ひたちなか市寺院に伝わる話を紹介します
ひたちなか市寺院に伝わる話を紹介します
むかしのこと、湊村(那珂湊)のある商人が仕事のことで江戸(東京)へ行ったその帰り道のことです。急ぐ旅でしたので宿もとらず夜道をたどりながら小金原(千葉県)にさしかかったときでした。
他には人一人通らず、月は空高くかがやいていました。が、風はそよとも吹かず、まことに寂しい夜でありました。
ふと、商人は遠くの方から何やら騒がしい音がするのに気が付きました。静かに草むらを分けながら近づいて、そっと、音のする方をのぞいてみました。
何と、そこにはたくさんの猫が集まって酒盛りをしているではありませんか。笛を吹く猫、鼓を打つ猫、踊る猫・・・。
商人が見ていると、一匹の猫が大きな声でしかも、人間の言葉で叫びました。「駄目だ、駄目だ。 やめろ、やめろ。 どうにも調子があわねえや。下入野の善仁門猫はこねえのか。」というのです。ちょうどその時一匹の猫が到着しました。
「おい、今来たよ。」
「ひどく今夜は遅かったなあ」
「なあに、ちょっと祝い事があってよ、ご馳走が熱くて食べられねえんで、そんで遅くなっちまったわけよ。」
「ん、じゃ、おっぱじめっか。」
と、また騒ぎが始まりました。しばらくすると、また一匹の猫が、
「やめろ、やめろ。駄目だ、駄目だ。どうにも調子があわねえや。湊の華蔵院はどうした。」と叫びました。
「華蔵院が来なけりゃ、どうにも気分がでねえな。どうも、残念だな。」
「が、まあ、そのうちやってくんべえから。」
などと話していましたが、さらにしばらく酒盛りが続きました。やがて、草を分けながら一匹の大猫が、お坊さんの衣を着たままやって来ました。
「やっ、華蔵院きたる。」 「華蔵院が来た。」
「すまぬ、すまぬ。早く院主が寝てしまえば袈裟を借りて出て来られたのだが、あいにく今夜は院主が外出していて、それで遅れてしまったわけだ。すまぬ、すまぬ。」
と、この大猫は遅れたわけを 話しながら酒盛りの席につきました。
「さあ、始めろや。」
それからは大変です。華蔵院がきたのですっかり調子も出て、ドッチン、ドッチンの大騒ぎが続き、夜がふけてゆきました。
このありさまをしっかりと見届けた商人は静かにその場を離れ、翌々日、湊村の家へ帰りました。しかし、どうにも一昨夜に見たあの小金原の不思議な光景がどうにも頭を離れません。それにこの商人は華蔵院の檀家でもありました。
「どれ、やはり華蔵院さ行ってみるか、そして、院主さんに話しておくか。」
と 華蔵院を訪ねました。院主さんは庫裏におりました。
「院主さん、このお寺では大きな猫を飼っておいででしたね。」
「ああ、おりますとも。」
「あの猫は、夜遅くいなくなることはありませんか。」
「それは、時々ありますよ。」
その時、大猫がすっと入って来て院主さんのひざ近くにうずくまりました。 商人は、一瞬びくっとしましたが腹を据えて話を続けました。
「院主さん、院主さんのお召しになる袈裟に何か変わった事はありませんか。」
「そういわれてみると、時々夜露にでも濡れたようにしっぽりとした感じの時があるようにも思いますね。何か、あったのですか。」
猫は相変わらず院主さんの側で眠るようにしていますが、時々『ピクッ』と、耳を震わせて、いかにも知らぬふりをして二人の話を聞いているようでした。
「実は・・・」と、商人は一昨夜の出来事を詳しく話しました。 院主さんは商人の話にじっと耳を傾けていましたが、話が終わると
「一昨夜小金の原で酒盛りをしていた猫はこれでしょう」と、かたわらの猫を指して言いました。
その途端、猫は眠っていた細い眼を『ぱっ』と開き、ポーンと飛び去って見えなくなりました。その後、院主さんと商人が袈裟を調べて見ますとその裏には、猫の毛がたくさん付いていたということです。また、その大猫は二人の前を飛び去ってからは人の前に、その姿を現さなかったということです。
今は、かわいい猫がいます。
(華蔵院に伝わる民話)
華蔵院の山門には猫(の像)が
座っています。
浄光寺が水戸城内にあったころ、住職唯空房を訴人した者があった。佐竹家の祖先伝来の宝物「波切の宝剣」がひそかに隠され、城内に騒動が起きた時、これを「唯空房の仕業だ」と訴えたのだ。
義宣公はこれを聞き「僧侶の身にして刀の要るべき道理なし」と、唯空房を焼鍋の拷問に決した。家老の中川土佐守と家臣が見張りの役として常陸太田在磯部で焼鍋をかぶせる拷問を行った。ところが不思議なことに、熱火の鍋をかぶせられても唯空房の姿は平常と少しも変わりなく、称名の声も高らかに四辺を圧した。役人はいよいよ手強く責めるのだが、相変わらず自若としている。
