今回のお話しをするにあたって、菊名池弁財天の管理をしている古郡さん、池之端商店街の「染乃よこやま」横山清和さん、そして富士塚1丁目にお住まいの加藤 繁さんから貴重なお話しを伺うことが出来ました。また、ご助言やご紹介をいただいた森川利夫さん、森弘幸さん、小林八千代さん、加藤修さん他沢山の方々にご協力いただきました。厚く御礼申し上げます。
(2022年5月20日)
1.「鎌倉殿」に縁の深いわがまち篠原
私たちのまち篠原は、「鎌倉殿の13人」に登場する縁の深い場所であり、ゆかりの史跡や言い伝えが数多く残されています。
先ずは、篠原東2丁目にお住まいだった押尾寅松さんのはなしより<出典:港北ふるさと映像プロジェクト『ふるさと人物伝』>。補足を平井誠二さん・林 宏美さんの『わがまち港北1・2・3』、『港北百話=古老の話から=』、『新編武蔵風土記稿』、『新編武蔵風土記』で補うことにします。
「押尾寅松さん『ふるさと人物伝』より 写真提供:港北映像ライブラリ(令和6年11月24日承認済)」
(1)妙蓮寺の地名の由来
今の妙蓮寺には『浄壽山 蓮光寺』というお寺がありました。『蓮光寺』さんは、池上本門寺の末寺で1580年頃に菊名池畔につくられました。当時は、子安の浜の多くの漁師がお墓を持っていました。
明治41年(1908年)、横浜線(横浜鉄道臨港線)開通の時、引き込み線の敷設(今の東神奈川駅周辺)に際し、神奈川区神明町にあった日蓮宗のお寺『妙仙寺』が立ち退くことになりました。『妙仙寺』は鎌倉と池上本門寺の往還の宿としてつくられたお寺です。
明治41年8月8日、『妙仙寺』さんが『連光寺』のところへ引っ越し、合併する事になりました。合併に際し、『妙仙寺』の『妙』と、『蓮光寺』の『蓮』を併せて『妙蓮寺』と改められました。以後、『妙蓮寺』は長光山妙蓮寺・日蓮宗、池上本門寺末寺として現在地にあります。
大正15年に東急東横線が開通するに当たり、『妙蓮寺』の境内を通る計画が持ち上がりました。妙蓮寺さんは、境内の通過を許す代わりに新駅開設を条件としました。現在の、東横線妙蓮寺駅は、開通当時は「妙蓮寺前駅」という駅名でした。
(2)篠原という地名の由来
篠原という地名は、加賀国の武士が篠原合戦(現在の石川県加賀市篠原町)で、源氏に敗れて落ち延びてきたという言い伝えがあります。
新編武蔵風土記稿によると、篠原村の起源は寿永2年(1183年)加賀国篠原村で平維盛軍と源義仲が合戦をしたとき、負けた維盛軍の残党が落ち延びた先が当時「鈴木村」といっていた地であり、篠原の地を忘れてはいけないと、村名を「篠原村」と名付けたといわれます。
篠原合戦: 寿永2年(1183年)加賀国篠原村で、平家側の平維盛軍源氏側の源 義仲(木曽義仲)軍が戦った合戦。負けた維盛軍の残党武将が落ち延びた先が、当時鈴木村といわれていた地で、後に村名を篠原村と名付けた。
『又伝ふる所は、干戈の中(戦の中)にて移りしかば、あたる年(その年)の正月も餅をつき新年を賀する事無かりき、其遺例として村民今も正月は餅をつかず赤飯をなして祝へりと』。
しかし、江戸時代になり、天保年間(1830年~1844年)頃からはこっそりと餅をつくようになったそうです。
地名の由来については、篠竹がたくさん生えていたからだという説もあります。鎌倉時代から戦国時代には、篠竹は弓矢の材料として重宝されたという背景もその説を後押ししています。
余談ですが、篠竹からは篠笛もつくられます。
また、小さな盆地上の地形が『シナ』と呼ばれ、「シナが続く原」だから「篠原」だと云う説もあります。
