小さな教会の庭園。その入口に立ち、その外観を眺める。寂れて経年劣化した建物に、似つかわしくないほど丁寧に手入れが行き届いた花園。一歩足を踏み入れれば、曇り空の中、ぶわりと風が吹く。そして何処か心を落ち着ける甘い香りが鼻腔を擽った。
色とりどりの薔薇の中を進み、不意に目を引く一輪の赤。生命力を感じさせる、赤。立ち止まり、無意識に、魅惑されたようにそれに手を伸ばす。
「……いッ……。」
チクリと走る鋭い痛み。痛みを受け取った指先は、皮膚が破れてぷくりと玉のような血涙を溢れさせる。そして赤は、次第に黒ずんでたらりと指を伝い、ゆっくりと流れ落ちた。
「あら、あなた……。」
背後からかけられた声にびくりと肩を揺らす。そこにはどこか彼女の面影を残した老婦人が、日傘の下から不思議そうに此方を覗き込んでいた。
帰るべき場所
「ふふ、それにしても驚いたわ。連日この小さな庭園にお客様だなんて。」
消毒を済ませ、俺の指先に小さな絆創膏を巻いた後、老婦は嬉しそうに微笑み日陰に置かれた椅子に腰掛ける。そして、冷却ボトルに入った紅茶を透明なティーカップに注ぎ、此方へ差し出してきた。礼を言ってそれに口をつけ、喉へ流し込む。すると、ひんやりとして爽やかな花の香りが口の中に広がり、火照った身体を冷やしてくれた。
「すみません。……その、勝手に入ってしまって。」
「あら、いいのよ。この子たちも誰かに……ピーターくんに見てもらえた方がきっと嬉しいわ。」
穏やかに花を愛でる老婦の横顔に、かつてマリアに本を読み聞かせてもらった時と同じ、寂しげな雰囲気が漂う。その姿にざわりと胸騒ぎを覚え、つい「マリア」と口をついて出た。その言葉に、老婦は驚いたように目を丸くする。
「……真愛のことを知っているの?」
「あっ、いや……。そのマリアには以前色々と世話になったことがあって、横顔の印象がどことなく似てたからつい…。」
「真愛は生きているの……!?真愛は一体何処に……。」
ガタリと勢い良く立ち上がったことで、椅子が音を立てて倒れる。その音でハッとしたのか、彼女は椅子を戻して再びそこへ腰掛けた。
「……ごめんなさいね。本当は分かっているの。彼女がもう私たちに会う気はないことも、どこかで自分の人生を歩んでいるってことも。けれど……真愛は、その時真愛は幸せそうだった?元気に過ごせていたかしら。」
幸せ。
……幸せ?
彼女は幸せだったのだろうか。
自身が彼女と過ごした12年間の記憶を必死に手繰り寄せ、探る。しかし、記憶を辿れど辿れど、自身と過ごしている時の彼女の表情を思い出せない。彼女があの花が好きだったことすら、花を見て微笑むことすら、最後の晩餐と言われたあの日まで知らなかった。
聖下と対峙した時、最後の瞬間に奴に見せた笑顔。あれがきっと、彼女にとって、心の底から「幸せ」だった瞬間なのだろう。人間の幸せを本当の意味で理解しているのかよく分からない俺にすら分かる。
……一度もなかった。そんなものを見たことは。俺に向けてくれたことは。
記憶の中の彼女が浮かべるのは、どこか寂しそうな横顔と、恐怖に怯えた表情。ただそれだけだ。
あの表情が幸せと認めることは、其れ迄が幸せでないことと。満たされていないことを指し示すことで。俺はマリアに必要とされていなかったことと同義で。
彼女が幸せであれば良い、という純粋な気持ち。何故奴にそんな表情を向けるんだ。裏切られた?捨てられた?そんな理解を拒む心が、チリチリと胸を焼いた。
見たことのない慈しむようなそれを向けられる奴が憎い。ずるい。悲しい。見てほしい。俺を。俺だけを。頑張った。頑張ったんだ。多くの人間を、死へ導いた。マリアとしあわせになるために。どんなに糾弾されようと、悪魔だと罵られようと、一向に構わなかった。何故ならこれは、彼女を救い、手に入れるための「正しい行い」なのだから。だから、だから。俺だけを。俺を見て。俺だけを、俺だけを、俺だけを。
落胆の青と流れる悲痛な赤。そんな混沌とした感情が地に落ちて、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられ、ドス黒いヘドロのように胸にこびりつく。毒素を帯びたそれは、テープで何度も何度も無理やり貼り付けた、古びたガラスのように不恰好だ。
