサクライの量子力学(←多くの秀才が絶賛するが、一回勉強した人がおさらいする用の本)、ザボ新しい量子化学(←理論の本でなく、計算機がどういう操作をしているか学ぶ本)が選ばれて、みんなでわいわい勉強することとなった。
その他にはディラックの量子力学(←何が書いてあるかわかるまで100回、書いてある内容が理解できるまでさらに100回読む必要がある)も勉強したが難しかった。印象的だったのは「単独で測定すれば、どちらも実数の測定値をとる2つの物理量。しかし、それぞれに対応する演算子を「掛け算」すると、一般にはエルミート性が失われ、積の期待値に虚数成分が現れることがある」という記述だった。数学の常識(実数×実数=実数)と矛盾する不思議な現象が非可換な演算子によって引き起こされるという美しい説明にとても心を打たれた。
独学である程度概念を掴んだら、総説を流し読みしつつ、ガウシアン等のマニュアルとその引用文献を読んだほうが理解が速いということが分かってきた。というわけでマニュアルの引用文献を全コピーしてOPT、SCF、基底関数などの重要な部分から読んでいくという強行軍が開始された。基底関数など後回しになる記号的ワードの解釈が理解できるようになると、とても理解が捗ることとなる。この方針は案外調子よくプログラムの成り立ちと先人の工夫をスルメのように味わいながら解釈していった。ほんとにDIISっていいね。そういう生活を毎日続けると1~2年でかなり詳しくなってきて、UNIXの勉強も並行していたのでできることも増えてきて楽しくなってきた。
B4後半~M1ぐらいは割と充実した日々を送っていたように思う。このころから顧客(実験化学者)が来ると同席を求められて、助言と計算のコンサルをすることが増えてきたように思う。これはうちでしかできないという教授の誇らしげな様子を眺めることが多くなってきた。
[算]指揮官の立案と兵隊の計算
先輩はY教授のことを「ブローカー的性質が強い」とコメントしていた。計算できない実験化学者から情報を抽出して、我々に計算させるのだ、と。私のテーマももちろんその類であったが、きれいにモデル化が施され、少ない負荷で反応を記述できるように整理されていた。最終的には対称な分子の転位反応をやることで、解析した構造は「反応物=生成物」、そして遷移状態は2つというシンプルなもので、10月くらいには卒論が完成してしまった。
教授が大枠とモデルを決め、先輩が計算条件を整え、私は計算を実行して作図する。そして先輩が原稿の下書きを作成し、助手の先生が論文として完成させて、教授が自分自身を第一著者と決めるという工程で、あっという間に完成したのである。個性の強い人たちの調整が入るため、論文そのものより「名前の順番」などの“あるある”で時間がかかることになる。その後、JACSに投稿されてアクセプトされることになるのだが、それはどうでもよい話。
計算化学で必要なのは、巨視的現象を科学的本質を失わないように最小のモデルで切り出すという「モデル作成力」、現象を説明するには分子の何が必要かという「判断力」、作成したモデルを回すのに必要な時間(計算機の能力と実行者の力量に依存する)を見極め、時間内に収める「バランス」、それらがとても重要だということを学んだ。さらにエレガントなのが、必要にして十分なデータだけで論文を仕上げるという技だ。往々にして無駄なデータや足りないデータが出てきてしまうのだが…。助手のY先生はここが天才的に上手だったので論文の量産に拍車がかかった。
[職]就活という先輩たちの嫁入り
院入試も終わり秋も深まってくると、修士の先輩たちも進路の方向が決まり、学会準備や進路選択の話などが聞けるようになってくる。就活の結果は春からGWぐらいに出始めるが、さすがに皆さん、日経平均に出てくるような会社にポンポン決まっている。化学はB2Bの会社が多いので当時はあまり分かっていなかったのだが、業界大手に決まっているようだった。
そのうち、自分もそんなふうに、大学の「推薦」という名の見えないコンベアに乗せられて、どこかの巨大な化学メーカーに「嫁いで」いくのだろうと漠然と考えていた。当時はまだバブルの余韻と就職氷河期の境目ぐらい。逆らわずに調教され、夜を徹して仕事を回せるツワモノへと練度を上げられた兵士たちは、実業界からは格好の「即戦力」として高く評価されて売れて行くシステムが、すでに出来上がっていたのである。
就職した先輩たちがみんな口を揃えて言うには、研究室に比べて会社はとても楽でぬるいのだという。土日休みで、平日も早く帰れるし、ペースを落として遊びながら仕事をしていても「彼は頑張っている」という評価がもらえると。
[場]研究室とはなにか?
