研究会発足の趣旨
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いま、権田を読み直す意味―問題提起として 宮入恭平
2019年末に中国で顕在化した原因不明のウイルス性肺炎は、瞬く間に世界へと広がることになった。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックは、3年目を迎えたいまなおとどまるところを知らない。そして当然のことながら日本も、COVID-19による深刻な影響を受けている。それは、国家レベルの政治経済から、個人レベルの社会生活にまで及んでいる。こうしたコロナ禍のなか、2021年に刊行された『「趣味に生きる」の文化論』(ナカニシヤ出版)の「あとがき:ポストコロナの世界へ」において、デヴィッド・グレーバーの「経済」と「生活」をめぐる議論を添えたうえで、権田保之助による「民衆娯楽論」との連続性を示唆した。
新自由主義的な資本主義に対する批判的な論調が顕著になるなか、コロナ禍による経済的な危機感と相まって、デヴィッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ』(岩波書店)は大きな話題となった。そんなグレーバーがみずからの命を絶つ直前に寄稿した論考からは、権田保之助の言葉を重ねずにはいられない。「生産の為めの人生ではない、『物』の為めの『生活』ではない、其の逆に人生の為の生産である、『生活』の為の『物』であるという当り前な考を、当り前に実現させ様として、心ある人はもがいている」と述べる権田の指摘は、100年という時間を超えてコロナ時代を生きるわたしたちに語りかけているようだ。もっとも、話題になったグレーバーとは異なり、権田の一般的な知名度はあまりにも低い。残念ながら、権田の声は多くの人びとに届かないというわけだ。
最近のカール・マルクスの再評価は、斎藤幸平の『人新世の「資本論」』(集英社新書)によるところが大きい。マルクスを再解釈しながら、斎藤は脱成長の必要性を説いている。ベストセラーとなった同書の評価はさておき、マルクスを再解釈する斎藤の試みは意義あるものといえるだろう。マルクスに対する一般的な評価は、その一面だけをとらえた、ある種の固定観念として人びとに植え付けられている可能性が否めない。それを解き放ったのが、斎藤によるマルクスの再解釈というわけだ。しかも、ベストセラーになったおかげで、マルクスの再評価がなされたのだ。ここから、権田保之助の再評価を試みる価値を見いだすことができる。話題になったデヴィッド・グレーバーの指摘は、すでに100年前に権田によってなされているのだ。もちろん、権田の思想も、マルクスと同様、首尾一貫しているわけではない。そうした、権田の多面性までをも含めて、改めて権田の思想を読み直す機会を設けることは、意義あることだと考える。
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デヴィッド・グレーバーと権田保之助
新型コロナウイルス禍のなか、2020年9月3日(日本時間)、アメリカの文化人類学者でアクティビストでもあるデヴィッド・グレーバーの急逝が伝えられた。享年59歳、世界的に話題となった“Bullshit Jobs: A Theory”の訳書『ブルシット・ジョブ―クソどうでもいい仕事の理論』(岩波書店)が出版になった矢先の訃報だった。他人から尊敬や経緯を払われながら、高収入を得ているにもかかわらず、みずからの労働を無益なものだと自覚している――富裕国のおよそ40%の労働者は「ブルシット・ジョブ」に含まれている。その一方で、社会的な貢献をしながらも、劣悪な労働条件の「シット・ジョッブ」も存在している。そこには、「骨の折れる仕事」や「他人から軽んじられる仕事」、あるいは「実入りの少ない仕事」などが含まれる。もっとも、こうした仕事に従事する人たちには、その仕事が利他的な行為だと自覚することによってもたらされる自尊心がある。新型コロナウイルス禍では、こうした「シット・ジョブ」に従事する人びとが「エッセンシャル・ワーカー」として注目を集めるようになった。グレーバーは生前、フランスの『リベラシオン』紙(2020年5月28日)に論考を寄せている(デヴィッド・グレーバー/片岡大右訳「コロナ後の世界と『ブルシット・エコノミー』」2020年[http://www.ibunsha.co.jp/contents/graeber02/])。
