昭和三十六年、当時、宗祖無辺行日勇猊下は日盛お上人様の生まれ在所である鹿島市能古見の平谷温泉にて解説行をされていました。ある日、平谷温泉の滝場に埋もれていた龍神が暴れているのが目に映られたそうです。宗祖は龍神と「迹化(しゃっけ)の菩薩として法華経の守護神八大龍王として世に出すかわりに、平谷温泉の坂口家から本化(ほんげ)の菩薩として一人の男子を出家させる」という約束事をされ、同年四月八日、滝場に八大龍王様が建立されました。
そのころ、日盛お上人様は、義姉坂口千津子さん(平谷温泉の前おかみ)に「偉いお坊さんが来られているので是非会うように」と勧められ、初めて宗祖とお会いされました。その時に、「この坂口家にはお坊さんに生まれてきた者がいる」と仰られ、それが、日盛お上人様であり、得度の宿命を諭されますが、当のお上人様は、得度の気は全くなくお断りをされました。
次に宗祖とお会いになったのは昭和三十七年六月。丁度、第一回目のお上人様方の荒行が終ったあとで、宗祖は残られて写経をされていました。信仰にも得度にもその気がないお上人様でしたが、宗祖が帰られたその日の夜、義姉に「滝場の八大龍王様の所に行って『南無妙法蓮華経』と言ってこないと夕食は食べさせない」と言われ、しぶしぶ滝場に下りて行かれました。すると「神風」のようなものがきて、自分の体を自分ではどうしようもできないくらいの金縛りにあい、石垣に自分の頭を粉々にぶつけてもすまない気持ちと、なぜか「宿命に気付かず申し訳ない」と、涙が止まらなくなり、魂の懺悔をされたそうです。そして、八大龍王様から得度の儀式を受けられました。感覚の中で剃髪をしてお坊さんの格好で
「山谷(せんごく)曠野(こうや)」のような場所に立ち、宇宙には仏様や菩薩様がおられたそうです。その時の様子は、とても言葉では表現しようのない不思議なことで、夕方の六時くらいから延々と夜中まで続きました。
本山に帰られた宗祖は、この出来事を御存じだったらしく、お弟子さんに、「今夜不思議な事が起こるぞ」とニヤリと笑ってお話になったそうです。
この不思議な体験の後、しばらくして、宗祖の所に相談に行かれ、その時の様子を申し上げられたお上人様は、宗祖から「いよいよ、あなたは出家せねばならないようだ」と再度諭され、出家の覚悟を決められました。
出家を覚悟した八月三十一日から荒行がはじまり、さらに不思議な体験をされています。
その一つが、滝行中に見られた不思議な映像です。
《多宝仏塔の階段の両脇に宝珠の柱があり、そこには龍神が両方に立っておられた。下は真っ白で雲の上のようだった。そのうち多宝仏塔の階段から、金色のお坊さんが下りてきて雲の上を歩かれる。すると、柱の所におられた一体の龍神がすーっとついて行かれる。一定の間隔を置き、もう一体の龍神がついて行かれる。私はその後を見つからないようにそっとついて行った。いつの間にか龍神の背に乗り下を見下ろすと、人々が金色のお坊さんに土下座をしていた。》それを、宗祖に話され、「金色のお坊さんは私のことだ。それが霊感だ」と笑って仰られ、そして、「そもそも、お前はこの多宝仏塔の所で生まれていたのだ」とお話になりました。
昭和三十七年九月十五日、本山にて第五期生として得度式を受けられ、院号を「随行院(ずいぎょういん)」、法名を「泰宣(たいせん)日盛(にちせい)」と命名されました。宿命である出家をしたのだから、これで自分の人生は順風満帆だと思われていた日盛お上人様でしたが、寺もなく、信者もいない中、修行をしながら商売も続けるという状況でした。ある時、八大龍王様が修行の場は、「四本柱の藁(わら)ぶき屋根」と示されことにより、ある方の大きなお屋敷の古い茶室をお借りし、ここに「随行院」を開堂されました。しかし、お参りされる方もなく、一向に生活の苦しさは変わりありませんでした。
だんだんと、「出家は間違っていたのでは」と疑問さえ持つようになられました。そして、宗祖から、「おまえは社会の底辺で生きている人々の苦悩を知らない。三年間、泥沼行をせよ」と命じられ、さらに厳しい修行が始まったのです。
お上人様は「三年は長すぎる」と、昼間に土方八時間、夕方から僧侶として祈念・祈祷。そして、夜間の鉄道工事。夫婦で人の三倍は働き、とうとう一年で泥沼行を終えられました。
茶室を改造した当時の随行院
昭和四十年、仏勅立宗五周年の折、「首のすげ替え」つまり、凡夫から仏の世界への思考の切り替えの霊夢を頂かれ、僧侶一筋、法一筋に専念することを決意されました。自行と布教活動を展開されるにつれて、少しずつ信者も増え、いつの間にか生活ができるようになっていたそうです。お上人様は「本当に心からお釈迦様を信じたからだ」と話されました。
お上人様と同様に家族を抱えて出家をされた方たちの中には、苦しい生活に耐え切れず辞めていく方たちも多かったそうですが、お上人様がお坊さんとして今日があるのは、お上人様と一緒に必死の思いで働かれてきた妻のムツさんの大きな支えと御苦労があってのことでした。
太良のお寺で約十二年間の厳しい修行の後、昭和四十九年五月、法師顕密研修会二日目の朝、奇妙な夢を見られました。
