自分史
私は、2023年3月31日に28年間務めた東京工業大学を定年退職しました。退職を迎えるにあたり、3月21日に最終講義を開催しました。大学最後の日の迎え方は、これまでも人それぞれでしたが、最終講義の際になにがしかの資料が必要だな、と思い、あいさつ文をしたためることにしました。ところが、書き始めるとどこで止めればよいのかわからなくなり、いっそのこと自分史に仕立てて、皆さんにはウェブアドレスをお知らせして読んでもらう、という形にしました(実際には最終講義の際にQRコードをお伝えしました)。
こうして書き始めたのが自分史「日々是好日」です。このタイトルは、私の最終講義のタイトルでもあると同時に、私が学生時代から大切にしてきた仏教用語です。この自分史には、主に研究者としてどのようなことをしてきたのか、思いつくままに書いています。校了する日は特に定めていませんので、気が向いたときに項目が増えていくつくりになっています。
目次 (こちらに戻るときには、ブラウザの「戻る」をご使用ください)
皆様
本日は、ご多用のところ、また、春分の日の休日にも関わらず、私の最終講義にご参加いただき、誠にありがとうございます。
1995年1月1日に東京工業大学資源化学研究所に助教授として着任してから早いもので28年が経過し、今月末日をもって退職することになりました。
この間、本当に多くの皆様に支えられて、無事に退職の日を迎えられることを大変ありがたく感じております。
私の28年間の東工大生活は、助教授・准教授14年と、教授14年と、ちょうど半々です。
前半の14年は、資源化学研究所の吉田賢右教授と生物資源部門を担当し、R1棟8階の研究室で楽しく過ごさせていただきました。
2009年、吉田教授の退職と時期を同じくして、資源化学研究所附属資源循環研究施設の教授を拝命し、研究室もR1A棟の1・2階に移して、新たなスタートを切りました。以来、14年間、数多くの有能なスタッフ、研究員、学生に支えられて、今日まで順調に研究をすることができました。しかし、2020年11月22日に、それまで10年間ともに研究してくれた野亦次郎助教を胆管がんで失ったという悲しい出来事は、本学でPIを任されてから最大の試練でした。それでも、皆で力を合わせて前を向き、コロナ禍も耐え忍んで研究を続けて今日を迎えることができました。これまで一緒に頑張ってくれたすべての人たちに、心から感謝申し上げます。
本日の最終講義では、私がこれまで研究人生を賭けてきた光合成生物のATP合成酵素の研究とレドックス制御の研究が、どのように始まり、どこまで明らかにできたかをご紹介させていただきます。また、大学人としての自分のあり様をどのように考え、これからどのように進んでいこうかということについても触れさせていただき、東工大の28年を振り返りたいと思っています。
自分史は、語りだしたら人生の長さだけ逸話にあふれていて、終わりがありません。最終講義には盛り込めないことは、この下に思いつくままに書いておきます。ご興味をお持ちいただけましたらご一読ください。
本日は、ご参加いただき、誠にありがとうございました。
2023年3月21日 久堀 徹
2023年3月、ラボ撤収に頑張ってくれた仲間たち
私が生物学を志したのは、高校3年の時です。実は、それまで部活動では社会科研究会郷土班に所属し、鎌倉や武蔵野の神社仏閣を巡って調査をする、文系人間でした。ところが、3年生になって履修した生物で遺伝子暗号の話を聞き、複雑な生命がたった4文字で規定されていることに驚き、こんな面白い科学があるんだと感動して、志望を生命科学に決めました(実は、3年生まで大学をどうするか真面目に考えていませんでした)。そうして、大学受験に臨みました。第一志望の国立大学に入れなかったのですが、早稲田の生物学専修に合格し、生物学の勉強を始めることになりました。1976年4月のことです。
余談ですが、早稲田の学生(OB)になれたことは本当に幸せでした。元来、スポーツ観戦の好きな私にとって、学窓を離れて36年経った今でも、こんなに楽しい大学はありません。箱根駅伝、六大学野球、ラグビー対抗戦と熱く盛り上がれる競技に事欠きません。しかも、都の西北と紺碧の空を歌えれば、皆で同じ気持ちになれる。このような文化を持っている大学は、日本で唯一だと信じています。
早稲田に入学して最初にクラス担任として出会ったのが、当時30代の桜井英博先生でした。桜井先生の生化学の講義は、本当に大学の講義を受けている、という満足感を味わうことができました。当時の生物学教室には8つの研究室がありましたが、私は、学部1年の時に桜井先生のもとで卒業研究を行うことを決めて、その後の専門科目の勉強に励みました。そして、4年生で桜井研究室に所属して光合成の研究を開始し、修士課程から葉緑体ATP合成酵素とのお付き合いが始まりました。よく、「どうして葉緑体ATP合成酵素の研究をしているのですか」と聞かれて、「光合成のエネルギー変換に興味があったから」などと、もっともらしい回答をしているのですが、実は、桜井先生がこのテーマで研究していたから、というのが正解です。この卒研と修士の時期に、電気工作をしたり、ちょうど一般に使えるようになってきたばかりのパソコン(NECのPC-8001が発売された)でソフトウェアを勉強したのは、その後の研究にとても役に立っています。
ご存じのように早稲田大学には医学部がありません。私が在学した当時は、理工学部でも生命科学の研究を行っていたのは、応用物理の浅井博先生、石渡信一先生、応用化学の土田英俊 先生など数えるほどでした。そのためか教育学部生物学教室は、私学助成も潤沢に受けていて測定機器や実験装置がとても充実していました。また、生物学教室では、機器導入の際に大学院生の声がよく反映されていましたし、機器の管理も任されていました。学会展示会場で目にした最新鋭の測定機器を導入してもらえたこともしばしばありましたし、機器の修理の際にはエンジニアが修理作業をするのに立ち会って、機器の内部を見せてもらうことで実験装置にはとても詳しくなりました。特に生物学教室に最初のHPLCが導入されたとき、この機器の管理と運転を任されたことで、分離技術、様々なカラム、そして、機器のメンテナンスのことを勉強しました。この時の経験は、のちに東工大総合理工学研究科で機器分析論という講義でHPLCを担当するときに大いに役立ちました。
修士課程1年の時に浜名湖の舘山寺温泉で科研費の会合が開かれました。この時の懇親会で、 学生がこれからやりたいことを一言ずつ紹介する機会がありました。ちょうど新しい電子顕微鏡 (日本電子 100CX) が入ったところだったので、これを紹介して葉緑体酵素の電顕観察をやりたい、という話をしたら、京都大学の加藤哲也先生が「君のところは何でもあるね!研究をリミットするのは、あとは才能だけだね!」と声高に言われたのを今でも覚えています。
私の卒業論文の最初のページには大隈講堂の写真が入れてあります。早稲田が本当に好きな学生でした。
研究の道に進むと、ことある度に学会発表をすることになります。私が初めて人前で研究成果を発表したのは学会ではなくて、1980年夏に浜名湖の舘山寺温泉で開かれた科研費の会合でした。この時、葉緑体ATP合成酵素のATP加水分解活性がアルコールの添加で上昇することや、上昇の程度は、アルコールの種類によって異なることなどをポスター発表しました。いわば現象の報告で、どんな質疑があったかもよく覚えていません。ところが、いよいよ片づける時間になって、ポスターを剝がそうとしたところで、東大薬学部の清水博先生が「その研究の意味はどこにあるのか?」と聞いてこられました。当時はまだ櫻井先生に言われた実験を順番にやっていた頃で、ドギマギしながら「活性測定の方法の開発です」と何とか答えました。この時は、ずいぶん上から目線の質問だな、と感じましたが、後年、東大薬学部ではこの質問は定番ということを知りました。東大薬学部から他大学に異動した教員が、転出先の論文発表会で最初にこの質問をして顰蹙を買ったという話を聞いたことがあります。
ともあれ、修士一年の時には、このアルコールの実験を精力的に行い、1980年秋に駒場で開催された日本生化学会大会で口頭発表デビューしました。この時は、発表の直前まで1号館の中庭で一人ぶつぶつとセリフを唱えていたことはよく覚えていますが、実際の発表がどうなったのか、まったく思い出せません。そして、この研究は櫻井先生が第一著者として生化学会誌に掲載され、私の名前が活字になった最初の学術論文になりました。
二度目の学会発表は、翌年の5月、札幌の北海道教育会館で開催された日本植物生理学会第21回年会でした。この時の学会発表ほど直前までドキドキしたことは後にも先にもありません。ちょうどこの学会の年会は5月の連休明けに開催されました。直前に、隣の研究室の石居教授と窪川さん(1年先輩)が北海道大学低温研に共同研究のために出掛けていたのですが、忘れ物をしたので届けてほしい、という依頼が私の出発前にありました。そこで、私は研究室の他のメンバーより1日早く札幌に出かけました。無事に忘れ物を届け、その日は石居先生が予約してくれた札幌駅前のワシントンホテルに宿泊しました。私は、学会2日目に口頭発表があったので、ホテルでも一人ベットの上でスライドを見ながら練習をしていました。当時は、学会発表はスライドプロジェクタで行っており、発表データは写真に撮ってネガフィルムからジアゾフィルムに青焼きするか、パナコピーと言う発表資料をそのままスライドに焼き付けてくれる機械を使って作成するということになっていました。青焼きでスライドを作成すると、紺地にデータが白く浮き上がり見た目が美しいのですが、作成に手間がかかります。そこで、私の研究室では、パナコピーを愛用していました。
翌日(学会前日)、もともと予約していたホテルに移動して、さて発表の練習を再開しようとしたところ、荷物の中に発表スライド一式が見ありません。青くなってワシントンホテルに飛んでいき、前夜宿泊していた部屋の中を探させてもらいましたが、見つかりませんでした。ふと、スライド作成の原稿一式を持ってきていることを思い出し、北大低温研にいる石居先生に助けを求めました。石居先生の紹介で薬学部の助手の先生に助けて頂き、パナコピーで無事に発表用スライドを用意することが出来て、発表にこぎつけました。ただ、この事件の顛末を聞いた櫻井先生からはすっかり信用を失い、それ以降、学会に出かける時には必ずスライドを2セット用意して一つは先生に預ける、ということになりました。
早稲田で学部、大学院と9年間勉強しましたが、博士修了の頃にとても大事な出会いがありました。
自治医科大学第一生化学教室(香川靖雄教授)とのつながりです。香川教授のグループは、当時、生体エネルギー分野の研究で世界をリードしていました。曽根旉史助教授、平田肇講師、吉田賢右講師と香川教授の4人が交代で筆頭著者になって重要な論文を次々と発表していましたが、中でも吉田さんが中心になって進めていた好熱菌ATP合成酵素の生化学研究は際立っていました。Peter Mitchellの化学浸透説のノーベル化学賞受賞は吉田・香川の論文によってもたらされたと言って過言ではありません。
1984年12月、学位審査が終わった後の生体エネルギー研究会(東京医科歯科大で開催されました)の懇親会の時に、桜井先生が平田肇さんを紹介してくれました。平田さんは、UCSDのMontal博士のところから脂質二重膜層膜法を学んで帰国したところで、一緒にこの実験(バイレイヤー実験と言います)をしてくれる若手を探していました。憧れの研究室に行けるとあって、すぐさま手をあげて、助手として早稲田に就職するまでの3か月間を自治医大で過ごしました。
自治医大の生化学教室は、早稲田とは全然違っていました。香川先生は、コーネル大学から帰国してこの教室を作ったので、とてもアメリカ的でした。研究室に学生はいません。プロの研究者が自分のやりたいことをやっている、という雰囲気です。しかも、毎日午後3時になるとみんな実験の手を止めて教授室に集まり、お茶を飲みながら議論するという習慣がありました。
私が師事した平田さんは、いつも悠々としていて、でもテキパキと実験を教えてくれました。そして、昼時になると、決まって「昼飯行くぞ」と声をかけてくれて、職員食堂に連れ立って出かけます。自治医科大学は、上から見ると十字架をカタカナのコの字が囲むような形をしています。この十字架の部分が病院、それを囲むのが研究室という作りでした。私は、葉緑体ATP合成酵素を単離してプロトン輸送を測定することを目標にして実験をしたのですが、試料調製はコの字の反対側の生物教室の太田敏子さんのところで行いました。このため、毎日建物のあちら側とこちら側を行き来する必要があります。この時、十字架の横棒の病院部分の待合室を通り抜けると近道です。しかし、私が早稲田から持ってきていたのはポケット部分がねずみ色に汚れた白衣で、平田さんに「それで病院内を歩くのはまずいよ」と注意されて、真っ白な白衣を一枚もらいました。胸ポケットにHIRATAと書いてあるもので、以来、実験でずっと愛用していました。平田さんは、夜になると、ウィスキーグラスを片手に測定を行うので、愛機の分光光度計の上には、グラスの丸い跡がたくさん残っていました。こうして、平田さんがアメリカから技術を持ち帰ったバイレイヤー実験の一番弟子(?)になり、早稲田に戻って自分の測定装置を作りましたが、熱意が足りなかったのか、腕が悪かったのか、結果を残すまでには至りませんでした。この実験は、私の後に自治医大に行った宗行英朗さん(現中央大学教授)が続いて行い、彼はきっちり論文発表しました。宗行さんとは後にまた出会うことになります。
平田さんは、研究のことだけでなく気さくにいろいろな話をしてくれました。彼の価値観には私は共鳴するところがとても多くて、出会って5か月後の私の結婚披露宴では乾杯の音頭を取ってもらいました。後年、東工大の教授になった吉田賢右さんのところに三木邦夫さん(京都大学理学部教授に転出)の後任の助教授として移ることが決まった時、不安を抱えていた私を、平田さんは千里中央の居酒屋で一緒に飲みながら「心配するな。お前にしかできないことが絶対あるよ。だから、吉田がお前を選んだんだろ。」と励ましてくれました。平田さんとそんな関係を築いた私ですが、平田さんとの共著の論文はついに一つも発表できないまま、永遠のお別れをすることになってしまいました。残念でなりません。それでも、平田さんがきっかけを作ってくれた自治医大との縁で、研究面ではもう一つ重要なことが生まれました。吉田賢右さんから好熱菌ATP合成酵素の単離サブユニットをもらったことです。当時、ATP合成酵素の生化学研究は自治医大のグループの独壇場でした。安定にサブユニットが得られることで、解体再構成実験をすることができ、βサブユニットが触媒サブユニットであることや、ATP合成酵素の膜表在性部分(F1と呼びます)のサブニット構成比がα3β3γ1δ1ε1であることがわかりました。しかも、単離精製したサブユニットは凍結乾燥して粉末で保存できます。自治医大から帰るときに、吉田さんからこの試料を提供してもらいました。早稲田に戻って、すぐにこのサブユニットを使ってヌクレオチドの結合実験を行い、1年後の1986年夏に論文発表しました。これをきっかけに、吉田さんと様々な共同研究が始まりました。