そのうち城内から「上意上意」と呼ばわりながら早馬で役人が駆けつけ、城主からの「即刻赦免」の命を伝えた。それは次のことが明らかになったからだった。
浄光寺境内一面に黒煙がたちこめたので、城主が不思議に思い、近臣に命じ堂内を調べさせたところ、本尊の厨子が黒煙に包まれていた。そこで扉を開くと、如来の頭は赤く焼けただれて焦熱の苦しみを続けている。その慈顔の両眼からは、血の涙が流れている。「これは唯空房が冤罪を蒙り、焼鍋の拷問にされたのを悲しんだ如来が身替わりになっているのだ」と、城主は気づいて急使を磯部へ出したのであった。
刑場にいた役人は奇異の思いで如来の有難さに感動したのである。そして唯空房に対して害心を抱いていた中川土佐守と家臣は懺悔の涙を流し、以来真宗に帰依するようになった。
唯空房はこの時、法然聖人が親鸞聖人に送った歌を思い返したという。
別れ路の さのみ嘆くな 法の友 また遇う国の ありと思えば
拷問を受けたのは文禄元年(1592)8月14日とある。
水戸城佐竹公の旧門は現在「浄光寺山門」として残っている。
(浄光寺縁起)
浄光寺山門
清浄石
平磯海岸にある「清浄石」は「阿字石」とも「護摩壇石」とも呼ばれる、一辺二間余り(約3.6m)の立方体をした奇岩である。弘法大師空海がこの岩の上で護摩を焚いたという民間伝承がある。
清浄石周辺はアンモナイトや翼竜(スッポンの仲間とも)の化石が発掘された中生代白亜紀の地層であり、酒列磯前神社の神が降りたとされるなど、古来より神聖な地とされている。
確たる資料が残っている訳ではなく、空海の事績を考えれば事実かどうかは難しいところであるが、この岩の不思議さと空海の偉大さが重なって語り継がれる、全国各地に残る空海伝説の一つといえるだろう。ちなみに、ここから近い東海村の村松山虚空蔵堂は大同2年(807)に弘法大師空海によって創建されたと伝えられている。
阿字ヶ浦海岸
親鸞聖人は関東時代、稲田(笠間市)を中心に活動していたことが知られているが、鹿島神宮参詣のおり那珂川の水運を利用するため湊村に立ち寄ったという。
なだらかで穏やかな砂浜に感じ入り、阿弥陀如来のはたらきに重ねてそこを安養の海と呼んだのだという。これが現在の阿字ヶ浦海岸とも想像されるが定かではない。
親鸞聖人の著述には多く「海」の字が用いられている。群生海・難度海など人間のありようにも使い、本願海・功徳宝海など仏についても海の字を用いて表現することがある。流罪地となった越後の冬の海を見て厳しさをたとえ、赦免後移り住んだ常陸の夏の太平洋を見て穏やかさをたとえたのではないかと、この地では語り継がれている。
(館山7ヶ寺に伝わる伝承)
「ちちんぷいぷい」という、おまじないの言葉の由来はひたちなか市に残る「千々乱風伝説(ちちらんぷうでんせつ)」と言われている。
「千々乱風」とは、現在の国営ひたち海浜公園内にある沢田湧水地周辺にあった三村の集落が75日間にわたる暴風雨により砂に埋もれてしまったという伝説。この「千々乱風伝説」が、周りの景色が一変してしまう魔法のおまじない、という意味の「ちちんぷいぷい」の由来となったというもの。
浄妙寺・成等寺はかつてその地域にあり、暴風雨のあと何度かの移転を経て現在地に移ったとされている。
(浄妙寺・成等寺に伝わる伝承)
「1617年(元和3年)七日七夜の大風吹き荒れる(千々乱風)沢田海岸の二亦村・大塚村・青塚村三村埋没し住民は前浜(阿字ヶ浦)・馬渡・長砂へ上る」
(浄妙寺年表)
「補陀洛(落)」とは観音菩薩の浄土のこと。阿弥陀如来の浄土が西方にあるのと同様に、薬師如来の浄土が東方に、南方にあるのが補陀洛とされる。観音の浄土に往生を願い、小舟で渡ろうとする信仰(捨身行とも)が「補陀洛渡海」である。
那智勝浦の補陀洛山寺を中心にした補陀洛渡海は、貞観10年(868)の慶竜(けいりゅう)上人が最初とされる。他にも高知県や鹿児島県を出発地とした記録があるようだが、那珂湊から渡った記録が「那珂湊補陀洛渡海記」である。お茶の水図書館に所蔵されるもので、奥書によると永禄4年(1531)の作である。
この書には渡海した高海上人の行実と船の構造、出発までの記録がつづられているが、「枝川」「小泉」「勝倉」「柳沢」などの地名により、那珂川の上流から那珂湊の海岸へ至ったことが分かる。また天台・真言・浄土・修験の要素が見受けられ、当時の信仰形態をうかがうこともできる。
江戸時代に商業の町として栄えた那珂湊。この当時も水運の拠点として一定の役割があったはずであり、大きく開けた太平洋を望み、高海上人はここを出発地に選んだのではないだろうか。
(お茶の水図書館所蔵資料)