協会の紹介
歴代会長 オリンピアン 沿革
福島民友新聞掲載 6代目会長マイストーリー
歴代会長 オリンピアン 沿革
福島民友新聞掲載 6代目会長マイストーリー
渡部 善一
(2代目会長)
柳澤 肇
(3代目会長)
若杉 浩通
(4代目会長)
鈴木 絹男
(5代目会長)
渡部 友幸
(6代目会長)
宮田 和幸
シドニー五輪
皆川 博恵
東京五輪
※大久保康裕
ソウル五輪
設立年月日 昭和38年 6月 1日
1 福島県レスリング協会の歩み
(1)レスリング競技発祥
本県のレスリングは昭和34年に、早稲田大学でレスリング選手として活躍した渡部善一が実家である「開当男山」酒造蔵元としての郷里に帰郷した時から始まるのである。
同時期、日本体育大学を卒業し郡山市にある日大工学部の体育の教官となった岡部哲也とともに、協会が設立されていなかったため、14回東京国体から自費で参加していたのである。
その後県体育協会の新種目開拓の構想と、当時田島高等学校長であった吉田安世のレスリングに対する理解、そして渡部善一の協力により、昭和38年に当校に県内初のレスリング部が創設されたのである。
同年、福島県アマチュアレスリング協会が設立され、初代会長には渡部善一の従兄である渡部恒三(元衆議院副議長)、理事長には渡部善一が選任され、本県レスリングの普及・発展の基礎作りがスタートしたのである。
初代の顧問はレスリング競技を見たこともない素人の山口芳郎で、マットも無い状況で6名の部員を集め、渡部善一がコーチとなり、野原を走ったり・タックル・ブリッジ等の練習をしていたが、翌年念願のマット一式を県より借り受け、農業科の収納室の一部で本格的なマット上での練習が行われるようになったのである。
(2)全国大会での勝利
渡部善一が二代目会長になったころ、日本体育大学入学後からレスリング競技を始め活躍していた本県出身の若杉浩通(四代目会長)が教諭として指導することとなり、全国大会においても勝利する選手が育成されるようになってきたのである。同時期に当校に勤務していた柳澤肇(三代目会長)も素人として指導に携わることとなったことが後の実施校の増加に繋がったのである。
昭和46年は、前年柳澤肇が坂下高校に転勤し、3名の生徒と細々と練習しながらも本年正式に部になり、同時期に同好会としてスタートしていた安積高校と、3校で県総合体育大会を開催することができたのである。翌年は、西会津高校にも同好会ができ、4校によって全国高校総体の予選会が開催され、田島高校が優勝し全国大会において団体戦初めてのベスト8進出を果たしたのである。
そして昭和50年には、田島高校の渡部友幸が全国高校総体と国民体育大会で優勝し、県内初の高校日本一が誕生し、この後も、関係者の尽力により優勝者が続いたのである。
(3)「ふくしま国体」総合優勝
渡部善一が町の教育委員長になり、町からの協力体制も強固になって、昭和53年には全国高校総体が町立田島中学校体育館で開催され、個人戦においての3位入賞を筆頭に、団体戦・個人戦において大いに活躍する姿が見られたのである。
その間、日本体育大学に進学した渡部友幸と五十嵐直が教職の道を志しながら選手としても活躍を見せ、本県に採用されたことで指導者も増え、喜多方高校、喜多方工業高校と実施校が増えていったのである。
そして、平成になり7年に「ふくしま国体」が開催されることになり、レスリング競技をシンボルスポーツとしている旧田島町が名乗りを上げたのである。 それに伴って、郡山市には石田博基、田島町には渡部徳一郎のレスリング経験者によるスポーツ少年団の設立が続き、旧四倉町にクリナップ株式会社の理解があって、実業団とスポーツ少年団を鈴木絹男(現会長)が中心となり設立し「ふくしま国体」に向けての強化が図られたのである。同じく日本体育大学を卒業して田島中学校教員だった我妻雄比古が、町の協力を得ながらレスリング部を設立し、地元少年選手の強化も図られ、成年選手の教員への登用も進められ、県全体としての競技レベルが高まっていったのである。
町からの多大なバックアップの中、地元関係者による歓迎ムードも高まりを見せ「ふくしま国体」レスリング競技会が開幕したのである。成年選手は想定していた通りの活躍を見せてくれたが、それ以上に町内在住の高校生選手の活躍には、町民の応援が最高潮に達したのである。念願の総合優勝、県協会・町・携わってくれたすべての関係者の喜びも爆発したのである。
(4)オリンピアンの誕生
その後の選手たちの活躍は目覚ましく、平成12年に開催されたシドニーオリンピックに、宮田和幸(クリナップ株式会社)がフリースタイル63㎏級に出場し、本県レスリング関係者から初めてのオリンピアンが誕生したのである。
注
「1988 ソウルオリンピックに、大久保康裕(自衛隊体育学校・平工業高校柔道部出身)が、グレコローマンスタイル68㎏級に出場し6位に入賞している。」
