ご支援ネット

活動の経緯

第0期「ご支援」の芽生え

 汎用機,オフコンのシステム開発の経験を通じて,「ご支援」の気持ちが芽生え,育まれていったのだと思います。

 入社一年目の1980年,IBMのオフコンIBM System/34(S/34,システム/34)でのシステム開発は,商品管理及び原価計算の小さなシステムを任されて,5ヶ月程度で修得して,運用できるシステムを完成させました。

 その能力が評価され,1981年には支店の日立汎用機HITAC M-140H導入時に,COBOL言語を使った小さなシステムを構築する機会を得ました。1982年本社の日立汎用機HITAC M-240D導入時に,サブリーダーとして汎用機の担当を任され,情報産業にシステム委託する仕様の作成,進捗管理,バグ・フィックス管理を行いました。

 同時に,IBMのオフコンS/34の請求管理システムの改善を任されました。当時,請求業務はトラブル続きでした。原因は,情報処理技術レベルの低い人がプログラムを修正しながら運用している奇妙なシステムでした。つまり,この人がいないと業務が停止する状態だったのです。業務課長から,私への司令は「あの人がいなくても動くシステムにしてくれ」でした。

 システムを混乱に陥れている原因のひとつは,多岐にわたる部署から三々五々集まるデータを洩れなく,かつ,重複することなく処理するチェックがなく,判断ミスが多発していました。そこで,朝,業務担当者が出社したときに,「今日は何をしなければならないのか」を画面を見れば分かる「朝一番」画面を考案しました。名称は,当時清涼飲料のコマーシャルで有名になったカゴメのトマトジュース「朝一番」にあやかったものでした。多岐にわたる部署から三々五々集まるデータの最終日付が表示され,電話で催促すべきモノ,期日が迫っていて担当レベルでは解決できないので上司に連絡しなければならないモノがリアルタイムにわかる画面でした。

 一方,システムを混乱に陥れている原因がもうひとつありました。それは,営業が持ってくる顧客の取引条件変更書でした。単に指定日から値下げや値上げだけではありませんでした。この期間だけこの条件というモノもありました。つまり,処理するデータの日付にマッチした顧客取引条件の状態にしなければ,正しい請求計算が作れなかったのです。日付順に取引条件変更書は綴じられていましたが,見落としや綴じる位置の誤りによりミスが多発していたのです。そこで,取引条件変更書を受け取ったら,直ちに入力して,処理するデータの日付の取引条件を自動的に作り上げる仕組みを考案しました。このシステムの完成後は,逆に取引条件変更書は遠慮することなく出されるようになり,営業活動の支援にもつながりました。

 この辺りから,単に業務を機械化するシステム化とは異なる,人間の活動に役立つシステム作りの必要性に気が付いていたようです。

 1984年,総務に配属され,給与計算システムの改善を任されました。請求管理システム同様に,運用者には使いにくいシステムでした。3か月程で,分析と使いやすさを追求した改善を行いました。

 IBMのオフコンS/34でこれらの開発を可能にしたのはマシンの能力とRPGIIという簡易言語によるものでした。しかも,ユーザー会や技術研修会が頻繁に開催され,ときにはユーザー企業の訪問会もありました。マシンおよび開発言語を使いこなす能力は,これら社外の場で理解し,社内で実践して身についていきました。IBMの"THINK"(シンク:「考えろ」の意)という思想は,ご支援ネットにも受け継がれていると思います。

第1期「集う場」を中心とした支援

 1987年に独立し,1989年から大阪を中心に公的機関を通じた情報化診断指導を行っていました。中小企業は基本的に無料でこの支援が受けられました。しかし,限られた予算の中での事業であるため,不特定多数の企業からの依頼に応えるべく,訪問できる回数が制限されていました。このような限られた予算のなかでより多くの企業で実態に即したきめ細かなIT活用を推進するために効率化が必要になってきました。当時の情報化診断指導は普及してきたパソコン利用についての依頼が多く,指導内容も重複していました。何百万円も投資が必要なオフコンから数十万円のパッケージソフトを利用する安価なパソコンへの移行を促すことが情報産業に騙されず,安価に,情報化自立した企業者を育成する必要性を感じたのです。1992年,実際に操作して自社適合可否を判断できるパソコン・パッケージソフトの試着室としての「戦略パソコン塾」を公的機関内に設置しました。