学位を取って早稲田大学教育学部の助手になったものの、当時の早稲田の助手は全国でも珍しい3年任期で、就職してすぐに職探しを開始しました。おそらく、任期付き教員のさきがけでした。「どこでも暮らしていけるよ」という勇敢な妻の言葉に励まされて、北海道から鹿児島まで応募書類を出しましたが、何度も全国の大学の先生方に「今後の研究の発展を祈られて」くさっていました。ところが、幸い横浜市立大学に呼んで頂き、1987年7月に植物生理学の真鍋勝司先生の研究室の助手になりました。この時の真鍋先生の決断力は、誰も真似ができないと思います。応募書類を送ってしばらくして、真鍋先生から直接電話を頂きました。「最終候補者に残っているので、是非一度お話がしたい」とのことでした。桜井先生に報告して、「とにかく話を聞いてきます」と出かけたのですが、教授室で初対面の真鍋先生と1時間ほど話をしてから、教室内を案内されました。内分泌学の高杉暹先生(後に横浜市立大学の学長になられました。)のところを一緒に訪ねたところで「今度、私のところの助手になる久堀さんです」と紹介されたのには、本当に驚きました。一体、いつ採用が決まったのでしょう(???)。後年、真鍋先生から「あの時は、最終候補が別にもいたのだけど、彼は独身でどこへ行っても生きていけるだろう、ということになって久堀さんに決めました」と教えていただきました。今の時代ならそんな基準で採否を決めたら大問題になるでしょうね。本当かな?とにかく、修士・博士課程で学んだタンパク質の分光測定が、真鍋研究室のテーマであった植物の光受容タンパク質フィトクロムの実験とも共通していて、その知識が大いに役立ちました。ともあれ、早稲田の助手の任期が切れる前に横浜市立大に採用されたことは本当に嬉しくかったです。当時、助手の公募等の情報は、生化学会、植物学会、動物学会が共同編集していた「生物科学ニュース」に掲載されていました。そこで、採用が決まった時に「生物科学ニュース」の編集局にお礼状を送りました。なんとなく筋違いですよね。このお礼状を受け取ったのは、植物学会事務局にいらっしゃった森垣さんで、後年、私が植物学会理事として事務局に出かけたときに、最初に肴にされました(笑)。
横浜市立大学はとてもリベラルな大学で、助手にも平等に一部屋の居室がありました。大学から個人研究費も手当てされましたし、将来のために生化学の自分の研究も続けてほしい、という真鍋先生の言葉に後押しされて、葉緑体ATP合成酵素の研究も続けるための機器をそろえることができました。自分のテーマで卒研生を指導することもできました。着任して最初に卒業研究を私のところで行ったのが、現在、京都府立大学教授の佐藤雅彦さんです。HPLCの測定データをパソコンに取り込み、面積計算してピーク量を算出するソフトウェアを書き上げたのもこのころです。
ほぼ一人前に扱われる助手には文理学部教授会に出席義務があり、教授人事の可否投票の投票権(無記名)まで付与されていて、ある種のカルチャーショックを受けました。そこで、とある人事案件で私は投票の際に「否」を書いた(もちろん理由がありました)のですが、開票結果を発表した学部長は「全員可」と報告しました。「えっ?」とは思いましたが、残念ながら、ここで手を挙げて異を唱える勇気は、当時の若い私にはありませんでした。
文理学部教授会は文科と理科の両方の先生が集まらないと始まりません。理科の先生は基本的に毎日出勤して研究しているので集まりがよいのですが、文科の先生はいつも遅れて集まります。彼らは大学で会う機会が少ないので、終了時間が飲みに行くのに都合がよくなるように調整している、とよく陰口をたたかれていました。横浜市大のある金沢八景は名前の通り風光明媚なところで、夜の海を見ながら酒を楽しめるお店がたくさんあったんですよね。一事不再議という言葉もここで学びました。というのは、文科の先生が前の月の教授会の決定について、異議を申し立てる場面を目撃したのです。「私は先月欠席したので、その議論には参加していないし、賛成してもいない」と堂々と議論を覆えそうとする人がいることには本当に驚きました。
着任してから数年経ったところで教員組合の役員にも選出され、会計を担当しました。市立大学の教員組合は横浜市の職員組合の中では最も小さい部類でしたが、市役所まで大衆団交にも借り出されました。後にも先にも鉢巻きを締めて座り込みまがいのことをしたのはこの時が唯一の経験です。この時、会計を担当したことで、複式帳簿の成り立ちや、予算主義の考え方を学びました。これが、のちに学会運営につながっていくとは、この時には考えもしませんでした。
この助手在任中に、文部省短期在外研究員に採用されて、ドイツで濃密な3か月を過ごすことができました(後述)。
そんなのどかな横浜市立大学が、一転したのは文理改組の話が出てきてからです。当時、横浜市立大学の文理学部は国公立大学でも数少ない存在で、これを文科系学部と理学部に改組して発展させよう、ということになりました。ただ、単に二つに割るだけでは、今までと何が違うのか、設置者の横浜市に説明ができません。そこで、新設の理学部と国際関係学部では、従来の理科や文科とは全く異なる枠組みの教育研究を行う、ということになりました。当時の理科は、数学、物理学、化学、生物学の4つの教室で構成されていましたが、これを混ぜて別の学科を作ろう、というわけです。しかし、数学教室はいち早くこの議論から抜けて数理科学科になることが決まりました。残りの理科三つをどうするかで喧々諤々の議論が始まりました。改組を主導している先生方は、三つを混ぜて新たに三つの新学科を作る、という提案をしました。しかし、それではどの学科にも物理・化学・生物が混在して三つ同じものができてしまいます。私たち若手教員は、それぞれを二つに割って、物理と化学、化学と生物、生物と物理、という提案をしました。この案は、なぜか生物が二つできてしまうと否定されました(どの科目から見ても同じだと思うのですが)。結局、当初案に従って、要素科学、機能科学、環境理学、という三つの学科が作られることになりました。「失敗したら元に戻せばいいのだから」という意見にも本当に腹が立ちました。そうだとしたら、その間に入学した学生はどうなるのでしょう。そして、あれから28年経った今、横浜市立大学理学部は、物理、化学、生物を基盤としてほぼほぼ元の形に戻っています。何をかいわんやです。
私は新設の機能科学科の予定助教授でしたが、若気の至りと言うべきか、会議の席上では「こんなところは絶対に辞めます」と啖呵を切っていました。幸い、東工大に救われて、この改組が始まる前年の1994年12月に7年間お世話になった横浜市立大学を後にしました。
学生時代、葉緑体ATP合成酵素の研究をしているときに、よく参照した論文の多くがStrotmann研究室のものでした。1985年5月、助手になってすぐの頃にStrotmann教授が山田コンファレンスに参加するために来日し、桜井研究室を訪ねてきました。とても物腰の柔らかいドイツ人で、ゆったり話をしてくれるので、英語が苦手だった私でも聞き取りやすいと感じました。神戸の関西セミナーハウスで開催された山田コンファレンスは、日本のミオシン研究をリードしながら1982年に59歳で早逝された殿村雄治先生を追悼する会議として開催され、国内外のATPaseの有名研究者が一堂に会する迫力のあるものでした。生化学の教科書に名前を連ねている研究者が次々登壇する様子には興奮を覚えました。
この会議のポスター会場で、面白い光景を目にしました。Strotmann教授がポスター準備をしていたのですが、彼は万年筆でその場でポスターを書いていたのです。しかも、図を手書きで書いているのを見て、なんと大胆な、と感心しました。後日この時の事情を聞いたら、口頭発表の準備しかしていなくて、ポスター発表も同時に行うことは現地で知った、とのことでした。ともあれ、研究分野が近くてユーモア溢れるStrotmann教授には大いに親しみを感じました。
私は、この年の夏にアムステルダムで開催される国際生化学連合の会議に参加することにしていたので、訪欧の際にまずデュッセルドルフに立ち寄る約束をしました。そして、初めての海外出張先であるアムステルダムを目指して、フランクフルトに降り立ったわけです。当時の西ドイツは、出入国管理がとても大らかで、飛行機を降りて、きょろきょろしつつ空港内を歩いていたら、見つけたのは列車の切符の券売機でした。つまり、入国ゲートというものがなかったのです。ですから、記念すべき初めての海外渡航では、入国スタンプをもらうことができませんでした。
フランクフルトからデュッセルドルフまでライン川沿いを列車で移動すると、Strotmann教授が駅まで車で迎えに来てくれて、研究室に連れていかれました。これが海外の大学に足を踏み入れた最初です。当時はデュッセルドルフ大学という名称でしたが、ハインリヒ・ハイネゆかりの大学とのことで、大学中央にハイネの銅像があり、後年改称されてハインリヒ・ハイネ大学デュッセルドルフとなりました。この改名の議論を主導したのは、Strotmann教授だそうです。彼もハインリヒですが・・・(笑)。
研究室に着いてホッとするのもつかの間、彼はいきなり映写機のスライドホルダーを持ってきて、「いつ始めるかい?」と言います。驚いて「何をでしょうか?」と聞いたら、「君のセミナーだよ」と。それまで、英語の講演などしたことはありませんし、訪問前のやり取りでもそんな予告はなかったのでこれには本当に驚きました。ただ、国際生化学連合の会議のポスター発表のフラッシュトーク用のスライドは持っていたのと、とても断れる雰囲気でもなかったので、30分か1時間の猶予をもらって準備をして恐る恐る英語による人生初の講演を行いました。はたして私の説明が通じているのかが心配だったのですが、大変驚いたのは、研究室の助教授が、私のデータの理論的な誤りについて鋭く質問してきたことです。ポイントは、タンパク質の吸収変化の大きさの問題でしたが、帰国してから検証したら、試料に含まれている微量の別の酵素による副反応の結果で想定外の吸収変化が起こっていることがわかり、このときの指摘のおかげで翌年正しい論文を発表することができました。ドイツ人、賢いな、としみじみ思いました。
それと、これも後日談ではありますが、Strotmann教授は「若者は池に放り込むと自分で泳げるようになる」というのが人材育成のモットーだそうです。確かにそうではありますが・・・。
こんな逸話で始まったStrotmann教授との交流ですが、1992年に文部省在外研究員(短期)に採用されたことで、本格的にStrotmann研究室で研究する機会を得ました。わずか3か月ではありましたが、誕生日パーティーを開いてもらったり、ドイツの世界一美しい(たぶん)クリスマスマーケットを楽しんだり、ダウンタウンのパブでビールを飲んだり、年越しの花火を楽しんだり、と数えきれないほど多くの経験をしました。私も日本文化を少しでも紹介しようと、いろいろなものを持ち込みましたが、研究室に文化として根付いたのが「あみだくじ」です。複数のお土産をどのように配るかを「あみだくじ」で決める方法を教えたら、ラボのメンバーがとても喜びました。後年、訪問したときに、今もやっているよ、と聞いてとても嬉しくなりました。滞在中に3回学位審査があり、パーティーがありました。ドイツの学位審査は非常に厳しくて専門知識だけでなく基礎知識も含めて3時間ぶっ続けで面接形式で問われるものです。終わって試験会場を出ると、特別席を設えたリヤカーを引く自転車が用意してあり、合格した博士学生はマントに手製のアカデミック帽を着用してリヤカーに乗り、主任教授(Strotmann教授)が研究室まで学内を連れて帰る、というのがここのしきたりでした。そして、実験室をきれいに片付けたパーティー会場でシャンパン片手にお祝いをします。料理は、すべて研究室メンバーの持ち寄りで、私も卵焼きをたくさん作って持って行きました。
しかし、もともと3か月しかなかったので、実験は毎日必死にやりました。ドイツ人学生は8時から5時まで研究すると、みんなさっと消えていきます。とても集中して研究をするスタイルでした。大学近くの寮で暮らしていた私は、夜遅くまで土日も含めて詰め込みで実験していましたが、ある時、大学院生から「なぜ休まないのか」と苦情を言われました。それでも、突然やってきてドイツ語が全くしゃべれない日本人が一人で実験室を使っているのを許容している研究室は、懐が広いな、と感じました。
ドイツの大学は、いろんなところに鍵がかかります。個々の部屋はもとより、実験機器の棚、研究室スペースの入口、建物の入り口などなど、鍵なしでは生活できません。私も研究室に行った初日に、鍵束を渡されました。そして、Strotmann教授が真顔で、「鍵にそれぞれ数字が書いてあるだろ、それ失くしたときの罰金の金額だよ」というのです。嘘でした・・・。
ある日曜日、彼は私をドライブに連れ出しました。デュッセルドルフはライン川沿いの新興都市ですが、周辺には古いお城や中世の佇まいをそのまま残した村々がたくさんあります。彼のおかげで、様々なドイツ文化を学ぶことができました。そうして、踏切に差し掛かったところで、彼はアクセルを踏み込んで突っ切りました。これには驚いて「日本では絶対に一時停止だけど」と言うと、彼は真顔で「踏切は最も危険な場所だから、短時間で通過しないといけない」と言います。この時は、ところ変われば、と感心したのですが、友人に確認したらこれも嘘でした・・・。
この怒涛の3か月で、しかし実験は予想以上にうまく進展して、帰国後に論文一報を発表することができました。このことは、Strotmann教授の信用を得ることにつながり、ここから彼と彼の家族との30年の関係を築くことができました。最初の頃は、Strotmann教授の名前、ハインリヒと呼んでいましたが、慣れてくるに従って家族同様ハイナと呼ばせてもらうようになりました。今でも毎年、私と妻、ハイナと奥様のアグネスの誕生日には、互いに電話してHappy Birthdayを歌っていますし、クリスマスと年越しの電話も欠かしたことはありません。
また、Strotmann教授以外にも、彼の研究室の卒業生や研究仲間など、ドイツ国内には複数の太い人脈ができました。東日本大震災と福島第一原発事故のニュースが世界を駆け巡った時には、ドイツから「家族を連れて逃げてこい」というメールが複数届いて、感激しました。
Heinrich Strotmann先生
留学先のドイツに限らず、学会でも海外にはこれまで何度も出かけましたが、そんな機会に「国際化」ということを考えさせられる出来事がいくつもありました。
初めての国際会議は、1985年夏のオランダ・アムステルダムで開催された国際生化学連合の会議です。デュッセルドルフに立ち寄ってから、列車でアムステルダムに移動しました。当時、インターネットなどない時代、ホテルの予約は大変でした。でも、「地球の歩き方」さえあればどこでも行けるということになっていて、この本によると、ヨーロッパの主要駅には必ずiマーク(青い〇に白抜きのiが書かれた看板)があり、この窓口に行くと簡単にホテルを確保できる、ということになっていました。実際、アムステルダムの会議でも、会期中は学会を通じてホテル予約ができましたが、会議が始まるまでのホテルは自分で予約する必要がありました。夏のアムステルダムは観光客が多くて、2日前に到着した私はiマークに行ったものの市内ではホテルが確保できず、列車で郊外まで移動することになりました。さすがに列車内の案内はオランダ語だけで、どこで降りればよいのかさっぱり分かりません。やむなく近くの男性に聞いたら、彼は私の降りる駅とホテルを確認したうえで、親切にも目的の駅でスーツケースをもって一緒に降りてくれて、タクシー乗り場まで行き、タクシーの運転手に行き先も告げて駅に戻って行きました。
アムステルダムでは、ホテルから会議場までトラム(市街電車)で移動します。ある時、車内で老夫婦にコンセルトヘボウはどこで降りればよいのか、と突然聞かれました。滞在数日ではありますが、毎日使っていたので、3駅先の右手であることを教えると、お礼を言われて「どのくらいここに住んでいるの?」と聞かれました。返事に困った覚えはあります。何と答えたんだったかな??
