本記事は、裏アドベントカレンダー「ほぼ横浜の民2024」の1日目の記事です。
どうも、まこっちゃんです。
技術記事でなくて恐縮ですが、この記事では「モノに名前がついているとはどういうことか」について語っていこうと思います。
結論だけ知りたい方は最終章へどうぞ。
本記事は言語学や人文学の研究内容を多分に含みますが、僕自身が研究した成果は特になく紹介記事となっております。
人の褌で相撲を取る気は更々なく、普段触れることのない分野にご興味を持たれる読者の方が一人でも出ればと思って記事を起こしました。
また、極力裏を取るようにして執筆しましたが、僕自身は在野の者ですので間違っている解釈や最新の研究成果を反映できていない事項などがある可能性があります。
ご了承ください。
では、本題に入ります。
さて皆さん、世の中のモノにはそれぞれ名前がありますが、モノがそれぞれ名前を名札のよう所持しているイメージを持っていませんか?
例えば、翼と嘴がある二本足の生き物(*1) に対して、日本では「トリ」、英語圏では「bird」という名札が付いているというイメージです。
しかし、新種の鳥が見つかったときに、誰かが「これは『トリ』です!」と宣言しなくても、だいたいの人は「これは『トリ』だなぁ」と認識するでしょう。
この例を踏まえると、名札を付けていっているというよりは、森羅万象から「トリ」という概念の領域を切り出していると考えた方がしっくり来る気がします。
新種の鳥を見ても、それが「トリ」の領域内に含まれていれば「トリ」であると認識できる訳です。
概念の領域を切り出すということについてもう少し深掘りしてみたいと思います。
言語というものは森羅万象を(*2) 何かしらの名前で呼ぶことができる作りになっています。
この状況を前述の領域の話に照らして考えると、領域が隙間なく隣り合っていると言い換えることができます。
言語学的にはこの境界線を指して"言語の網"と呼ぶこともあります。
そして、この境界線こそが重要なのですが、概念と概念の差異を表していると言うことができます。
この線よりこちらは○○を満たしていて、あちら側は満たしていない、というのを全ての方面に対して明示的または暗黙的に規定しているのです。
厳密にはあらゆる物体、事象は同一ではない(*3) ので、どこまでは同じと見做し、どこからは差異があるとするかを決めている訳です。
例えば、「トリ」と「コウモリ」の境界は卵生かどうかや嘴の有無、耳が迫り出しているかなどで区別されていますし、「トリ」と「カモノハシ」の境界は体表が羽毛と体毛のどちらで覆われているかや授乳を行うかなどで区別されています(*4) 。
学術的な定義の話をしましたが、他にも「雹」と「霰」のように法的に区別されている境界もありますし、「水」と「お湯」のように主観的かつ曖昧に区別されている境界もあります。
しかし実はこの境界線の引き方には正解はなく、そのコミュニティではそこに引いたというだけなのです。
別の表現をすれば、コミュニティごとに異なる網を持っているとも言えます。
前章でコミュニティごとに異なる網を持っていることに触れましたが、想像できますでしょうか。
一番分かりやすい例は言語間の違いでしょう。
例えば、日本語では男兄弟の内で歳上の方を「兄」、歳下の方を「弟」と呼びますが、英語圏では「brother」と一括りにしています(*5) 。勿論、"elder"などの形容詞を付けて区別することは出来ますが、専用の単語は存在していません。
別の例としては、日本語では「rice」に対して「稲」「籾」「米」「飯」と複数の語が対応します。逆に、英語圏では「牛」に対して「ox」「cow」「beef」と別の語を用意しています(*6) 。
これらを踏まえると、コミュニティの日常にとって何を別の概念とするかを反映して言語が作られていると言えそうです。裏を返すと、同じ語で表現で表現するものは差異を感じていなかったとも言えます。
日本では歳上を立てて、長男が家督を継ぐという考えがあり(*7) 、生まれた順に差異を感じていたのでしょう。