明らかに、コロナ下の社会生活のなかには、まっとうなひとなら誰もが再び動き出してほしいと願うはずのものがたくさんある。カフェ、ボウリング場、大学といったものだ。けれどこうしたものは、ほとんどのひとが「生活」の問題とみなすものであって、「経済」の問題ではない。
生活=生きること=命(ライフ)。これが政治家たちの優先課題ではないことはまず間違いない。けれども、政治家たちは人びとに対し、経済のために命をリスクにさらすよう求めているのだから、経済という言葉で彼らが何を意味しているのか、理解しておくことが重要だろう。
デヴィッド・グレーバーは、古典的な「経済」の意味を「生産性」に従属する「余剰」の獲得と説明しながら、「エッセンシャル・ワーカー」の大部分は古典的な意味での「生産性」をともなわないと主張する。ウイルス禍における「経済」の再始動は、新自由主義的な「ブルシット・ジョブ」からの呼びかけというわけだ。そのうえで、この「経済」と「生活」をめぐる議論については、「『カフェ、ボウリング場、大学』の再開を『経済』の問題ではなく『生活』の問題として論じ、そのうえ『生活』の問題をただちに『命』の問題と結びつけるグレーバーの言葉づかいは、日本語世界のなかでは違和感をもって受け止められるかもしれない」という、この記事の訳者である批評家の片岡大右による注釈が添えられている。「大学はさておき、カフェを含む飲食店、ボウリング場やさらにはパチンコ店のような運動・遊技施設の休業は、わたしたちの列島ではまさしく『経済』の問題として議論され、しかも『命』を守るために犠牲を求められるこの『経済』こそが、『生活』または『暮らし』を支えるものとしてイメージされている」というわけだ。そして、「言うまでもなくここには、『補償なき自粛』の政策(あるいは無策)が経済なき生活維持を困難なものにしている日本の事情が深く関わっている」のだ。そのうえで、グレーバーは「動物的な生命維持の次元と人間的な生活の次元をわかちがたい連関」と位置づけていることを指摘する。そんなグレーバーの「経済」と「生活」をめぐる問いかけは、すでに100年も前に日本からも投げかけられていたという事実がある。
大正から昭和にかけて民衆娯楽を研究した社会学者の権田保之助は『民衆娯楽論』(1931年=昭和6年)のなかで、人間の生活を労働、睡眠、娯楽に区分けして、労働と娯楽を客観的に峻別する「客観的存在説」、日常生活の余剰が遊戯であり、人は衣食住が満たされてこそ娯楽を享受できる「過剰勢力説」、そして、娯楽は労働によって疲労した心身を回復させ、明日の活力を養う「再創造説」という娯楽に関する3つの定説をあげながら、それぞれの主張を批判的に分析している。「客観的存在説」については、そもそも娯楽とは何かを客観的にとらえることには限界があると指摘する。たとえば、音楽は人びとの娯楽になることは間違いないが、それを生業にしている人にとっては労働になるというわけだ。「過剰勢力説」では、有事の際の娯楽の有用性を強調している。1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災において、人びとが自発的に娯楽を求めていたという事実を踏まえ、日常生活の余剰として成り立つ娯楽に反論している。「再創造説」では、資本主義社会における娯楽のあり方が問われている。そもそも、「疲労を回復して、明日の英気を養う」という考え方は、生産中心の思想のもとに成り立っているというわけだ。そのうえで、「生産の為めの人生ではない、『物』の為めの『生活』ではない、其の逆に人生の為の生産である、『生活』の為の『物』であるという当り前な考を、当り前に実現させ様として、心ある人はもがいている」(権田保之助「民衆娯楽論」『権田保之助著作集第2巻』学術出版会、2010年、p.210)という指摘は、まさにデヴィッド・グレーバーの「経済」と「生活」をめぐる問いかけそのものと言えるだろう。そして、この「経済」と「生活」の議論は、「労働」と「余暇・レジャー」、さらには「仕事」と「趣味」へと展開させることも可能になるのだ。
*宮入恭平「あとがき:ポストコロナの世界へ」(宮入恭平、杉山昴平編著『「趣味に生きる」の文化論』ナカニシヤ出版、2021年)より抜粋