Step②「世界観を知る」概論
四柱推命の歴史 ― 知は受け継がれる
Step②「世界観を知る」概論
四柱推命の歴史 ― 知は受け継がれる
四柱推命は、年・月・日・時の四つの柱に干支を組み合わせて個人の運命を読む、東洋の推命術です。その根底にある「干支暦」と「陰陽五行思想」は、紀元前の古代中国にその起源を持ちます。
干支の使用(殷・周時代、紀元前1600年頃~)
四柱推命の根幹である「干支」は、紀元前16世紀の殷(商)王朝にまで遡ることができます。
当時の人々は、亀の甲羅や牛の肩甲骨を熱してできる割れ目の形を見て、政治的な判断を占っていました。どうやら細工をして吉凶を操作していたようです。
その際の占いに用いた甲骨に、日付として「干支」を刻み、神託を記録していました。刻まれた「十干」は、ただの日付の情報ではなく、神聖な意味を持つものとして扱われていた、と考えられています。
実際、殷の王様の名前には「十干」が含まれており、宗教が、政治に組み込まれていた時代の象徴が「十干」なのです。
「十二支」の起源はさらに古く、語源すら特定困難なほどですが、甲骨文字ではすでにその使用が見られます。
つまり、「十干十二支」の組み合わせである「六十干支」は、太古の人々の暮らしから受け継がれてきたものなのです。
陰陽五行思想の整備(戦国~漢代)
戦国時代になると、「陰陽」と「五行」という二つの思想が統合し、「陰陽五行思想」が形成されます。
陰陽思想は、あらゆるものに陰と陽の性質を見るもので、変化の法則を説明する枠組みです。
五行思想は、自然界を「木・火・土・金・水」という五つの要素に分類し、それぞれの間に「相生(そうしょう/そうせい)」「相剋(そうこく)」という関係性を与えることで、バランスの法則を説明する枠組みです。
もともと別の系譜にあった陰陽と五行は、思想的統合が進みました。
現代で例えると「異なる2つのSNS(InstagramとYoutube)を両方使うユーザー層がいたので、新しいSNS(TicTok)ができた」のようなもので、
思想のユーザー層(諸子百家)が互いにアイデアを交差させながら、最終的に「陰陽五行思想」という“複合的思想”が誕生したと言えます。
【この時代のキーパーソン】
鬼谷子(きこくし)戦国:はじめて算命を行ったとされる。伝説上の人物。
鄒衍(すうえん)戦国:陰陽五行を体系化した人物として有力。著作は残っていない。五徳終始説を展開し、王朝交替を五行相剋で説明。
馯臂子弓(かんひしきゅう) 秦:楚人。易経の成立者として指摘。恒久不変を目指した秦国への対抗として、変化の書である易経を作った。
董仲舒(とうちゅうじょ)前漢:陰陽五行を政治思想と結びつけ、天人相関説として体系化。
王充(おうじゅう)後漢:迷信を批判し、合理性な思考や気の哲学を重視 。生まれ持った運命についての思想。
【この時代の占いに関係する文献】
「淮南子」 天文、地理、思想などの博物誌。相生相剋の理論が書かれている。
「易経」六十四卦の変化の書。儒教のバイブルのひとつでもある。陰陽についての本。
「黄帝内経」現存する中国最古の医学書。
「緯書」新の時代に流行した讖緯(しんい/予言の書)のこと。
「論衡」 王充の著。陰陽五行思想を迷信と断じた。
やがて陰陽五行は、干支と結びつき、後の四柱推命となる「命理学」の土壌ができました。
体系化:四柱および日干を中心にした分析(唐~宋代)
文化が開花したこの時代。
政治的色合いが強い儒教だけでなく、老荘思想から道教が成立したり、長い間、中国内で受け入れられることのなかった仏教が爆発的に流行し、3つの思想が発展・交流しました。
またシルクロードに代表されるように多民族との交流も盛んになり、 西域から暦法と占星術の知識が伝播しました。
そして、命式を四柱(年・月・日・時)で見る方法が登場します。
注目すべきは、「個人の性格・運命」へと焦点が移行していった点です。
【この時代のキーパーソン】