やがて破片となったそれは、胸の奥の紛いものの心に突き刺さり、傷口をヒリヒリと蝕んだ。
黙り込んだ俺の姿を見かねてか、老婦は眉を下げて微笑みかけてくる。
「ああ、ごめんなさい。真愛はもう1人で、自立して生きているのだもの。今更私がどうこう言うことではなかったわ。……あなたが辛いなら、無理に話すことはないのよ。ほら、甘いものでも食べて、お庭でも眺めて。」
勧められるまま、彼女の手作りであろうスコーンに口をつける。バターの香りが漂い、香ばしいはずのそれは、何故か土を食んだような食感で、味がしなかった。そうして俯きがちに必死に溢れ出す感情に蓋をする。しようとした、その時。不意にぽんぽん、と何か温かいものが頭に触れる。
「……頑張ったわね、ピーターくん。」
その柔らかい声音に、驚愕し、顔を上げる。そこでは彼女がどこか悲痛な表情で、けれど安心させるように微笑んでいた。戸惑いと同時にぼろぼろと、紛いものの涙が溢れ出す。
「……あなたに何があったのか、詳しいことは私には分からない。けれど、これだけは言えるの。あなたは、何も悪くない。そんな風になるまで、一人で抱え込んで、頑張ってきたのね。」
ダムが決壊したように零れるそれは、止めようとすればするほど、行動と反比例するように溢れ出した。抑え込んだ感情が、欲求が、形を変えて、受け皿を求めて、頬を伝う。そして、労わるようなそんな言葉を、許しを拒絶するように、俺の口は勝手にこう言い放った。
「アンタに、何が分かるんだ。」
自嘲してしまうほどに幼稚な八つ当たりだ。しかし言葉にも動じず、彼女はただ優しく微笑み、まっすぐにこちらを見つめてくる。
「……分かるわ。今のあなたの表情は、瞳は、私が真愛の必死の想いで紡いだ言葉に、耳を貸さずに拒絶してしまったときの彼女のものと同じだもの。」
そう言ってそっとハンカチで涙を拭われる。
「きっとあなたも大切な人に何か、想いを伝えたかったのね。感情を受け取って、理解して、認めてほしかったのね。……きっと、真愛もそうだった。」
その瞳には、深い後悔の色が滲んでいた。彼女はマリアにしてやれなかった贖罪を、代わりに俺にしているのかもしれないと、制御の利かない思考を放棄して、どこか他人事のように思った。以前ならその代替行為を偽善だと冷笑し、人間は愚かだと切り捨てていただろう。けれど、今なら分かる。分かってしまう。人間は、一人では生きていけない。その弱さ故に、愛を求める。友愛、家族愛、愛慕、慈愛……形こそ様々あれど、それを見失った人間は、苦しみ、藻掻き、時に破綻し、時に金や快楽に身をゆだねていった。そんな姿を、多くの人間たちを、そしてあの三人を通して、確かに目にしてきた。
求めて手に入れられないものは、別のもので埋めるしかない。そんな、かつては軽蔑した考えは、よくよく考えれば自分にも当てはまっていたのかもしれない。親が欲しいなどと思ったことはないが、人間で言うそれを、マリアに代替して求めていたのかもしれなかった。知った以上、手放すことは、できなかった。
そして今、彼女から向けられる偽善に、安堵している自分がいる。人間紛いの自分にも、確かにその血が流れていたのか、と涙でぼやける視界の中、小さく嗤った。
・・・
「また何か辛くなったら、ここに来て。今度は、ほかの4人も一緒に。……あの4人がいる場所が、きっと今のあなたにとっての居場所。帰るべき場所なのよね?」
その言葉に、こくりと小さく頷く。年甲斐もなく泣きじゃくったせいで、目が痛い。けれど不思議と清々しい気分だ。空を見れば、来た時の雲は嘘のようになくなり、晴れ渡っている。
「ふふ、それならまたお菓子を用意しないといけないわね。……きっとあなたなら、前に進めるわ。」
そう優し気に笑う彼女は確かにマリアの面影はあったが、彼女と重なって見えることは、もうなかった。
ゆっくりと庭園のゲートをくぐり、帰路につく。遠くからは心配して俺を探していたのか、馴染みのある声が聞こえてくる。その声に小さく笑い、そしてじわりと胸に温かいものを抱きながら、自身の選んだ帰るべき場所へ。日常へと溶けていった。
ーーReturn. To the place where I need to go