新編武蔵風土記稿は、江戸時代の文化7年(1810年)~文政13年(1830年)頃に編纂された風土記の下書き稿です。因みに、「新編武蔵風土記」は大禮記念刊行として、相武史料刊行會が昭和5年に原三渓が顧問となり刊行されています。
新編武蔵風土記稿巻の六十七橘樹郡の十には、篠原村の記述に城跡があった記述があります。城の名を「金子城」と地元の人は呼び、城主が金子出雲であったから金子城と伝えられています。
篠原村には、金子氏の子孫や家臣団の末裔にあたる方々が多く住んでいます。
金子氏を遡ると、鎌倉殿の時代、頼朝に仕えた武将金子十郎忠常に遡ります。
金子十郎家忠は、『吾妻鏡』にも登場する源頼朝の有力な武将の一人です。
金子氏及び篠原城については、別の機会に触れることにします。
(3)仲手原の地名の由来
「写真提供:港北ふるさとテレビ局 (令和6年11月24日承認済)」
※この紙芝居は、港北図書館で借りられます。
(五十嵐徳江さん作「だいだらぼっちは神様だった」より)
「写真提供:港北ふるさとテレビ局 (令和6年11月24日承認済)」
仲手原の由来は、ダイダラ坊の話に出てきます。
あるところに大男がいた。名前をダイダラ坊、ダイダラボッチやデーダラボッチとも云う。一跨ぎが一里の大男がこの地にやってきて大雨が降って農家が困っているとき、堤防を造ったり田や畑が出来るようにした。
ところが地面が大雨でぬかっていたので、尻餅をついてしまった。尻餅をついた後に出来たのが「菊名池」。立ち上がろうと親指をついたところが「白幡池」。人差し指が慈雲寺あたりの低湿地で、後に谷戸田となった。
そして、手の平をついたところが「手の中の原っぱ」といい、後に 「仲手原」と呼ばれるようになったという。
「仲手原」は湿地帯であったが、平らな場所だったから「仲手原」となりました。
また、ダイダラ坊は村人のために、菊名池から富士塚をとおり、菊名までの用水路をつくりました。これが菊名川という名や菊名用水路といわれる川です。
(五十嵐徳江さん作「だいだらぼっちは神様だった」より)
(4)菊名という地名の由来
菊名山のお寺『菊名山連勝寺』に、野菊が一杯咲いていたのでこの地が「菊名」と呼ばれるようになった。もともとお寺の山号『菊名山』から「菊名」になったとも言われる。
「港北区史」によれば、蓮勝寺の伝える記録に、この寺の起源は古く浄土宗第五祖の蓮勝上人が、関東巡錫の折この地を訪れ、秋の野山に菊の花の咲き乱れる景勝の地なるが故に正和四年(1315年)、一字を建て「菊名山」と名付けたと伝えている。
「小田原編年録」によれば、「小田原衆所領役帳」小机衆に記載の家人『増田』氏とは、「武州橘樹郡下作延村青竜山円福寺は、大永二年(1522年)地頭増田駿河守満栄建立す。満栄は永禄元年(1558年)六月十六日卒。円福寺殿量海宗無居士と号す。行年八十年。此役帳永禄二年(1523年)改なれば、満栄が死後程なき事ゆへ増田とのみ記せしなるべし。満栄の墓は清沢村養光寺にあり。」と注す。
(5)大豆戸という地名の由来
大豆戸というのは、粘土質の土地で豆の生産に適していたという。地理的には、菊名池の用水が流れ、鶴見川と合流する地点であり、大豆がよく出来た。
昔から「大豆」のことを『まめ』と呼び、谷戸であることから「大豆戸(まめど)」と云うようになったのである。吉田家は、現在の冨士食品がある場所で醤油醸造を営んでいた。
また、菊名池からの菊名川の用水を利用して水田もあり、米が沢山とれたともいう(染之よこやま・横山清和氏談)。大豆戸村が菊名川の水利権を持っていたとのこと。
(6)富士塚という地名の由来
今の富士塚には、塚があった。その塚を富士山に見立てて『富士塚』
と呼んだことから地名となった。富士塚谷戸として地名が残る。