いまにして思えば、研究室とはひとつの小さな「社会の縮図」であり、高度に洗練された「知的工場」であった。
教授という経営者が外から未解決の「実験データ」を仕入れ、それを先輩という中間管理職が「計算条件」にブレイクダウンし、下っ端の兵隊である私のようなB4が「マシン」を酷使して作図し、助手という品質管理部長が「論文」という製品に組み立てて、教授の名前で出荷する。
3年生の時にパンフレットの美辞麗句の裏に見た『不夜城』の真実。それは、学生を暇にさせないための嫌がらせではなく、この知的工場の稼働率を100%に保ち、世界の最前線へ次々と製品を送り出すための、冷徹なまでの生産ラインだったのだ。当時、日本は「エコノミックアニマル」と諸外国から批判されていたが、さしずめここは、「リサーチアニマル」と呼べるような生態系であった。
以後、一兵卒から始まり、階級が少しずつ上がっていくことで、確実に組織に組み込まれていくことになる。そして、卒論と学会を一度こなすと、いっぱしの大学院生(=中間管理職)へとクラスチェンジするのだ。
「諸君らを力量ある研究者にするために必要な課程だ」
その一言で、私たちは無償の労働力、すなわち研究室(ラボ)の歯車――“Gear”となった。
お荷物の4年生は粛清され、残された精鋭たちが不夜城での過酷な訓練課程に進む。過酷な訓練という手段だけが目的化したブラック研究室からの叫び声が響くなか、頼れるのは極限まで高められた己の技量と剥き出しの生存本能だ。その最前線で繰り広げられた、二度と戻りたくない、だが「あの時だけしか体験できない極限状態」だった日々の話。
大学院 (M1〜M2) : くんれんじょ
[住]安定の井口家
生活の力点が完全に研究室へと移ってしまったため、下宿はもはや「帰って寝るだけの場所」と化していた。しかし、その中でも個性豊かな住人たちとそこそこ交流を続けることで、大学の殺伐とした空気とは一線を画す異文化の風を心地よく楽しんでいた。
[代]授業料とはショバ代
大学院に入ってまず骨身にしみて理解したのは、「授業料とは講義を聴くための対価ではなく、不夜城の滞在許可のためのショバ代だ」という冷徹な事実であった。学部時代に引き続き、私は幸いにも授業料免除の承認を得ていたため、文字通り一銭も払わずに最高峰の計算資源を使い倒すという、最強の「ショバ荒らし」状態を維持していた。
しかし、この完璧に思えた理論の前に、国公立大学というお上のシステムが誇る「究極の理不尽」が立ちはだかった。同じ大学の、同じキャンパスの、同じ研究室の同じ椅子にそのまま座り続けるだけなのに、学籍番号が院生のものに変わったというだけで、27万円の「入学金」をもう一度むしり取られたのである。
「授業料を全額免除する=極貧であることは国が認めてやる」というお職のお墨付きをすでに与えておきながら、「でも入学するんだから入学金は別枠で払えよ」と平然と言い放つ役人組織のダブルスタンダード。授業料免除の申請書を出すたびに私の経済的困窮を完璧に把握しているはずの大学事務が、入学金の納付書だけは一切の慈悲なく送りつけてくる。半額免除で支払いは135,000円になったが…。問題の本質は金額の大小ではない。
さらに怒りに拍車をかけたのは、他学部との構造的格差であった。4年制の工学部から修士課程に上がるだけで「二重取り」される入学金。一方で、最初から6年制である医・歯・獣医学部は、どれだけ過酷で高度な専門教育を受けようとも、6年間で支払う入学金は「最初の1回きり」である。それに引き換え、同じ椅子に座ったまま不夜城の労働力へと階級を上げた私たちは、なぜか修士課程の入学金として中間のみかじめ料を毟り取られる。そして、据え置かれていた授業料も値上げされるのだ。まあ払わないから関係ないけどね。(当時の授業料は毎年値上げされるものの、在学中は入学時の料金が適用されるシステムだった。)
[惠]それは天から降ってくる
なけなしの貯金を吐き出させられ、財布がゼロへと収束しかけていた私は、この不条理に毒づいていた。だが、この話にはスマートなオチがつく。私の窮状を察したのか、普段は半年に一回「どのくらいできた?」としか聞いてこないあのY教授が、「まあ、きみはよくがんばっとるからな」と、なんと自らの研究費から「バイト代」という極めて合法的な名目で、一気に22万円ほど援助してくれたのである。定期ミーティングを除いて滅多に姿を現さないので、鑑賞用のシンボル『しゃべる仏像』なんて呼んでてごめんなさい。来るに如かずの如来さまでした。
助手として着任されたY先生(助手:当時は助教相当の役職をそう呼んでいた)が口添えしてくれたのだろう。Y先生は私にいつもご飯を奢ってくれるよい先生だった。(のちに右腕としてQ大に誘ってもらえるのは別の話)。入学金自体は半額免除が認められて約13万円で済んだため、教授が捻出してくれた軍資金のおかげで、ショバ代を支払ってもなお手元に10万円弱のキャッシュが残るという、まさかの大逆転勝利(黒字化)を収めることになった。真面目にやってればいいことあるね。
[錬]徴兵された若者たちの研修所
化学系院生の扱いはひどいもので、かれらは労働力であり、「世界と戦える人材を育てる」という大義名分のもと行われる過酷な訓練は労働基準法など適用されないとても厳しいものだ。お金を払って外国人研修生のような扱いを受けるのだが、「技術立国日本の産業界へ人材供給を行うために多額の税金が諸君らに投入されているのを忘れるな!(←あんたらが無駄遣いしてるだけでしょ)」というわけだ。しこたま勉強させられ、ここまで仕込まれたら、そりゃ普通に過ごしていた人とは練度が違うはずである。エリートではなく知のグリーンベレーを量産していたわけだ。(私はこれをターミネーター養成システムと呼んでいる。)
多少、勉強できるだけでは生き残れない世界が待っているのだ。アカハラなどという言葉はなく、生意気な反論などしようものなら、何倍も過酷な世界をサバイブしている鬼教官に、「次やってみろ」と言われ、できないとひたすら詰められるという日々になるだけだ。4年生はお荷物で、その状態からいかに早く離脱するかが大事なのだ。お荷物のままだと粛清されるシステムである。