クリナップ株式会社は、全国でも数少ない実業団チームとして活動しており、常にオリンピアンの育成を目指しながらも、今村浩之監督のもと本県の国体成年選手として活躍しており、2020東京オリンピックにも、女子75㎏級において、2019世界選手権で2位になり代表権を獲得した皆川(鈴木)博恵が出場し、3位決定戦で敗れはしたもののケガを克服しての活躍に、コロナ影響で無観客になったことでテレビの映像にくぎ付けになったのである。
(5)ふたば未来学園高校・中学校の開校
平成27年には東日本大震災からの復興に向けて、相双地区で休校となる5校の思いを受けて広野町に「ふたば未来学園高校」が開校され、浜通りで常時活躍しているクリナップ株式会社があったことなどから、同時にレスリング競技がトップアスリートの育成を目指して創部されたのである。平成31年には中学・高校の一貫指導体制の新校舎も完成し開校したことで、更なる活躍に期待が持てるのである。
(6)部活動改革をチャンスに
強化の中枢を担ってきた教員の定年退職がまじかに迫ってきている中、今改革を進めようとしている部活動の在り方について、「ふたば未来学園」のように中学校・高校と一貫指導体制を確立するチャンスととらえたいのである。まずはシンボルスポーツとして位置づけてくれている南会津町と県が垣根を超え、中学校と高校の一貫指導体制を構築し活路を見出したいのである。
現在、県レスリング協会としては南会津町関係機関と前向きに協議を勧めており、他地区においても同様の指導体制が構築できるように働きかけながら、お互いが切磋琢磨して県全体のレベルアップを図り、競技力の向上と人間力の育成を願っているのである。
2 各種大会で活躍した選手(平成元年~平成30年)
※成績のFはフリースタイル、Gはグレコローマンスタイル
(1)オリンピック
宮田和幸(クリナップ)
平成12年 シドニー F63㎏級 13位
(2)世界選手権大会
渡部秀隆(自衛隊体育学校・田島高校卒)
平成 5年 スウェーデン G 82㎏級出場
6年 フィンランド G 82㎏級出場
7年 チェコ G 82㎏級出場
濱上 稔(好間高校教諭)
平成 6年 フィンランド G130㎏級出場
諏訪間幸平(クリナップ)
平成15年 アメリカ F120㎏級18位
長島和幸(クリナップ)
平成21年 デンマーク F 74㎏級21位
平成22年 ロシア F 74㎏級28位
前田翔吾(クリナップ)
平成25年 ハンガリー F 60㎏級17位
田野倉翔太(クリナップ)
平成25年 ハンガリー G 55㎏級14位
平成27年 アメリカ G 59㎏級28位
井上佳子(クリナップ)
平成23年 トルコ 女子67㎏級 3位
平成24年 カナダ 女子67㎏級 3位
鈴木博恵(クリナップ)
平成24年 カナダ 女子72㎏級11位
平成25年 ハンガリー 女子72㎏級 9位
平成26年 ウズベキスタン女子72㎏級 7位
平成29年 フランス 女子75㎏級 3位
平成30年 ハンガリー 女子76㎏級 3位
(3)U23世界選手権
河名真寿斗(クリナップ)
平成29年 ポーランド G 66㎏級 優勝
(4)世界ジュニア選手権
小椋 健(田島高校)
平成 6年 ハンガリー G 81㎏級出場
渡部友章(日本体育大学・田島高校卒)
平成20年 トルコ G 74㎏級33位
(5)世界エスポアール選手権
玉川正人(自衛隊体育学校・田島高校卒)
平成 7年 イラン G 48㎏級出場
湯田善彦(自衛隊体育学校・田島高校卒)
平成 7年 イラン G 74㎏級出場
(6)世界大学選手権
星 翔也(日本体育大学・田島高校卒)
平成26年 ハンガリー G 85㎏級 9位
(7)アジア大会
長島和幸(クリナップ)
平成22年 中国 F 74㎏級 2位
皆川博恵(クリナップ)
平成30年 インドネシア 女子72㎏級 2位
(8)東アジア大会
坪井 勇(田島高校教諭)
平成 9年 韓国 F 63㎏級 4位
吉田幸司(須賀川高校教諭)
平成 9年 韓国 G 97㎏級 優勝
(9)アジア選手権
佐伯 豊(クリナップ)
平成 8年 中国 F 48㎏級 7位
坪井 勇(四倉高校教諭)
平成 9年 イラン F 63㎏級 4位
諏訪間幸平(クリナップ)
平成15年 インド F120㎏級 6位
北岡秀王(クリナップ)
平成20年 韓国 G 60㎏級 3位
清水聖志人(クリナップ)
平成21年 タイ F 74㎏級 5位
長島和幸(クリナップ)
平成20年 韓国 F 74㎏級 3位
平成21年 タイ F 74㎏級 5位
平成22年 インド F 74㎏級 7位
井上佳子(クリナップ)
平成23年 ウズベキスタン女子67㎏級 優勝
鈴木博恵(クリナップ)
平成25年 インド 女子72㎏級 優勝
