姫路市の船場校区にあります旧藤森家住宅には、昭和の代表的な建築家海老原一郎の設計によるモダン和風建築である本館と、裏千家の淡々斎の命名による茶室や、旧皇族の賀陽宮の王子がご誕生された建屋である産殿などの貴重な建物があります。平成27年にから姫路市へ寄贈され、現在は市が管理し、令和4年には国の有形文化財として登録された大切な地域の財産です。
旧藤森家住宅は、昭和15年(1940年)に、藤森耳鼻咽喉科の医院長であり、戦後は初代参議院議員も務めた 藤森眞治氏 によって建てられました。もともと敷地にあった茶室とともに購入し、現在の屋敷構えを整えたものです。平成27年には、眞治氏の息子である藤森春樹氏から姫路市に寄付され、現在は「旧藤森家住宅を守る会」が管理を行っています。本館は木造2階建てのモダン和風建築で、建築家 海老原一郎 による設計です。西洋モダニズムのデザインを大胆に取り入れつつ、茶道の遊び心を加えた建物となっています。
玄関前のポーチには「鉄平石」(安山岩の一種)が不規則に張られ、天然素材の美しさを引き立てています。外壁はモルタルに砂利や玉石を混ぜ、水で洗い出す「リソド塗洗い出し」という仕上げで、昭和当時に流行した手法です。
柱やひじ掛けには、削り跡をあえて残す「ちょうな仕上げ」が施され、職人の手仕事ならではの温かみと素朴さを感じさせます。玄関の大きな横長の窓も特徴で、昭和初期のモダニズム建築らしい意匠です。
本館には来客用の洋風応接室が設けられています。藤森眞治氏は、戦前には姫路の陸軍第10師団、戦後は進駐軍とも交流があったとされ、この部屋では当時の要人たちが歓談したと伝えられています。
天井を支える梁には玄関と同じ「ちょうな仕上げ」が見られ、西洋と和の要素を融合した意匠です。窓は横長の連続窓、床には木材を寄せ合わせた伝統工芸「寄せ木細工」が施されています。暖炉は都市ガスを利用したストーブで、煙突はありません。中央のテーブルの下には大きな火鉢が隠されています。
一階の座敷は、伝統的な形式にとらわれず、遊び心を加えたデザインが特徴です。このような自由で趣のある様式は、正式な書院造に対して「数寄屋造」と呼ばれます。
たとえば、この柱は赤松の木肌をそのまま生かしており、自然素材の美しさを大切にする数寄屋造の美意識が感じられます。床の間は畳敷きで、横にある棚は違い棚ではなく、一枚板でつくられた素朴な造りです。天袋も塗りを施さず、土壁仕上げとなっており、茶室の精神が随所に表現されています。空間全体は静けさと温かみを併せ持ち、落ち着いた趣を漂わせています。
南側と東側には広い縁側が設けられています。特に南側は濡れ縁と畳敷きの入側縁が続き、庭との一体感を感じさせる開放的な雰囲気です。通常ならあるはずの濡れ縁と入側縁の間の柱を取り払うことで、視界が開け、庭の風景がより美しく見えるよう工夫されています。また、濡れ縁は隣の応接間ともつながり、大きな客間としても活用できます。
柱を省いた分、建物の構造は慎重に設計され、一階の天井には大きな梁を交差させて建物を支える仕組みになっています。そのため、二階に上がると、一階の天井裏が特に高く取られている様子をご覧いただけます。
二階の座敷は、一階の座敷とは異なり、床の間と違い棚を備えた、書院造の格式ある和室となっています。書院造は、日本の伝統的な住宅建築様式のひとつで、室町時代から江戸時代にかけて発展しました。もともとは貴族や武家の邸宅における書斎の形式に由来し、その後、和室の基本的な構成として広く普及していきます。この様式の特徴には、床の間、違い棚、そして付書院などがあり、それぞれが格式と落ち着きを備えた空間をつくり出しています。
部屋に設えられた電灯は、昭和初期に流行したデザインで、当時の雰囲気を今に伝えています。
また、二階の座敷には東側と南側に大きな窓があり、そこに設けられた肘掛けから庭をゆったりと眺めることができます。先にご紹介したように、一階の南東の角には柱がありません。その代わり、床下には二本の丈夫な梁が通され、建物全体をしっかりと支えています。この構造によって、開放的で美しい眺望が実現されているのです。