某研究室では見習い状態だと名前も覚えてもらえず、「君(きみ)」と呼ばれる。勉強ができない、要領がよくない、といったレッテルが貼られると、「耳くそくん」「鼻くそくん」がコードネームとして定着して相手にもされなくなってしまう。かつて秀才として名を馳せていたはずの面影はなく、プライドが粉々に砕かれた学友達の魂の叫びが聞こえてくるようだ。ひどい所になると手段が目的化してしまい、シンドイだけで得るものは何もないブラック化した研究室が自然発生して学生に恐怖を与えていた。
昔、指導教員のY助手にどうしてこんなことになるのか?と聞いてみた所、「教授という職位は企業でいう部長クラスなんだけど、その上がいなくて教授会という合議制で決まるから、ガバナンス不在で暴走すると抑える人がいないんだよ。うちのY教授は変わってるけど優しい先生だよ。人使いが荒いのが玉に傷だけどね」との返事が帰ってきた。
院生になるということは、そういう場で鬼軍曹として士官のマネージメントをお手伝いすることだ。そう思うと、「伝説の生化学者・沼正作物語」は決して突出した異常事態ではなく、当時の大学研究室が日常的に抱えていた生態系の、少し極端なバリエーションに過ぎなかったのだと思う。
狂T大学では、優秀層が毎年供給され補充されるため、システムの実体は教育ではなく厳しい選抜となっていた。結局、受験の優秀層の上澄みを吸い上げ、蠱毒のように争わせて生存したものだけを選抜するという、人材の使い捨てが許された贅沢で残酷なシステムだったのだ。
[掟]以下はよくある研究室のミリタリープロトコル(部隊規律)である。(※所属していたY研の話ではありません)
椅子に座るの禁止。
パソコンに触るの禁止。(文書作成等は教員の仕事)
修論は投稿論文のコピペとすべし。無駄なことに時間を使うこと禁止。
投稿論文なし=業績なしという理由で修士は修了不可。頑張る姿を見せれば、温情で先輩の論文(←実験データは自分の仕事)の使用許可が下りる可能性がある。
博士課程進学希望者は学位を三年で取らせるために、論文が所定の数が溜まるまでトラップされ進学禁止。質を維持するという名分(=教授の見栄)のために学位取得の要求水準が異様に高い。(Y研でも最低5報で10報ぐらいが推奨という狂った設定であった。)
他大学出身だと上記の理由も含めて域に達していないという理由で、留年か研究生でお許しがでるまで奉公させられる。
卒論試問会は研究室内ミーティングとして実施して非公開。(卒論単位は教授の権限でを出せる)
電子メールの送受信は共用の単独アカウントを使用。FAXのように〇〇研究室所属△△様と研究室宛でのやり取り。(秘密通信の禁止)
学会の予稿は、締切1週間前に教員に提出。結びは「詳細は当日発表する」と変更させられる。そのため、学会までの道のりが過酷な強行軍となることが決定する。(予稿のできが悪いと、恥をかかせる気か?と説教され、真っ赤に修正され原文がなくなっても校正がつづく。)
実験の計画や準備は家でせよ。研究室での調べ物禁止
研究室での時間は実験をするための時間で、それ以外禁止。(例外は昼食だが軍隊のように集団行動)
コアタイムは12時間以上(18時間以上滞在できるようにと自宅生は下宿を推奨)。「監視カメラがないぶんだけ、米国の○○研よりゆるいぞ」と極端な例と比べられる。
朝のSHRが小学校みたいにあり、遅れたら罰金取られる。
アルバイトはTA以外は禁止、ばれたら死刑。TAという名前だが大学には登録されておらず無給というケースもある。
土は平常業務。ただし、1時間ぐらいの遅刻は大目に見てもらえる。日曜日の午前中は洗濯などのプライベートな時間なので午後からくればOK。
語学が得意だと実験免除されるかわりに、外人の先生方を連れて観光案内させられる。遅れた分は残業することになるのでいいことなんもない。
先生から実験の計画表を渡されたら、その空欄を最優先で埋めること。それ以外の作業は禁止。
先に論文が完成してしまった場合、ストーリーを潰さないような実験結果が求められる。
就活は許可を得た会社のみにエントリー可能、化学系企業以外は応募禁止。
後輩のデータは先輩のもの、先輩のデータは先生のもの、先生のデータと業績は教授のもの。
業績をトップに集め、圧倒的パワーで研究費や賞を獲得するのだ。(申請書を書くのは教員や研究員の仕事で、書類が電子化されていない場合、インレタや工作によって申請書に貼り付けるのは学生の仕事。)
学振の研究費の使い方は教員が決める。(研究費は研究室の予算として厳密に管理される)
学会等の旅費は半額のみ支給、詳細な報告書(最近の動向やライバル研究室の発表など)が義務付けられる。
試薬1滴は血の1滴と心得よ。無駄遣い絶対禁止。
真実はフラスコの中にある。(実験ノートは真剣勝負の閻魔帳、ささいなことも見逃すな)
未完了だと、就職後もGWやお盆に呼びつけられる。拒否したら上司も一緒に呼び出されて説教される。
ゲラ刷りを見届けるまでは氏名が著者欄に残されているか安心できない。「貢献度が少ないという理由で削除」は日常。
お気に入りの学生以外に推薦状をださない。(結局、学科の就職担当教員に頼み込むことになるので、そちらから遠回しに嫌味を言われる。)それに対して、教授が私の留学先の〇〇先生も同じ事してたし、我々はこうやって質を維持しているのだと誇らしげに言う。
研究室に許可なく部外者を連れてくるの禁止。(友達がきただけでスパイ扱い。治安維持員がとんできて所属を根堀葉掘り詳細に聞かれる)
とりあえず理不尽な禁止と不可が多いのが特徴だ。工学部◯号館の「世界と戦っている」研究室で、日常的に運用されていたリアルな「部隊規律(研究室のルール)の一部」であり、これらは決して都市伝説の類ではない。
その根底の思想は——
「化学とは、敬うべき神であり、恐れるべき父であり、愛すべき恋人であり、慈しむべき弟妹であり、私自身だと思って全身全霊を捧げよ」
に集約される。
これら独善的な掟に比べればY研はゆるゆるの良い方であった。しかし、地方大学に赴任していた研究室出身の教員が呼ばれて、「あの4年生の卒論は、君が論文にまとめてくれ」とデータを渡される姿を目撃したことがあったので、LAB出身者は全員、持ち駒として管理されていたのかもしなくもない。