 翌年には,仕事の達人である経営者や後継者自ら,自社のシステムを作っていくことができる場になりました。「仕事の達人=システムの達人」という自社の業務に精通していて,かつ,問題意識を持っている人自らがシステムを作らないと本当に自社に役に立つ情報システムは作れないという持論に基づく発想から生まれました。そのために,情報処理技術を学んでいない人でも理解できる開発ツールを探し,そして,アイデアを提供して開発ツールを拡張・統合・新規開発してもらいました。

 これにより,中小企業の経営者・後継者・管理者が集まって効率よく自社の実態に即したIT活用ができるようになり情報化人材が育っていきました。また,集まった人々は,利害関係のないコンピュータの利用者同士であったため,異業種交流的な人的ネットワークも構築されていきました。

第2期「サロン」を中心とした支援

 梅棹忠夫著「情報の文明学」によると,古代都市は神殿を中心とする情報交換の場として発達した可能性があり,その場には情報機能が集中し,情報の集散が常に行われている。このことをヒントに,1994年には,「情報化サロン」という三々五々人が集まり,情報化で悩む企業経営者同士で様々な知恵を分かち合う場を形成し,企業経営者同士で自立的に活動する環境を作りました。さらに,育った企業経営者が講師を務める「実践企業報告会」,年2回啓発普及と成果発表をするための場「情報化フォーラム」を開催するに至り,1994年に理想とする「情けに報いる」企業情報化支援体系を確立しました。ときにはお互いの企業を訪問することで交流し,研さんしていきました。集大成として著書「草の根企業情報化戦略」を出版しました。これらの取り組みは現在の公的機関に必要な有効な機能だと考えています。

 また当時は,オフコンからUNIXやパソコンLANへのダウンサイジングを模索していた企業者が多くなり,その場で簡単に試用することができませんでした。そのため,企業者同士が交流する場やパソコン上で自社のシステムを作っていくことができる場に加えて,複数台のパソコンを繋ぐLANを学ぶ場「LAN(蘭)学塾」も作りました。この頃,私は緒方洪庵にあやかって情報化適塾塾長と名乗るようになりました。もちろん,育った企業経営者のトップは塾頭と呼ばれていました。

第3期「ゼロからはじめる情報システム自作」を中心とした支援

 1996年から高知の公的機関を通じて,情報化モデル企業を育成する機会を得ました。1996年度から3年間に10社の情報システムの自社開発を支援し,情報化人材を育成しました。会社ごとに異なる情報システムをゼロから作るという育成方法は「高知方式」として全国の情報化支援を行う公的機関に知られるに至りました。

 しかし,支援が1社/1年あたり最高で約20回に及ぶことで特定企業支援に対する批判や予算の確保,このような支援ができる指導者が確保できないことから,実際に情報システムの自社開発を支援できたのは中村州男だけで,広がりは大阪・高知・福井に留まりました。

 確実に自社の実態に即したきめ細かなIT活用をし続けることを可能にする情報化人材育成方法ですが,普及できる方法ではありませんでした。しかし,現在の情報システム自作支援の原型となっています。

 その後,支援を受ける企業が指導経費の一部を支払う受益者負担の導入決定により私自身も一旦,公的機関を通じての支援から退きました。これは,「公は,民が有償でもできないことを,無償で実施する」という持論に反するからです。この退いたときに,3年間を上限に大阪の企業の方々にご負担を頂きました。これが,ご支援ネット規定の原型になりました。

第4期「シェアウエア」を中心とした支援

 2000年には実質的に公的機関を通じて無料で支援できない状況になりました。そこで,最も安価に自社システムが構築できるように情報システムの部品作りを開始しました。これをシェアウエアとしたのです。シェアウエアは安価なだけでなく,バージョンアップ費用を徴収することのないソフトウエアです。