《鉄橋の下に川があり、その川の流れと並行して集落の道路があった。約五十メートル程歩くと海岸で、その海岸にそって国道が走っていた。私と彼女は鉄橋の下にたたずんでいた。他に羽織袴の男性五人が何か真剣に談合をしている。話の合間にじーっと私のほうに顔を向けるので『なんだか薄気味悪いなぁ』と知らないふりをした。「しかし、どこかで見た姿だな」としばらく考えていると相撲界の審判員のような人たちだった。
その中の一人が、つかつかと私たちの前にやってきて「お前たちは今から夫婦別れをしなければならない。自分たちは離婚の審判員として派遣されてきた。あそこの三叉路で東西に別れなさい」と厳しい口調で言われた。「さあ、六時になった。出発の時間だ。歩け!」私たちは藪から棒に命令され訳がわからないでいた。反動的に「夫婦別れは絶対にするものか!誰が何と言おうと別れるものか!」と拒絶した。
一瞬、五十年間の反省が走馬灯のごとく蘇ってきたが、苦楽を共に生きてきた私たちに離婚する理由はなかった。「さあ歩け、時間がないぞ!」とドスのきいた声で言われる。彼女は私の手をしっかりと握りしめて歩き出した。いじらしくてならない。自分もそうだが彼女は明日からどうやって暮らしていくのか?彼女は私に声もかけずに歩き出す。また、審判員が大声で「お前たちは離れて歩け」と叫ぶ。「一体なぜ私たちが離婚しなければならないのか?長い夫婦生活には時には喧嘩もあったが、特別に人様に迷惑をかけたわけでもないのに!」と審判員に訴えると、「神の査定にかけられたのだ」と言われた。それでも諦めることができない。「本当に別れるべきなのか?」と思いつつ、彼女の横顔を覗いた。
髪は生まれてから一度も洗ったことがないようなシュロの皮みたいで、くしをあてた様子もなく、顔は時には洗っているようだが全く血の気がない青白い表情がロウ人形のようだった。襟元を見てみると、首筋からの垢で茶褐色に染まりノミが日向ぼっこをしていた。着物はというと、昔の自家製の手織りの木綿の反物で、その縦縞の着物に縄紐は着たきり雀。一度も洗ったことがないようで着物の裾は擦り切れている。腰から下は大小便でベタベタして足首に流れていてウジ虫が遊んでいる。私は自分の目を疑うほど驚いた。「こんな女と長年連れ添ってきたのか?」
でも、私の欲しい物は何でも買ってくれたし、きょうは仕事がしたくないと言えば「明日でいい」と私のわがままは何でも受け入れてくれた。今までの私の眼はおかしかったのか、惚れてしまえば「あばたもエクボ」とやらで貧乏神を恋女房としていたのだ。
審判員から急き立てられるままに歩き出したが、これがまた愚図で歩幅がなんと一センチぐらいでゆっくりと歩く。私にはこれでよかった。なぜなら、五十メートル先で二人は絶対に離別しなければならないから時間稼ぎに丁度よかったのだ。
時の経つのも分からず、陽はすでに西に傾いている。もう三叉路は目の前、やがて、二人が指定の場所に立った時、審判員が二人を囲んだ。私は彼女を抱きしめ、「離すものか!」と頑張ったが、「お前たちはここで東西に別れるのだ!」と審判員が間に割り込み二人を引き離した。
二人は大声で泣いた。泣きながら二人は背を向けた。十メートル程歩いて後ろを振り返ると、彼女も振り返って私見ていた。お互いの思いは同じで、何度も何度も振り返り、やがて二人の姿が小さくなっていった。》日盛お上人様は、法師顕密研修会という仙人のごとき境界の修行の場で、この夢について指導を受けることを躊躇(ちゅうちょ)されていましたが、やっと、宗祖にこの忌まわしい夢のすべてを話されたところ、「ほう、お前は貧乏神と縁を切ったか。それは良かったねぇ」といつになく喜ばれたそうです。
いよいよ下山の日、帰りを急いでいるところへ、後輩のお上人様から「道場建設に寄付します。どうか使ってください。」と百万円を寄付して頂き、まだ道場建設のめども立っていないのにと大変驚かれ、感謝の思いに溢れ、御宝前で感涙にむせられたそうです。そして、道場建設に役立てようと、そのお金を宗祖にお預けになりました。
それから、ちょうど一ヶ月後、鹿島桜酒蔵(さかぐら)跡地を購入してほしいと相談を受けました。しかし、そんな大金はなくどうしようかと、宗祖に相談に行かれました。宗祖は「お金はあるじゃないか、お前から預かっていた百万円だ」と手渡されたそうです。手付に欲しいといわれていた金額が百万円で、すぐに、このお金を充て購入することになりました。
夏の暑い中、酒蔵の解体作業から落成まで、たくさんの信者さんが奉仕作業に協力され、奉仕作業人員は延べ六百人を超えました。
この寺建設に当たっては厳しい試練があったそうです。資金調達の話になり、辞めていった信者さんもあり、教えを求める人々は留まり、利益だけを求めていった人々は去って行きました。
こうして、昭和五十年十一月十八日に落慶法要を迎えられ、翌年十二月九日には、宗教法人として認証を受け「随行山(ずいぎょうざん)法輪寺(ほうりんじ)」と改称されました。呼称の由来は、経典の経の肝心たる随の修行を意味する「随義如実説」より命名、法輪寺は「転於法輪」により命名されました。
昭和五十三年九月
供養塔開眼式
昭和五十八年二月十八日
両脇士様遷座式