スイスのバーゼルでパリ行の列車を待っているときにも、旅行者に目の前の列車の発車時刻を聞かれました。デュッセルドルフの学生寮に滞在していた時には、他の学生から寮の事務室の開室時間をドイツ語で聞かれたこともあります。日本では、見るからに外国人という人に何かを教えてもらおう、ということはまずないと思いますが、ヨーロッパではそれが普通であることにとても驚きました。これが国際化する、ということなんでしょうね。
ただ、当時(30年前)の国際都市パリだけは違っていました。英語を目の敵にする考えが一番強かった頃かもしれません。道を尋ねるために英語で話しかけると、手を横に振る人がほとんどでした。帰国時にパリの凱旋門地下のバスターミナルに行き、シャルルドゴール空港行のバス乗り場を知りたくて、案内窓口の女性に英語で聞いたら、私の知らない言葉で返してきます。わからないので何度か同じやり取りをしたら、彼女の方が根負けして「No. 8」と言ってくれました。私は、フランス語では、アン、ドュー、トゥローしか知りませんでした。申し訳ない。
フランス人の名誉のために書き添えておくと、今のパリは全然違います。道行くフランス人、働く人たちは、ほとんどが普通に英語を話します。地下鉄の切符売り場で、ローラーでカーソルを移動して目的地を選択する券売機に戸惑っていると、周囲から積極的に教えてくれる人が必ずいます。素晴らしい変化だと感じます。
ところで、海外に出かけたとき、目的地の空港について最初にお世話になるのは、空港のトイレだと思います。私は必ずと言っていいほど、歯磨きをするために洗面所に行きます。でも、どこでもToiletとかW.C.と書いてあるわけではありませんし、日本のように男女のピクトサインがあるとも限りません。特に、ドイツ語圏では、必ずHとDと表示されています。HがHerrenで男性、DはDamenで女性です。
私が初めて飛行機を利用したのは、修士2年の春、北海道で開催された植物生理学会年会に参加したときのことです。羽田から千歳(当時は、まだ新千歳空港ではなくて千歳空港でした)まで飛びました。当日の天候は覚えていませんが、後ろの方の座席に座っていたら、前の方が横方向にしなるような感じがして、非常に揺れたことはよく記憶しています。飛行機ってよく揺れる乗り物なんだ、というのが最初の感想でしたが、降機するときに近くの会社員が「今日はよく揺れたね」と話していたので、実はこの日は特に揺れが強かったようです。
1985年夏にアムステルダムの国際会議に参加するために、国際便を初めて利用しました。それまでは、国内線しか知らなかったので、10時間以上も乗り続ける飛行機の旅は想像できませんでした。ちょうど出発の1週間前、8月12日に日航ジャンボ機が御巣鷹の尾根に墜落しました。この日は自宅に居ましたが、夕方日航機が行方不明になったという報道があり、その後、群馬県の山中に落ちたという報道まで、テレビから流れる情報をずっと見ていた記憶があります。この空前の大惨事の後に初めてジャンボ機でヨーロッパまで飛行することになっていたので、なんとも言えない胸騒ぎを感じました。私が利用したのはルフトハンザ航空でした。当時はまだシベリア航路はなくて、北回りと呼ばれる航路で、一度給油のためにアンカレジに着陸してから、フランクフルトに飛びました。18時間くらいかかったと思います。初めての海外であることや飛行機事故の直後であったことで緊張していましたが、機内食で初めて食べたライ麦パンがなんとも印象的でした。
二度目の国際線の利用は、1987年夏にベルリンで開催された国際植物科学会議に参加したときのことです。この時は、妻と1歳半の長女を連れての海外旅行で、南回り航路を使いました。ロンドンまで、途中、香港とドバイに降りたので、26時間かかりました。特に、ドバイでは、給油のために飛行機から降りると、ガラスで囲われたロビーに案内され、周囲にはマシンガンを持った兵士が警備していて緊張したのをよく覚えています。ロンドンからは、ドーバー海峡をフェリーで渡り、列車でブリュッセル、デュッセルドルフを経由してベルリンまで行きました。帰りもベルリンからパリまで列車で移動して、ようやく飛行機に乗りました。子連れで何度も列車を乗り継いで苦労も多かったですが、若かったんですねえ。
このベルリン訪問の直後に東西ドイツの統一、ソ連邦の崩壊と世界は大きく動き、ようやくシベリア航路を利用してヨーロッパまで飛べるようになりました。その結果、成田からヨーロッパの主要都市までの飛行時間は12時間くらいに短縮されて、ドイツとの行き来がとても楽になり、私は共同研究を目的にデュッセルドルフに頻繁に出かけていました。
当時、国際線では帰国時の航空便を確保するために、リコンファームという謎の手続きが必要でした。これは、日本を出国後、帰りの便を利用する数日前までに現地の航空会社オフィスに電話して、「必ず乗るよ」と知らせるものです。デュッセルドルフのStrotmann研に滞在中は、帰国前に何度かこの手続きをしました。ある時、研究室の電話を借りて航空会社に電話を掛けたら、英語が分かるような分からないような女性が出て、名前と便名を告げたのですが、電話を切り際に「キャンセル」という言葉が聞こえたような気がしました。不安になり、秘書さんにお願いして、確認してもらいました。数分後、秘書さんが私のところに飛んできて、「貴方、帰りの飛行機をキャンセルしたの?」と聞いてきます。いやいや予定通り帰りますよ、と告げて、彼女が何とか交渉してくれて事なきを得ました。私の不安は的中していたのでした。この便は、ブリュッセルからのサベナ航空で、デュッセルドルフからブリュッセルまでは近距離なので小さなプロペラ機で移動しました。そして、成田行きの便に乗ったところ、CAさんがいきなり後ろに回って上着を受け取ってくれます。なんと、リコンファーム騒ぎで、知らないうちに座席がビジネスクラスに変わっていました。ラッキーでした。ほどなくして、このリコンファーム手続きはなくなりました。
ある冬のことです。やはりデュッセルドルフからフランクフルト経由で成田へ戻るために出発便の手続きを待っていたら、アナウンスがありました。フランクフルト-成田便がオーバーブッキングになっているので、到着が一日遅れる北欧経由に変更してくれる人がいたらビジネスクラスに乗れます、というものです。心は動いたけど、出張で来ている手前、予定を勝手に変えるわけにはいきません。残念だけどと思いつつ、予定の便で搭乗手続きをして、フランクフルトに移動したのですが、そこから成田までの便はビジネスクラスシートでした。エコノミーが一杯でビジネスに移動することになったようです。ラッキーでした。
飛行機にはちょっと怖かった思い出もあります。向畑先生が高知工科大学に異動されて、生体エネルギー研究会を毎年夏に大学のドミトリーを宿舎にして開催していたころの話です。羽田から高知に向かっている飛行機の機内で、突然機長のアナウンスがありました。「今、高知空港に向けてフライト中ですが、雨雲と競争になっています。着陸が難しい状況ですが、一度はトライしてみたいと思います。」だって。いやいや、250人を道連れにしてトライはないんじゃない?、と思いながら冷や冷やしつつ窓の外を見ていましたが、何とか無事に着陸しました。この日は本当に気象状況が悪かったようで、私の便のひとつ後の便は着陸の際に大きく振られて、着陸をやり直したとのこと。衝撃が大きくて、機内では紙コップが舞ったそうです。
成田空港を飛び立つジャンボジェット 飛行機の丘にて 2025.6.22撮影
私は、大学で習った第二外国語はドイツ語でした。ですから、ドイツ語のハードルは低かったのですが、当然のことながら大学の講義で習っていたからと言ってすぐにドイツ語会話ができるようになるわけではありません。いや、ラジオドイツ語会話やテレビドイツ語会話のテキストを買って、何度も挑戦してはいるんですが、いまだに挨拶しかできないのは、素質がないせいなのか、やる気がないせいなのか・・・。
でも、ドイツに行ってドイツ語で話ができたらやはりいいに決まっています。というか、話せないと困ることはたくさんあります。
初めてドイツ留学したのは、1992年ですが、この時は学生寮で自炊の生活をしました。当然、スーパーでいろいろと買い集めるところからスタートです。何しろ、わからないのでスーパーマーケットでものを見ながらほしいものをカゴに集めるのですが、食塩がどうしても見つかりませんでした。店員さんに声をかけると、彼女は英語は全く分からない様子。ところが、Salzの発音がどうしても出てきません。ソルトではだめだし、NaClはだめだし、でも、どこかの時点で彼女に話が通じたらしく、君が欲しいのはこれだよ、と黄色い箱を渡されました。自室に戻って、辞書を見ながら確認したら、確かに食塩ではありましたが、ヨードが添加してあると書いてあります。日本では見たことのない商品だったので、翌日、研究室で聞いてみました。すると、ドイツでは食品からヨードを摂取することができないため、添加してあるのだそうです。もちろん、ヨード無添加の食塩があることも後からわかりました。つまり、彼らは海藻を食べる習慣がないわけですね。
一方で、いろんな日本食をホストの教授の家庭で作ってご馳走しようと思い、デュッセルドルフの日本食材を売っている店で手に入れた乾燥ワカメを持って行った時のこと、乾燥ワカメの袋を見た教授の三男が「これ食べて大丈夫なの?」と言います。見ると朱書きでAchtungと書いてあり、「この食品は、大量に食べると健康被害の可能性があるので要注意」との注意書きがありました。まさに、海藻に含まれるヨードのことです。日本では聞いたこともなかったので、当時、流行っていたパソコン通信のサイトで書き込んでみると、早速、回答がありました(これ、今から思うと、Yahoo知恵袋の走りのような集まりでした)。北海道の沿岸では、やはり海藻の食べ過ぎによる甲状腺異常が起こっているとのことで、あながち間違いではないそうです。
ドイツに行って、すぐに覚えた言葉が、Ziehen と Drückenです。大学ではすべての扉の両側にどちらかが書いてありました。「引く」と「押す」ですが、重要だなと感じたのは、建物から外に向かうときにはすべての扉が「押す」方向になっているところでした。これは、緊急避難などの時に、人が滞らないようにする工夫で、極めて合理的にできていました。
駅や大学など公共の建物でよく目にしたNotausgangも印象深い言葉でした。Not(ドイツ語読みはノート)は非常、Ausgangは出口ですが、Notを英語読みすると「出口ではありません」になります(笑)。生半可な知識は身を危険にさらすかもしれません。
もう一つ、ドイツで衝撃的だったのが、パソコンのキーボードの配列が異なっていたことです。もちろん、ドイツ語ではウムラウトがあるので、シフトで英語では使わない文字を入力するというのは想像できましたが、一番厄介だったのは「Y」と「Z」の配置が反対だったことです。なるほど、ドイツ語ではZはよく使いますが、英語で頻発するYはほとんど使いません。まあ、慣れればいいわけですが、困ったことに私の専門の生化学では「酵素」つまり「enzyme」という用語がしきりに出てくるのです。あちらでパソコンを借りて論文を打っていると、いつもenyzmeと書いてしまい、修正していました。ところが慣れるというのは恐ろしいもので、ひと月も経つと苦も無く打てるようになります。
ただし、今度は帰国してから頻繁に同じ間違いを犯すようになりました(笑)。
ドイツの話を書き始めて思い出すのは、私とパソコンの出会いです。
私が卒業研究を始めた1979年は、パソコンの歴史では記念すべき年です。この年の9月にNECからPC-8001という8ビットのパーソナルコンピュータが発売されました。早稲田大学の生物教室でもパソコンの導入が検討され、すぐにPC-8001が納品されました。最初のうちは、習うより慣れろで、このパソコンに搭載されていたのはN-Basicという基本ソフトで、多くの学生が簡単なゲームプログラムや計算プログラムなど、いろいろなプログラムを書いて勉強しました。私は、最初のうちは学部時代にFORTRANなどで教わったプログラムをBasicに書き直してみることくらいしかできなかったのですが、修士課程で研究が進み、得られた実験データのフィッティングなどをする必要が生じて、非線形の近似計算をパラメータを動かしながら最小二乗法で近づけていくようなプログラムを自作して、次第にプログラミングを会得しました。今なら、エクセルに数値を入れて関数を設定すると近似計算はリターンキーを押すだけで答えが出てきますが、当時は一晩計算させる(しかも数字の変化が画面上で目で追える)くらいゆっくりしていました。ですから、実験で得られた数値を夜入力して帰宅すると、翌朝答えが出てくる、というようなのんびりした計算でした。
ところが、基本ソフトとしてCP/Mが発売され、最初は何のことかさっぱりでしたが、これがさらに進化してMS-DOSとなって、ソフトウェアの世界が大きく広がりました。MS-DOSで動くソフトとして最初に目にしたものは、表計算ソフトのマルチプランです。しかし、これが何をするものか当時は全くわかりませんでした。ところが、ロータス1-2-3が発売されて、数値データのグラフ化が簡単にできるようになったことで、研究をとても助けてくれるようになりました。幸いだったのは、この最初のパソコンが置かれていた場所が、私が分光測定をしていた二波長分光光度計の隣だったことです。測定のかたわら、いろいろな工夫をして、ついには「分光器のデータ出力をRS232Cケーブルでパソコンに取り込む」ということができるようになりました。そして、得られた数値データを使うことで、二つのスペクトルの差分を計算することもできるようになりました。このころには、パソコンの方も進化して、16ビットのPC-9801になっていました。これがちょうど1982年秋、私が博士課程1年の時です。私にとってとてもラッキーだったのは、修士・博士の研究の進展に合わせて、パソコンの方もどんどん高性能になっていったことです。
さらに、プログラミングの得意な後輩からTurbo Pascalを勧められて使い始めてから、どんどん高度なプログラムを作ることができるようになりました。このプログラミング言語の優れたところは、モジュールの組み合わせで簡単に機能を追加できることでした。複雑なプログラムを自分で一から書かなくても、テキストに例示されているモジュールを組み合わせるだけで、画面上でマウスカーソルを動かしたり、グラフを書かせたり、印刷したり、ということができました。最終的には、高速液体クロマトグラフィーの出力データをパソコンに取り込んで、クロマトグラムを画面上に表示して、自分が定量したいピークをマウスで指定するだけで、その大きさ(面積)を計算するソフトを作り上げるところまでできました。SC(Science Chart)と命名したこのソフトは、一時期パソコン通信サイトで公開していましたが、実際のユーザーは私と、もう一人、共同研究をしていた東工大の宗行さんだけでした。それでも、当時、二人で何本かの論文をこのソフトで得た数値で書くことができたので、趣味のように始めた私のプログラミング知識も研究に役立てることができたと思っています。
パソコンを扱えるようになったことで、もうひとつ手に入れた世界が、1980年代に流行したパソコン通信です。パソコンにつないだモデム(文字列データを音声に変換する機械)を介して電話回線に接続し、いろいろな情報交換ができました。初期のモデムは通信速度も遅く、発出する音が人の耳で判別できるほどでした。私は当時富士通が主体で始めたNifty Serveのかなり初期からのユーザーで、当初はパソコンの扱い方やソフトの情報をここから得ていました。
このパソコン通信の世界で、自作プログラムの情報を得ることができたのですが、研究を進めるうえで最も役立ったのは、当時、NECにいらした石坂さんという方が作られたN-graphです。このソフトは、今もWindows版が公開されていて、私の研究室の学生もずっと活用してきました。データの取り扱いや、生成するグラフの書式設定が簡単で優れたソフトです。実は、このN-graphの公開当初、私が使っていたプリンタに出力することができず、プリンタドライバを自分で書いてN-graphの公開サイトに登録しました。そこで、石塚さんから開発協力者として認めてもらい、名前を記録してもらったことは、とても光栄な事でした。
このようなパソコン通信の知識がもう一つ役立ったのは、1992年にドイツに留学した時です。当時は、まだインターネットや電子メールなどほとんど使われていない時代でした。外国からの通信手段と言えば、公衆電話が普通で最初の頃は片手に何枚もコイン(確か50ペニヒだったと思います)を握りしめて、数秒ごとに投入しながら話をする、というのが普通でした。ところが、パソコン通信のアクセスポイントが海外に広がって、市内通話料金でドイツでもモデムを介して日本のネットワークにつなげることができたのです。ノートパソコンはまだほとんどない時代でしたから、私は代わりに小ぶりのワープロ(日本語を打つことだけに特化したブック型の端末)を持参しました。電話回線につなぐためには音響カプラという受話器型の機器を電話の受話器にマジックテープで固定して使います。つまり、ノート型のワープロ、音響カプラ、公衆電話をつないで、日本と通信するわけです。これを夜の公衆電話ボックスでやっていたら、怪しいスパイと思われたのか、外からジロジロ覗かれました(笑)。