李虚中(りきょちゅう)唐:四柱推命の祖と言われる。「命書」を著し、神殺や干支による占い。
徐子平(じょしへい)宋:命理学の基礎を確立。 日干を中心とし、他の柱との関係から運命を読む「子平法(しへいほう)」を体系化。
朱熹 (しゅき)南宋:精緻な理気論を論ず。陰陽五行思想を発展。
実占の深化:六親法と用神理論の発展(明~清代)
この時代、四柱推命の高度な実占技術が発展していきます。
命理学や推命術が整理・編纂され、より実占的な占術として発展していきました。
命式全体のバランスから、その人にとって「助けになる要素(用神)」を探すスタイルが確立されます。
四柱推命の名著がたくさん作られたのも、この時代です。
【この時代の占いに関係する文献】
「三命通会」「星学大成(七政四余)」萬民英(ばんみんえい)
「滴天髄」劉伯温(りゅうはくうん)
「窮通宝鑑」余春台(よしゅんだい)
「子平真詮」沈孝瞻(ちんこうせん)
中国の古典の特徴は、作者のオリジナル本ではなく、編著が多いです(日本で言うと古今和歌集のように、他の人の作を集めた本)。また、原本は散佚して現存していないものの、その注釈書が伝わるものもあります。
日本への伝来とオルタナティブな独自展開(江戸~現代)
日本は、外来の思想や文化を取り入れながら、それを日本独自の形に変化させる、という文化的な特徴を持ちます。四柱推命も同様で、中国から伝播されたのち、日本風に醸成されて作られてきました。
江戸時代、儒学者・桜田虎門が子平法に関する書を翻訳したことが、日本における「四柱推命」の始まりとされています。それは、当時の中国で既に古典とされていた部類であり、最先端の知識ではありませんでした。
このことは、日本と中国の「知識の格差」でありますが、同時に、四柱推命の歴史の上で「あり得たかもしれない分岐」を選択できる「知識のタイムトラベル」が起こったとも言えます。知識の伝播のタイムラグは、占いの知を再編する「余白」を生み、日本独自の四柱推命という、もう一つの“あみだくじの線”が引かれました。
現代もなお、日本独自に展開した推命術と、中国本土で発展した本場の推命術が、交差しながら、四柱推命は発展しています。
コラム:「保存される知」の偉大さ
ここから先は、自由な想像も交えて綴ってみます。 以下は歴史の事実というよりも、腑に落とすための物語としてお読みいただけたらうれしいです
紀元前16世紀ごろの殷王朝では、日干が神聖なものとして扱われていた節があります。
しかし、殷が滅び、周がその後を継ぐと、「日干の神聖視」は急速に姿を消していきます。
殷と周は異なる文化的な背景を持ち、周の封建制による体制の中では、殷の占いによる神権政治的な要素は排除されていきました。
この失われた文化が再び姿を現すのは、なんと千五百年後の明の時代。
子平法と呼ばれる命理学が登場し、日干を中心に運勢を読み解く方法がよみがえります。
これが現代の四柱推命の原型となりました。
ここで、ひとつの歴史の妙に出会います。
なぜ、日干を中心とする思想が復活したのは、この時代だったのでしょうか。
明とほぼ同時代、中国の北方では金王朝が興り、その担い手は女真族・ツングース系の民族でした。
殷王朝も、ツングース系の系譜をもつ民族だったとの指摘があります。
もしかしたら
日干を奉る思想は、殷と同じ系譜の民族によって千年以上にわたり脈々と保存されていて、
千年以上の時を経て、もう一度、歴史の上に再生したのではないか
そんな静かな知の流れが、歴史の背後でめぐっていた可能性を感じるのです。
四柱推命が花開いた背景には、表面的な社会文化論では捉えきれない「思想と風習の持続」があります。
文明が滅びても、時代が変わっても、知の文化は人々の中に宿り、保存され、やがて再び芽吹く。
まるで、季節が繰り返し巡ってくるようです。
日干という符号は、単なる占いの道具ではなく、
何千年も絶えず受け継がれてきた「知の継承のシンボル」、かもしれません。
四柱推命はそういった面白さに溢れている占いなのです。