平成27年 カタールー 女子75㎏級 優勝
平成30年 キルギス 女子75㎏級 2位
前田翔吾(クリナップ)
平成25年 インド F 61㎏級 5位
(10)アジアカデット選手権
渡部悠香(田島高校)
平成16年 キルギス 女子52㎏級 3位
渡部沙織(荒海中学・田島高校)
平成16年 キルギス 女子60㎏級 6位
平成17年 日本 女子65㎏級 3位
平成18年 タイ 女子65㎏級 優勝
福田広樹(田島高校)
平成18年 タイ G100㎏級 3位
(11)天皇杯全日本選手権大会(優勝者)
入江 格(平商業高校教諭)
平成 6年 F 57㎏級
濱上 稔(好間高校・いわき農業高校教諭)
平成 6年・8年 G130㎏級
佐伯 豊(クリナップ)
平成 7年 F 48㎏級
宮田和幸(クリナップ)
平成11年 F 63㎏級
平成13年 F 69㎏級
平成14年 F 66㎏級
長島和幸(クリナップ)
平成18年・19年・20年
・21年・22年 F 74㎏級
田野倉翔太(クリナップ)
平成25年・27年 G 55㎏級
前田翔吾(クリナップ)
平成27年 F 65㎏級
鈴木博恵(クリナップ)
平成24年 女子72㎏級
平成26年・28年 女子75㎏級
平成29年・30年 女子76㎏級
(12)明治杯全日本選抜選手権(優勝者)
宮田和幸(クリナップ)
平成13年 F 69㎏級
諏訪間幸平(クリナップ)
平成15年 F120㎏級
北岡秀王(クリナップ)
平成20年 G 60㎏級
長島和幸(クリナップ)
平成21年・22年 F 74㎏級
井上佳子(クリナップ)
平成24年 女子67㎏級
田野倉翔太(クリナップ)
平成25年・27年 G 55㎏級
鈴木博恵(クリナップ)
平成24年・25年 女子72㎏級
平成26年・27年・28年 女子75㎏級
平成29年・30年 女子76㎏級
(13)国民体育大会(優勝者)
湯田善彦(田島高校)
平成 5年 徳島 少年G 74㎏級
入江 格(平商業高校教諭)
平成 6年 愛知 成年F 57㎏級
坪井 勇(四倉高校教諭)
平成 6年 愛知 成年F 62㎏級
平成 7年 福島 成年F 62㎏級
平成 9年 大阪 成年F 62㎏級
濱上 稔(好間高校高校教諭)
平成 6年 愛知 成年G130㎏級
平成 7年 福島 成年G130㎏級
和田敏行(クリナップ)
平成 8年 広島 成年F 90㎏級
渡部秀隆(渡部左官)
平成 8年 広島 成年G 82㎏級
佐伯 豊(クリナップ)
平成 9年 大阪 成年F 48㎏級
横瀬二郎(クリナップ)
平成10年 神奈川 成年F 58㎏級
吉田幸司(須賀川高校教諭)
平成12年 富山 成年G 97㎏級
宮田和幸(クリナップ)
平成13年 宮城 成年F 69㎏級
平成14年 高知 成年F 69㎏級
平成15年 静岡 成年G 66㎏級
後藤志勝(田島高校)
平成13年 宮城 少年G130㎏級
諏訪間幸平(クリナップ)
平成14年 高知 成年F130㎏級
平成15年 静岡 成年F120㎏級
湯田拓巳(田島高校)
平成17年 岡山 少年G 96㎏級
長島和幸(クリナップ)
平成20年 大分 成年F 74㎏級
前田翔吾(クリナップ)
平成25年 長崎 成年F 65㎏級
平成26年 和歌山 成年F 65㎏級
河名真寿斗(クリナップ)
平成29年 愛媛 成年G 66㎏級
平成30年 福井 成年G 67㎏級
(14)全国高等学校総合体育大会
阿久津虎一(田島高校)
平成 3年 静岡 54㎏級 3位
湯田善彦(田島高校)
平成 5年 栃木 74㎏級 2位
福田広樹(田島高校)
平成19年 佐賀 96㎏級 3位
湯田 光(田島高校)
平成24年 新潟 50㎏級 3位
(15)全国高校生グレコローマンスタイル選手権
湯田善彦(田島高校)
平成 4年 徳島 74㎏級 3位
平成 5年 大阪 74㎏級 優勝
玉川正人(田島高校)
平成 5年 大阪 46㎏級 優勝
福田幸紀(田島高校)
平成 6年 東京 63㎏級 3位
小椋 健(田島高校)
平成 6年 東京 81㎏級 3位
中里 充(田島高校)
平成10年 千葉 70㎏級 2位
児山佳宏(田島高校)
平成11年 岡山 65㎏級 3位
渡部友章(田島高校)
平成17年 大阪 74㎏級 3位
福田広樹(田島高校)
平成19年 大阪 96㎏級 2位
角田友紀(喜多方工業高校)
平成21年 千葉 120㎏級 3位
我妻翔比古(田島高校)
平成25年 大阪 60㎏級 2位
福島民友新聞 2024年 6月17日~29日掲載
マイ ストーリー
県レスリング協会長 渡部 友幸(66)
2024年6月15日(土曜日)
次回から県レスリング協会長の渡部友幸さん(66)=南会津町=が登場します。選手としてはインターハイで優勝するなど活躍し、高校教諭としてレスリングの普及に努めました。レスリングの魅力や、今後の地域スポーツのあり方などについて語ります。