[砦] 不吉な番号に彩られた怨嗟の不夜城
当時の化学系建物は4や9といった不吉な数字が割り当てられていた。そして、新館が建つ際には「13号館」になるのを嫌い、「分子本館」という数字抜きの名称が与えられたのだ(あくまでも噂であったが)。また、ロの字型をした4号館の中庭には巨大な焼却炉が鎮座しており、世間の目から隠されるようにして有機廃液が焼却されていた。今では桂キャンパスへと移転したため、そうした不気味で厳めしい風景も過去の遺物となってしまったが。
話は脱線するが、TVドラマ「ガリレオ」の主人公・湯川学の勤務地として撮影されているのは、S油化学科の前身N料化学科の旧建物である。TVでは映える研究室として紹介されているが、その実態は血と汗と涙と有機溶媒をたっぷりと吸収して「特級呪物」となった煉獄の構造物である。私が学生時代は、保健センター+「親知らず抜歯」専門の診療所として不気味な存在感を放っていた。
[温]温暖で過ごしやすい生息域もある
一方で、同じ工学部でも機械系などは信じられないほどゆるゆるであった。みんなでお金を出し合って漫画雑誌や青年誌を研究室でシェアし、本棚は論文ではなく「漫画図書館」のようになっている。実験もそれなりに大変ではあるものの基本的には日没で終了し、アフターファイブをエンジョイするという、まるで別の国のお話である。多少忙しくても、金回り・設備・就職実績のすべてにおいてリターンがデカすぎるため、最高に待遇が良い楽園である。同じキャンパス内に存在するこの強烈な落差と生態系の違いは実に象徴的であり、受験生の偏差値的な人気順と実際の居心地が比例しない理由も実によく分かる話であった。
[閥]名前よりも看板の世界
学会や他大学との交流の場に出ると、どこへ行っても、誰と話しても「◯◯先生(Y教授)のお弟子さん」「あの学派の系譜の院生」というラベルで扱われるようになる。個人の名前や実力以前に、どの「看板(家紋)」を背負って不夜城から降りてきたのかが問われる世界。つまり「お前はどこの組と杯を交わしたのか?」というヤ〇ザな世界である。自分がアカデミアという巨大な生態系の血統図・派閥図の中に組み込まれたことを、否応なく実感させられる瞬間であった。
院生は研究室のプレゼンスを示すため、ひたすら全国の学会を行脚することになる。
[進]分岐する人生と自分の価値
そしてM2の4月、とりあえず「就活」なるものをやってみることになった。とりあえず年収1800万につられてGSのインターンの面接に行ったりした(受付に『難波金融道』が置いてあった)。いろいろ話を聞いて面白かったがそれだけだったかな。部活のOBが就職したらしいので遊びに行ってみたのだが、「もう辞めたよ」と言われた。レジャー産業の社長として引き抜かれたらしい。一応、パンフをもらって実家に寄って父親に見せたら、「ここはやめておけ、頭が白いやつが誰もいない。そういう所は長続きしないんだよ。お前ならほかに好きなところ行けるだろ」と。そういう視点もあるのかと金言の深みに感心した。
ほかにはミツカン(愛知県半田市)とかにも行って、東海銀行半田支店に勤務しているS先輩と話をしたりした。駅を出るとホントに酢臭かった。私が目をつけたのは〇京エレクトロンという会社であった。基本給は激安だが当時はすこぶる羽振りがよく、私の地元(Y梨県N崎市)に事業所があり、本社はTBSのビルの中にあるという。話はトントン拍子に進み、あっさりと内定が出た。就活ってめちゃ簡単じゃんと思ったけど、それってまあ看板のお陰でしたね。
推薦状は自分で自分を推薦して封緘だけしてもらう。そこには「研究室始まって以来の大天才のように誇張された内容」が語られており、後日、「こんな感じで書け」と公開される。そして、「あの人そんなにすごい人ちゃうやろ」と、後輩に鼻で笑われるまでが一連のストーリーである。
周りの同期たちも、よほどの不適合者でない限りは同様にすんなりと進路が決まっていった。社会へと送り出される見えないコンベアの上で、少数派となる20〜30%ほどの変人だけが「博士課程進学」という道を選んでいた。その大半は根っからの変人か、親が大学教員という環境の持ち主である。博士に行くべきか否かの見極めは今でも難しい決断だと思うが、決して人に強制されるようなものでもなく、好きなら自分で決断すればいいだけの話なのだろう。
私より上の世代は「学位とは足の裏についた米つぶ、とっても食えない、取らないと身動きできないもの」と言われていた。実家が金持ちか、そうでないなら寄生できるヨメを見つけろというのが先達のアドバイスだった。たしかに、量子化学やってる先生方の奥様は医療系の職についている人をよく目にする。
教員には博士進学を勧められたが、断った。病身の父がおり、家族も就職を望んでいたからだ。両親ともに高卒でその子どもが院で修士まで出るのだから十分かなと自分でも感じていた。もう少し、研究を続けたい気持ちはあったが、専門の職を探しながら放浪する未来は自分には厳しいと感じたのが理由だ。あと自分がD2のときに、Y教授が定年となるので安定して学位を取得するにはリスクがあるという判断もあった。
ここには、書くか書かないか分からないエピソードのタイトルだけを並べています。OB・OGには、きっとくすりと笑ってもらえると思います。自分を掲載してほしいひとはエピソードを添えておくってください。
(ラノベ風のタイトルとあらすじをAIに作成してもらいました。)
『S先生の優雅な日常はどこだ? ~書くか迷ったエピソード集~』
あらすじ 「華麗でスマートなアカデミアライフなど幻想だった。そこに並ぶのは、予測不能な粒子たちが繰り広げた、書くか書かないか本気で迷うカオスな記憶の数々——!」 教員席から目撃した、一筋縄ではいかない強者どもの生態記録。粉コーヒーを溶かせず、スパコンで財産を溶かし、インドからの刺客に頭を抱え、果ては生死の狭間で変な学生の言い争いを走馬灯で見るハメになる著者(S先生)。 OB・OGなら思わずクスリと(あるいは冷汗をかきながら)笑ってしまう、とほほで愛おしいリアル理系サバイバル・コメディ!
有機化学の教科書をもって物理化学の研究室に質問にきたY
「ここは有機ですか?」「ちがうよ」「じゃあ無機なんですね」 ???
