【目次】
●『柳生家随一の達人 元祖 津田武左衛門直勝』
藤堂藩において有名な新陰流の達人の一人として津田武左衛門直勝がいます。柳生家出身で「小太刀の名手」といわれた初代武左衛門は新陰流兵法指南役として召し抱えられ500石の石高を誇りました。藤堂家や重臣をはじめ多くの藩士を指南して藤堂藩での新陰流の根幹となりました。養父の柳生源太夫三秀(杖師玄斎)は武勇と剣技に優れ、特に杖術において柳生十兵衛との大きな関係性も確認されるほか、柳生家臣として重大な任務や使命をこなしました。祖父の柳生喜七郎も高い武芸の才があり、曽祖父の松吟庵は柳生石舟斎の叔父である。武左衛門は、藤堂藩柔術指南役である関口流 津田道之助の養子となって津田姓となり同家は幕末まで代々新陰流兵法指南役として務めました。柳生家随一の達人と言われた武左衛門直勝といえど、将軍家をはじめとした徳川家の御流儀たる新陰流兵法の呼称を使うことは柳生家から強く禁止されていました。当初は自ら工夫した「截組」や「小太刀」を指南していましたが、第三代藩主 藤堂高久公、第四代藩主 藤堂高睦公の尽力で元禄16年頃に「新陰流兵法」の呼称を正式に使うに至りました。津田家の伝えた新陰流では「元祖武左衛門工夫ノ業」として初代武左衛門独自の「截組九本」や「小太刀三本」も伝承し剣技の研鑽に努めました。
柳生宗冬からの仕官要請には、病気を理由に辞退しており、養父の死後は、柳生姓から志貴与総右衛門と改名したり、江戸柳生家とは距離を置く一方で、栁生十兵衛からは、月之抄の写しを許されたり、津田家の新陰流の伝書には、津田武左衛門直勝の師は養父 柳生源太夫三秀であり、その師が柳生十兵衛三厳とある。
伊賀の藩校(崇広堂)
【出典・参考】
『伊賀市史』通史編 第二巻 第三巻
『名張市史』
『津藩分限役付帳』名張市所蔵
『御学館内絵図』伊賀市上野図書館蔵
『藤堂藩の新陰流兵法』村林正美(鳥羽商船高等専門学校)
『家系並流儀之覚書』(寛政8年)津田三貴
『玉栄捨遺』
『増補 藤堂高虎家臣辞典附分限帳』佐伯朗
『藤堂高虎と家臣逸集』佐伯朗
【協力・監修】
伊賀市上野図書館
新陰流兵法 碧燕会
●『石舟斎も頭上がらぬ剣豪 松吟庵』
柳生七郎左衛門重厳 (松吟庵)は、家厳の弟、宗厳(石舟斎)の叔父である。
※松吟庵は石舟斎の弟などの説を見受けるが、天文三年 丹生神社奉納現存の大般涅槃経の奥書に「奉寄進本願 松吟庵長虞敬白」とある(重要文化財として正式に認められたものである)。天文三年は、石舟斎五歳、家厳三十五歳。
松吟庵は、若年の頃、大和の室生寺に入って、山伏兵法を習い、その後諸国を武者修行。京都で京流、越前一条谷に伝わる中条流を学ぶ。又、香取勘十郎に学び、石舟斎に指導する。
津田宗達に用心棒として雇われる。
津田宗達を介して松永久秀と知り合い、茶の友として交際する。
松永久秀が多門山城、志貴城を支配していた時、身辺を狙う輩があり、身辺護衛のため腕のたつ者として松吟庵、神内兵衛(松吟庵の弟子)、林崎甚助が護衛に付く。
林崎甚助に師事し、居合術にも一境地を開く。
津田宗達を介して津田宋及や千宋易と茶人として交際する。
剣の達人として子弟の養育を行う。
長女 南都衆水の坊に嫁す。
長男 興福寺長職坊
次男 喜七郎宗直 松吟庵の跡を継ぐ。
柳生喜七郎宗直は、幼くして石舟斎と共に、父松吟庵について兵法を学び、当時ひとかどの兵法者であった。石舟斎の片腕として仕えた。
十七歳の時、父の勧めで諸国修業に旅立ち、京都で知り合った吉岡剣法の縁者の女性と結婚。
嫡男 源太夫三秀
長女 笠置村郷士森島又七郎に嫁す。
次男 喜七郎頼房(吉兵衛宗房)