2024年6月17日(月曜日)
1 一歩踏み出せば変わる
人と積極的に話すほうではなかった。レスリングに出合うまでは。
中学校では柔道部に所属した。腕っ節には自信があったが、試合ではほとんど勝てなかった。あまり前に出るタイプでもなかった。それが高校で変わった。レスリング部で日々切磋琢磨するうちに、全国高校総合体育大会(インターハイ)で優勝できるまでになり、練習内容も自分たちで考えるようになった。自分の意見を伝えることができるようになったのは、レスリングで学んだおかげだと思う。
私の教え子に、何を聞いても「うっす」や「いいえ」など、一言くらいしか話さない生徒がいた。それでも私は粘り強く話しかけた。すると、どうだろう。その生徒はレスリングが強くなっていくとともに、受け答えもしっかりとできるようになっていったのだ。レスリングは相手と対峙する競技。後ずさりばかりしていたら、勝てるはずがない。「一歩踏み出す勇気」が人間関係を築く第一歩だ。
競技人口が多いスポーツと比べてレスリングは、まだまだマイナー種目だと思う。私のように高校から始める選手も多い。でも、だからこそ横一線に近いスタートで努力しがいがある。全国や世界の舞台も目指せる。体が小さくても不器用でも、体力と根性を身に付ければ、相手に食らい付いていける競技だ。
不思議なもので、強い人が練習しているのを見ると、自分も同じような動きをしてみたくなるし、やがてスパーリングも頼むようにもなる。仲間は多い方がいい。私も高校教諭時代、体育の授業を見て「これは」と思う生徒を競技に勧誘した。せっかくレスリングのおかげで人に声をかけるのが得意になったのだから。これからも言い続けよう。「レスリングやってみないか」
(聞き手・富山和明)
わたなべ・ともゆき 田島町(現南会津町)出身。日本体育大卒。県レスリング協会長。田島高校でレスリングを始め、3年生のインターハイでは男子65㌔級で優勝した。大学卒業後は高校教諭となり、各校で選手の指導に尽力。国際審判の資格を持ち、後進の育成に励んでいる。
2024年6月18日(火曜日)
2 新聞を見て進路決めた
小さいころのあだ名は「チビ」だった。
小学校では、背の順に並ぶと前から数えた方が早かった。背が低くて丸い、いわゆる「ずんぐりむっくり」体型で、運動神経も良くはなかった。陸上大会では学校の代表になれず、スタンドで応援していた。
ただ、外遊びは好きだった。木を削って作ったバットと布きれのボールでソフトボールをしたり、畑に手作りした土俵で相撲を取ったりしていた。体が小さいけど、粘り強い元大関貴ノ花が憧れだった。中学校になると1972年札幌五輪のスキージャンプの影響を受け、積雪時に近所の裏山で飛ぶこともあった。着地を間違えて足を骨折したので、それからはむちゃをしなくなったのだが。
振り返ると、自然の中で筋肉が鍛えられた。器具を使うと上辺だけになりがちだが、さまざまな外遊びをしたことで、体のバランスは良くなったと思う。今で言うと、インナーマッスル(深層筋、体の深い部分にある筋肉)が養われたのかもしれない。体を動かすことはずっと好きだったが、かといって部活動の成績がぱっとしたわけではない。
中学校では柔道部に入り、友達と筋トレに夢中になった。机を使って倒立するなどして筋肉を鍛えた。腕っ節は人並み以上だったはずなのに、柔道では相手に投げられた。俊敏性や体の使い方の巧みさがなかったからだ。中体連などの公式戦で勝った記憶がない。全会津大会で優勝した同級生もいたので、自分も勝ちたかった。でも勝てなかった。勝利のうれしさを味わうことはできなかったが、スポーツを嫌いになることはなかった。
3年生になって進路に悩んでいると、ある新聞記事が目に留まった。田島高のレスリング部が全国大会の団体戦でベスト8入りを果たした内容だった。田島高にはレスリングの普及を目的に部が設けられ、創部10年にも満たないチームが果たした快挙。「よし、やろう」。進学先を決めた。レスリング部の門をたたく勇気が湧いた。
(聞き手・富山和明)
2024年6月19日(水曜日)
3 勝つ喜びをついに知る
中学校の先輩に誘われ、田島高のレスリング道場を見に行った。以来、高校生活は部活動のレスリングを中心に回っていった。
「頑張るぞ」と意気込んだが、何せ初めて挑戦する競技。当初は強い先輩に歯が立たなかった。技をかけられて返すと、また技をかけられる。スパーリングを延々と繰り返すのがきつかった。体中が筋肉痛になる。練習の翌日、首が痛くて伸びないこともあった。
入学から1カ月ほど過ぎたある日。猛練習が嫌になり、「風邪を引いた」とうそをついて1日だけ練習を休んだことがある。しかし、そんなことをしても当然強くなれるわけがない。この日のことは私にとって戒めとなった。
