夏に溶ける

 プシュー……と音を立てて電車の扉が開く。冷房の効いた室内にむわりとした熱気が入り込む。その感覚に顔を顰めながら、熱波の中へと歩みを進めた。

 電車から降りると、肌からはぶわりと汗粒が溢れ出し、制服のシャツが肌に張り付いた。熱した油で水滴がはじけたように暑苦しい蝉の合唱がジリジリと響き渡る。


 ……暑い。


 夢幻境にいた頃は土地柄か、神の加護からか。ここまでの暑さの中に放り込まれることは無かったから、このベタつくような不快感には未だ慣れない。降り立って改札を抜け、徒歩数分。目的地は探さなくとも目につく巨大なビルだ。かつて救世主と謳われたという「エスケル」本社だ。

 受付を早々に済ませ、エレベーターに乗り込む。そして目的の階で降り、見慣れたドアの前で立ち止まる。

 そして、ガチャリとドアを開けた。そこには最新鋭の実験機器が備わっており、物々しい雰囲気だ。そんな中で目的の人物を探すと、その人物は机に突っ伏す形で盛大に昏倒していた。


「……茅、おい。朝だぞ。…いや昼か。」


 軽く揺すってみたものの全く起きる気配はない。……茅がそういうつもりならば仕方ない。俺は悪戯の口実を得た子供のように、にやりと笑うと持ち込んだ弁当袋の中から保冷剤を取り出し、それを容赦なく茅の首筋に当てた。途端、目の前の巨体はびくりと震え、声を上げる。


「……ッッ冷た、は!?ピーター!?」


「はは、やっと起きたか。随分お寝坊さんだなぁ茅?」


 挑発するように先程当てた保冷剤をゆらゆらと揺らすと、茅は一瞬ムッとしたように顔を顰め、普段は自身の視点より上にある色素の薄いその瞳が恨めしそうに睨みつけてきた。……まあ、そんな顔をされても怖くなんてないんだが。

 

「起こすにしてももっと他に起こし方があるだろう!!」


「そうか?揺すっても声かけても起きなかったからなぁ?ほら、これ浅碁からの差し入れ。」


 怒る茅を適当にいなし、持ってきた弁当を茅の目の前に置く。最近エスケルでの仕事が忙しくてまともに連絡もとれないから、「研究に没頭してまともに飯も食ってないんだろう。持って行ってやれ。」という浅碁の気遣いだ。目の前に置かれた弁当を見て、身体の方は空腹を思い出したのか、茅の腹はグー、と情けない声を上げた。その音を聞いて、茅は「そういえば昨日から何も食べていなかったかもしれない。」と呟く。


「まあそんなことだろうと思った。浅碁が心配してたぜ。食ってるにしても福神漬けだけ食ってて栄養バランスが崩れまくってるんじゃあないかってな。」


 少し大げさな身振りでお道化たように言えば、「うっ」と図星を付かれたような反応をした。


「い、いや。福神漬けは確かに美味いがあくまで名脇役であって主食では……。ああ、まあいいか。そういうことなら有難くいただくことにするよ。」


 そう言って弁当を広げ始めた茅を横目に、近くに置いてあった椅子の背を前にするようにして座る。実験室の中はクーラーが効いていて非常に涼しい。カブレットではこういった機械の類はなかったから、便利な一方で使い方に戸惑うことも多かった。初めはハルと二人で料理をしようとして、電子レンジに生卵を殻付きのまま入れて爆発騒ぎを起こしたことも記憶に新しい。流石にあの時は生きた心地がしなかったが。

 そんなことを思い出しながら茅の食事風景を眺めていると、不意に茅が箸を止めた。


「そういえばピーターは学校に通い始めたんだったな。どうだ、馴染めそうなのか。」


 そう問いかけられ、学校での生活を考える。転入初日は自分と年の近い”人間”がずらりと部屋の中に詰め込まれた異様さに、柄にもなく奇妙な緊張感を抱いた。教壇の前で自己紹介をすれば好奇の視線を向けてくる人間に、見世物にされているような不快感を抱いたのも事実だ。疑心暗鬼の中、こいつらをどう利用すれば平穏に過ごせるか考えていると、隣の席に座ったいかにもインドアで大人しそうな眼鏡の男子生徒が声をかけてきた。


『あの……ピーター君って将棋とか興味あったりする?』


 将棋というものについては良く知らなかったが、聞けばチェスに似た遊びらしい。話を聞けば、今年で部活の先輩が引退してしまうため、部の存続のためにはあと一人、部員が必要らしい。元々部活に入るつもりもなかったが、盤上遊戯には関心があったため、まあ入るのも悪くないかもしれない。そうやんわり伝えると、先程までのおどおどとした口調から一転、目の前の青年は嬉しそうに瞳を輝かせ始めた。そしてあれよあれよという間に入部の手続きが進み、今ではそいつと一緒に過ごすことが多くなっていた。



「まあ、利用しやすい手駒は一つ手元にあるかもな。」


 絶句。その言葉にピッタリの表情で茅の動きが止まる。浅碁特性のミニオムレツがぽとりと力なく弁当箱に落下した。


「ま、まさかお前、自分のクラスメイトに自分の力を……。」


 端正な顔を引き攣らせ、此方を凝視してくるその反応が面白いためもう少し揶揄ってやろうかとも思ったが、ありもしないことで信用を損なうのも本意ではないので、肩をすくめて「冗談だ」と伝えた。目に見えてホッと息をつく茅に、相変わらず自分以上に人のことを気にかけてしまう性分は変わらないんだな、と漠然と思った。


「はあ……。あまり冷や冷やさせないでくれ。お前なら案外やりかねないかもしれないと思ってしまっただろう。」


「何だ、心配してくれたのか?優しいな茅は。」


「優しい……というか、君をここまで連れてきたのは僕たちの責任だからな。大人として最後まで面倒をみるのは当然の……。」

 そこまで話したところで茅の動きが止まる。そして自身の意志で身体が動かせなくなってしまったことに気づき、驚いたように目を見開く。雪原の広がる大地に淡い紫色のオーロラが浮かんだような、透き通った瞳。


「安心していいぜ。俺がこうやって魅惑を使って揶揄うのは……茅、アンタだけだからな。」


 優しく頬を撫で、微笑む。そしてその額に軽く唇を落とした。そこまでしたところで、俺はゆっくりと魅惑を解除する。そして冗談混じりにパッと手を離し、茶化すように笑った。


「……なーんてな、茅。少しはドキドキした……か…って。」


 少しは動揺を誘えただろうか。そんな風に思って再び顔を覗き込む。


 そこには、瞳を左右に彷徨わせ、腕を唇に当てて必死に赤面した表情を隠そうとする茅の姿があった。その姿に思わず固まる。


「ば、バカが……。」


 絞り出すように紡がれた幼稚な罵倒に、気づけば俺は茅の手首を掴み、唇を奪っていた。

 




 夏に溶ける





 この暑さは、一体何処から来たものだったのだろうか。一陣の風が、返事をするようにどこかから吹き込んだような気がした。