私たちが活動している吉永地区には、「新具蘓姫命神社」(通称:吉永神社)があります。また、江戸時代の一時期「吉永藩」が置かれていました。
にいぐそひめのみことじんじゃ(通称:吉永神社)
聖武天皇の御代、天平3年(731年)に創建され、延喜式神名帳に記載されている式内社で、石見地方でも最古の神社の一つです。延喜式とは延喜5(906)年に編纂開始された律令の施行細則で、ここに掲載された全国3千余の神社を式内(しきだい)社と言います。式内社は当時の国家公認の有力神社であり、新具蘓姫命神社もその一つでした。
御祭神は、新具蘇姫命・応神天皇・息長足姫命・比咩大神です。主祭神の新具蘇姫命は五穀の守護神、農耕の神様、乳製品(蘇=チーズ)の神様、家畜の神様として近隣の人たちからも深く崇拝されてきました。
古くは現在の社殿の後方の新山に社殿がありました。
国守時代国幣小社であり天平年間に従五位に神階を授けられました。
戦国時代には、尼子・毛利・小笠原氏の崇拝篤く、社領、社殿を寄進し、国家安康、武運長久を祈願しました。
江戸時代に入り吉永藩主加藤明友氏の産土神として崇拝篤く、社領を安堵し、御祈願所として毎月一、十五、二十八日に参拝しました。また一字一千経を境内に祈願しました。
また累代の銀山奉行·代官も神領保護、神器を奉納しました。
明治五年村社に、大正二年には神饌幣帛料供進社に指定されました。
大正二年には、田中台にあった村社八幡宮を合祀しています。
家康により江戸幕府が開かれて16年後(1619年)石見国は、津和野藩、浜田藩、大森藩(天領)に分割され、吉永は大森藩に含まれました。
江戸初期は大名の藩替えが盛んに行われたが、会津藩でもお家騒動が起こり、寛永20年(1643)藩主加藤明成は領土四十万石を没収され、大森藩(天領)の一部(吉永村を含む20ケ村)1万石を割譲され吉永に下野することになりました。
吉永の隣川合村は、大和朝廷が古代出雲を監視するため派遣した物部氏の居留地(石見一宮物部神社が現存)であり、出雲築地と並んで古来より歌舞、連歌などが盛んで文化の栄えた処で、今皆さんが思っているほど田舎ではなかったようです。
加藤明成は物部神社宮司金子左京亮へ懇意の付き合いを求めましたが、金子氏気位高く元40万石の大名といえども、当初は乗り気にならなかったようです。ただし後には無二の友となったと伝えられています。
加藤藩政時代の吉永については、別の機会に述べることにします。
天和二年(1682)加藤明成の子明友は近江国水口に2万石を与えられ、水口藩主となりました。吉永藩として40年ほど続いた吉永の地は、再び大森藩(天領)の一部となり幕府の直轄地となりました。
加藤氏水口移封の時、川合の医者岩谷玄須は、藩医として水口に同道しました。この玄須の末裔に明治の書家巌谷一六、や明治大正時代の童話作家巌谷小波(巌谷一六の子)が出ています。なお玄須の元家川合の岩谷家には、昭和時代の作詞家岩谷時子もいます。このことを吉永の人は今も誇りに思っています。
(2024年2月7日 丸 淳助 記)
野城は名峰三瓶山麓にある谷深い山里である。かつては多くの修行僧が集う霊場でいくつもの僧坊があったという。今天台宗円城寺がただ一ヶ寺その名残を留めている。この地は現在多根野城、大田野城となっているが江戸の昔は吉永郷の内であった。
この野城に嘉祥3年(850年)世にも珍しい甘露が降ったと伝えられる。
古から甘露は人々の苦しみを癒す長寿の薬で、死者を甦らす力があると云われている。
村人はこれを朝廷に献上したそうで朝廷はこれを喜び、年号を嘉祥から仁寿に変えたそうです。(この話は山陰中央新報にも記載されました)。
甘露が天から降ってきたとは信じられませんが、おいしい水が湧く泉が見つかったのでしょう。円城寺の麓には今もおいしい水が湧いていて、水を汲みに来る人が絶えません。
私たちの「吉永食楽サロン」でもこの水は調理に欠かせないものになっています。
(2024年2月吉日 丸 淳助 記)
日本人が石器に代わり金属器を手にしたのは神話時代にさかのぼる。スサノオ命は草薙の剣(くさなぎのつるぎ)をとり八岐大蛇を退治したという。出雲の荒神谷遺跡で多数の銅剣や銅鐸が発見されているが、この頃すでに鉱石を採掘し金属を取り出し、加工していたのであろう。
島根半島の鷺鉱山(銅山)には、大陸でしか見られない支石墳墓が発見されていて、大陸から鉱山技術集団が渡来し開発に携わった証といわれている。
時代は下るが、天平、奈良時代に入り、朝廷は和同元年(708年)銅銭を鋳造(和同開陳)し、奈良の大仏の鋳造を行った。大量の銅を必要とした朝廷は日本各地に銅の上納を命じた。大量の銅を送った山口県の長登銅山は日本最古の銅山といわれる。このころ日本人の金属加工技術は驚くべき進歩を遂げていた。
吉永鉱山は銅山である。この山は、我が福吉会のある島根県大田市川合町吉永にあり、溶岩がずんぐり顔を出した岩山である。一見して宝が埋まっていそうな姿をしていて、おそらく早くから採掘が始まったと想像される。銅鉱床があるところは、ササ百合が咲きシダが多く見られるそうで、昔の鉱山師はササ百合を目安に鉱脈を探したという。確かにこの山の麓にはササ百合が咲いていた。