新入生への指導は先輩たちのしごきだったかもしれない。でも、私は厳しく接してくれたことに感謝している。技をかけられるたびに「この野郎」と奮起したし「いつかやっつけてやる」と意地もできた。この「強い相手に挑み続ける」という姿勢が、レスリングの一番の上達法ではないかと今も思っている。
デビュー戦は県高体の個人戦60㌔級。1ラウンド目の最後の1分間、ブリッジしたまま耐えたが、結局は負けた。でも意地の足跡は残せたと思う。次に臨んだ国体予選も負け、中学校の柔道部時代から続いた負けの歴史はなかなか打ち破れなかった。
転機となったのは、秋の県新人戦。4、5人のリーグ戦で優勝することができた。生まれて初めて表彰状をもらった気がする。ここから試合に勝てる感覚が身に付いてきた。全国大会が視野に入り、練習に熱が入った。勝つ喜びを知ることができたのは、より強くなっていくために大きな経験だった。
当時の戦い方は攻める意識だけだった。相手より先にタックルし、足を取ったら離さず前に出るー。先輩とのスパーリングで技をかけられないようにするには、これしかなかった。そう考えると日々の練習の積み重ねは大きい。うそをついて練習を休んだ後、思い直して本当に良かった。
(聞き手・富山和明)
2024年6月20日(木曜日)
4 全国の舞台 深まる自信
試合に勝てば自信になる。自信があれば相手により強く向かっていける。私は高校2年の時に初めて全国の舞台を踏んだ。
県高体で優勝し、九州での全国高校総合体育大会(インターハイ)に臨んだ。ここで悲しい出来事があった。団体戦が終わった後、レスリング部の顧問に連絡があった。祖母の悲報だった。顧問から「戻るか」と聞かれたが、私は翌日の個人戦に出場することを選んだ。頑張る姿を天国に届けようー。自分に言い聞かせながらトイレに入り、1人で泣いた。
60㌔級の個人戦では、2回勝ってベスト16入り。無我夢中で相手に食らい付き、思った以上の成果を出すことができた。全国の強豪校との力の差は感じたが、粘り強く戦えば勝機はあると思えた。10月の茨城国体ではベスト8に進出した。準々決勝で敗れたものの、優勝した相手に善戦した。自信がどんどん深まっていった時期だと思う。12月には東京で強化合宿があった。全国から高校生300人ぐらいが集まり、試合や練習をする合宿だった。猛者相手にも「楽に勝てる」との感触を持った。ただ、全日本コーチとスパーリングをした際には、立っていられなかった。上には上がいる。自信が過信になってはいけない。
高校入学時は身長158㌢、体重58㌔だったが、3年生になる頃には慎重172㌢、体重68㌔になっていた。体に重りをつけた状態での懸垂や綱登りで鍛えたおかげで、体つきが変わってきたのだ。65㌔級に上げる決断を下した。全国での実力も分かってきた。3位以上は狙いたいという意識も芽生えてきた。
高校3年生となった1975年、県高体で優勝し、東京でのインターハイに出場した。2回戦から登場し、3回戦、準々決勝と危なげなく勝ち進んだ。準決勝の相手は仙台育英高の選手。私がタックルが得意なことを知って対策してきた。巧みに間合いを取られた。それでも終盤で相手を捉えることができ、1ポイント差で競り勝った。あとは決勝を残すのみ。高校の集大成を発揮するだけだ。
(聞き手・富山和明)
2024年6月21日(金曜日)
5 県勢初の高校日本一に
全国高校総合体育大会(インターハイ)の決勝はお客さんも詰めかけ、会場には緊張感が漂っていた。ただ、マットに足を踏み入れてからは集中できた。狙うはもちろん優勝だ。
相手は浦安高(千葉県)の選手。65㌔級では「第一人者」と評された実力者だった。一方、私は「無名だが勢いのある選手」という評価だった。試合では自分が優位に試合を進めている感覚はあったが、中盤までポイントは互角。終盤で何とか突き放し、県勢初の高校頂点に立つことができた。「良かった」と祝福の電話をたくさんいただいた。インターハイの様子はNHKで録画放映された。親戚の人が、私が疲れたような顔をしているとテレビ画面をなでて励ましてくれたそうだ。多くの支えがあってこその成果だったと思う。
この年は、続く国体も制した。素人だった私が、競技を始めて3年もたたないうちに結果を残した。よほどスパルタで鍛え上げられたのだろうと思う人もいるかもしれないが、実際はそうではない。レスリング部の顧問は競技経験者だったが「あれやれ、これやれ」とは言わなかった。生徒の自主性を尊重してくれた。私も全日本の合宿などを参考に、練習メニューを考えて実践していた。自分で考えた目標に対して手は抜けない。常に一生懸命やれば能力は発揮できる。高校での経験は、指導者の立場になってからも生きている。