でも、当時のNifty Serveは優れもので、テキストをファックス電話番号に流し込むことができたので、パソコンを扱えない(そもそも自宅にはなかったのですが)家族のもとにドイツからファックスで定期便を送ることができました。また、Nifty Serveの海外留学のフォーラム(同好会の掲示板のようなもの)にはドイツでの経験談を「デュッセルドルフ便り」として連載していました。このような時代を経験してくると、今の世界中どこに行ってもスマートホンが一台あれば遠くの相手の顔を見ながら会話ができるという通信技術の進歩が夢のように感じられます。我々世代にとっては、手塚治虫さんが描いた鉄腕アトムの世界が本当に実現したということです。世界は本当に小さくなりましたよね。
このようにして身に着けたパソコンの知識と職員組合で学んだ組織の会計が、その後の私の経歴に大きな影響を及ぼします。真鍋先生の研究に関連して学生を連れて東京都立大学を訪ねたときに、前から知り合いだった松浦克己さんの部屋にお邪魔しました。松浦さんが研究機器を見せてくれて、やはりパソコンと分光光度計を接続して測定していたので、いろいろと教えてもらいました。当時、松浦さんは日本植物学会の会計幹事を担当していましたが、そんなことは梅雨知らず、いろいろと横浜市大での経験を雑談で話したのだと思います。ある日、植物学会の次期会長の岩槻邦男先生から電話がかかってきて、会計をお願いしたい、松浦さんから推薦を受けた、とのお話がありました。なんと、松浦さんは後任を探していて、パソコンが扱えて会計の経験があるということで私を推薦したのだ、とこの時初めて気づいたのです。当時は岩槻邦男先生がどのくらい高名な先生かもよくわかっていませんでした(申し訳ありません)が、次期会長からの直々の電話で断ることも出来ず、お引き受けすることになりました。
私が会計を引き受けた年は、しかし、植物学会の大変な変革の年でした。というのは、この93年から植物学会は一般社団法人になり、役職も会計幹事から会計担当理事に変更になったのです。幹事長は専務理事になり、初代の専務理事は長田敏行先生、編集長は和田正三先生、理事は黒岩常祥、柴岡弘郎、千原光雄、渡辺昭 各先生、監事は沼田真先生、吉田精一先生というそうそうたる顔ぶれでした。もとより、学会の事情に疎い私でしたが、それぞれの分野を代表するこれらの役員の先生方とのお付き合いは本当に大変だな、と感じました。幸い、会計担当理事は専門職で、しかも学会のお財布を握っているので会計に関しては決定権を持っていました。また、数字が縦横に並んだ会計書類の中身をきちんとつかんでいることは、対外的にとても重要です。お陰で、法人会計についてはずいぶん詳しくなりました。 とはいえ、もう一つの大変な出来事は、この1993年は通常の大会が開催されず、代わりに第15回国際植物科学会議(XV IBC)がパシフィコ横浜で開催されたことです。このIBC自体は、私が会計担当理事を引き受ける前に、すでにすべての準備が整っていたので、学会役員としてお手伝いすることはほとんどありませんでしたが、終了後の経理処理には関わらないわけにはいきませんでした。当時、植物学会では会計担当理事は2期4年が通常でしたので、岩槻会長の二期目も会計担当理事を引き受けました。この時、専務理事は大隅良典さん、庶務担当理事は三村徹郎さんで、お二人とは長ーいお付き合いが始まりました。私自身は一人だけ会務担当2期目ということで、学会の事情もようやく分かってきて、うまく回せるようになってきたと感じていました。また、当時の学会事務局には森垣さんというすべての会員の名前を憶えているのではないかと思えるような超経験豊富な事務局長さんがいて、彼女の指示に従って業務を行えば大丈夫、という雰囲気でした。会計担当理事として多少の信用をつかんできたことで、会長が岩槻先生から駒嶺穆先生に代わった時には副専務理事という役職が新たに作られて、さらに1年、会務を補助することになりました。
こうしてようやく会務担当理事の年季が開けたと思ったら、今度は植物学会のホームページの作成を依頼されました。委員会を立ち上げ、見よう見まねで植物学会の最初のホームページができると、次は出版物電子化検討委員会です。植物学会は、正直、人使いが荒かったですね。そして、それから数年後、2010年秋に福田裕穂会長から電話がありました。植物学会を公益社団法人にするので手伝ってほしい、という依頼です。申請の準備は既に整っている、という福田さんの言葉にXXされて(福田さんとは今もとてもよい関係を続けています。XX部分は想像にお任せします(笑))専務理事を引き受けましたが、公益法人申請はまさにこれから学会内の諸規定を整備して申請書を作成する、というところで、私自身も公益法人に関して一から勉強しなおしでした。そして、3月の理事就任の会議に向けて準備を始めていたところで、3月11日にあの東日本大震災が起こったわけです。予定の会議は3月13日(日)でしたが、会議は延期、専務理事としては大変な仕事始めでした。2011年は9月に東大駒場キャンパスで大会が予定されていました。計画停電などで会議運営が見通せない中、今市涼子大会会長(日本女子大)、邑田仁大会準備委員長(東大)のリーダーシップで無事に大会が開催できたことは、本当に良かったと思います。このような慌ただしい日々の中、植物学会は秋に公益社団法人申請を終え、無事に内閣府から認定を頂くことができて、2012年7月に公益社団法人日本植物学会としてスタートすることができました。このころには、森垣さんの後を引き継いで事務局長に就任された二宮三智子さんも学会事務局にいてくれて、公益法人化後の学会運営はとてもうまく行ったと思います。ただ、当時を思い返すと、公益法人という新たな仕組みの中での運営ということで、これまでの慣例に従わないことも多くて、理事会でも代議員会でも「法律に従っていますので」と私は言い訳ばかりをしていました。
専務理事のあとも理事を2期4年務めましたが、1期目の理事でようやくあがりかな、と思ったら、今度は西関東地区が大会を引き受ける順番になりました。関東は茨城と千葉が東関東、それ以外は西関東という妙な区分けになっています。実は、この区分け、私が会計担当理事の時に関東が大きすぎるので二つに割ったのですが、つくばの人数が多かったために、このようにしました。犯人は私です。そして、西関東地区選出の代議員で話し合いを持って、私が大会会長をお引き受けすることになりました。ですから、準備期間の2013年と開催年の2014年は大会会長として植物学会にまたまた尽くすことになりました。この時、すでに東工大に移ってこられていた大隅良典さんには名誉会長をお願いしました。懇親会で振る舞われた美酒は大隅さんのお力です!この時の大会は、明治大学生田キャンパスで川上直人さんが実行委員長を引き受けてくれました。
大会会長として植物学会大会を開催するにあたり、いくつかこだわりを持って実行したことがあります。
まず、要旨集です。これまで、大会では冊子版とPDF版を作成していましたが、スマートホンが普及してきたことや携帯の利便性を考えて電子ブック版を作成しました。
次に、セッション途中の休み時間の設定です。大会では、通常10くらいのセッションが別会場で同時進行します。各セッションでは一人15分の発表が連続して行われますが、質問が多かったり、PCの入れ替えに手間取ったりで、どうしても時間がずれてしまいます。このため、大会では聞きたい発表が別会場でつながっているときなど、移動したらすでに途中だった、ということがよく起こります。このような会場ごとの時間のずれを最小限にとどめるために、1時間半に一度全会場で10分間のブレークを入れる、というのをプログラム委員会にお願いしました。会期中は、参加者から好評だったのですが、プログラムを組むのが大変なのか、発表時間枠を減らしてしまうからなのか、残念ながらその後の植物学会大会では定着していません。
大会の会計を楽にするためには、企業からの協賛金を得ることがとても重要です。現在、地方で大会を引き受けた場合には、協賛企業を集めることが難しくて、毎回苦労しています。この状況を少しでも改善する前例を作ろうと考え、通常行っている要旨集の広告や、大会会場での企業による機器展示以外にも、協賛金を集めるプログラムをいろいろと考えました。9月の大会はまだ暑い時期ですので、参加者に配るうちわを製作し、表面は大会のロゴ、裏面は企業広告にしました。参加者へのお土産として、企業広告を印刷したカード型カレンダーを製作しました(参加企業数が足りなかった分は、写真で補いました)。参加者に配るコングレスバックは、やはり企業広告を入れて製作してもらいました。また、休憩室で提供する飲料として、横浜市内のウォーターサーバーの会社が宣伝を兼ねて無料で水だけでなく、水とお湯の出る機械も提供してくださいました。これらの協賛企業の社名を大会Webサイトに掲載する際には、企業のバナーや会社へのリンクも貼りました。このような努力の甲斐あって、広告収入は歴代の植物学会大会の中でも一番多く集めることができました。
植物学会会員には、アマチュア写真家がたくさんいますよね。そこで、会長企画として写真展を開催することにしました。受付を置いた明治大学本部校舎ロビーが広かったので、ポスターパネルを配置して、会員から募った写真を展示しました。珍しい植物やとっておきのアングルの写真など12枚が集まり、私個人はとても満足でしたが、この企画も残念ながらその後の大会で定着していません。
この大会は、西関東地区担当ということで、東工大の他、明治大、理研、埼玉大、横浜市大、日本医大、神奈川大など数多く方が実行委員として協力して盛り上げてくださり、総参加者数も1300人を超えてとても盛会でした。大会全体の企画はこちらに掲載しています。皆さん、どうもありがとうございました。大会会長もやったし今度こそあがり、と思っていたら、昨年、寺島一郎さん(現会長)に監事を頼まれて、まだまだ切れない関係が続いています。
私が学生時代に、恩師の櫻井先生が植物学会幹事長をしていました。ある日、先生がプリプリ怒りながら学会の会議から戻ってきました。訳を尋ねたら、「全く余計なことをする人がいる。植物学雑誌(現在のJPR)への投稿が少なくなっているからと言って、学会役員の投稿数を公開された。」というのです。実は、桜井先生は植物生理学者で、植物学雑誌には一度も論文を発表されたことがなかったのですね。おそらくそれが理由で、この事件からほどなくして桜井研究室後輩の小島君の研究が植物学雑誌に掲載されました。幸い、私が植物学会と関わっている間に、JPRは投稿数で悩む、というようなこともなく、学会関係者の投稿数を調査するような人もいませんでした。かく言う私も一度も論文を発表したことがありませんでした。しかし、この2024年、ようやく共著者として論文をJPRに掲載することができました。学会役員として妙な安堵感を感じています。
1995年1月に資源研生物資源部門・吉田賢右教授の研究室に助教授として着任しました。当時の資源研には生物系の研究室は生物資源部門と正田誠教授の資源循環研究施設の二つだけで、化学系の有名教授がずらっと顔をそろえるとても活気のある研究所でした。助教授や助手の人の循環もとても盛んで、当時12部門(助教授12人)でしたが、着任して2年後には既に着任順の6番目くらいになっていて、とんでもないところに来てしまった、というのが当時の感想でした。着任時は、吉田教授、宗行英朗助手(現中央大学教授)と私、ここに分子シャペロンの研究で学位を取った田口英樹さん(現東工大細胞制御工学研究センター教授)が助手に加わりました。
私たちが長年研究対象としてきたATP合成酵素は、1994年にイギリスのJ. Walker博士らの研究グループによるX線結晶構造解析の結果、膜表在性のF1部分のα3β3という六量体構造の真ん中をγサブユニットが貫く分子の形状が明らかにされました。この酵素の反応機構として、1980年代初頭にアメリカのP. Boyer博士が回転触媒仮説を提唱していましたが、Walker博士らの結晶構造はまさしく「回転」しそうなタンパク質であることを示していました。私が東工大に着任した時期は、まさにこのような議論が熱くなってきた頃で、吉田研究室でも酵素の回転を証明しようという機運が盛り上がっていました。吉田研究室の強みは、吉田教授が若いころから扱っている好熱菌のATP合成酵素で、安定で遺伝子操作をはじめ様々な実験ノウハウが蓄積しているところでした。ちょうどその時期に生命理工学部の大島泰郎先生が定年退職され、大島泰郎研究室で修士を修了した野地博行さん(現東京大学大学院工学研究科教授)が博士課程から吉田研究室に参加しました。彼が博士論文研究のテーマとして選んだのが、ATP合成酵素が回転することを証明する、という研究です。そして、タンパク質一分子の研究で成果を上げていた慶応大学の木下一彦教授のグループとの共同研究を行い、わずか2年で顕微鏡下で回転する分子モーターのビデオ撮影に成功しました。ビデオ撮影直後に来学したWalker博士は、このビデオを見て椅子から立ち上がって驚嘆していましたし、後にBoyer博士は「自分が見た中でもっとも美しい映像」と称賛されました。この最初の一分子観察成功の論文は、野地さん、木下研大学院生の安田涼平さん(現マックスプランクフロリダ研究所 科学ディレクター兼神経情報伝達研究部門長)、吉田教授、木下教授の連名で1997年3月にNatureに発表され、同年秋にWalker博士とBoyer博士は、神経で働くNa,K-ATPaseの発見者であるSkou博士と一緒にノーベル化学賞を受賞しました。ATP合成酵素の機能の本質を明らかにした吉田教授がこのノーベル賞に名を連ねられなかったことはとても残念でした。そして、お気づきと思いますが、吉田教授は2度のノーベル化学賞をアシストしているわけです。
しかし、ATP合成酵素の一分子観察に成功したことで、研究室の研究テーマは様々に広がり、優秀な大学院生が数多く集まって博士課程に進学し、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いと形容できるような状態になりました。私も少し遅れて1999年に自分の研究対象である葉緑体ATP合成酵素の回転をビデオ撮影することに成功しました。また、その後の私の研究の核になるレドックス制御の研究を開始したのもこのころです。
最初に酵素の回転のビデオ撮影に成功した野地さんは、その後、東大生産研助教授、阪大産研教授として順調に研究を発展させ、現在は東大大学院工学研究科の教授として活躍しています。
こうして私たちの研究室が研究成果を積み上げていく中で、吉田教授がJST・ERATOの総括に推薦され、2001年に吉田ATPシステムプロジェクトが発足しました。発足時のグループリーダーは、吉田研研究員だった鈴木俊治さん(F-ATPaseグループ)、東大准教授の茂木立志さん(電子伝達系グループ)、と私(エネルギー変換システム制御系グループ)で、三つのグループで活動を開始しました(のちに横山謙さん(現京都産業大学教授)がV-ATPaseグループを作って、4グループ体制になりました)。当時のERATOは、知財管理を明確にするために本務校とは独立して研究場所を設置する、ということになっていました。しかし、利便性を考えて様々な交渉を行った結果、ERATOとして初めて同じキャンパス内に設置することを認めてもらい、図書館裏の旧アイソトープ実験棟の改修を自前資金で行うことを条件に、東工大から建物一棟を借り受けることができました。これを実現して下さった当時の関係者の皆様のご配慮は大変ありがたく思っています 。
ERATOが始まって研究室は一気に大きくなり、総勢50名を超える大所帯になりました。マネジメント業務が忙しくなり、私は自分で実験台の前に立つ機会もすっかり減ってしまいました。
吉田・久堀研時代、研究室で車通勤は私だけでした。そこで、車が必要なシーンではほとんど私が運転手でした。当時、Walker博士、Boyer博士という二人のノーベル賞科学者がやってきて、私がお抱え運転手を務めました。特に、Boyer博士は、成田に到着後、自治医科大学(栃木県小山市)の香川先生を訪ねてから、東工大に移動しましたので、とても長い距離を私の車に乗ってもらいました。事故になったら、新聞一面だな、と緊張して運転しました。いつも感じているのですが、英語を話しながら運転するのは難しいです。注意力が分散されるという人もいますが、私は使用する脳の領域が同じなのではないか、と前からずっと思っています。誰か証明してくれませんかね。
回転実験を報告してから数か月経ったある日、トンネル効果でノーベル賞を受賞したMarkus博士が、突然、吉田教授に「回転について自分の考えと伝えたい」とメールを送ってきて、研究室を訪ねてきました。この時も、博士に講演をしてもらったあと、つくし野の行きつけのレストランまで私の車でお連れしました。彼を送り出したあと、吉田さんが突然「しまった!」と大きな声を出しました。ノーベル賞にただで講演させちゃった・・・。後の祭りでありました。
1996年秋 Walker博士が来日して、回転ビデオを見て驚愕!