妙蓮寺地区の図には、水門、水車小屋が書かれています。(「東横沿線」より)
① 菊名池と菊名川水門
この図は森川俊夫さんからいただきました。
河野さんのお宅は代々菊名池の水門の役目をしていたと
のことです。
押尾寅松さんの話では、「富士塚橋」の下の方には、
かつて「大井戸」と呼ばれる場所があった。
1丈位(約3m)の落差があり、菊名池にはいないヤツメウナギなどがいた。
また、その落差を利用して水車で米をつく「米つき場所」があり、玄米から白米にしていた。
富士塚は昔、富士塚谷戸といわれ、細い田んぼで「谷
戸田」と呼んでいた。谷戸田とは、谷間に造った水田で、小規模な労力で開墾できたため中世以降は活発に作られたという。
妙蓮寺地区の図には、水門、水車小屋が書かれています。(「東横沿線」より)
以下、「港北百話~古老の話~」 から富士塚に関する記事を引用してみます。
※富士講や冨士信仰は、昔富士山は霊場であり女人禁制となっていたので、地元に富士塚をつくり女性も拝めるようにしたものである。関東各地に、富士山に見立てた山を築いたり、古墳や塚を富士山に見立てる富士塚があった。篠原の富士塚も古い塚を富士山に見立てて富士塚と呼び、それが地名として残ったものである。
大塚金剛神の碑
背面には「大正元年八月 加藤氏八立之」とある
1.港北区富士塚にはいくつかの「塚」があった
(1) 大塚のむかし話 ~加藤会長宅のおはなし~
大塚のむかし話 (この項、「港北百話」より全文引用)
『 昔は信仰上の理由や特定の人の墓として、よく塚が作られたが、篠原地区では富士塚の地域のみに不思議と多くの塚が存在している。その中の一つである大塚は現在富士塚1-25-33、加藤宅の敷地内にあり、以前は相当大きな面積を持っていたが、ほぼ中央に道路が造られたために二分されてしまったようだ。この塚にまつわる話として、ひとつの昔話がこの地域に伝わっている。
それは明治維新の騒がしさも落ち着き、血なまぐさい話も聞かれなくなったある秋の夜の事である。
まだ若かった加藤家の先々代民八さんは夢の中で、大塚の下から戦に敗れた鎧武者たちが、よろよろと出てくるのを見た。ある者は仲間の肩を借り、ある者は刀を杖にしてあわれな姿で、民八さんに腹がすいて困り果てている、食べ物をくれと訴えた。翌日、その夢の事が気になった民八さんは、塚の前に沢山のご馳走を供えて供養をした。するとその夜の夢では生き返ったように元気な姿になった武者たちが現 れて、礼を述べ再び塚の中に消えていった。
そこで、この塚の下には戦国時代の武士の霊魂が眠っているのではないかと気が付き、民八さんと村の人々は塚の周囲を清掃し、食べ物や花、線香などを供え大塚大明神として供養を続けることとなった。
最近、塚の付近を工事のため掘り返したところ、古銭が沢山出てきたため、同家では工事を中止させたと云うことである。また、新編武蔵風土記稿によると「大塚、村の東畑の中にあり、高一丈許鋪の径四間許、この塚の傍をほれば、たまたま永楽銭などを得る事あるよし土人いへり、いかさまにも古塚なるべけれど、何人の塚なることは今より考ふべからず。」とある。永楽銭は明の成祖永楽帝の時から鋳られたものといわれ、我が国に輸入され室町時代以降標準的な通貨として広く流通し、特に後北条氏が重用したといわれるが、徳川になり使用を中止した。この流通時期は戦国時代が中心となっており、民八さんの話と符合することが、話を一層面白くしているようだ。
また、大塚とは別に富士塚には旧大綱村立尋常第一小学校脇に塚があった。明治時代も後期のある年、同小学校の貴船校長が生徒を助手として、この塚を発掘したところ鎧、兜が出土した。ところが、その後間もなく同校長は不慮の死をとげ、当時、地域の人たちは塚のたたりではないかと噂していたという。』