高校最後の正月、忘れられない経験をした。日本代表として米国遠征に参加させていただいたのだ。スポーツ文化の違いを実感した毎日だった。試合には地域の人が会場の高校にお金を払って見に来る。チアガールも応援に来ていたし、ポップコーンが売られたりもしていた。地域のスポーツクラブが充実し、子どもたちがさまざまな競技に親しめる。地域全体でスポーツ文化を支えていた。いつか日本でもー。憧れの念を抱いて帰国した。
私が高校日本一になれたのは、同学年に断トツで強い選手がいなかったから。まだまだ強い選手はいる。「将来は五輪に」。夢も描いて日本体育大に進んだ。
(聞き手・富山和明)
2024年6月22日(土曜日)
6 忍耐の大学合宿所生活
「もう戻りたくない」。人生の中でそんな場面は誰にでもあるのではないだろうか。私の場合は大学の合宿所生活だ。
日体大のレスリング部の合宿所は二つあり。私は東京都世田谷区の第2合宿所で4年間を過ごした。造りは農家。1部屋に6人が雑魚寝して、1人分のスペースは1・5畳ぐらいだった。当時の大学スポーツ界には「4年神様、3年天皇、2年平民、1年奴隷」という例えがあったが、まさにそんな感じだった。
1年生は食事当番を担っていた。担当の日には1人で合宿生24人分の夕食を用意する。合宿所に風呂がなかったので、銭湯で先輩の背中を流す「風呂当番」なんてのもあった。
嫌だったのは、夜の点呼。正座させられ、上級生から食事や洗濯などについて説教を受けた。理不尽の塊だった。「この野郎。練習で勝って黙らせてやる」と思ったことは何度もあった。同級生は7人だったが、夏休み明けには、そのうち3人がいなくなっていた。
2年生になれば合宿所のストレスから解放されるはずだったが、私の代は事情が違った。1年生はさまざまな部の学生が暮らす寮に入り、2年生から合宿所に移ると制度が変わった。つまり、どういうことか。私たちは1年生の役割を2年間務めることになったのだ。
忍耐の2年間を終え、4年生で合宿所長になった。当時、みんなの前で宣言した。「正座をさせたり、ぶん殴ったりするのはなしにする」。「下級生の生活態度を改めさせるには口で言えばいいだろう」という理屈だ。今の時代ではごくごく当たり前のことだが、当時の慣習を変えるには大きなエネルギーが必要だった。
大学スポーツの環境は、今では相当改善されている。つらい合宿所生活なんて、体験しなくて良かったのかもしれない。ただ、私は良い方向に捉えている。人間関係を学ぶことができた。社会に出ても、ちょっとやそっとではへこたれなくなった。経験をどう生かすか。それは自分次第だ。
(聞き手・富山和明)
2024年6月24日(月曜日)
7 仲間と団体戦4冠達成
日体大には特待生で入った。当時の大学レスリングは早稲田大や明治大が強く、強豪校に「追いつけ、追い越せ」が目標になった。
練習は午前7時から1時間のランニングで始まった。天気が悪いと中止なので、寝床で雨音を聞くとうれしくなった。授業が終わり、午後4時から2時間の練習。主な内容はスパーリングだった。しかし、練習環境は恵まれていなかった。施設が狭かったため、マットを使うのはレギュラーか先輩が中心。練習中、脇でずっと突っ立っている同級生もいた。マットに上がるには、強くなるしかなかった。
私は高校の時から階級を上げ、68㌔級で大会に出場した。1年生の新人戦はベスト8入り、2年生で優勝できた。まずまずの成績だったが、合宿所など普段の生活で精いっぱいで、競技に集中しているとはいえなかった。原因不明の金縛りに苦しんだこともあった。
2年生の時にはけがも経験した。スパーリング中に自分から動こうとしたら「ブチッ」と嫌な音がした。左の大胸筋断裂だった。しばらく安静にしてから練習を再開した後、今度は右の大胸筋を断裂した。筋肉自体が硬かったのが要因だったかもしれないが、ストレスも関わっていたと思う。大学でスポーツをしたいと思っている人は、日常生活を安定させることを心がけてほしい。
3年生になって合宿所の「下働き」から解放され、精神的な余裕が出てきた。インカレでは個人戦ベスト8。そして、4年生で大学初の団体戦「4冠」を達成した。1979年の1部リーグ戦、フリー王座決定戦、全日本大学選手権のグレコローマンとフリースタイルの全てを日体大が取った。今考えると、世界で活躍するような飛び抜けたメンバーはいなかったが、まとまりがあった。いまだに集まって酒を飲むこともある。選手としては満足な成果を出せた。大学の同級生、先輩、後輩のつながりというかけがいのない財産を得て、私は指導者の道を進むことになる。
(聞き手 富山和明)
2024年6月25日(火曜日)
8 生徒と目標に向かって
「全国で勝たせてあげたい」。高校でレスリングを指導するにあたっての目標だった。
日体大を卒業後、母校の田島高で教員生活をスタートさせ、レスリング部の顧問に就いた。当時の私は現役バリバリ。生徒たちと一緒にスパーリングもした。「強い人と一緒に練習をすれば強くなる」という信念だった。