高木みづほさんは、国内で数少ない葉緑体ATP合成酵素研究者で、いわば私の同業者であり研究上の先輩でした。先述のStrotmann教授を私に紹介してくださったのも高木さんですし、学会でもよくお話をさせて頂きました。ところが、1996年4月に急逝されました。以下は、私が追悼文集に書き添えた追悼文です。
追悼 高木みづほ先生
東京工業大学資源化学研究所 久堀 徹
帝京大学薬学部化学教室の高木(旧姓小松)みづほ先生が、本年 4 月24 日深夜から25 日未明にかけて、大学の研究室で実験中に脳室内動脈瘤破裂により急逝されました。私が、高木さんの突然の死を知ったのは、数日後の事です。私の大学の近くにお住まいの神奈川大学理学部教授・村上悟先生が夕方訪ねて来られ、教えてくださいました。村上先生は、高木さんの東京大学大学院時代の指導教官で、帝京大学の先生や高木さんの友人の方々と葬儀に立ち会われました。高木さんのご夫君、高木淳二氏も、どなたに特にお知らせすればよいのか判らなかったとのことで、静かなお葬式だったそうです。
高木さんの研究歴は随分長いのですが、その静かで控え目なお人柄からか、光合成分野ではご存じない方もいらっしゃるかと思います。高木さんは、「葉緑体共役因子(CF1)による光リン酸化反応の作用機作」の研究をライフワークにされ、この道一筋に研究をされてきました。しかも、この20 余年のCF1 研究を帝京大学薬学部化学教室の中でずっとお一人で続けて来られ、立派な業績を残されたのです。
私が高木さんと知り合ったのは、今から15 年ほど前の事です。当時も今と状況はさして変わらず、CF1 を研究対象としていたグループは、日本では高木さん、私の母校・早稲田大学の桜井英博先生のグループ、大阪大学の向畑 恭男先生のグループ、九州大学の西村光雄先生のグループの 4 つしかなかったと記憶しています。1980 年頃の共役因子(F1)の研究は、大腸菌でようやく遺伝子の方向から全てのサブユニットのアミノ酸配列が決定されていた以外は、CF1 でもミトコンドリアのF1 でも大腸菌のF1 でも、触媒部位と非触媒部位の機能の研究が中心でした。その後、F1 研究にも部位突然変異の手法が導入され、ようやく蛋白質分子の構造に立脚して研究を行える道が開かれました。高木さんも私もどちらかと言えばCF1 にこだわりを持っていましたから、華々しい遺伝子操作を用いた研究を横目に、黙々と従来型の生化学の手法を駆使して研究を進めて来ました。
ちょうど、私が母校・早稲田から横浜市立大学に移った頃のことです。助手として、また、研究者として独り立ちする不安をお話ししたら、「自分自身で考えるのが、一番楽しいのよ」と激励されました。高木さんは、後日、ご自身が単著で発表されたJ. Biol. Chem. の別刷りを何編も送ってくださいました。
そんな高木さんの研究に大きな転機となったのは、1994 年夏Nature 誌上に発表されたイギリスのJ. Walker のグループによる牛心筋ミトコンドリアF1 の結晶構造解析の成果だと思います。これまで、速度論的解析や化学修飾部位の同定などから、CF1 の構造変化を考察していらした高木さんのデータを、ようやく実際の蛋白質の構造に当てはめて推論することの出来る時代が来たのです。一人で研究される事に対するこだわりでしょうか、設備の制約もあってのことでしょうか、高木さんは、化学修飾とペプチド解析を主たる武器として構造変化に迫っていましたが、その丁寧で地道な努力の結晶のような実験で、着々と成果をあげられていました。これらは、ここ数年、J. Biol. Chem. やEur. J. Biochem. 誌上に連続して発表されています。また、高木さんのペプチド分析の技術は海外の研究者にも高く評価されていて、亡くなる直前にもアメリカのR. E. McCarty博士から共同研究の依頼を受けていらっしゃいました。
いよいよ研究生活もこれからと言う高木さんに突然の不幸が訪れたのは、4 月24 日夜のことです。CF1 の各サブユニットの構造変化をチラコイド膜のエネルギー状態との関係で捉えると言う実験を手掛けていらした高木さんは、いつものように大量の蛋白質をピリドキサールリン酸で標識して、6枚もの標準サイズの電気泳動ゲルで分離しペプチド分析用の試料を調製しようとしていました。
実験途中で脳室内動脈瘤破裂と言うご自身予想もされなかった災難に襲われ、実験室片隅の測定室で帰らぬ人となったのです。夜中のことでしたから、高木さんのご遺体はそのまま一晩人知れず眠っていました。高木さんの死が判明したのは、翌朝でした。ご夫君、高木淳二氏は宇都宮の会社の航空機設計の技術部にご勤務で、お二人は宇都宮に居を構えておられ、高木さん自身は八王子に週日単身でいらっしゃっていました。ご夫君は前夜に限って八王子に連絡が取れないことを心配して、夜を徹して研究室に電話をされたそうです。ようやく、朝になって化学教室の神谷明男助教授が電話をとり、研究室の中を探して高木さんのご遺体を見つけられたと聞きました。
村上先生、帝京大学の池上 勇 教授、そして高木 淳二氏のご依頼もあり、私が帝京大学薬学部の研究室をお訪ねしたのは、高木さんの突然の死から3週間ほど経った5月中旬です。高木さんの研究室も実験室も、お人柄そのままにきれいに整理されていました。私物をほとんど研究室に置かず、いつも学会でお見かけした茶色い鞄だけが隅にポツンと置かれています。神谷先生のお話では、実験途中で倒れられたにも関わらず、使用中の電気泳動槽以外の装置・器具は全てきちんと片付けられていたそうです。この26 年間の研究生活で集められた論文の別刷りやコピーは、全て年代順、著者別に整理されていました。この分野の研究に欠く事の出来ないこの貴重なファイルは、今、高木淳二氏から私が譲り受けて、私の研究室の書棚で研究の手助けをしてくれています。
研究費や共同研究者などの面では、必ずしも恵まれたお立場ではありませんでした。あの日、もし近くに他の先生方のいらっしゃる時間だったら、もし共同研究をしている人がいたら、とも思います。そんなすべての思いを静かに包み込んで旅立たれました。
高木みづほ先生。享年48 才。まさしく、「研究と共に生き、研究に死す」と言う人生を駆け抜けられました。衷心よりご冥福をお祈り申し上げます。
高木 みづほ 先生 論文リスト
Inhibition of Photophosphorylation by ATP and the Role of Magnesium in Photophosphorylation. Komatsu, M. and Murakami, S. Biochim. Biophys. Acta 423, 103-110 (1976)
Inorganic Phosphate-Dependent ADP Binding on the Chloroplast Coupling Factor and Its Participation in ATP Synthesis. Komatsu-Takaki, M. J. Biochem. (Tokyo) 94, 1095-1100 (1983)
Inorganic Phosphate-enhanced ADP Release on the Chloropalst Coupling Factor. Komatsu-Takaki, M. FEBS Lett. 170, 121-124 (1984)
Inactivation and Reactivation of Light-Triggered ATP Hydrolysis on the Chloroplast Coupling Factor. Komatsu-Takaki, M., FEBS Lett. 175, 433-438 (1984)
Interconversion of Two Distinct States of Active CFo-CF1 (Chloropalst ATPase Complex) in Chloroplasts. Komatsu-Takaki, M., J. Biol. Chem. 261, 1116-1119 (1986)
Participation of Three Distinct Active States of Chloropalst ATPase Complex CFo•CF1 in the Activation by Light and Dithiothreitol. Komatsu-Takaki, M., J. Biol. Chem. 261, 9805-9810 (1986)
Correlation between the ATP Synthetic Active State and the ATP Hydrolytic Active State in Chloropalst ATP Synthase-ATPase Complex CFo•CF1. Komatsu-Takaki, M., J. Biol. Chem. 262, 8202-8205 (1987)
Energy-dependent Conformational Changes in the Subunit of the Chloropalst ATP Synthase (CFoCF1). Komatsu-Takaki, M., J. Biol. Chem. 264, 17750-17753 (1989)
Energy-dependent Changes in Conformation and Catalytic Activity of the Chloroplast ATP Synthase. Komatsu-Takaki, M., J. Biol. Chem. 267, 2360-2363 (1992)
Energy-dependent Changes in the Conformation of the Chloroplast ATP Synthase and Its Catalytic Activity. Komatsu-Takaki, M., Eur. J. Biochem. 214, 587-591 (1993)
Effects of Energization and Substrates on the Reactivities of Lysine Residues of the Chloroplast ATP Synthase Subunit. Komatsu-Takaki, M., Eur. J. Biochem. 228, 265-270 (1995)
Energizing Effects of Illumination on the Reactivities of Lysine Residues of the Subunit of Chloroplast ATP Synthase. Komatsu-Takaki, M., Eur. J. Biochem. 236, 470-475 (1996)
(1996 年9 月記す)
吉田研究室がATP合成酵素の回転実験に成功したころに、私は自分の新しい実験系を持ちたいと考えて、葉緑体ATP合成酵素だけが持つ特徴的なレドックス制御機構の研究を開始し、合わせてこの制御の鍵タンパク質であるチオレドキシンの研究を始めました。ちょうどその頃に、チューリヒ大学からMichael Stumpp君という学生が私の研究室での研究を希望している、という連絡が留学生交流課からあり、協定校なので断る選択肢はないとのことで、初めての留学生として彼を受け入れました。そして、彼が葉緑体ATP合成酵素のチオレドキシンによる制御を研究テーマとして研究を開始し、私の研究室のレドックス制御研究の礎を築いてくれたわけです。調べてみると、チオレドキシンについては、生化学的にわかっていないことがとても多くて、研究対象はいくらでもあるように感じられました。そして、チオレドキシンアフィニティークロマトグラフィーを発案して、大学院生に提案しましたが、誰も挑戦しようとしません。曰く「そんな簡単な方法で新しいことがわかるのであれば、とうの昔にやられているのでは?」と賢い東工大の大学院生たちに批判されました。仕方なく、卒研で入ってきたばかりの近藤愛子さんの研究テーマをこれと決めて実験してもらいました。すると、思った通り、チオレドキシンとジスルフィド結合を介して相互作用するタンパク質がいろいろと捕まりました。ただ、これらが何であるかがわかりません。救いの手は思わぬところからやってきました。2000年にシロイヌナズナの全ゲノムが解読されたのです。当時、私たちは、捕まえたタンパク質のN末端アミノ酸配列をプロテインシークェンサで直接解読する、という手法でタンパク質の同定を行っていました。この解読には一晩かかります。得られた配列をデータベース検索するわけですが、調べた日に同定できなかったタンパク質が、翌日になると同定できた、という経験を何度かしました。ちょうど、シロイヌナズナのゲノム配列から明らかにされたタンパク質の配列データがデータベースに登録されている時期だったのでしょうね。新しく捕まったタンパク質のリストを作っただけでは論文にできるかどうかわからなかったので、吉田研究室で研究員をしていた本橋健さん(現京都産業大学教授)に生化学実験を手伝ってもらって確かにチオレドキシンによって還元されることを確認し、2001年にアメリカ科学アカデミー紀要(PNAS)に発表しました。この論文は、チオレドキシンの研究業界で予想以上のインパクトがあり、その後、同様の方法で様々なタンパク質がチオレドキシンの相互作用相手として報告されるようになりました。ただ、残念だったのは、私自身、この研究の重要性がきちんと理解できていなかったことです。投稿先をどうするかで迷ってPNASにしたのですが、私たちの論文発表の3年後、アメリカのBeckwithのグループが大腸菌のレドックスタンパク質の標的を同様の手法で捕捉してリスト化し、Scienceに発表しました。これにはショックを受けました。
とはいえ、この解析手法は候補タンパク質をリスト化しているだけで、本当にチオレドキシンに制御されるタンパク質(酵素)であるかどうかは、生化学的な実験をしてみないとわかりません。以来、私の研究室の半分は、このようにリスト化されたタンパク質の制御を調べる研究に注力することになります。
チオレドキシンアフィニティークロマトグラフィーは、チオレドキシン研究者には高く評価して頂き、発表の翌年から同様の方法で、様々な生物、細胞内器官のチオレドキシン標的の探索が行われ、論文が続々と発表されました。そして、2005年7月にオーストリアのウィーンで開催された第17回 国際植物科学会議では、「Redox regulation of leaf metabolism (植物の葉におけるレドックス制御)」というシンポジウムに演者として招待していただきました。このシンポジウムのキーノートスピーカーは、植物チオレドキシンの研究を長くけん引してきたアメリカ・カリフォルニア大学バークレー校のBob Buchanan博士で、私は彼のすぐ後に話をすることになっていました。
Buchanan博士の演題は「Thioerdoxin: New functions and applications」というもので、21世紀に入ってから急速に活発になったレドックス制御の研究分野を概観するのだろうと思っていました。ところが、博士は、話を始めるとまず私たちのチオレドキシンアフィニティークロマトグラフィーを丁寧に紹介してくれて、PNAS論文のデータも引用して、結局は講演のほとんどを私たちの研究の話で終えてしまったのです。とても光栄なことではありましたが、次に話をする私は、この時には本当に困りました。自分の番になって、演台に立ったものの、最初に思い浮かんだ言葉は Well, I am very confusing now...
何しろ、用意しているプレゼンテーションの中身はほとんどBuchanan博士が話してしまっていますので、どう話を切り出すか考えがまとまっていなかったのです。すると、フロアからBuchanan博士がすくっと立ち上がって You have done such an important work! と大きな声で言ってくれました。涙が出るほどうれしかったですが、この一言でちょっと落ち着きを取り戻して、覚悟を決めて自分の話を(ほとんどリピートではありますが)させてもらいました。こうして、何とか、チオレドキシン研究の国際舞台で認めてもらったわけです。会議の後、Buchanan博士に誘われて、ウィーンの街中のカフェに立ち寄り、歩道に設えたテーブルで一緒にコーヒーを頂きましたが、とても美味しかったです。
一例として、葉緑体のホスホフルクトキナーゼ(PFK)という酵素を紹介します。この酵素は、これまでの研究で明所で活性がなくなり、暗所で復活するという、面白い挙動をすることが知られていました。吉田啓亮助教(当時)がこの酵素の生化学的解析を徹底して行い、この酵素がこれまで報告されていなかったレドックス応答タンパク質であることや、暗所で活性化することによって葉緑体内の糖代謝を昼と夜で切り替える重要な役割を持っている酵素であることを明らかにしました(2021 Plant and Cell Physiology ).