レギュラーコーヒーをひたすらかき混ぜて、これって粉ポイですね!?とT
(かれの常識のなさはついついからかいたくなるほどであるが、受験にでてくる知識だけはすごいのでS先生はこれが受験の弊害だよといって苦笑してた。普通の粉コーヒーが水に溶けないのを知らないのに、三角縁神獣鏡は0.1秒もかからずでてきた。)
色のどきつい食物をまるで犯罪者の烙印のように恐れるT
(健康マニアの母親の影響らしいが、父親が真っ赤なウィンナーかってきてえんえんと怒られていたのがトラウマなってしまったようだ)
掲示板を信じて一年前の集中講義で単位を揃えようしていたS
(そんな授業は存在してなかったとわかったときの絶望と、私の指導力不足ですみませんと単位乞食をするはめになったY教授)
応化の発表会で、これつまんないんで帰っていいですかとデカい声でY教授に聞くI
(かれもまた空気のヨメない男だった。)
全くわかってないのに、「自分は~ハイ分かりました」と声だけ元気なM(アメフト部)
(それを聞いていて笑いがとまらない先輩のM)
K先生の「できたか?」に、「自分は~できていません」と声だけ元気なM(アメフト部)
(それを聞いていて笑いがとまらないだけでなくS先生にいいたくなる先輩のM)
院入試でなぜか願書を間違え他専攻受けてしまうI他大学からだとコースの選択が難しいようだ
(入試の面接と志望研究室調査でその間違いに気づく)
院入試合格お祝い中に数学の落単が判明して留年確定のT
(せっかく合格したのに無駄になったうえ、やる気なくなって次年度は院試におちた。)
研究で忙しいから徹夜だと言いながら、研究室に寝袋持参で22時ぐらいに寝てたO
自転者に乗れないO、彼の夢は自転車にのってトライアルでショッピングを楽しむことだ。
(念願の自転車を購入して早速練習開始。キャンパス内でふらふらしながら自転車で建物を周回する姿が異様だったため、あの変質者は?どこ研だ!と噂になってました。)
(研究室のある)理学部棟が怖くて、建物の前で朝待ち合わせしてから一緒に来てた工学部所属のKとS
(二人の男子学生が仲良く登校する姿をみた秘書Tさんは恋仲では?と禁断のBLを想像をしていたようです。)
天ぷらで実家が火事になり以後、実家でてんぷらがたべられないS
(大好物はやめられないと定食屋でいつもてんぷら定食のS)
学校にあまり来ないでオンラインゲームで鯖の英雄になっていたO
(後輩をさそって一緒に沼るのはやめろ!)
夏休み勉強せずにオンラインゲームでカンストしていたY
(かれは院試におちた。)
メモをしないOとのやりとり(覚えたので大丈夫です、忘れました。メモなくしました。メモして完全に覚えたので捨てました、そしたら忘れました。それに対するS先生、じゃ思い出すまで頑張ってね。メモが見つかるのを期待してるよ。)
N研から来て、なぜか囲碁部でスマブラ無双するK、かれはソフトボールの投手として大活躍うちではとても輝いてた
(研究室から卒業を前に俺も「院にいっておけばよかったな」とつぶやいたとさ。そのあとの一言 こんなに楽なら。がなければもっとよかった)
某県から修学旅行中に研究室見学にきたJKに「趣味なんですか」と言われて、「18歳未満には教えられないなー」と言ったK先生
(キャーアヤシイーと歓声と悲鳴のミックスをきいたK先生はなぜかとても誇らしげだった。)
学科のK田先生に「彼がいじめられないところが九大のすごさだ」と言わしめたO
植物が大好きなN。人のよいAS先生に撮影した花の写真をみせようとする。
(20枚ぐらいみたあとに、何枚あるの?とAS先生、Nの返答は2000枚!? 同じ花を10度刻みぐらいで取ってるのが多い。)
運転中も気が散りやすいN、誰も乗りたがらないN運転の車
(外人なら気づかれまいとAS先生を割り当てたら激怒、まだ、私は命が惜しいとの名言を残し、どうしてもというならミニバイクで現地までいくと言わしめたNの運転、同乗したK先生は「はっきりいってやばいっすよ。親切な観光案内ついてくるんだけど頼むから前みて運転してくれ。一番安全と言われる運転席の後ろでも怖かったと最高のアトラクションですわ。」と。)
助手席のK先生のナビ、完璧ですわガハハ、からのいますぎた角を右です
(道案内でなく、事後報告にあぜんとするS先生)
酒を飲んで暴れて絡むK先生(いつもの予定調和だよとS先生談)
咳がとまらないD,しかもすごい感染力、結局D井富病という名前の奇病が蔓延した。
(K先生ものちに述懐する。D病の治癒には強力で高額な抗生物質が必要だと)
「大変です。K先生が血はいて倒れています」と大騒ぎのD、様子をみにいくと。
(赤ワインを戻して酔いつぶれてるだけのK先生が転がってた。全く人騒がせだ。)
研究室から夜逃げしたMさん、机の上には貸与品のMACが一台のみ。
(その後、学科内の他の研究室で働く姿が発見された。かれは何者だったんだろう)
実家から持参した段ボールから、お母ちゃんのヘソクリとパスポートがでてきたK
(実家は諫早の有名なドライブインだよ)
注文のおおい外国人研究員
(K先生は下宿先のwifiの設定までさせられてた。)
前日にカキを食べてあたった状態での博士公聴会に臨んだD
(みているこっちがハラハラしたとY教授はのちに語る)
コロナで研究室閉鎖中に横浜に引越していたK
(しかもかれはプロ契約を結んでEスポーツの選手になっていた。Q大現役院生の理論家という触れ込みで宣伝されてた。。。)
前日入りにこだわりポスターを持たずに学会へ出発したK
(フェリーで交通費浮かして差額でもうけようとするが、だれも止めなかったらしい。)
図書館の本を返却せずに卒業して研究室に苦情がきて困ったT
(学科事務室、所属の研究所事務室、あらゆるルートから苦情がきたのでしょうがないからお母さんの携帯を事務に教えておいた。)
修士の仕事を放り出してとなりの建物の理論の研究室でバイトしていたT
(そんなことするなら自分の研究室でもうすこし頑張ってくれと思うのが教員のさが)