𠮷永鉱山の採掘がいつ頃始まったか正確な記録はないが、江戸時代に書かれた「吉永記」によれば、寛永20年(1643年)加藤明友が、会津若松より石見国安濃郡に入部するとき「東南に山を廻らし、前に静間川の清流をひかえた要害の地で、近くに銅山もあり、水質もよい処」とされる吉永辰山(今の稲荷山善林寺の地)を、藩館地として選んだとされ、江戸の初期すでに鉱山は採掘されていたことになる。
𠮷永藩主となった加藤明友も、隣接する幕府直轄大森藩代官の厳しい監視があり、鉱山の積極的な採掘は行えなかったようである。加藤氏が滋賀県水口に移封された後も、大きな採掘はなかったようだ。
古来より鉱山信仰はあるが、加藤藩時代になり吉永鉱山頂上にも熊野神社が建てられた。
この時代の寺子屋の手習い書「吉永往来」には「万燈山には熊野権現を崇め奉り、年々の祭礼いと賑わしぞ」とある。この宮は近年、新具蘇姫神社の境内社として遷宮され、夏に夜祭をして地域の人々に親しまれている。
明治に入り日本は文明開化を迎え鉱工業に力を注ぐことになり、鉱山開発が脚光を浴びることになる。明治の中頃、関井省三氏(福岡県田川郡後藤寺町)より、当時の山主西丸(丸勝之助)に対し採掘の申し出があり、両者は土地賃貸契約(期間10年間、契約金2300円)を結んでいる。
しかし関井氏がどのような採掘をし、成果がいかほどであったかは全く不明である。
昭和12年に至り辻本国桜氏(奈良県)より再開発の意向があり、西丸は土地の賃貸料として月額15円の契約をしている。
昭和14年辻本氏は採掘権を日窒鉱業(本社 朝鮮京城府黄金町1丁目)に売却。
以降昭和20年まで日窒鉱業による本格的採掘が始まった。
当時は太平洋戦争中であり、資源のない日本はわずかな資源を求めて採掘に努めた。最盛期の従業員は100人を超えていた模様である。増産を促すため、政府は「決戦手当」なるものを支給した記録がある。
決戦手当交付金 坑内 在籍労務者 28円
臨時夫 28円
勤労報国隊 28円
坑外 在籍労務者 6円
臨時夫 6円
勤労報国隊 6円
職員 12.5円
主体が朝鮮半島にあった日窒鉱業は敗戦により資産の全てを失い、国内の小規模事業所を残すのみとなり、採算の取れなくなった吉永鉱業所を閉鎖した。閉鎖当時の中田寿尚氏は大田に残り数年間小規模な採掘を続けた。(従業員17名、出荷量月10~20トン、出荷先三井金属日比精錬所。品位;銅4~6%、硫黄20~33%、金0.2~0.3g/t、銀12~18g/t)
昭和29年の「地質調査誌」によると鉱脈の幅は狭く、富鉱部は少なく、今後新たな採掘は困難であるとされている。
その後鉱滓投棄跡地に、有馬氏等により瓦工場が建てられたが、今はその瓦工場も既にない。
(2024年6月25日 丸 淳助 記)
吉永には、国立の近畿中国四国農業研究所センター(通称 試験場)があります。敷地200haの広大な施設です。設立は昭和12年。現在の職員は60名弱(研究職20名)。
研究所には「肉用牛研究発祥地」との碑がある。日本の和牛研究はここで始まったそうで、創立以来今日まで続けられています。
試験場のイチョウ並木は、秋には金色に耀き私達の目を楽しませてくれます。
放牧地には小高い丘があり、昔は小学校の遠足地となっていました。丘からの三瓶山の眺めは格別です。
また日の沈む試験場の夕景は、忘れることができない地元の風景です。
(2025年2月11日 丸 淳助 記)
石見銀山領33ヶ寺巡りは、島根県大田市を中心に、かつて石見銀山領だった地域に点在する33の寺院を巡る巡礼です。この巡礼は、江戸時代初期に編纂された古文書「石州銀山近里巡礼縁起」に記された霊場を、現代に蘇らせたものです。
この33ヶ寺の中には、吉永の「建功寺」も含まれていました。
石見銀山は16世紀から20世紀にかけて銀を産出した鉱山で、江戸幕府の直轄領でした。この銀山を抱える地域一帯は「石見銀山領」と呼ばれ、その領内に33の寺院が点在していました。
「石州銀山近里巡礼縁起」は、元禄6年(1693年)に編纂された古文書で、33の寺院が記されています。この古文書を基に、現代でも33ヶ寺巡礼が行われています。
巡礼の目的は、信仰と観光を楽しみながら、健康を願うことでした。また、銀山で働く人々にとっても、心身のリフレッシュの場であったと考えられています。
33ヶ寺は、大田市を中心に、江津市、川本町、美郷町と、石見銀山周辺の広範囲に点在しています。中には、建物が残っていない寺跡や、小さな庵となっている寺院もあります。 【地図】
現在では、車で巡礼する人もいれば、徒歩で巡礼する人もいます。地元の人々によって、巡礼マップやガイドが作成され、観光客も気軽に巡礼を楽しめるようになっています。
巡礼路沿いには、美しい自然や歴史的な建造物、地元の人々の生活風景など、様々な見どころがあります。また、各寺院には、それぞれ異なるご本尊や歴史、言い伝えがあり、見学の際には、それぞれの寺院の由緒や特徴を調べていくと、より深く巡礼を楽しめます。