この論文は、PCP Best Paper Award 2023に選定され、仙台で開催された植物生理学会学会年会で表彰していただきました。
2023年3月16日 吉田啓亮氏が代表して表彰状と目録を河内孝之日本植物生理学会会長から頂戴しました。
後ろに書かれている「他1名」とは私のことです。共著者二人なのに、この書き方はちょっとね?! (他1名については、翌年無事にリベンジを遂げました)
一方、葉緑体ATP合成酵素の制御機構の研究に回転実験を取り入れたのも、2001年ころです。好熱菌ATP合成酵素の一分子回転観察実験を利用して何とか回転の制御を実際に見てみたい、と考え、まずは、好熱菌ATP合成酵素の一部を制御スイッチを持っている葉緑体のものに置換することにしました。この実験は、ドイツのRögner研から来たDirk Bald氏(現アムステルダム自由大学講師)がやってくれました。予想通り、還元状態でよく回転し、酸化状態で止まることがわかりましたが、複合体分子が不安定なのか、両者の違いを特徴づける解析ができるほどにはデータを得られませんでした。ちょうどその頃、好熱性シアノバクテリアを使って光化学反応中心の結晶構造解析が続々と発表され、私も光合成生物のATP合成酵素の研究に好熱性シアノバクテリアを利用することにして、これをERATOプロジェクトの研究課題にして、学位を取ってERATO研究員になった紺野宏記君(現金沢大学准教授)に新たな実験系を構築してもらいました。シアノバクテリアのATP合成酵素は、葉緑体の酵素の特徴をおおよそ持っていて、安定に回転実験もできるようになりましたが、残念ながらレドックス制御に使われているスイッチ部分の配列を欠いています。そこで、再び葉緑体のレドックス制御スイッチ部分を導入することにしましたが、今回は全体の配列がよく似ているので、わずか20アミノ酸の挿入で済みました。そして、回転の制御を実際にデータとして示すこともできるようになりました。
こうした研究をしている間に、ERATOが終了し後継事業のICORPが始まり、そして2009年3月に吉田教授が定年退職して、14年間続いた吉田・久堀研究室は解散しました。着任当時、吉田研でやっていけるだろうか、と不安を抱え、また、多くの助教授・准教授が次から次へと転出していく資源研で、何とか生き抜いて自分なりの研究成果を上げることもできたことには、本当に安どの気持ち以外にありませんでした。その原動力は、吉田教授が私を常に信頼してくれたからにほかなりません。研究室運営は、吉田教授は無頓着を装い、ほとんどのことを私と二人の助手(助教)、宗行さんと田口さんに任せてくれました。それでも、研究室の困りごとは吉田教授と二人で昼食をともにしながらよく話しました。それでいて、学術論文の発表は、吉田研の仕事と久堀研の仕事をきちんと切り分けてくれたことで、私の光合成関連の研究は名実ともに独立できたのだと思います。このような吉田教授の配慮には、心から感謝しています。一方で、和文総説や科研費の申請書などは、双方で目を通しブラッシュアップを怠りませんでした。この伝統は、私が教授になった今も続けています。ただ、吉田さんには頼られすぎて困ることもありました。「電子メールで開けないファイルが届いたので、久堀さん何とかしてよ」と教授室から転送されてきたメールの添付ファイルはウィルスだったりして・・・。勘弁してください!
2008年 吉田・久堀研究室解散前最後の集合写真
私は学生時代に櫻井先生から「放射線管理主任」免許を取るように勧められました。学位を取得しても就職口があるかどうかわからなかったので、少しでも有用な資格を身に着けておくように、という親心でした。この試験に挑戦したのは、まだ博士課程1年で頭の柔らかいころだったので、物理も化学も生物も、そして法規も学ばなければならないテキストもさほど苦ではなく、試験にも無事に合格できました。この免許があったことで、後年、横浜市立大学では学内に二人しかいない主任免許保持者ということで、アイソトープセンターの先生と親しくして頂き、実験設備を使用するときにもいろいろと教えていただくことが出来ました。東工大に異動してからは、研究所で唯一の免許保持者だったため、アイソトープ管理の仕事が回ってきましたし、その後学内に設立されたバイオ研究基盤支援総合センターの方でも委員の役目が回ってきました。以下は、この委員をやっている2006年頃にセンターが刊行していたニュースに寄稿した巻頭言です。AIが進展した今となっては、ますます重要なことかもしれません。
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20 年前、某私立大学で助手をしていた頃のことである。研究室では、98 シリーズが活躍し始めて、「パソコン」が、表計算やワープロソフトとともに様々な研究分野に浸透し始めた時期である。私がいた学部にはスポーツ専門の学科があり、インターハイで活躍した選手たちが数多く集まってきていた。この学科に入学するには、運動能力そのものが重要で、私もこの入試の手伝いをしたことがある。国内のトップクラスの運動選手が集まるのだから、日頃、机の上の仕事ばかりの私たちには新鮮な驚きの連続だった。垂直飛びで1m20cm くらい飛び上がるバスケットボール選手や、握力計の針を簡単にくるりと回してしまうような柔道選手がいた。しかし、この試験の後は、それぞれの記録を点数化するという面倒な作業が待っていた。手書きで集めた記録を集計して、仕分けを行うわけだ。私たち理学系の助手は、表計算によるデータ処理をすでに導入していたので、手作業の点数化を非常に煩わしく感じた。そこで、この採点作業にパソコンの導入を提案したのである。理系人間にとって、作業の効率化のための当然の解決策であった。ところが、社会学を専攻していた助手が、「パソコンって、正確ですか?」と真顔で尋ねてきたのだ。理系の人はパソコンの答えを疑うことは、普通はしないと思う。しかし、この助手にとっては、パソコンはせいぜいワープロソフトを使うための道具で、計算するなど思いもよらなかったらしい。パソコンの先進ユーザーを自負していた私は、この言葉に強いショックを受けた。「これだから、文系は困るんだ」と憤りを感じたことが、今でも忘れられない。
あれから20 年、パソコンはあらゆる分野で活躍するようになり、このような素朴な疑問を持つ人はきわめて少なくなったはずだ。しかし、文明社会の落とし穴であろうか、パソコンが正しいことを前提にしたために起こる事故は頻発している。予約していたはずのご飯が、朝起きたら炊けていない、なんてかわいいものだ。今、本学でも問題になっているエレベータの誤作動の原因のひとつは、コンピュータのプログラムミスということになっているらしい。コンピュータシステムの固まりのような大型旅客機であれば、大惨事にだってつながりかねない。皆さんの研究室でも日常的にパソコンで計算をしていると思うが、そのプログラムは本当にいつも正解を出しているのだろうか。それを疑ってみても簡単には検証できないほど、私たちの日常はパソコン頼りになり、また複雑化してしまっている。誤りのない管理という観点から、ヒューマンエラーをなくすために社会のいたるところに数多く導入されているコンピュータではあるのだが、それに頼って作り上げたシステムだけを過信しないヒューマンを養成することも、安全管理の重要な第一歩と痛感する毎日である。
2009年4月に当時の資源化学研究所資源循環研究施設の教授となり、研究室をR1棟8階からR1A棟に引っ越しました。新しい研究室のスタッフは、生物資源部門の時に助手(助教)になった紺野宏記君と資源循環研究施設の助教だった菅野靖史さんです。秋に菅野さんが准教授に昇任し、正式に久堀・菅野研究室としてスタートしました。そして、翌2010年4月に野亦次郎君を助教に採用して体制が整い、新たな研究室が走り始めたところで2011年3月11日を迎えることになります。
3月7-8日(月・火)は、研究所のアライアンス事業で、資源研のほとんどの教員が仙台に出張していました。私はさらに9-10日(水・木)、阪大蛋白研セミナーで大阪に出張しました。9日の夜、福島沖で地震が頻発していたので、ホテルから自宅に電話して「気をつけようね」と話しましたが、まさか翌々日あんなことが起こるとは思いもしませんでした。11日(金)は大学院の説明会で午後田町のキャンパスイノベーションセンター(CIC)に出かけました。京浜東北線で田町に着いたのが午後2時45分。改札を抜けたところで大きな揺れが始まりました。田町駅駅舎の大きな屋根がガタガタと揺れ始め、慌てて駅の外に出ようとエスカレータを駆け下りましたが、エスカレータの板が左右に揺れてとても怖い思いをしました。そして、道路の向かい側のビルからは、エアコンの室外機が落ち、高校のグラウンドの向こうに建築中のビルの屋上では二基のクレーンが音を立ててぶつかる、という光景を目にしました。とりあえず揺れが収まったところで、CICの8階まで階段で上がり、ようやく他の先生と合流しました。地震直後はすずかけ台と電話がつながり、私の研究室は1・2階ということもあり無事は確認できましたが、その後はほとんど電話は機能しなくなりました。携帯のワンセグTVを見ていたら、津波の映像が入ってくるようになり、これは本当に大変なことが起きている、と実感しました。田町からは、谷口裕樹准教授の車で横浜方面に向かいましたが、途中、多摩川を渡るときに、対岸(たぶん木更津あたり)の石油コンビナートが炎を上げていたのが目に焼き付いています。
幸い、私の研究室では物理的な被害はありませんでしたが、交通網が完全にマヒしてしまい、帰宅できない学生が大勢いました。助教の紺野君(現金沢大准教授)が車で近くを走り回って食材を買い集め、鍋を作ってみんなで一晩を過ごしたと聞きました。そして、次は福島第一原発事故です。あの日の夜の枝野官房長官の緊迫した記者会見の様子の記憶は、今も消えません。これは大変なことが起こるだろう、とは予想できましたが、原発の電源喪失、メルトダウン、水素爆発とシナリオ通りの事故の連鎖が、本当に日本で起こるのだというのは、衝撃でした。事故以来、毎日、報道される放射線量データをにらむ日々が続きました。さらに、原発の停止に起因する電力不足で計画停電が始まり、生命系の研究室は低温の保管庫をたくさん抱えているのでこの対応も考えなくてはなりませんでした(すずかけ台キャンパスは、幸い対象地域から外されて停電を免れました)。震災の混乱の中、卒業式・学位授与式が中止になり、電力不足と余震の不安を抱えつつ新年度が始まりましたが、私は4月から化学環境学専攻の専攻長で、春から始まる新入生ガイダンス、大学院説明会などいろいろな行事の企画の責任者としての対応もあり、毎日が目まぐるしく過ぎていきました。原発の放射線については、過去のデータを調べ、中国で大気圏内核実験が行われていた私たちが小学生のころの方が東京の空中放射線量は高かったことを根拠にして、周囲の人に心配し過ぎないように話をしました。
そうしたさなかに、電力節約でまだ暗かった研究室を、ある日、フロンティア材料研究所の原亨和教授が訪ねてきて、生物的にアンモニアを作る方法はないのか、と言います。そこで、野亦君が扱っていたシアノバクテリアのアンモニア固定能力を利用する方法を話し合い、シアノバクテリアを使ってアンモニアを生産するというプロジェクトに発展させました。ちょうど夏に藻類バイオのCREST(松永是農工大学長が総括)の募集があり、これに応募したところ、首尾よく採択されました。シアノバクテリアを物質生産に利用するにあたり、ATP合成能力や還元力供給・ストレス耐性など私の研究室の基礎研究の知識を活用しようというプロジェクトです。
このプロジェクト、採択されたものの、アンモニアみたいに安いものを作ってどうするのか、という批判は評価委員の先生方からたびたび聞かされました。産業まで見据えると、生物を利用した方法では確かにコストの問題は付きまといそうです。一方で、最近になり、電力が値上がりし、化石燃料の利用にも黄色信号がともり、水素のキャリアとしてのアンモニアの重要性が見直されたことで、アンモニア生産は脚光を浴びています。私たちは、ちょっと提案が早すぎたのかもしれません。
2011年秋に紺野君が金沢大学のテニュアトラック准教授として転出、2012年3月に菅野准教授が日本女子大教授として転出しました。後任として、2009年の新研究室開設以来、研究員として頑張ってくれていた吉田啓亮さんを2012年4月から助教に、そして、緑藻クラミドモナスの繊毛の運動を研究している若林憲一さんを2012年秋に准教授として迎えました。助教の野亦君とともにこの新体制で次の10年の研究に取り組むことになります。震災以来、何とも慌ただしい日々でした。
2013年4月 久堀・若林研究室最初の集合写真
大学に入学してまだ間もないころ、私は櫻井英博先生の下で研究をしたい、と漠然と考えました。この頃はまだ「研究室」という単位が自分の研究者人生に占める重要性をきちんと理解できていませんでしたが、いよいよ学部4年生になって櫻井研究室のメンバーとなったことで、研究室が私の日々の生活の重要な枠組み、いわば「居場所」になりました。当時の櫻井研究室は、博士課程にSさん、修士1年のOさんという二人の先輩、さらに研究生のTNさんがいて、私を含む5人の同級生がメンバーでした。私の卒業研究テーマでは、発光バクテリアからのルシフェラーゼの抽出・精製が重要な研究の一部でよく徹夜実験をしました。この時に、二人の先輩がよく付き合ってくれて、関係がとても強固になったと感じました。修士に進学して間もない頃、後輩の4年生のTK君と二人で試験管を流っているときに(当時はディスポーザブル試験管などなくて、数百本の試験管をブラシで洗っていました)、後ろを通りかかったSさんが「おい久堀、さっきのあれ、ちゃんとあれしとけよ!」と指示してきました。私が「はい」と返事をすると、TK君が「??」。「さっき届いたATPをちゃんと冷凍庫にしまっておけよ、と言われたんだよ」と解説したら、ものすごく感心されました(笑)。文字通り、以心伝心ですね。
Sさんは、学位取得後、櫻井研究室の任期付きの助手になり、私も修了後に同じように任期付きの助手になったことで、小さいながらも教授-助手-学生という研究室単位の活動の基本をこの頃に身に着けることができました。
その後、異動した横浜市大でも眞鍋教授と助手の私と卒研生、という構成で、研究室の大きさは早稲田とさほど変わりませんでした。ところが、吉田さんに声をかけられて助教授として東工大資源研に移ると、教授-助教授-2人の助手-研究員-たくさんの学生(全部で15人くらいいたと思います)という大所帯で、自分の責任も急に重たくなった感じです。ただ、眞鍋さんにも吉田さんにも共通していたのは、ご自身のお弟子さん以外のスタッフを採用していたことです。眞鍋さんからは「将来独立してこの教室に生化学の研究室を作ってください」と言われていましたし、吉田さんも言葉にはしなかったものの私自身の論文執筆にあたり、自分の世界を確立するように強力にサポートしてくれました。異なる経験や知識を持った人をグループに取り込むということは、研究グループの持っている能力を拡大するということに他なりません。これらの薫陶が、後年、自分の研究室を持つことになった時に重要な指針になったことは言うまでもありません。
東工大で吉田さんが定年を迎え、私は別の部門の教授に昇任することが出来ました。吉田さんとは研究分野を明確に切り分けていたことで、研究所内外で吉田さんの後継者と認識されていなかったことが重要なポイントだったことは疑いありません。こうして教授となった資源化学研究所資源循環研究施設で、私のグループの最初の准教授になったのは、微生物生化学が専門の菅野靖史さんでした。菅野さんは、不幸なことに(笑)慶応大学理工学部化学の出身でしたが、私の専門領域と適度に離れていて研究の上でも互いにいろいろな助言をし合って、うまく研究を活性化することが出来ました。そして、ご本人の努力の甲斐もあり、着任からわずか2年半で日本女子大に教授として転出しました。今は、日本女子大学理学部長として活躍しています。