バイトにおまえこれ勉強しろ(超難しい論文)、理解したら自分に説明しろという無茶指示をだすK先生と勉強して理解する電情の優秀一年生A
(やればできるではなくて、無茶やらせれば、あとから道理がついてくるという狂気の研究室の片鱗を見たS先生。かっての指導教員とのやりとりを思いだす。)
S先生は、受講者を選別する(間引く)ためにをマリケンの超難しくて長い論文をレポート課題にしてる。
(提出した院生だけを受講可としているが、難しくて自分でも読みたくないっていってる。)
肉食べれないB4Fの歓迎会を「焼肉きんぐ」で開催したF
(Fは本当の意味での肉食系女子だ。そして、肉肉肉に焦点をあわせすぎてドリンク代を勘定にいれるのをわすれて幹事してた。S先生がどうせみんな酒のまんし安いからだすよといって、ドリンク代をみんなの分はらった。)
バイト先のダイレックスにくる機能の人たちをわざわざS先生に報告してくれるF
(でも人にはなしてはいけないらしいが、S先生はとても口が軽いのでこまる。)
週1で昼飯を奢ってくれるS先生、行き先を決めるのはFだが、あまりA食堂を指名してくれない。。。
(これもまた世の定め。たまにいくと女性店長のビッグママに最近こないねと腹をもまれるS先生)
学会発表用のポスターを忘れても動じないF
(鋼のメンタルにS先生も脱帽だ。お昼に美味しい飛騨牛ランチをおごってあげたS先生)
激安航空券が株主優待のため、当日株主優待券がなくて搭乗できず就職の面接に大遅刻したA先生
(よりによってとおもったS先生とあほちゃうかとあきれてたY教授)
学会を観光旅行と勘違いしていた御一行様
(遊びつかれて学会に遅刻するの巻、このときからY教授は学会参加に厳しくなった。)
大した理由もないのに頻繁に飛行機に乗り遅れるH先生
(やさしく理由書をかいてくれるS先生だが、おおくね?と苦笑い)
安全食堂のちゃんぽん大を完食後、研究室から逃亡するU
(無理は禁物だが、ついつい無理したくなるのはしょうがいない。だって人間だもの。)
安全食堂、初訪問のN先生、ラーメンと焼き飯に撃沈しておばちゃんにあおられる。
(無理は禁物だが、初見殺しだろ。あの量普通じゃない。)
安全食堂に向かうS先生御一行、あれEの車(アクセラ)じゃね? なぜか向きが学校じゃない。
(Eは遅めの昼食として王将で餃子をたべてから登校という社長出勤なのだ。)
EとはナイトプールであったとS先生は述懐する。
(市民プールの更衣室で◯重研修の話しをしてる連中がいたので、聞き耳たててたS先生、いきなり登場
きみ、応用化学?、Sだよ、◯重研修の責任者だからよろしくね! Eはしまった!!と思ったらしい。)
「旦那のあれ(エキス)がトマト味なんですけどなんで?」と質問する保険のNさん
娘の志望大学の過去問(日本史)をS先生に解かせようとするMさん
(あとでかんがえてなぜ私が???となったS先生だが、細かいことはきにしないとあんまり覚えてない。)
仕事おわりに、私の部屋で涼みに来てさぼるMさん
(仕事をくれるけど鬼畜な注文主と林檎の横暴について熱く語るの巻)
たまに美容院がえりのモデルさんみたいな状態で研究室にくるK
抹茶がすきなKと大嫌いなT(ふたりはいつも口論してるけど仲良し)
忙しいといいつつ昼過ぎの登校が後輩にばれてサークルの会報にさらされてたM
(自業自得なのに、失礼なやつらと憤ってもしょうがないね。)
応化のソフトボール後の懇親会でとんでもない禿芸を披露したS
(相棒のDは嘘くさい言い訳で禿芸を拒否)
2月の休日、教員の口述筆記で卒論を完成させたY
(S先生はもうやりたくないなといってた)
見えている地雷をわざわざ踏みに行くI、そしていろいろ大損するまでが流れ
研究室で飲酒グセがあるのはIとK先生だ
(お酒なんかよりオレンジジュースのほうが美味しいといってたのに、ある日を境にブランデーを飲みながら論文を読むようになったとさ)
出張中に自分のカブト虫の世話をK先生(当時、院生)にさせてたY教授
登山中に「今日はこの辺で勘弁しといてやるか」と言って下山するT先生
(Yオクで購入した)素晴らしい水晶玉ですよと自慢していたK先生
(S先生は溶錬水晶とかかれたシールを見逃さない。複屈折ないし石英ガラスじゃん。)
研究室で春闘をしていたMさん
(かわいい息子のNちゃんにお仕事だといって飲み会にくるのだが、お仕事がんばってといわれて切なくなるそうです。)
フォアグラをたべさせてくれたIさん
(高級品のガチョウと普及品のアヒルのがあることを初めてしったK先生とS先生)
Iさんにおしえてもらったフランス語とかれのまちがった日本語(なぜか学生が死んでる)
Tu es déjà mort (テュ・エ・デジャ・モール)お前はもう死んでいる。 浜Yはもう死んでいる。
「大丈夫です。S先生に理由書をかかせますから」と言って安請け合いするK先生
忙しいときに、「これでお前も徹夜だ」と言ってエロいゲームを配るK先生
オープンキャンパスで回収したアンケート用紙を箱にどういうふうに入れるかで言い争いをしてたOとN
(隣の学科のS先生「さすが理論系は一味ちがうね。普通に折っていれればいいのに」に対し、心の中で「彼らは特別なんです」と叫びそうになったS先生)
女性歯科医師との合コンいく途中に、地下鉄乗車中に大動脈が裂けて死にかかったS先生
(生死を彷徨ったときに見えた走馬灯にでてきたのは、上述の言い争いをしているOとNだったらしい。最後の瞬間ぐらいもっと良い夢見ましょうとK先生。)
これ幸いと、「S先生が大変なので」と研究室旅行をしれっと中止する策士なT先生(当時M1)
自分のレポートの答えを後輩に販売していたT先生とそれをめざとく見つけるS先生
(ちなみにロバートというハンドルネームでした。あれは君かと聞いたら、結構売れます。と返事が帰ってきた。)
一年間の成果がグラフに4本の線を引いただけのK
酒乱であることが判明した、普段は物静かなT先生