 お金を払って決済することで関係を断ち切るのが通常の経済システムの便法です。それに対して,シェアウエアはつながりをつけます。実際,シェアウエアに対して料金を払っているユーザーの多くは,それをソフトウエア代金とは考えず,作者や他のユーザーと一緒にソフトウエアが段々と進化するプロセスへの「参加料」だと捉えてよいのです。宮垣元,佐々木裕一著「シェアウェア―もうひとつの経済システム」より。

 つまり,一人の利用者の要望で拡張された機能は,他の利用者に無償で分配されます。人材は利用することとソフトウエアを拡張するアイデアを提供し続けることで相互に育成され,自社の実態に即したきめ細かなIT活用をし続けることを可能にすると考えたのです。

 5年間で開発したシェアウエア等は独立して動かすことができるソフトだけでも40本を超えています。これに市販されている数多くのシェアウエアやフリーウエアを組み合わせて支援しました。支援回数や期間の短縮,育成対象者の参画意識の向上など,現在の情報システム自作支援の有効な機能となりました。

第5期「情報システム自作」支援方法の確立

 公的機関を通じた支援から退いていた5年間に再び状況が変わってきました。それは,受益者負担の導入により情報化推進に関して公的機関を利用する企業者が減少したからです。1/3程度の費用負担によるものだけではなく,派遣されたアドバイザーに対する不満も一因となっていたようです。アドバイザーという名の通り,仕様書を書くことも,システムを作ることも,ましてや業者を選定すること,後にも先にもその企業と顧問契約することも禁止されていたからです。つまり,自社の実態に即したきめ細かなIT活用すら支援できていないことが推測されます。ましてや,人材育成など行なえるはずもありません。

 ただし,無償でソフトウエアを提供することは許されました。また,シェアウエア等の市販ソフトの紹介も認められていました。そこで,2005年から再び公的機関を通じた支援活動を開始したのです。シェアウエアを大量に作ったことで,基幹となる部分を提供し,少ない回数で自社の実態に即したきめ細かなIT活用と人材育成を行えるようになりました。企業の受益者負担分に見合うシェアウエアを提供することで実質的に受益者負担が無くなりました。

 そして,2007年度より国の予算で実施される情報化推進に関する受益者負担は無くなりました(公的機関によっては1/3程度の費用負担が必要)。また,これに伴って,高知では県が単独予算を組み,個別企業訪問の旅費や研修セミナー等の実施できる環境を提供いただきました。これらにより,情報システム自作支援方法が確立できました。

 なお,第3期「ゼロからはじめる情報システム自作」と異なる点は,情報システムの基幹部分は提供されることです。これにより自社独自部分をカスタマイズする開発能力の育成で済みます。基幹部分に影響がある場合には,私が拡張あるいは新規開発することで,育成支援回数や期間の短縮を実現しています。新規開発したものは新たなシェアウエアとして,その後の支援に役立てることができますので,特定の企業支援のための労力とは考えてはいません。

第6期「自学自習型」支援方法の確立

 昨今,多くの公的機関のIT支援は「助言だけ」しかできなくなりました。これは,少ない予算で,より多くの企業の支援のために,広く薄く支援ように特定の企業を支援する回数を年数回(最大3回~5回)に限定し,さらには翌年の継続支援はできないようにしているからです。ですので,責任を取りたくない「助言だけ」しかしない公的機関と,いい加減な「助言」しかできない能力の低いIT専門家の双方をゾンビのように生かし続けるための施策と化しました。施策が,中小企業側の目線ではなくなっています。

 このような背景から,中小企業の経営者・後継者と協同し,CIOの育成を伴うシステム開発支援はできなくなりました。具体的な成果物を伴うIT支援ができないのであれば,そのような公的機関からは退くしかありません。

 そこで,「公的機関のIT支援に頼らない」「IT業者にも頼らない」方法として,「自分の会社のシステムは自分で作る」方法を確立しました。それが,筆者自身が「ノーコードWebシステム開発」ツール等の開発,様々な執筆を通じた自学自習型の支援方法です。2022年4月以降は,ツールの開発と執筆に専念することにしています。

理想期を目指して

 通産省中小企業近代化審議会情報施策分科会専門委員も歴任し,公的機関における情報化支援のあり方には『公は民が有償でもできないことを無償で行うべき』という持論が有ります。少なくなった予算で,謝金単価等を下げて,支援回数を制限して,支援を受けようとする中小企業や小規模事業者の役に立つのでしょうか?単に,支援した企業数を誇ることでしかない気がします。