田島高の4年間で、全国高校総合体育大会(インターハイ)や国体出場選手も育てた。厳しい練習が実を結んだ一方、部を辞める生徒もいた。できる限り辞めないよう家庭訪問などで話し合いも重ねたが、努力が及ばないことも多かった。部を去り、高校も退学する生徒がいて心を痛めた。「強い選手を育てるだけが部活動ではない」との思いも抱いた。
転機となったのは、次に赴任した会津工高本郷分校だった。定時制で、生徒たちは昼間働いて夜学ぶ。ある女子生徒の言葉に、はっとした。「この学校に来て良かった。授業で当ててもらえる」。もしかしたら、中学校では静かにしていたのかもしれない。授業で手を挙げるという簡単なことでも、積み重ねることで自己肯定感につながる。できる喜びを知ることで、学校での存在感を味わえる。生徒1人1人の目標設定の大切さを学んだ。
喜多方工高では、レスリング部の立ち上げに携わった。レスリングをやりたい生徒が10人ほどいたので、最初は愛好会からスタートした。体育館のステージで「初めの1歩」から教え、1年で部になった。試合に出たい生徒もいれば、体を鍛えたいだけの生徒もいたので、個々の意向を尊重した。やる気のある生徒が多く、全国の舞台を踏む生徒もいた。
たとえレスリングが強くても弱くても、自分の最大限、一生懸命にやることが大事だと思う。私は実力差や体重差がある選手同士のスパーリングでも、対戦相手に手を抜かないよう指導してきた。互いに高め合う雰囲気があれば部の伝統になる。弱かった選手が成長する姿は周囲への刺激になるし、部内の居場所づくりにつながる。
(聞き手 富山和明)
2024年6月26日(水曜日)
9 地域と共に盛り上げる
競技が盛んになるには地域との関わりが欠かせない。レスリングの場合は合併前の旧田島町の支えが大きかった。
レスリング普及の基礎をつくったのは、早稲田大で選手として活躍した故渡部善一さんだ。善一さんが実家の開当男山酒造に戻ったころ、県体育協会の新種目構想に伴い田島高に県内初のレスリング部が生まれた。善一さんはコーチとして指導し、選手がめきめきと力をつけていった。その後、善一さんは町教育委員長になり、町の協力体制はさらに強くなった。1978年には田島中で全国高校総合体育大会(インターハイ)が開催されるなど田島の全国的な知名度も高まっていった。
この頃、本県レスリング黎明期に鍛えられた選手が指導者として戻り、今度は生徒を育成するという好循環が生まれていた。そして、地域一丸で競技を盛り上げようと、目標にしたのが95年の「ふくしま国体」だった。田島がレスリング会場に決まり、私は開催5年前に母校の田島高に戻って現場の責任者を務めた。「競技開催のために新たな箱物は造らない」という方針で準備を進めた。隣接する田島小と田島中の体育館、田島体育館の3カ所をテントでつないだ。
ふくしま国体に向け、選手強化に力が注がれた。いわき地区では、クリナップの協力で実業団チームとスポーツ少年団が設立された。地元の田島では、田島中にレスリング部、幼年や小学生向けの「田島ちびっ子レスリングクラブ」が発足した。県内の幅広い地域、世代で競技力アップに汗を流せるようになった。
多くの努力が実を結び、国体では総合優勝を飾った。地域住民も多く訪れ、声をからした。声援が最高潮に達したのは、町内の高校生が出た試合。地域の応援は選手の背中を力強く押してくれた。よそから強い選手を集めなくてもいい。本県選手の姿を見た子どもたちが「僕も私も」と続いてくれたら競技はもっと盛り上がる。
(聞き手 富山和明)
2024年6月27日(木曜日)
10 選手を育てる国際審判
レスリング選手としての現役を終えた後、国際審判の資格を取った。
高校教諭になってからも部活動で生徒と一緒に体を動かし、大会に出場していた。国体で2位になったこともあったが、突き抜けた結果を出すことはできなかった。学生時代と比べ、練習量が落ちたことが大きい。練習時間は減っても食事量は変わらない。大学生の時は68㌔級だったが、現役最後の方は100㌔級で試合に出ていた。35歳まで現役を続けることができ、周囲に感謝したい。目いっぱいやったので、選手としての悔いは一切ない。
国際審判の資格を取ろうと思ったのには理由がある。実は、レスリングの国際ルールはちょくちょく変わる。最近では、マット上で消極的な動きを続けていた場合には、相手にポイントが入るようになった。五輪などを見据え、レスリングをより魅力的に観戦してもらおうと、国際的な取り組みが進められているためだ。問題だったのは、ルール変更の伝達が末端に届くのが遅いことだった。
国際ルールが変更されると、日本レスリング協会から高体連にビデオが送られてくる。審判がそのビデオを見て勉強するのだが、各高校への周知徹底が間に合わず、旧ルールのまま大会を運営することもあった。
