台湾近代教育の先駆者「平井数馬」とその時代
平井数馬顕彰会会長
(元熊本県立大津高校校長)
白 濱 裕
台湾最大の半導体製造企業TSMCの熊本進出に伴い、熊本県内の自治体と台湾諸都市との友好交流協定の締結が相次ぎ、熊本はまさに「台湾ブーム」の様相を呈しています。
しかし、「ハイテク国家台湾」の淵源が、「教育を最優先すべし」と、日清戦争直後、日本全国から六人の優秀な志ある人材(六氏先生)を台湾に派遣し開始された「芝山巌教育」にあることを知る人は多くありません。
台湾の近代教育の始まりは、明治28(1895)年我が国が日清戦争に勝利し、台湾統治が始まった時です。当時の文部省学務部長心得の伊澤修二(東京師範学校校長、「小学唱歌集」編纂者)は、台北北郊の士林に「芝山巌学堂」という台湾で最初の学校を開き、現地台湾人子弟の教育に当たりました。
この頃の台湾は、日本人を敵視する匪賊が盤踞し、また、「瘴癘(しょうれい)の地(伝染熱病の地)」とも呼ばれ、台湾に出兵した日本兵約五万の約半数がマラリア、赤痢、コレラなどの伝染病に冒されるほどの危険な土地でした。そのような中、六人の教師たちは、「台湾の教化は武力の及ぶ所ではなく、教育者が万斛(ばんこく)の精神を費やし、数千の骨を埋めて始めてその実効を奏することができる」(伊澤修二)として、台湾人生徒と寝食を共にし、心魂を込めて日本語教育だけでなく、日本の礼儀作法も教え込んでいきました。
(C)増田理子
ところが、翌明治29年元旦、六人の教師と一人の用務員が台湾総督府における新年の拝賀式に出席するため、芝山巌を下山しようとしたとき、約百人の「土匪」(抗日ゲリラ)に取り囲まれます。周辺住民は数日前から教師たちに再三退避を勧めていましたが、「もとより教育とは命がけのもの」として芝山巌学堂を離れませんでした。六人は教育者として諄々と道理を説きますが、ついに匪徒は槍を持って襲いかかり、全員惨殺されてしまいます。
その六人の教師の名は、楫取(かとり)道明(山口県37歳)、関口長太郎(愛知県36歳)、桂金太郎(東京府26歳)、中島長吉(群馬県25歳)、井原順之助(山口県23歳)、そして最年少の平井数馬(熊本県17歳)であり、後に「六氏(士)先生」と尊称されました。
ちなみに、リーダー格の楫取道明の父、楫取素彦(別名・小田村伊之助)は吉田松陰が信頼した盟友の一人で、初代群馬県令を務めました。母、寿は松陰の妹であり、従って、楫取道明は松陰の甥にあたります。明治維新の胎動をもたらした吉田松陰の「松下村塾」の精神は、台湾の芝山巌学堂における楫取道明を始めとする、六氏先生の身命を賭した教育に継承されたと言っても過言ではありません。
さて、その「六氏先生」の一人、僅か17歳で非命に斃れた平井数馬は、明治11(1878)年8月、下益城郡松橋町で生まれ、その後、熊本市水道町に移り住みました。藪ノ内町(現城東町)の熊本高等小学校卒業後、私立中学済々黌へ進学します。この頃から星野道場で柔道を習い、済々黌を明治28年3月に卒業しています。16歳の時、日清戦争が起き、支那語通訳官が不足していたことから一時、速成通訳官養成機関として九州学院(濟々黌を含む、在熊私立四校が合併)におかれた支那語科で、明治28年1月から4月まで約三か月間、支那語を学び卒業しています。
同年、下関条約で台湾が日本領土となると、台湾総督府は、6月通訳官募集を内地で行い、数馬はこれに応募して合格しました。8月、数馬は台湾総督府民政局内務部採用の辞令をもらいますが、すぐ民政局学務部に転属となります。これは伊澤が「新領地台湾教育ノ方針」で教員について「通訳官を以て教員に充てるべし」と記しており、中島長吉に続く二人目の通訳官教師となりました。数馬は、芝山巌学堂において、授業のほか、教師用・生徒用の台湾語の教科書や日台会話の教科書作成にも尽力し、台湾における最初の日台辞書の編纂者となりました。
このように数馬は、中学済々黌に学び、語学のみならず、柔道・剣道等文武にも秀でた俊才であり、土匪に襲われた際も、土匪を組み伏せ敢闘奮戦したという逸話が残っています。