(暴れてるやつを引取にこいと携帯で呼び出されたら、そこにはK先生とそっくりのT先生)
臭すぎてみんな困らせてたインドからの刺客P
(シャープのプラズマクラスターも彼の前では無力でしたと語るT先生。空気清浄機(=ホコリをとる)≒ 脱臭であることを悟ったS先生)
インドからの刺客Pを送り込んだS先生、民芸品買いたいと雑貨屋につれていったら片っ端から裏返して日本製はないのかとご立腹。
(強烈なにおいを放つ薬膳カレーをふるまってHさんにどんどん食べてくれと継いでくれた。Hさん曰くあれはきつかったと後に述懐する。)
インドからの刺客Pを九重研修所に連れていき温泉にいれて、お酒でご機嫌のK先生
(硫黄の還元力半端ないす、こいつ全然くさくないんですよ。クンクン)
インドからの刺客Pに不平タラタラのS先生とK先生、Y教授に呼び出されてお説教される。外国人が多少臭いのはあたりまえだから我慢しろ!!(それから数日もしないうちに、秘書さんに一番強力なやつという注文で空気清浄機を依頼してたのをみたS先生とK先生、やっぱりか)
初登場の空気清浄機にお前の性能見せてもらおうと握りっペでセンサーを攻撃するK先生
(赤ランプがついてはしゃく姿をみて苦笑するS先生)
「こんなに暑いのにエアコンつかわないだなんて、さすがインド人」と言っていたK先生
(Pは、エアコンのボタンがわからなかっただけ)
自分は窓の隣で涼んでいるエアコンが嫌いなK先生
(風通しが悪く、窓から遠い同室のMは暑くて苦しい。「でも今日はPM2.5が強いみたいで窓開けれないのでエアコンがオンなんです。ほんとに中国のPM2.5さまさまですよ」)
どうみても相関性のない散布図のようなグラフに強引に直線を引くN
(それをまるで星空をかける流星を観察するように無言のY教授。そして共同研究先の先生に一言「うーん、実験だけでまとめてもらうのがいいようです……」直接の指導教員のK先生は、rが0.25ぐらいで線を引くにはN並の神眼が必要だ。彼には相関の痕跡がみえていたんだろうたいしたもんだと後に述懐する。N曰く、エクセルで線を引きました。S先生いわく、最小自乗法の誤った使い方でエクセルがかわいそう。)
卒業してからも、会社で居眠りしてることが風の噂で伝わるN
(かれは深夜の天体観察という高尚な趣味をおもちでした。)
収束しない数列をスパコンで走らせて数十万とばしたY
インド大使館からの偽電話でアップルペイ30万騙し取られたR
次年度から課税された住民税に「手取りダウンにビックリ、日本は年々給料が下がるシステムなのか?」と不安がるAS先生
いったん帰国したらとんでもない怠け者になってしまったJ先生
(またくるからといって、なぜか炊飯器を我々に託して帰国した、もうこんでええわ)
ダメすぎて研究力の指標になってしまったP(K先生いわく「俺は100pだ」)
Pの研究説明のスライドで2重結合なぜ片方だけ太いのか、真剣に議論するK先生とS先生
(単なる書き間違いだったと原著論文から判明)
泥だらけのズボンで研究室でPCをパチパチとしているA。なんでそんなに汚れてるのってきいたら、友達の車で運転手が気絶して田んぼに突っ込んで。。。といきなりヘビーな話しが始まり唖然
帰国したら日本になれすぎてインドで病気になったS先生
インドに帰ったら結婚するとうきうきのS先生 だれと結婚するんやと聞いたらいま親が探してると
(かれはポスドクの給料を実家に仕送りして豪邸を立てたらしい。)
ストライキで飛行機が遅れて、フランスで迷子になったH先生とS先生
(ホテル名が東横インなみに重複してて、どこが予約したホテルかわからない、変なところでおろされて右往左往、たまたまフランス留学中のHが助けにきてくれなかったら死んでた。あとでみたら旅行代理店のひとが地図をマーカー付きで入れてくれてた。マントンよかったまた行きたい。)
質問をするために隣に座り、ぶーとデカいのを鳴らしたD
(「あ」と言って、すいませんと肝心の質問を忘れてしまい居室に戻る)
お酒が飲めないD、フランスで地下の酒蔵の見学に行っただけで酔ってた。
よく人前でゲップをするD
(K先生が研究会にDが来ておらずご機嫌ななめだったとき、後方からゲップの音が発生。K先生は振り返りもせず「なんだ、いるじゃないか」とご機嫌が治りましたとさ)
そんなDにもシンガポール人の彼女ができたということに驚いたK先生とS先生
(しかし、彼のボスが香港に移動することになりいったんは移動するものの、愛を貫きシンガポールで再就職した。いまはやさしいパパ)
最弱の我がソフトボールチーム
(相手チームに「ボーナスタイムだ」と言われ、バッティングセンターなみに打ち込まれ、「疲れたからアウトにするか」と言われた我がチーム。つぎの年には、サウスポーでショートの事務員さんをスカウトして、N研からの派遣されたKが投手で活躍して準優勝するところまでがセット)
小中学生への研究説明会(ときめきひらめきサイエンス)で、分子軌道法の説明をしていたK先生
(サクラでやってきたY教授の小学生の息子にいつもの調子で白熱説明。「がはは、わたしの素晴らしい説明で小学生のRも分子軌道理論をマスターしました!」しかしアンケートで「『このボタン押せ、このボタン押せ』のあとに模様がでてきたら先生が勝手に興奮して喋ってるだけでぜんぜん面白くなかった」と書かれてしまった。とても滑稽でかわいそうだったのと、とても素直でよいお子さんのRでした)
不規則粒子たちの主要登場人物(イニシャルで重複が多いので補足として用意)
S先生 このコラムの著者、被害者であり観察者 Y梨県N崎市出身。
K先生 S先生の先輩で変人。すこし服装と動きが特殊で味がある。酒のむとセリフがひたすらループする。N大勤務
O先生 S先生の先輩で常識人。K先生の師匠。最近、お会いしたけど、落ち着いた雰囲気で育ちの良さを感じてしまう。 S大勤務
K先生 S先生の後輩で変人。うるさい酒乱だが、S先生と気が合う F大勤務