菅野さんの転出が決まった頃、私はCRESTに採択されて研究を大きく広げようとしていた最中でした。そこで、すぐに次の准教授を公募することにしました。とはいえ、5年間のCRESTプロジェクトだけを考えて人選を行う訳にはいきません。そこで、なるべく研究分野を幅広にして公募することにしました。応募者の中に、緑藻の鞭毛研究をしている若林さんがいました。当時、私のところは原核のシアノバクテリアを材料として、光合成生物のレドックス制御、回転分子モーターであるATP合成酵素の研究が中心でしたが、若林さんは真核生物の緑藻を材料としていて、リニアモーターである鞭毛運動を研究する、というまさに適度に遠い存在でした。彼とはこの公募まで面識がなかったのですが(本人から以前東大で講演したときに質問されたことを後日教えてもらいました)、応募書類では緑藻の運動のレドックス制御を解明する、という魅力的な研究テーマが紹介されていました。「適度に遠い」と考えて面接に来ていただいた4名の中で、若林さんのプレゼンテーションは圧倒的に印象深かったですし、他の選考委員の評価も高く、若林さんに准教授に来ていただくことにしました。
採用を決定したときに、若林さんには「最終講義の司会をしてもらったらありがたいけど、そこまで付き合ってくれなくてもいいよ」と話しましたが、結局は、最終講義の司会どころか定年退職時の研究室撤収まで、すべてサポートしてもらうことになりました。彼が来てくれたことには、いくら感謝しても感謝し足りません。
私が在籍していた化学生命科学研究所は、教授と准教授で一つの研究チームを作ることを基本にしていたので、「強力な研究チームの作り方」に書いたように准教授の人選は極めて重要でした。同時に研究室では、助教(2006年以前は助手)の存在がとても重要です。私が資源研助教授に着任した吉田・久堀研時代は、宗行英朗さん(現中央大学教授)と田口英樹さん(現東京科学大学教授)の二人の助手が研究室を支えてくれました。宗行さんが中央大学に転出した後には、私が東工大で最初に学位を出した紺野君(現金沢大学准教授)が助教に着任しました。その後、田口さんが東京大学に転出し、吉田研OBの元島さんが助教になりました。新たに助教になった二人は、学生時代から研究室を知り尽くしていたので、学生とスタッフのよい橋渡しになってくれました。
また、大型予算を獲得する機会が増えたことで、プロジェクトを推進するために、研究員や技術補佐員を採用することも多くなりました。研究員には、個々のプロジェクトに関する知識を十分に備えた専門家が手をあげてくれましたし、技術補佐員にもやる気のある人が次々と現れて、いつも研究室の運営を助けてくれました。そして、毎年新しい卒研生や大学院生が加わり、研究室には常に20人以上のメンバーがいたので、事務量もかなりありましたが、幸い、吉田・久堀研時代は篠原さん、私が教授として研究室を持って以降は養父さんと言う経験豊富な秘書さんが、予算管理から場合によっては人間関係の調整までやってくださったので、本当に助かりました。
吉田・久堀研時代には、実験室の天井に吹き付けられていたアスベストの撤去工事という難工事が行われて、一時的に実験室を8階から5階に移動するという作業がありました。また、久堀が資源循環研究施設の教授に昇任したときにはR1棟からR1A棟への引っ越し、その後、京都産業大学に異動した吉田先生の備品をR1A棟から京都へ、そして、久堀の定年に合わせて研究室の備品一切を移動するなどなど、28年の東工大在職中に引っ越し作業も繰り返し行いました。これらの時期に居合わせたスタッフと学生には研究以外のところで大変な労力をかけることになりましたが、皆(少なくとも私の前では)嫌な顔一つせずに黙々と作業してくれました。ありがとうございました。
東工大での研究生活では、通算すると200人以上の方と研究室内で関りを持ち、それぞれに興味深い思い出や逸話があります。なかでも、インパクトの大きかった研究者をあげよ、と聞かれたら、その一人は啓亮君ではないかと思います。彼は、2009年に私の研究室のポスドクになり、その後、学振研究員を経て助教になりました。彼との出会いは、とても思い出深いものです。2005年3月に新潟朱鷺メッセで植物生理学会年会が開催されました。この時に園池さんがオーガナイザーとなって「環境変動に対する葉緑体の防御メカニズム」というシンポジウムが行なわれました。このシンポジウムのお手伝いを岡山大の高橋裕一郎さんと私がして、酸化ストレス防御の話を阪大・寺島研助教授の野口さんに依頼しました。ところが、この時、講演にやってきたのは当時修士2年の吉田啓亮君です。「自分の研究成果は自分で話す」と手をあげたのだそうです。当時、学会のシンポジウムの講演は研究を総括する人が行なうことが常でした。我々の心配をよそに、彼は「本当に修士の学生なの?」と思うほど堂々とした講演をしました。このことで、吉田啓亮という元気な学生のことが私のメモリーに強烈に焼き付きました。私はもとより学会のポスター会場で若い人たちと話をすることが好きだったので、その後の学会では会場で吉田君を見つけては、「今はどんな研究をしているの?」と毎回のように話を聞いていました。そして、2009年春近いある日、吉田君から突然電話がありました。博士を修了したけど行くところがないのでポスドクに雇ってほしい、という直接の売込みです。
非常に安い報酬しか用意できなかったのですが、彼にはその年の学振特別研究員を獲得することを条件に来てもらうことにしました(約束通り、彼は翌年度から学振特別研究員になりました)。彼が私の研究室のメンバーになったのは、吉田賢右教授が退職して間もない時期で、吉田賢右(まさすけ)と吉田啓亮(けいすけ)という似た名前は何かと混乱のもとでした。そこで、私は彼をファーストネームで呼ぶことにしました。研究室の他の人たちもそれにならって、彼は「けいすけさん」と呼ばれるようになり、あっという間に研究室の仲間に溶け込みました。寺島研出身なので予想されたことですが、そこまで酒好きとは彼が来るまで実は認識していませんでした(汗)。でも、多くの学生にはとても喜ばれたようです。
彼は私の研究室に加わってから、学生時代からのAOXの研究に加えてレドックス制御の研究をスタートしましたが、成果をまとめるのには少々時間がかかり、私との最初の共著の論文が出るまでに4年を要しました。ところが、それ以降は、破竹の勢いで研究成果をまとめていきました。2012年に啓亮君は助教になり、その時の採用面接では「研究のやり方は学生に背中で見せます」と堂々と言って、私も感心しました。しかし、このことが災いしてしまい、私のところで博士を修了した学生が、「啓亮さんのようにはできません」とアカデミアを離れてしまったこともありました。背中がちょっと遠すぎたようです(笑)。
2016年6月のある日のこと、啓亮君が一つの実験結果を持って私のところにやってきました。私は1997年にチオレドキシンの研究を始めて以来、このタンパク質が支配している(昼間、還元されることによってその活性が制御される)酵素群を夜間に酸化する経路に興味を持ってあれこれ探していました。この日、啓亮君は「探しているタンパク質はこれだと思います」と一つのタンパク質の挙動を報告してくれたのです。「なるほど有望そうだ」ということで、このことを確定できる実験をデザインして研究を行い、2018年にPNASに論文発表しました。この論文は、レドックス研究の大御所であるフランスのJacquot博士から、「この分野のランドマークになる」と絶賛していただきました。この年は、啓亮君が日本植物生理学会と日本植物学会からそれぞれ奨励賞を受賞した年でもあり、充実した一年でしたね。
2007年に理学部化学科の鈴木啓介教授をリーダーとするグローバルCOEプログラム「新たな分子化学創発を目指す教育研究拠点」がスタートしました。私もこのプログラムの担当教員に加えていただき、「生命機能物質」というユニットの教育リーダーとして10数名の博士課程学生の活動を指導しました。それぞれ異なる大学院の専攻に所属する学生を束ねて新たな活動をするということで、学生と議論を重ね、出前講演会を開催することにしました。通常ですと、学外から著名な研究者を呼んできて話を聞く、というのが一般的ですが、このプログラムでは学外の研究機関にこちらから乗り込み、施設見学をさせてもらうとともに、大学院生が講演を行い、相手方の研究者に批評を受けよう、という活動です。当初メンバーだった理学部の土井先生が転出された先の東北大薬学部を手始めに、三菱化学の研究所、東レの研究所、九州大学、大牟田の三井東圧化学、京都の大塚製薬など、いろいろなところに伺いました。博士課程の学生にとっては、企業研究者と交流する良い機会になりましたし、企業と大学の違いを知ることができたことは、将来像を描くうえでも重要だったと思います。また、普段の学会と違って、狙い通り企業の研究者から研究テーマに対して鋭い指摘などもあり、参加した学生は良い経験をしたと感じました。実際、こうしてプログラムが提供した新たな交流の機会を通じて、訪問先の先生に注目してもらい助教に採用してもらった学生、内定をもらっていた企業の研究所をこのプログラムで訪問して逆に「自分が思っていたのとは違うな」と感じて辞退してしまった学生、など当初は考えてもいなかったような副産物も生まれました。
さらに、プログラムの後半には、スイスのETH、チューリヒ大学、ジュネーブ大学、LONZA社など、海外にも大学院生を引率して武者修行を敢行しました。この経験を得て、博士修了後にジュネーブ大学にPDで渡った学生もいたので、実地の経験は意味があるものだ、と痛感した次第です。
2009年12月4日にかずさアークで「ラン藻の分子生物学2009」が開催されました。当時、私の研究室では助教の公募をしており、有望な新人を発掘しようと私は学会のたびに多くの若手研究者の発表を見てまわっていました。名古屋大・藤田祐一研の野亦君と初めて話をしたのは、このかずさの研究会のポスター発表の時です。彼は、すでにNature誌に投稿していた光合成細菌Rhodobacter capsulatusのプロトクロロフィリドレダクターゼの構造解析と生化学解析の結果を発表していました。ニトロゲナーゼに似た酵素だと目を輝かせて研究成果を熱っぽく説明してくれる彼には、とても感心しました。合わせて、彼は、私の研究室でこれからどんな研究が展開されるのか、いろいろと質問してきました。そして、翌日夕刻、会が終わってバス停で並んでいた私を捕まえて、「よろしくお願いします」と爽やかに挨拶をして去っていきました。この時の助教公募には野亦君を含めて十数名の有望な若者が応募してくれましたが、タンパク質構造に立脚した生化学研究を行うという私の研究室の将来像に最も合致していた野亦君を採用することにしたわけです。
2010年4月に当時の東工大資源研の資源循環研究施設に助教として着任した野亦君は、実家を離れて初めての横浜での一人暮らし、そして、初めての大学教員という全く異なる環境で新たな研究者生活を始めました。学生・スタッフ総勢30名以上の大きな研究室の管理をしながら、新たなテーマで研究を行うという、本当に不安を抱えながらのスタートだったろうと思います。野亦君が着任した当時、私は新規の研究プロジェクトに挑戦することを構想していて、これに野亦君のニトロゲナーゼの知識が大いに役立ちました。彼の着任1年目は残念ながらヒアリングで不採択でしたが、2年目の2011年秋にCREST事業に採択されました。大気中の窒素をシアノバクテリアのニトロゲナーゼにより同化してアンモニア生産につなげようというもので、これが2016年まで私たちの研究室の重要な研究テーマとなったわけです。また、野亦君が着任した年に大阪大・川合知二先生を代表とする最先端研究開発支援プログラム(FIRST)の分担研究に、私たちの研究室が資源研の代表として参加することになりました。着任早々に新たなミッションが次々と降ってきて、野亦君にはかなり大変な時期だったと思います。これに加えて、彼が横浜に来た翌年3月11日に東日本大震災が発生、さらに福島第一原子力発電所の爆発事故によって放射性物質が関東一円に広がりました。この時には、野亦君をはじめ東京圏以外に自宅・実家のある人には、ひとまず疎開してもらいました。
このように、慌ただしく始まった野亦君の東工大での研究で、彼の強みは嫌気チャンバーを用いた嫌気実験です。私たちの研究室のメインの研究テーマである細胞内酸化還元の解析を行うには、嫌気条件が扱えることはとても重要です。東工大に着任以来、最初の数年は複数のプロジェクトに対応することで手いっぱいだった野亦君でしたが、自分の嫌気チャンバーがそろったことで、徐々に自分の色を出した研究を開始しました。そのひとつの結晶が、酸素センサータンパク質ANAである。これは、大腸菌の酸素結合タンパク質の構造変化によって蛍光タンパク質の蛍光強度をコントロールすることで酸素量を定量するもので、超高感度の酸素センシングが可能になりました。嫌気条件(anaerobic)と好気条件(aerobic)を見分けるという意味で、遊び心からANAと命名しました。このタンパク質を利用して、環境変化に応じた細胞内の酸素量変化を測定しようと思っていた矢先のことです。
それは、コロナ禍が始まる直前の2019年夏のある日でした。野亦助教が私の部屋にやってきて、腹部に違和感を感じる、と伝えてきました。最初は、気になるのであれば早めに医者に行きなさい、と進言しただけですが、この時、すでに彼はただならぬものを感じていたのだと思います。数か月の検査の後、最終的には細胞診を行って悪性腫瘍であることが判明したのは、2019年のクリスマスの頃でした。彼には休職して治療に専念するようにしてもらいましたが、まさかわずか1年足らずでお別れをする日が来るとは、想像もしていませんでした。コロナ禍の真っただ中、2020年11月22日の昼前にお父様から電話を頂きました。現役のスタッフを突然失い、一時は途方にくれましたが、研究室を抱えている以上、立ち止まることもできません。この困難な時期を支えてくれたスタッフと気丈に振る舞ってくれた学生さんたちにはとても感謝しています。
野亦君はとても愛らしい青年で、年が改まると氷川神社の「勝守」を私に一つ届けてくれて、「今年も頑張りましょう。勝負ですね。」と力を込めて新年の決意を語るのが常でした。そこで、彼の闘病中にはお見舞いとして、武蔵国一之宮の小野神社と相模国一之宮の寒川神社のお守り、そして、研究室全員で折った千羽鶴を届けました。お守りは治療中も大切に身につけてくれていたとのことです。本当に、子供のようにかわいらしいところを持ち続けていました。
我が家には、ビーグル犬がいました。チイちゃんというとても美形でかつ気性の激しい子でした。子供たちの希望で飼い始めましたが、実は私は犬が子供のころから大の苦手(一度追いかけられて噛まれたことがあります)で、最初の頃は、吠え付かれるばかりで家族として認めてもらえませんでした。ところが、同居の義父が脳出血で半身片麻痺になって以来、朝の散歩を私が担当するようになりました。厳しくしつけたおかげで、いつしか家族内の順位1位となり、私と歩く時だけは、後ろをついて歩くようになりました。それから16年、毎朝必ず家の周囲を早足で1.5km歩くのを日課にしていました。この朝の散歩は自分の健康管理にも重要と思っていたのですが、ある時からチイちゃんの散歩の足が遅くなっていることに気づきました。調べてみると、腹部に腫瘍ができていて痛そうです。それからは、朝の散歩の距離をどんどん短縮して、食事の介助をしてから、自分だけで同じ散歩コースを歩くことにしました。ところが、歩いているとジョギングの人たちに抜かされます。チイちゃんと散歩しているときには気づかなかったのですが、やはり走った方が時間も短くなるしいいだろうな、と考え、走ることにしました。
