あと少しで8月15日の終戦記念日を迎えます。戦後75年となります。
戦争中にも関わらず、囲碁では、本因坊挑戦手合が行われていました。世の中、戦争一色の時に、伝統を守るために、空襲の中で対局していました。対局者は、タイトルを持っていた、橋本宇太郎七段(当時)と岩本薫七段(当時)でした。1局目は広島市内で7月に打たれ(岩本白5目勝)、この対局は2局目です。昭和20年8月4日から6日まで、場所は広島県五日市です。空襲が激しくなり、広島市内では危ないということで少し離れた五日市になりました。3日目の朝、石をならべ始めようとしたとき、ピカッと閃光が広がり、少し経つと爆風で部屋中が壊れてしまったと言います。広島に原爆が落とされた時でした。その後、3日目ということもありヨセ打ち合い橋本本因坊の5目勝となりました。この対局ができるように奔走した方々で広島に戻られた方が沢山なくなっています。この後、戦争が終わって、第3局から第6局までうたれましたが、3勝3敗で勝負がつきません。改めて、高野山で3番勝負が行われ、岩本七段が2勝して、本因坊となりました。
余談
ひたちなか市は戦争中に現在のHIKOKI・日立工機の前身で、日立兵器株式会社がありました。この工場は、軍需工場として、高射機関砲や航空機搭載の機関砲をつくっていました。昭和20年7月18日未明にアメリカ軍の艦砲射撃を受け甚大な被害を受けました。当時は天候が悪く、ひたちなか市(勝田)の民家にも砲弾が飛んできたと言います。ひたちなか市親水性中央公園の東側の崖に、いまは埋められてしまいましたが防空壕がありました。戦時中のものが残っていませんが、ここの土地でも戦争があって被害があったことを忘れないことが大事だと思います。