「これでは世界で戦えない」。高校生から国際基準に慣れる必要がある。国際審判になれば情報伝達が早くなると思った。1996年に東北で初めて国際資格を取得した。東北の審判を集め、講習会を開くなど審判技術向上に努めた。「東北のレベルアップなくして本県のレベルアップなし」との思いだった。
部活の顧問をして気付いたのは、試合中に自分がリードしているのか、相手にリードされているのか分からない選手いたこと。ルールを理解していないと、競った場面で大きく響いてくる。試合中盤からの作戦の立てようがないからだ。審判は選手を育てる。今後も選手と審判の育成は、競技振興の両輪として力を入れていきたい。
(聞き手 富山和明)
2024年6月28日(金曜日)
11 新設部の基礎をつくる
レスリングが県内に普及する先駆けとなった南会津地区に加え、レスリングに力を入れているのがいわき地区だ。クリナップの実業団とスポ少があり、競技力を支えている。一方、部がある高校がなかったため、競技を志望する高校生の受け皿づくりが課題だった。
風向きが変わったのは、東日本大震災と東京電力福島第1原発事故からの復興に向けたふたば未来学園中・高(広野町)の開校だった。県議会の一般質問で、創設する部活動候補の一つにレスリングが挙がっていることを知った。私は当時、県レスリング協会理事長を務めていたので、検討状況を聞こうと県教委の担当者を訪ねた。「レスリング部をつくりたいが、指導者を誰に頼めばいいか困っている」と説明された。私はとっさに言った。「僕では駄目ですか」。若い指導者が新設部を担当するのは、あまりにもプレッシャーだ。それならばベテランの方が、という思いだった。「行っていただけるならありがたい」と担当者。もちろん、その場で決まったわけではないが、私は定年までの3年間を、ふたば未来高レスリング部にささげることになる。
最初の部員は男子2人。私を含む3人でスパーリングをしたり、筋トレをするなど工夫して地道に練習した。「3年間で全国入賞者を出す」と必死だった。ただ、翌年の新入部員は1人だけ。部内の士気を保つのに苦労した。私も初めての単身赴任で、不安から体調を崩したこともあった。でも「ここで土台をつくっておかないと部が続かない」と気持ちを奮い立たせた。部員と粘り強く話し合い、練習を重ねた。その結果、1期生は全国大会に出場できるまでの選手に成長した。
成績よりも何よりも、最後までやめないで頑張ってくれたことが大きい。ふたば未来では現在、中学校でもレスリングができるようになり、女子も入部している。部の基礎ができたのは1期生のおかげだ。
レスリングは1人では絶対に強くなれない。同級生同士、高校同士で切磋琢磨しながら力をつけてほしい。
(聞き手 富山和明)
2024年6月29日(土曜日)
12 みんなで切磋琢磨して
スポーツには地域を盛り上げる力がある。だからこそ、これからの地域スポーツには幅広い人を巻き込むことが必要だと思う。
レスリングの場合、高校や大学を卒業して本県で競技を続けようとすると社会人チームは1チームだけ。それ以外は教員になって続けるのが主流。企業に入り、自宅近くの高校で生徒と一緒に練習するケースがあるが、まだそれほど多くはない。私は、これからの地域活性化のためには高校が鍵を握ると考えている。高校のレスリング場で社会人と高校生が一緒に練習をすれば、確実にレベルアップする。部活動改革で中学生も練習仲間に加わればなおさらだ。レスリングは強い選手と切磋琢磨して力が伸びるスポーツだからだ。
地方の人口減が叫ばれている。要因には都市部で就職して戻ってこないことが挙げられる。「レスリングを続けられるから、古里の企業に就職したい」。若者にそう思ってもらえるような環境づくりを進めたい。もっと多くの社会人が地域の子どもにレスリングを教えることができれば、双方に郷土愛も芽生える。競技振興には行政との連携も欠かせない。産学官がまとまれば地域は盛り上がる。
「弱い者いじめはするな」。父親からよく言われた。「一体どういうことだろう」と自分なりに考えてきた。自分が弱いと、もっと弱い人をいじめて自分を保とうとする。弱い自分がいると、周りにうそをつき始める。つまり「弱い自分に負けるな」ということだと解釈するようになった。レスリングでは強くなるほど相手を思いやる気持ちが出てくるし、けがをさせることもない。マットでの真剣勝負は、互いにルールを守るという信頼があってこそ。レスリングは人間関係を学べるスポーツだと思う。一生懸命にやれば勝っても負けても得るものがある。だから子どもでも、生徒でも、大人でも、もし何か物足りない日々を送っている人がいたとしたらー。レスリングやってみないか?
(聞き手 富山和明)
後藤君(旧姓)が福島民報サロンに執筆(渡部浩一君の執筆に続いて二人目)