ちょうど、吉田教授の定年も近づいてきて、そろそろ研究室の独立を考えるようになりました。自分が倒れたら研究室はおしまいと思うと、自分のミッションとして健康管理が最も重要であることは疑いありません。しかも、男性は単純で、数字や順位にすぐ乗せられるそうです。私もご多聞に漏れず、携帯のアプリの距離測定と全国順位に乗せられて、次第に走る距離を延ばすようになりました。周囲で走っている人の足元を見ると、私とは履いているものがまったく違います。まずは道具か、ということで奮発してランニングシューズを購入しました。これには驚きました。みんなこんなに楽をして走っていたんだね、と感動。以来、次第にいろいろなグッズを買い揃えて、気づいたら頭から足元までそれなりの形は整いました。そして、2009年に教授になったお祝いに、学生からはランニングウォッチをプレゼントされました。このころには、朝、出勤前に5キロを走るのが日課になっていました。ここまでくると、投げ出すわけにもいきません。そうしたある日、東京マラソンに応募してみたら、いきなり当選通知が届きました。本番までまだ10か月近くあったと思いますが、それからは、情報も集めて長い距離を走る準備をしました。でも、42.195キロを走るのは大変です。4時間、5時間休まずに身体を動かし続ける、ってどういうことでしょう。そんな不安を抱えつつ、2011年2月27日の本番を迎えました。
私は子供のころから運動が苦手でしたから、この日まで、自分がフルマラソンの大会に出て走る、など、実は考えてもみませんでした。ところが、いざ走り始めると、3万人が同じ方向に向かって走っていく様子は、ものすごくインパクトがありました。しかも、東京のど真ん中を駆け抜けるわけです。特に、東京マラソンでは新宿を出てから靖国通りを皇居に向かって下る坂で、前方を見通すことができ、人の波が流れていくようです。ただし、感動していられるのは、浅草を折り返して、日本橋に戻ってくるところまで。隅田川の橋を越えると、あとはアップダウンの連続で苦しさしか感じません。沿道で応援する人が「足が痛いのは気のせいだ」などとプラカードを持っていてくれますが、いやいや本当なんだけど、と思いつつゆっくりと歩を進めました。こうして、人生初めてのフルマラソンは、5時間6分43秒で幸いバスに回収されることもなく走り切りました。最後の5キロは苦しくて、なんでこんなことやっているんだろ、と言うことばかり頭の中を巡っていましたが、とにかくZARDの「負けないで」に背中を押され、ゴールした途端、これまで感じたことのない達成感を味わうことができました。
以来、機会をみて走り続けてきたフルマラソンは、24回になります。最初のマラソンでは、翌日は、疲労と筋肉痛で移動が不自由で出勤できませんでしたが、次第に強くなって翌日朝からの講義も出来るまでになりました。鍛えてみるものですね。定年までに30回を目標にしていましたが、この3年間のコロナ禍で大会がどこも中止になってしまったので、目標達成は先延ばしになっています。
一方、日課のジョギングは、積算すると21,300キロになりました(2023.3.31現在)。私は、学会出張の時にもランニング支度を持って行き、朝食前にホテル周辺を走り回ってから会議に参加しています。このため、すでにかなりの人に知られていますが、こうすることで自分にもほどよい継続のプレッシャーになっています。それと、学会の時に朝ジョグをするのは絶対にお勧めです。小さな都市であれば観光はそれだけで終わりますから、会議が終ったら十分にその都市を満喫した気分になって帰れますよ。
食事の前はウルウルしてとてもけな気な雰囲気を醸すのが上手でした。
コロナ禍前の湘南国際マラソンのゴールで
東日本大震災の後も、頻繁に起こる地震に不安を抱えつつ、研究の方はCRESTプロジェクトと、レドックス制御とATP合成酵素という二つの基礎研究で順調に進展しました。一方、学内では組織改革の波が次第に大きくなり、研究所の将来を考えなくてはならない時を迎えました。最終的には、2016年4月の全学的な組織改革によって学修一貫教育を目指す6学院が新たに作られ、これまでの4附置研究所は、研究センターと合わせて科学技術創成研究院という研究を主体とした大きな組織に生まれ変わりました。これに伴って、資源化学研究所は科学技術創成研究院の中の化学生命科学研究所となりました。建物や構成教員こそ変わりませんでしたが、運営体制は大きく変わりました。一方、教育面では、これまで私が所属していた生命理工学研究科分子生命科学専攻は他の生命系の専攻とともに生命理工学院生命理工学系生命理工学コースになりました。総合理工学研究科の方も大幅に改組されて解体し、私たちはライフエンジニアリングコースという複合系の教育コースを担当することになりました。このような大きな組織改革はありましたが、ありがたいことに私たちの研究室には毎年4-5名の新しい仲間が加わり、研究のアクティビティを保つことができました。
ボスの言う 「最近どう?」は 「結果まだ?」
これは、ある科学系の商社が集めた川柳のひとつです。私は気に入っていて研究室の廊下に張り出していたのですが、うしろに「そうとばかりも限りません 久堀」と書き添えていました。
この改革の頃は、研究所の副所長を任され、また、新たにできたライフエンジニアリングコースでも副主任として新しい教育課程の整備を手伝いました。こうして、次第に研究以外の仕事が増えてきたように感じていましたが、2018年に化学生命科学研究所所長になり、合わせて安全担当の科学技術創成研究院副研究院長になったことで、研究室外の仕事が圧倒的に多くなってしまいました。この時期は、研究室の学生さんと話をする機会も減ってしまい、申し訳なく思っています。しかも、研究所長のポジションには、輪番制で全国の附置研究所・センター会議の会長という役回りがついていて(所長に任命されてから初めて知りました)、虎ノ門の文科省に出かけることが増えました。そうしているうちに2019年の年末に中国武漢で流行し始めたコロナウィルス感染の蔓延が始まり、今に至っています。コロナ禍の始まり当初は、安全担当の副研究院長として、研究院側の対応を考えていましたが、2020年4月に研究院長になったことで、組織全体の判断を迫られることが圧倒的に多くなりました。幸い、科研費の新学術領域研究の運営をずっとオンライン会議で行ってきたことで、オンライン会議やZoomの導入にもいち早く対応でき、コロナ禍初期対応の組織マネジメントはうまく行ったと思います。
科学技術創成研究院長の本来の任務は、この科学技術創成研究院という大きな研究組織を文科省だけでなく、経産省や産業界などともうまくつないで、社会との接点を広げていくことでした。ところが、コロナ禍によりこのようなミッションはほとんど新たに創出することができず、また、Zoom会議ばかりの会議運営もあって、部局長でありながら、ほとんど外に出ることなく業務をこなしていました。代わりに、コロナ禍を研究院の力を結集して何とか解決に導きたいと考えて、2020年5月には副研究院長の大竹先生と「脱コロナ禍研究プロジェクト」を研究院内に企画して立ち上げ、融合研究の創出を目指しました。また、オンライン生活下で研究院構成員同士の融合研究を目指し、まずは、互いに知ることを目的として、IIRウィークとネーミングした研究院教員全員が10分間のフラッシュトークを一週間にわたって実施する大イベントを2021年7月に開催しました。このIIRウィークのイベントには8割以上の研究院教員が参加してくれて、Zoomで話したビデオをそのままユーチューブのアーカイブとして公開することもできて、とても貴重な広報資源となりました。
実は、私は科学技術創成研究院の教員の中で研究室の居室が最も院長室に近い教員でもあり、行ったり来たりが苦にならず、院長業務も滞りなく(自分ではそう思っている)こなすことができたと思います。このような職務形態を支えてくれた田中課長(院長補佐)をはじめとする研究院業務推進課の皆さん、そして副研究院長の皆さんには心から感謝しています。
2021年度のチームIIRの面々
(左から田中陽子研究院長補佐、大竹尚登副研究院長、久堀、原亨和副研究院長、竹下健一副研究院長、東正樹副研究院長、山元公寿副研究院長)
私は、これまで好んでいろいろなところにウサギを描いています。でも、研究室では、「なぜ?」と聞く人はまずいません。みんな、触れてはいけないこと、と思っているのでしょうかね。以前、娘がペットショップでウサギを欲しがり、飼ったことがあります。ウサギは、前歯がどんどん伸びるので、実はきちんとケアをしなくてはなりません。獣医資格を持っていた義兄が歯の切り方を教えてくれました。直径1.5cmほどの棒を前歯に加えさせると口が動かなくなるので、手足と顔を全力で固定して、ニッパでパチンと切り落とします。神経が通っていないので痛くないのだそうですが、数か月に一度のこの作業、家族総出で大変でした。そのウサギもすでに土にかえってしまい・・・。
いえ、私のウサギは、このペットとは関係ありません。すみません。
長女が生まれたときに、いろいろなものに付ける印の下絵として私が描いたのが最初です。右耳の垂れたウサギは結構お気に入りで、以来、研究室内の掲示やOB/OGへのお礼状など、いろんなところに描いてきました。勝手ながら、すずかけ祭のパンフレットにも登場させました。今回、皆さんにお別れするにあたり、渾身の作品を作りました。
会議中の際の居室扉の掲示
コロナ禍前まで、昼食はいつも准教授室で食べていたので、居室扉にはこれを掲示していました。
2005年5月のすずかけ祭パンフレット
ATP合成酵素の回転制御の説明に登場するSHウサギとS-Sウサギ
2022年3月、研究院長を退任すると、いよいよ退職まで残り一年になりました。そろそろ真剣に撤収の準備をしなくてはならない時期だな、と感じてはいました。しかし、これまで特定領域研究、CREST、新学術領域研究と順調に研究プロジェクトに参加することができて、潤沢な研究資金で研究室の機器を充実することができたため、備品は多いですし、何をどこから手をつけたものか、皆目見当がつきませんでした。しかも、最終年はまだ博士課程の学生3名、修士課程の学生1名を私自身が主指導学生として抱えており、若林准教授の学生と合わせると、まだ10名の学生が普通に研究をしています。彼らの日常的な研究活動を邪魔しないようにしながら、ラボの撤収を進める、というのはかなり至難の業と感じられました。
ところが、うまくしたもので、このように研究室の最後の方に集まってきてくれる学生さんたちは、自立心が強いのか私の思いを先読みするかのように研究においても研究室の生活においても自主的にいろいろなことを進めてくれるので本当に助かりました。もちろん、博士修了の学生さんたち、修士修了の学生さんたちは、自分の論文発表の準備をしながらですから、本当に大変だったと思いますが、よく成し遂げてくれました。そして、私には最後まで付き合ってくれた最強のスタッフがいました。
春ごろの大まかな計画としては、研究室の備品を半々に仕分け、1年前に巣立った吉田啓亮さん(化生研の田中寛研究室の准教授になりました)に引き渡す分と、こちらに残る若林准教授に引き渡す分に整理して、二人が使わないものはなるべく早く共同研究者に活用してもらう、学内リユースで利用者を探す、ということになりました。2022年度中はコロナ禍もまだ収まらず、対外的な活動も多くはなかったので、私自身は比較的ラボ内のことに集中して撤収の準備を進めることができたな、と感じていました。
大きく計画の変更を迫られたのは、秋のことです。かねてから私の退職時期を見越して独立する準備をしていた若林准教授が、首尾よく2023年4月に京都産業大学生命科学部 産業生命科学科 の教授に着任することが決まったのです。とてもめでたいことではありますが、ラボの撤収と、若林研の引っ越しとを同時に進めることになりました。さあ、大変です!
この時、本当に助かったのは3人の女性スタッフの存在でした。研究室に散在している備品の照合と書類整理は秘書の養父さんが、研究室撤収の時にどこでも問題になる試薬と廃試薬の処理と手続きは技術支援員の井須さんが、研究室が抱えている様々な届け出書類の処理は特任助教の近藤さんが、そして、消耗品類の整理は3人が力を合わせて、という具合に、それぞれが持ち場を決めて迅速に作業を進めてくれました。持つべきは、本当に信頼のおけるスタッフですね。
しかも、若林准教授の日ごろの行いがいいためか、彼の転出が決まる前に、若林研に特任助教として苗加君が着任しました。スイスでポスドクをしていて帰国したばかりでしたが、着任してすぐに始まった研究室の移動・撤収騒動に慌てることなく、着々と作業を進めてくれました。このようなマネジメント能力の優れた若者、いるんですねえ。
もちろん、私の研究室から巣立った吉田准教授は近くにいるので、大活躍してくれたのは言うまでもありません。さらに、救いの手を差し伸べてくれたのは、私が28年間お世話になってきた研究所です。超遠心機や低温室、植物培養装置など私が持っていた大型備品は、今後研究所の共同利用設備として活用する、とのことで、大きな移動をしなくてもいいようにしてくれました。この手続きと作業に尽力してくださった山元所長と安全担当事務の塩崎さんには、本当に頭が下がります。ありがとうございました。
こうして、2月の修士論文発表会が終って以降、本格的に備品の運び出し、什器類の撤去、消耗品の処分などを研究室一丸となって進めました。当初は1年で達成するのは不可能ではないか、とも思えた研究室の撤収作業でしたが、何とか目標の3月中にほぼ作業を完了することができました。お陰で、3月21日の最終講義と研究室の同窓会は、まさに後顧の憂いなく迎えることができました。
研究室の最後の撤収を実行してくれた仲間たち
心から感謝します!
定年と研究室の撤収は、すべての研究室PIに必ずやってくる一大イベントです。幸い、私は多くの人の助けで、このイベントを無事に乗り切ることができました。でも、そのためには多くの大学人が抱える問題を解決しなくてはなりません。それは、どの研究室でもたくさん抱えている書類と本です。これだけは、人任せにはできません。全部捨てるなら別ですが・・・。
私は、昔から本を捨てられない人で、学会の機関誌なども学生時代に入会してからずっと保存していました。もちろん、途中に異動などがあるとさすがに持って行けないな、と諦めて処分したものもありますが、ずいぶんと長いこと貯めていました。また、学会の要旨集のように自分の書いたものが収録されたものは、なおのこと保存していました。秋になってようやく決心がついて、学会誌は処分しました。要旨集は、背表紙を切り落として紙束にしてから、ソーターのついたスキャナ(コピー機の機能です)にかけて電子化することにしました。面白いもので、1冊このようにして処理すると、勇気が湧いてきます。次は、ソフトカバーの本を電子化することにしました。そして、最後はハードカバーの本。こうして書棚を埋めていた本はほとんどハードディスクの中に納めることができました。結局、定年の最後の3か月くらいは、私自身は夜の内職のようにこの作業を毎日することになりました(昼間は、学生さんが他の作業に使うので)。退職した多くの先生が、自宅にたくさんの段ボール箱を持ち帰った、という話を聞くにつけ、今の時代は電子化こそ最善の解決策、と思います。今から思うと、もっと早くにこの作業始めていたら、私は最後の数か月の時間をもう少し有効活用できたのではないか、と思っています。
※卒業生が心配するといけないので念のために書いておきますが、きちんと製本した博士論文はさすがにそのまま保存してあります。
東工大での28年の教員生活、振り返れば、その時々で書き留めておくべきことは山のようにあります。私にとっては、すべてが貴重な思い出であると同時に、ある時には他の人のちょっとした羅針盤になったり、研究者として生きていくうえでのTIPSになることがあるかもしれません。
そんなことを思いながら、ここ数日間でこれまでを振り返り、思い浮かんだことを書き留めてみました。このWebページは、これからも書き溜めていくつもりです。いずれ、自分史として完成する日が来るかもしれません。できれば、人生最後の日より前に「完」の日がやってくることを期待していますが、マラソンのゴールテープと違って、人生のゴールテープは自分が頑張った分だけ先へ先へと移動しちゃいますから、どこまで行ってもゴールは来ない、ということになるかもしれません。
ともあれ、大学で研究を始めてから44年、大学人としてこれまで「日々是好日」であれと努めてきましたが、今日この日を迎えて「日々是好日」でした、と締めくくりたいと思います。ここまで読んでくださってありがとうございました。
2023年3月21日 久堀 記す