 さらに,企業情報化の進展についての認識が誤っていると思われます。端的には,「大は小を兼ねない」と表現させて頂きます。これは,「大企業の情報化が進展しても,小企業の情報化が進展するわけではない」ことを認識して頂くための表現です。中小企業や小規模事業者ではなく,あえて小企業としたのは,企業情報化の進展の度合いと企業情報化の必要性を考え,最も重点的に企業情報化の公的支援が必要と考える対象企業だからです。

 小企業とは,企業間・独立した部門間・部門内において情報コミュニケーションのために情報システムを利用することが望まれ,かつ,専任の情報技術要員を配置できない小さな会社を指します。

 まず,従業員数を使って小企業を定義します。小企業とは,扱う情報の処理や業務作業を1人で行う許容量を超えているため,経営管理や事務に関する2人以上の従業員と営業販売や製造に関する2人以上の従業員が存在し,かつ,従業員総数が20人以下の企業です。なお,中小企業基本法においては,小規模企業者の定義があります。小規模企業者とは,商業・サービス業は従業員5人以下,製造業その他は従業員20人以下の会社及び個人を指します。この小規模企業者に類して小企業を定義し直すと,小企業とは業種を問わず従業員4人以上20人以下の会社及び個人を指すものと表現できます。

 また,総務省統計局の平成18年事業所・企業統計調査によると,従業者5人以上19人以下の会社及び個人の数は,全事業所の約3割(170万事業所),全従業者数の約3割(1500万人)を占めていることがわかります。ただし,従業員4人以上20人以下とした小企業に対する集計結果ではないが,概数としては大きく変わらないと考えます。したがって,「小企業は,全事業所および全従業者数の約3割を占める重要な存在である」と言えるのです。

 この「小企業では,情報処理が複雑で,かつ,金銭とのトレードオフが困難なため,情報化が進展しない」と考えます。だからこそ,この「小企業に絞って,企業情報化の公的支援を行うべきだ」と主張致します。

 具体的には,WebEDIで企業間取引は電子化され効率化されたかのように思われていますが,小企業では取引先個別仕様のWebEDIに対応するためのために煩雑な事務作業が増大しています。企業間⇔企業内の情報交換の自動化も困難であり,そのために不必要な情報化コストが発生します。情報交換基準を作るべきです。

 また,受注や納品・請求,これらに付帯する資料について,WebEDIなど取引先企業の指示に従って処理しなければなりません。この指示内容は,取引先企業によって異なります。したがって,小企業では取引先企業の数に比例して情報システムが複雑になります。さらに,取引先企業の情報システムの変更に際しては,その影響を受けて情報システムの変更が必要になります。

 さらに,小企業の製造現場では新旧および異なるメーカーの機器が混在しています。このため,これらの機器とのデータ交換が必要な場合には,これらのデータ交換仕様の異なる機器の数に比例して情報システムが複雑になります。また,データ交換仕様の異なる機器の導入に際しては情報システムの変更が必要になるのです。

 このような現状から,小企業における情報システム開発の課題としては,情報システムが複雑になり,かつ,変更の頻度が高いことから,小企業の方が小企業より規模の大きな企業に比べて,情報システムに関わるコスト負担割合が大きいと考えられます。しかし,金銭とのトレードオフが困難なため,コストを下げて情報システム構築を行うので,満足できるシステムが完成しないことも課題になってしまうわけです。

 私、中村州男は,こうした我が国で営んでおられる小企業の現状を把握し,具体的な対応策を練るだけではなく,システム等の困難を乗り越える成果物を作り,これをモデルとして,行政機関が小企業の真の実情を把握し、我が国の政策に反映していくことが必要だと考えています。

 ですから,コンサルタントのように助言,つまり,言うだけの支援ではありません。ソフトウエア会社のようにシステム開発,つまり,作るだけの支援ではありません。共に考え,共に話し合い,共に作り,共に育つ。システムを育て,人も育つご支援のできる人を厳選して「岡っ引き」として活動できる時代が来ることを願っています。