柳生源太夫三秀は、柳生藩内抗争で寛永十八年二月八日紀州藩剣術指南役木村助九郎の子、吉兵衛と共に村木茂作の子を殺害。宗矩は、後のいざこざを避ける為に、藤堂藩江戸屋敷へ源太夫を預け新陰流の指導に当て、ほとぼりのさめるのを待った。
宗冬の代に、知行百石で柳生に戻り新陰流の弟子への指導を行う。
祖父(松吟庵)、父(喜七郎)から受け継いだ業の研鑽に励み杖術に取り組み、柳生杖を完成し、杖師玄斎となり、三百石となる。
柳生 七郎左衛門重厳 (松吟庵)
柳生 喜七郎宗直
柳生 源太夫 三秀(杖師玄斎)
元祖 津田 武左衛門 直勝
津田 源太夫 勝辰
津田 武左衛門 勝章
津田 武太夫 三全
津田 武左衛門 三省
津田 武左衛門 三友
津田 武左衛門 三鑑
津田 武之助 三昭
津田 収
津田 脩一(第二次大戦にて戦死)
津田 武雄(第二次大戦にて戦死)
津田 清
津田 和則
津田 武左衛門 正和
【出典・参考】
『伊賀市史』通史編 第二巻 第三巻
『名張市史』
『津藩分限役付帳』名張市所蔵
『御学館内絵図』伊賀市上野図書館蔵
『藤堂藩の新陰流兵法』村林正美
『荒木保明家譜』鳥取県立博物館蔵
『増補 藤堂高虎家臣辞典附分限帳』佐伯朗
『藤堂高虎と家臣逸集』佐伯朗
【協力・監修】
玄忠寺
荒木又右衛門記念館
伊賀市上野図書館
新陰流兵法 碧燕会
●『新陰流第二世 柳生石舟斎の孫 柳生九左衛門宗次』
新陰流第三世 柳生兵庫助(石舟斎の孫)は、尾張藩御附家老・成瀬隼人正の推挙を受けて尾張大納言 徳川義直の兵法師範として仕えました。 同じく成瀬隼人正の肝煎で藤堂藩に三百石で召し抱えられた石舟斎の孫がいます。 石舟斎の次女が嫁いだ大塩九左衛門の子で、母方の柳生姓を許された柳生九左衛門宗次です。 大坂両陣では藤堂主膳吉親(藤堂高虎の家老)組に所属し、百石加増される働きをしています。
【出典・参考】
『伊賀市史』通史編 第二巻 第三巻
『名張市史』
『津藩分限役付帳』名張市所蔵
『御学館内絵図』伊賀市上野図書館蔵
『藤堂藩の新陰流兵法』村林正美
『荒木保明家譜』鳥取県立博物館蔵
『増補 藤堂高虎家臣辞典附分限帳』佐伯朗
『藤堂高虎と家臣逸集』佐伯朗
【協力・監修】
玄忠寺
荒木又右衛門記念館
伊賀市上野図書館
新陰流兵法 碧燕会
●『新陰流を修めた藤堂家臣 佐伯権之助惟定』
藤堂家臣の佐伯権之助家初代・惟定(これさだ)は、新陰流と縁があった様です。惟定は藤堂高虎に仕えて慶長の朝鮮役、大坂両陣に従い、その功により禄は四千五百石に上りましたが、若年の頃、新陰流 正統第二世となった柳生石舟斎の一番弟子といわれる大野松右衛門(後に柳生姓を賜り柳生松右衛門を名乗る)から印可状を与えられています。原本は関東大震災時の火災にて焼失しましたが、明治期に東京帝国大学史料編纂掛史料編纂員だった辻善之助氏(後に、東京帝国大学名誉教授)が、三重県津市の古文書を調査した際に作成された「佐伯惟幸氏所蔵文書一覧」に「柳生松右衛門尉印可状」(天正十九年)が含まれており、同記録は東大史料編纂所に現在も保管されています。
【出典・参考】
『伊賀市史』通史編 第二巻 第三巻
『名張市史』
『津藩分限役付帳』名張市所蔵
『御学館内絵図』伊賀市上野図書館蔵
『藤堂藩の新陰流兵法』村林正美
『荒木保明家譜』鳥取県立博物館蔵
『増補 藤堂高虎家臣辞典附分限帳』佐伯朗
『藤堂高虎と家臣逸集』佐伯朗
【協力・監修】
玄忠寺
荒木又右衛門記念館
伊賀市上野図書館
新陰流兵法 碧燕会
●『伊賀国出身の剣豪 荒木又右衛門』