ところで、数馬のような進取の気象に溢れた海外雄飛の志は、濟々黌のどのような教育理念によって育まれたのか考えてみると、やはり、創立者佐々友房の建学の精神に辿りつきます。『克堂佐々先生遺稿』には、
「予が明治十六年の頃、支那学の一科を設けしも、是れ全く進取の気象を発達し、冒険的の思想を養成せんと欲する教育の一点にして、爾後、黌を出て支那に遊学せし者、今日に至っては殆ど二十名に及ぶ。是れ恐らくは全国其比を見ざる可し。」(「佐々前済々黌長送別始末」)とあります。
佐々友房の期待通り、実際、日清戦争に従事した中国語通訳官のうち、熊本・福岡を中心とする九州出身者が実に全国の半数以上を占め、第一位の熊本では、その大部分が濟々黌を始めとする「熊本国権党系集団」であったと言われています。
このように、「六氏先生」の芝山巌学堂における教育は一年にも満たないものでしたが、悲報が内地に伝わるや、その遺志(「芝山巌精神」)を継承すべく、全国各地から陸続として有志の教師達が渡台し、台湾全土で献身的に子弟の教育に従事しました。その結果、明治37年には、わずか3.8%に過ぎなかった台湾人児童の就学率が昭和19年には、71.17%を超える世界で最も高い水準の就学率を達成したのです。
本県からも、平井数馬先生に続けとばかり、「大甲の聖人」として台湾の人々に今なお尊敬されている益城町出身の志賀哲太郎を始め、多くの教師が渡台し、大正後半以降、台湾における公学校、小学校教員のほぼ一割を本県出身者が占めていたと言われます。このように台湾の近代教育の礎は、平井数馬や志賀哲太郎を始めとする熊本人の血と汗の努力によって築かれたと言っても過言ではありません。
戦後、本県においては、台湾で教育に従事した教師達によって作られた「熊本芝山巌会」によって、熊本市立田山麓の小峯墓地にある平井家墓地に顕彰碑が建てられ、戦前2月1日に、台湾芝山巌神社で斎行されていた祭典にちなんで、平井数馬を慰霊顕彰する「英魂祭」が挙行されてきました。また、平成21年には、台湾の李登輝元総統が小峰墓地に墓参を果たされ、その偉功を讃えられました。
現在も、その志を継ぐべく、「平井数馬顕彰会」が主宰して慰霊顕彰祭や講演会などを開催し、ご遺族を始め濟々黌歴代同窓会長にも参列いただいています。令和7年2月1日には、「平井数馬歿後130年祭」を開催し、多くの参列者を迎えることができました。また、歿後130年を期して『六氏先生最年少 平井数馬伝』を刊行し、県内のみならず全国から問い合わせをいただいています。
平井数馬は、若くして散華し、時代も遠く遡ることもあり、書き残したものや資料を基にした研究もこれからです。しかし、平井数馬の教育に対する純粋な情熱と進取の気象は、教師を目指す人々のみならず、ともすれば志を見失いがちな同世代の若者にとって勇気を与え人生の道しるべになると信じています。
(追記)
熊本と台湾の架け橋となった人物には、父親が宇土市にルーツを持つ湯徳章(坂井徳章)や、益城町出身の志賀哲太郎などがいます。
湯は日本人の父と台湾人の母との間に生まれ、中央大学法科を卒業。台南市で弁護士として活躍し次期台南市長と目された人物でしたが、終戦直後、国民党による粛清(二・二八事件)で市中引き回しの上処刑されました。その際、最後まで同志活動家の名を告げず、結果、多くの台南の有力者の命が救われ、人的損失を免れることができました。頼清德台南市長(現総統)は、湯を台南の英雄として顕彰し、命日を「正義と勇気の日」と制定しました、
令和7年3月、宇土市は、台南市と友好交流協定を結びましたが、調印式で元松宇土市長は、「今後は徳章さんを架け橋として交流を深めていきたい」と挨拶し、地元ライオンズクラブが作成した湯徳章のマンガ本を宇土市の小学生に配布するなど、学校教育にも取り入れられてきていることは意義あることだと思います。
冒頭に記しましたが、今日のTSMCに象徴される「ハイテク国家台湾」や法と秩序を重んずる「民主主義国台湾」の基礎が、教育者平井数馬や志賀哲太郎、弁護士の湯徳章など、本県出身の先人の尊い犠牲の上に築かれたことを改めて認識し、本県と台湾の交流が一層盛んになることを願っています。。