昭和十年、賀陽宮恒憲王(かやのみや つねのりおう)殿下が姫路の陸軍騎兵連隊長として着任されました。その際、男山にあった旧濱本家の別邸にご一家と共にお住まいになり、王妃・敏子(としこ)殿下はここで第五王子を出産されました。
このとき使用された日本家屋は、昭和十四年、藤森家母屋の建設に合わせて現在の地に移築されたと伝えられています。皇族の出産に用いられた建物は「産殿(さんでん)」と呼ばれ、本来は出産後に取り壊されるのがしきたりでした。神道において出産は「けがれ」とされる側面があり、母体は一定期間、産殿で隔離・安静に保たれるのが通例でした。その後「産養(うぶやしない)」や「命名の儀」などの儀式を経て、建物は取り壊されるのが慣習でした。
そのため、産殿が現存していること自体が極めて稀であり、大変貴重な事例といえます。当時の特別な計らいによって解体を免れたものと考えられています。建物は母屋よりも一段高い位置に建てられいます。内部は一部改修されており、かつて座敷にあった押し入れは、現在は仏間として整えられています。
待合は、昭和五年に茶室とともに建てられた木造平屋の建物で、茶席に招かれた客人が入室前に心身を整えるための控え所です。屋根は切妻造とし、日本瓦に加えて檜皮葺(ひわだぶき)を併用することで、質素でありながら品格のある和の外観をつくり出しています。
動線は南側の土間から始まります。入口の土間には平らな瓦(ひら瓦)が敷き詰められ、外部から内部へと気分を切り替える“緩衝空間”の役割を果たします。その奥に床の間を備えた和室が配され、さらに奥手に三畳の茶室が控える、茶の湯の所作に沿った静かな連なりとなっています。
内部意匠の核は“抑制の美”です。壁は上塗りをあえて省き、中塗り土壁で仕上げることで、素材がもつ表情と陰影を前面に引き出しています。過度な装飾を避け、必要最小限の設えで趣を生む――数寄屋の美学を体現するつくりです。天井には半割の竹を張り、時を経て生じた煤けた色合いが空間に深みを添えます。柱には桧、造作には杉や竹を用い、異なる木材の質感がさりげなく重なり合うことで、簡素でありながら豊かな室内景を実現しています。
西方庵は、裏千家十四代家元・淡々斎(たんたんさい)によって命名された茶室で、昭和五年に建立されました。建設の経緯については未詳の点もありますが、渋沢栄一の甥・大川英太郎の関与を指摘する説や、当時の神戸銀行との関わりを示唆する伝承も残っています(確証未詳)。
外観は、土に鉄分を混ぜて赤みを帯びた表情を生む土錆壁(どさびかべ)が特徴で、侘びた色調が周囲の庭景と呼応します。待合と同系統の中塗り土壁を基調に、上塗りを省く“あえて見せる”設えによって素材感と陰影が際立ち、簡素のなかに品格を宿す意匠となっています。
内部は、竹組によって穏やかな曲線を描く舟底天井(ふなぞこてんじょう)を採用。屋根下にもう一層、舟底形の天井を設けることで、視線と音がやわらかく包まれる体験を生み、客人が心を静めるのにふさわしい“懐”を形成します。壁には藁を混ぜた聚楽土(じゅらくつち)が用いられ、繊維が織りなす微妙な表情が、光の移ろいとともに豊かな陰影を生み出します。柱には桧、造作には杉や竹を配し、異素材の質感を控えめに響き合わせる――数寄屋の美学が息づく空間です。
動線計画にも、茶の湯の作法に根差した配慮が見られます。茶室の北側には四畳半の控え間と水屋(みずや)を備え、土間へと連なります。水屋は茶事の“裏方”として、道具の準備・後片付け・湯水の扱いを担う機能空間であり、亭主が一人で滞りなくもてなすための実務的拠点です。水屋の存在から、ここで茶懐石が供されたことがうかがえ、正式の茶事が執り行われていた可能性が高いと考えられます。
総じて西方庵は、過度な装飾を排しつつ、素材・陰影・手仕事の痕跡を“最小限の手数”で引き出す建築です。土錆壁の渋い赤、聚楽土の肌理、竹組がもたらす柔和な天井線――それぞれが“静けさ”を主題に響き合い、訪れる人に穏やかな集中と余白をもたらします。往時には、姫路を訪れた要人や地域の名士がこの茶室で歓談し、季節の設えと一汁三菜の懐石に心を寄せたことでしょう
旧藤森家住宅を守る会
所在地:姫路市船橋町3丁目2
連絡先:09037193565 (事務長 中山 土日祝のみ)