Y先生 S先生の後輩で普通。Tと同期。Y先生と中が良い。お酒強い神主でもある。K大勤務
T先生 S先生の同輩でとても理知的。だけど、やっぱり変わってる。キレルと怖い D大勤務
T先生 AS先生の元教え子で超秀才。物静かだが、隠れ酒乱。Q大勤務 絡まれ体質。最近は事務の不合理システムと格闘中(頑張ってくれ)
N先生 アメリカから帰国してY研にきたY教授のお気に入り。常識人。安全食堂大好き K大勤務
Y教授 S先生のボス。S先生をスカウトしてQ大に連れてきた張本人。定年退職して京都で悠々自適
Y先生 博士終了後にY研で修行。おとなしめで真面目。でもやっぱり変な動きしてる。T先生のお気に入り T大勤務
H先生 博士終了後にY研で修行。S先生の弟子。酒好きだがカレーが苦手。絡まれ体質 金Z大勤務
A先生 博士終了後にY研で修行。S先生の弟子。酒は弱い。おとなしいが芯は強い。(パワハラ耐性高め)たまにおもろい事件を起こす。T大勤務。
AS先生 Q大勤務。B国出身。結婚しなくても産休とれることを身を持って証明した。パスポートなくして罰金10万とられた
T S先生の後輩。頭はいいがやっぱり変。UNIXの得意コマンドはrm * そのあとにyes/no で選別というスタイルだが、スパコンセンターで悲劇が発生する。(rm -iがデフォルトでなかったようだ。)
T S先生の後輩。頭はいいがちょっと抜けてる。典型的な秀才タイプ 趣味世界遺産巡りと漢検
S 研究室の最初のほうの学生。真面目だが小心者。モジャ頭と大きめの鼻が特徴 酒にはめっぽう弱い ゴトー出身
M 元気はとてもよい。無事に5年生で卒業した。
Mさん 会社を退職後、Y研に就職。とても優秀で実験ノートもきれいで読みやすい。4年生研修のシステムを構築した。K大勤務
I ドクロマーク大好きのチンピラ風の服装をしている。見た目とは裏腹に頭がいいやつ。
I カオスをもたらす。かれは説明書やマニュアルを読まない癖がある。S先生のお気に入りでいいやつ。愛知のへん出身
K S先生の弟子。安全食堂のビッグママのお気に入り。雰囲気は完成度高めだ。かれの車で昼飯を食いに行くのが習慣。研究室の良心。
T 研究室の問題児だったけど、インパクトは弱め。K先生いわく、美少女(えろ)ゲームのセンスがない。
O 伝説の問題児、理知的なT先生とあんまりウマがあわなかったようだ。他責思考で日本語が通じない(S先生談)など散々な評価だが、卒業したらまともになってた。K児島だいすきAS先生、かの地は名勝地であり、偉大で欠点などない。彼の存在が唯一の例外でバグだ。
N 研究室で数々の迷事件を起こす。詳細は多すぎて語れない。弟は体育会系の好青年だった。
N Nの同期。こっちもやっぱり変な人だった。思い出深いのでここに掲載。
Y S先生のいっしょに勉強してた友達。朝は希望で目覚め、昼は勤労を尊び、夜は感謝で眠ってた。やっぱり変人。彼のシエルコマンドではrm -rf をエイリアスで設定されていた。
Y 4年生で卒業した。スポーツカーを乗りこなし、いしむらでお菓子をつくっていた。
K N研に疲れて、その後Y研で放牧されていたK、ソフトボール投手で大活躍、スマブラ(N64)最強で学園祭のイベントでは強すぎて出禁に。
D 名前が難しく誤字がよく発動する。K先生の愛弟子、変態ではないが空気を読まない。卒業してまともになった。研究大好き K先生いわく、彼の作ったプログラムはエラー処理がない漢のプログラムだ。
M 製薬会社やめて、Y教授に弟子入りした。よくわかんないうちにいなくなった。馬力高めの変わった人だった。緑の服装で下から上までメガネまで統一した姿は バッタみたいな人と事務員さんにいわれてた。TOFとTONについて教えてくれた。
M K先生のお気に入り。K先生を取り巻く変人達にトラップされやすいが、本人はナイスガイである。英語がとくいな囲碁部の元主将で能力高め。
S Mの同期でS先生の弟子 S先生を取り巻く変人達にトラップされやすい。とても優秀なナイスガイ。S先生にみかんを進呈したことで、みかん通に覚醒させた。
K 軟式野球やってたトライアスロン部のナイスガイ 実家のドライブインから持ってきた段ボールから。。。卒業して宿無しのときにS先生の家に泊めてもらってた。
K M2で卒業。プロゲーマーだったけど現在、引退。コロナ中に引っ越してたとんでもないやつ。
A 基礎化学結合論を履修したことが縁でバイトにきた超優秀電情学生。なんでもこなすナイスガイ。K先生のお気に入り
F 研究室の女子学生。サークルとバイトと研究をこなしてた。焼肉と海鮮が大好き。よれよれの紺トレナーで学校にくる。
J先生 ポスドクでY研に来た中国人。論文作成が速くて文章もきれい。研究のストレスで頭が薄くなったためハゲクリニックを紹介してくれとS先生に相談。
S先生 インドのどっかの先生。S先生にガウシアンのログをおくりつけて解読依頼するとんでもないやつ。いっぱい事件をおこしたが割愛
S教授 Pの先生、ベジタリアンで、メードインジャパン大好き。学生とディスカッションするのに砂時計を使用。日本製を求めたがなくてご立腹。
P インドからの刺客 インドのS教授の弟子。K先生のお気に入り。もうちょっと能力たかかったらよかったんだけどね。ソフトボールでクリケット仕込みの鋭い打球で場を沸かせたのが、唯一の見せ場だった。エピソードたくさんあるけど、だいたいここでは言えない話。S先生はMETAL BABYさんのシンクロムービーで踊ってる小太りのおっさんをみるとPを思い出すらしい。
R Y教授の息子で Q大医学部卒業して、福岡でお医者さんしてる。K先生と仲良しらしい。
Mさん 暇つぶしに大学にバイトにきている事務員さん。S先生がいつもお土産かってた。
U バスケが趣味のナイスガイ。S先生と安全食堂でちゃんぽん大盛りたべてた。その後は。。。H田出身 学会でよく会う。
E トライアスロンが趣味のナイスガイ。量子コンピュータ使って、難しいことしてた。王将大好き H田出身