伊賀服部郷 荒木村出身の荒木又右衛門は、幼少から中条流や神道流を学んで剣術の腕を磨き、後に柳生宗矩やあるいは柳生十兵衛の下で新陰流を学んだといわれています。郡山藩に取り立てられる前の空白7年間といわれる時期が新陰流修行の期間であったともいわれています。又右衛門は卓越した技量から大和郡山藩の剣術指南役250石に取り立てられました。藩主は将軍徳川家康の孫で後に養子となる松平忠明であり剣術家としては大きな誉れでありました。しかし寛永10年、義弟の助太刀の嘆願を遂に承諾した又右衛門、高禄を捨てて藩を出て有名な「鍵屋の辻の決闘」へと挑みます。仇討ちの相手である河合又五郎を護衛するのは総勢11人(講談では脚色され36人斬り等と言われています)尼崎藩槍術指南役 “霞の半兵衛”こと桜井半兵衛や、郡山藩 剣術指南役の河合甚左衛門といった達人を寛永11年11月7日に討ち取り、仇討ち成就に導きました。仇討ち成就の1年後、戸波又兵衛に新陰流に入門するという形の起請文を起こしました。起請文に書かれた流儀名は「新陰流兵法」と堂々と書かれており書は藤堂新七郎家にて保管されていましたが現在は伊賀越資料館(休館中)にて展示されています。この起請文は何らかの理由で破門扱いであった荒木又右衛門の再入門を世に宣言するものではないかという説もあります。当時、徳川家の御流儀たる新陰流の剣士が天下を騒がせる仇討ちの中心人物となることはとうてい許されぬものとして、その接点は秘匿抹消されてきた可能性を示唆しています。また荒木家は又右衛門のみならず新陰流とのゆかりが深く、寛政7年2月に六代目 荒木平馬が柳生但馬守へ入門するよう命じられており、同年8月に但馬守から将軍へ三本之太刀が伝授された際に荒木平馬も同様に伝授を受けたといわれています。
【出典・参考】
『伊賀市史』通史編 第二巻 第三巻
『名張市史』
『津藩分限役付帳』名張市所蔵
『御学館内絵図』伊賀市上野図書館蔵
『藤堂藩の新陰流兵法』村林正美
『荒木保明家譜』鳥取県立博物館蔵
『増補 藤堂高虎家臣辞典附分限帳』佐伯朗
『藤堂高虎と家臣逸集』佐伯朗
【協力・監修】
玄忠寺
荒木又右衛門記念館
伊賀市上野図書館
新陰流兵法 碧燕会
●『武家名門の剣豪 戸波又兵衛親清』
藤堂高虎に仕えた武将で剣術の達人 戸波又兵衛親清は伊賀で新陰流兵法(戸波流)を教えていたことでも知られています。戸波又兵衛親清は柳生石舟斎の高弟で柳生家臣の村田与三左衛門の新陰流を学んだといわれ、大阪夏の陣「八尾の戦い」において二番槍の武功を挙げたことでも有名でございます。戸波家は武家の名門・長宗我部一族の出身で、親清の父・親武が戸波城(へわじょう)の城主に任ぜられた際に戸波(へわ)姓を名乗りました。後陽成天皇の第四皇子・関白 近衛信尋の推挙によって藤堂高虎の家臣となったといわれています。大坂の陣は激烈を極め、藤堂家も多くの家臣が討ち死にした相手方(長宗我部勢)出身にも関わらず家臣として取り立てる藤堂高虎の器の大きさも後に賞賛されました。戸波又兵衛に対する荒木又右衛門と渡辺数馬の「新陰流兵法」と記載された入門の起請文も現存しており、この起請文は藤堂新七郎家に保管され後に鍵屋の辻「伊賀越資料館」(休館中)に展示されています。戸波又兵衛の伝えた流儀は「戸波流」として代々藤堂藩の剣術の一つとして伝承されました。
【出典・参考】
『伊賀市史』通史編 第二巻 第三巻
『名張市史』
『津藩分限役付帳』名張市所蔵
『御学館内絵図』伊賀市上野図書館蔵
『藤堂藩の新陰流兵法』村林正美
『荒木保明家譜』鳥取県立博物館蔵
『増補 藤堂高虎家臣辞典附分限帳』佐伯朗
『藤堂高虎と家臣逸集』佐伯朗
【協力・監修】
玄忠寺
荒木又右衛門記念館
伊賀市上野図書館
新陰流兵法 碧燕会