声明文

袴田事件東京高裁決定に対し、特別抗告を行わないことを求める刑事法学者有志の声明

第1 問題の所在

 3月13日、東京高裁第2刑事部は、いわゆる袴田事件再審請求(以下、本件と呼ぶ。)の差戻し抗告審につき、検察官の即時抗告を棄却し、再審開始を維持する決定(以下、本決定と呼ぶ。)を行った。本決定は、本件に対する静岡地裁の再審開始決定(2014年3月27日)に対する検察官の即時抗告を原審東京高裁が容れて再審開始を取り消す決定(2018年6月11日)をしたところ、特別抗告審たる最高裁判所が、本件の決定的証拠である5点の衣類に関し、みそ漬けされた血痕の色調に影響を及ぼす要因について原審決定には審理不尽があるとして差し戻したことに対する判断である。

 本決定は、以下に述べるとおり、無辜の救済と位置づけられる再審制度の理念およびそれを打ち出した最高裁白鳥・財田川決定を忠実に踏まえ、再審開始を維持したものと評価できる。加えて、請求人である袴田ひで子氏および死刑判決を受けた本人である袴田巖氏(以下、決定文の引用においてはAと呼ぶ。)の年齢、特に巖氏の精神状態を考えるならば、速やかに再審公判に移行すべきである。

 このような点で、私たち刑事法研究者有志は、本決定に対し、検察官が特別抗告を行わないことを強く求めるものである。


第2 再審の理念に忠実な本決定

1 本決定は、原審東京高裁の審理不尽を指摘した最高裁決定を踏まえ、請求人側・検察官側双方から提出された血痕の色調変化に関する法医学者らの鑑定書等を慎重に検討した上、「衣類に付着した血痕が1年以上みそに漬けた場合(ママ)、血痕の赤みが残ることはない」(決定書57頁)、「メイラード反応による褐変化が進む」、「みそ漬けされた血液は限りなく黒に近い褐色化がより一層進む」(決定書61頁)とした請求人側の主張の正当性を認めたものである。

 加えて、検察官が独自に行ったみそ漬け実験についても、「5点の衣類がみそ漬けされていた1号タンク内の条件よりも血痕に赤みが残りやすい条件の下で実施されたといえるにもかかわらず、試料の血痕に赤みが残らないとの実験結果が出た」事実を指摘し(決定書70頁)、その上で請求人側の主張の正当性を認めたものである。

 いずれも、検察官側の主張・立証をも十分考慮したうえで、請求人側の主張を容れた判断であり、特定の証拠を過大評価して結論を導いたものでない。

2 本決定は、このような血痕の色調変化の状況にかんがみると、犯人性の認定を支える決定的証拠たる5点の衣類が犯行直後にみそ漬けされたとした確定判決の認定には合理的な疑いが生じ、むしろ、発見時に近い頃に、A以外の第三者が隠匿してみそ漬けにした可能性が否定できないとした(決定書71-72頁参照)。

 本決定はこれを踏まえ、さらに確定判決が有罪の根拠とした諸事実について逐一検討を加え、「それだけではAの犯人性を推認させる力がもともと限定的又は弱いものでしかなく、みそ漬け実験報告書等の新証拠によりその証拠価値が失われるものもある」とする(決定書74頁)。そして、5点の衣類の血痕の色に関する新証拠が「確定審において提出されていれば、Aが本件について有罪であるとの判断に達していなかったものと認められる」と結論する(決定書75頁)。

 これらの判断は、「もし当の証拠が確定判決を下した裁判所の審理中に提出されていたとするならば、はたしてその確定判決においてなされたような事実認定に到達したであろうかどうかという観点から、当の証拠と他の全証拠と総合的に評価して判断すべき」こと、「確定判決における事実認定の正当性についての疑いが合理的な理由に基づくものであることを必要とし、かつ、これをもつて足りる」とした、最高裁白鳥・財田川決定を踏まえたものである。

 本決定は、最高裁白鳥・財田川決定を踏まえて、確定判決の有罪認定を支えた旧証拠と新証拠とを総合評価した結果、確定判決の事実認定に合理的な疑いが生じることを丁寧に示したものであって、その判断には説得力がある。

 加えて、袴田事件は、もともと有罪認定を支える証拠関係の脆弱性が指摘されてきた事件であるところ、本決定が示すように、新証拠によって確定判決の誤りは一層明白になった。これらのことからすれば、速やかに再審開始の決定を確定させ、再審公判に移行すべきである。


第3 本決定に対する不服申立ての問題点

 本決定に対し検察官が特別抗告を行うことは、以下の点において許されるものではなく、上訴権の濫用というべきものである。

① 本決定は、検察官の即時抗告を容れた原審東京高裁決定が最高裁によって差し戻されたことを契機とするものである。そして本決定は、最高裁の差戻し決定の趣旨を踏まえ、請求人側はもとより、検察官側の主張・立証をも十分考慮したうえでの判断である。

② 特別抗告の理由は、憲法違反・判例違反に限られるところ(刑訴法433条1項)、本決定に憲法違反がないことはもちろん、上記のように白鳥・財田川決定を踏まえた判断をしているため判例違反もない。また、本決定は、請求人側・検察官側双方の主張をち密に検討した結果の判断でもあり、論理則・経験則等に照らして不合理といえるような点はない。

③ 請求審はあくまで再審公判に移行させるべきか否かを判断するための予備審査的手続である。実質的な審理は、公開の法廷で開かれる再審公判において行われるべきである。このような再審の構造からしても、請求審を長期化させることは望ましくない。

④ さらに、請求人である袴田ひで子氏や巖氏はいずれも高齢であり、特に巖氏が長期にわたる身体拘束により回復しがたい精神疾患をり患している事実もある。これらに加えて、本件が死刑事件の再審請求であることからも、請求審を長期化させ、再審開始を速やかに確定させないことには、人道の面でも問題が多い。


第4 結論

 以上の諸点により、検察官は、本決定に対して特別抗告をしてはならない。速やかに再審開始の決定を確定させ、再審公判に移行すべきである。


2023年3月18日

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袴田事件・抗告断念を求める刑事法研究者声明【最終版】.pdf