また、米と牛の例では、日本では長らく稲作が社会の中心であり米の加工状態で区別しておくと都合がよかったのでしょう。牛は食料というよりは労働力であると見做されていました。一方で、英語圏では稲作はほとんど行われておらず米は単なる植物の一種という程度の認識だったのでしょう。その代わり、古くから畜産業が盛んで牛の雌雄や精肉加工されているか否かには差異を見出していました。
例で触れてきたような有形の実在に留まらず、無形の概念に対しても同様のことが言えます。
例えば、「詫」「寂」という語は日本特有と言われていますが、このような心の動きは他の心の在り方とは異なるものであり、重きをおくべきだという共通認識が日本人の中にあり、専用の語が生まれていったと考えらえます。
このように日常上または文化的に差異を感じた場所に線を引いたに過ぎず、その引き方は文化に依存するため、世の真理なる "正解の引き方" は存在しないことが分かります。
このことを更に掘り下げていくと、<言語によって世界の捉え方が異なるので母語は思想や人格に影響を及ぼし得る>というサピア=ウォーフの仮説にも行きつきますが、本仮説は言語学界隈でも議論中のもの(*8) なので本記事ではここまでで留めておこうと思います。
この「差異によって世界を捉える」という考え方自体はスコラ学派などによって中世から長らく議論されてきましたが、フランスの言語学者であるフェルディナン・ド・ソシュールが1900年前後に言語学にその観点を持ちこんだ(*9) ことでパラダイムシフトを起こしたとされています。
それ以前の言語学では、言語間の違いを取り扱うことが少なかったようで、冒頭で紹介したような名札を付けるというイメージ(*10) が常識的でした。ソシュールの考え方は、言語間の差を調べるうちに支持されていくようになりますが、欧州内の言語は祖を同じくするものも多いため、名札の付け替えに過ぎないという声も多かったようです。
また、ソシュールの主張の根底には、言語の恣意性(=ある概念と、その概念を表現するための音には、規則的な結びつきがある訳ではないという考え)がありました(*11) が、"音象徴(*12) "という考え方が古代ギリシアの頃より議論されており、それを以て批判されることもあったようです。
音象徴とは何かについて説明しておきますと、音ごとにヒトが受け取る印象が異なっており、その組み合わせである語感とその語が指し示す概念とは結びつきのことで、ブーバ/キキ実験(*13) などを経て、音象徴が存在するというのが現代言語学の常識となっています。
別の観点ですが、言語はまず初めにオノマトペから始まった(*14) とする学派もあり、その観点でもモノを指す語がその内容と全くの無関係とは言い切れないことを補強します。
ただし、これらの議論は矛盾するものではなく、どちらかが正しいというよりは、どちらの性質も併せ持っているとするのが一般的な解釈です。ソシュール自身もオノマトペに言及し、「反例はあるが理論全体を根底から覆すものではない」としていたようです。このように厳密な規則性がなく、まさしく"自然言語的"である様が、全言語学者を惹きつけて止まないのでしょう。
閑話休題。
さて、コミュニティによって言語の網が異なるという話をしましたが、文脈によっても網の目が変わることがあります。
例えば、今日の夕飯は肉か魚のどちらのしようという時は「魚」と丸っと表現しているのに対して、お寿司屋さんに行ってネタを注文するときには「魚お願いします。」とはならず「鮪」「鰤」「鯖」などと魚の種類を指す語を使いますね。文脈によって差異を感じる境界が変わっている訳です。
今の例は網の目を細かくした例でしたが、網の掛かる位置が変わる場合もあります。
「人」という単語を例に挙げると、「人は火を使う動物」では人類を指していますので話者自身も当然含まれる集合を意味していますが、「人の心はわからない」では他者を意味しますので話者自身は含まれません。また、「人の上に立つ」ではある組織のメンバたちを意味しますので組織外の人たちは含まれません。「尊敬する人」とした場合には、ある特定の人物を想定して使われますので赤の他人は含まれません。逆に「人が足りない」の場合には、労働力の意味で使われていますので場合によってはロボットも含まれているかもしれません。
他にも、隠喩(*15) 、換喩(*16) 、提喩(*17) などのレトリックの中にある語や、ある尺度の中に存在する語(*18) 、多義語(*19) なども、広い意味では網の目を変える例と言えるでしょう。語に限らず句や文でも同様のことが言えます。
また、文脈だけでなく、時代を経ても網の目は変化していきます。
例えば、新しい概念がコミュニティ外から持ち込まれたときに、それをどんぴしゃで言い表す語が存在しない場合が多いので、そのまま仕入れ元のコミュニティの言語を流用することがあります。俗に外来語と言われる語たちです。
例えば、「データ」という語の指す領域をどんぴしゃで表現できる日本語は存在しないかと思います。
外来語に限らず、別分野の語を持ってくる事例もあります。語でなく句ですが、「三手先を読む」という表現(*20) は囲碁将棋に由来する表現で、先読みする力とその程度を一言で言い表せるものになっています。
また、勘違いや言葉遊び、文化の変化などによっても語の意味が変わっていきます(*21) 。
その転換点には誤用だと非難されることも多いですが、このように網の目の形が変わっていくことも言語の恣意性によるところであり、寧ろ、時代が移ろい "差異" の捉え方が変化してきたと考えた方が面白いかもしれません。
長々と語ってきましたが、内容としては「改めて言われればその通りだが、だから何じゃい。」という程度のものだったかもしれません。
知的欲求を満たすため、ということで終わってもよいのですが、折角これだけの長文を読んでいただいたので少しだけ実用的な考察をして終わろうと思います。
その前に、本記事の要点を整理しておきます。
モノに名前が付いているということは、即ち、そのモノは他の全ての概念とは異なると感じられているということである。
全ての概念は地続きであるのでどこに境界を引くかに明確な正解はなく、恣意的に決まるものである。
その境界を集めると網のようになるが、その網の目こそが言語であると言える。
コミュニティ、文脈、時代によって何に "差異" を見出すかは異なるので、網の目の細かさも形も様々かつ流動的である。
さて、クラスタリングをイメージしてほしいのですが、"差異" の感じ方を共有しているという状況は基底を共有している状態のようなものではないでしょうか(*22) 。
異文化に触れたり異分野のことを学んだりすることは、新しい "差異" の在り方を獲得することであるため、新しい基底を獲得することとも言い換えられます。一次従属で次元の変わらないベクトルを獲得する場合もありますが、次元を増やす基底を獲得できる場合もあります。それは獲得した "差異" が自身にとって目新しいものであるかということに対応するかと思います。
シュムペーターが『イノベーションは再結合である』と指摘しましたが、まさにこの基底の獲得と次元の拡張という工程は、イノベーションを起こすために必要不可欠なものでしょう。読者の皆さん全員がイノベーションを起こすことを目標にしている訳ではないと思いますが、仮にイノベーションを起こしたいと思った場合には、自分の畑以外のことを学び、色々な趣味に挑戦し、様々な国の人と触れ合うことが大いにきっかけとなり得るということです。
手前味噌で大変恐縮ですが、本記事のように、普段触れない分野のもので「何の役に立つんだ」と思うようなものでも、皆さんの基底を増やす意味を持っているということです。寧ろ、"役に立たない" ということは自身の基底では評価されないということなので、積極的に吸収していった方がいい知識の可能性すらあります。
自分の専門を深める時間は当然大切ですが、時には寄り道をし、遊び心を忘れずに "無駄" を味わえるエンジニアになるのも良いかもしれません。
ということで締めとします。
慣れない分野にも関わらず頭から通して読み切っていただいた方、お疲れ様でした。
実はこの章に一気に飛んできてしまったという方、この章を読んだことで冒頭から読みたくなったならば是非読んでみてください。
では、終わります。ありがとうございました。