篠原地区富士塚の地域のみに不思議と多くの塚が存在している。
その中の一つである「大塚」は富士塚1-25-33 加藤様宅の旧敷地内にあり、以前は相当大きな面積を持っていたが、ほぼ中央に道路が造られたために二分されてしまった。明治維新のあと、先々代 民八さんは夢の中で、大塚の下から鎧武者たちがよろよろと出てくるのを見た。民八さんに、腹が空いている食べ物をくれと訴えた。翌日、民八さんは塚の前に沢山のご馳走を供えて供養した。すると夢の中に現れた武者達が元気な姿で礼を述べ、再び塚の中に消えていった。そこで、この塚は戦国時代の武士の霊魂が眠っているのではないかと気付き、民八さんと村の人々は塚の周囲を清掃し、食物や花線香を供えて「大塚大明神」として供養を続けることになった。
(2) 大塚とは別に、富士塚には旧大綱村立尋常第一小学校の脇にも、塚があったと言う。
明治時代後期に同小学校の校長 貴船氏が発掘したところ、鎧・兜が出土した。
その後、校長は不慮の死を遂げ、村の人々は塚の祟りではないかと噂した。
(3) 新編武蔵風土記稿には、先述の大塚の近くに『與五郎塚』の記述がある。
大塚のあたりにあり、故老のものがたりにここは往昔、村民の與五郎という者入定せし所といへり。
との記述がある。< 新編武蔵風土記稿 篠原村の条 大塚 >
大塚
村の東畑の中にあり。高一丈(約3メートル)許。鋪の径り四間許。此塚の傍をほ
ればたまたま永楽銭(室町時代の貨幣、江戸時代には使われなくなった)などを得る
事あるよし土人いへり。いかさまにも古塚なるべけれども何人の塚なることは今よ
り考ふべからず。
與五郎塚
大塚あたりにあり。故老のものがたりにここは往昔村民與五郎と云ふ者入定せし
所といへり。
「わがまち港北 3」より
因みにプールオープンは昭和48年7月でした。
2.菊名池の龍神伝説と菊名池弁財天の謎
菊名池公園案内板より
菊名池の今昔
豆知識:水道道の誕生
昭和6年~8年(1931年~1933年)菊名池を二分するように水道道がつくられました。
菊名池を跨ぐ橋が菊名橋です。昭和10年に架設されました。
昭和23年(1948年)1月に港北消防団が結団され、記念すべき最初の出初め式は、菊名橋の上で挙行されました。
(1)菊名池と菊名橋
菊名池と菊名橋と水道道
菊名橋は昭和10年(1935年)架設
(菊名池・菊名橋 写真提供:横山清和氏)
(2)古老の話~港北百話~から
「港北百話」には『この池には1300有余年以前より大龍神が鎮座し、里人は菊名池大明神とあがめ奉って、その守護を得ていたと伝えられている』とあります。
← いかにも龍神が住みそうな池
菊名池弁財天拝殿
両脇の柱の龍に守られています。社のご本尊は毎年正月に開帳されます。
(3)菊名池弁財天とは
①菊名池弁財天
◆菊名池弁財天の石碑(縦書きを横書きにしました)
菊名池弁財天は千年以上の歴史の有る古社である
昭和三十九年七月七日復興せり
願主 山本清次
◆菊名池弁財天の石碑(縦書きを横書きにしました)
祭神 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)・・・註)宗像三女神の一柱「水の神」
七福神中唯一の女神であります
弁財天のお姿は一般には琵琶をお持ちになって居りますが この
弁財天は右手に剣を 左手には宝玉をお持ちになり お顔は美しく
気品と愛嬌がおありです 剣は魔を払い交通安全 家内安全を現し
宝玉は招福の玉として財宝授与 商売繁盛のご守護神であります
拝殿奥の額の絵
「市杵島姫命」弁財天
境内の菊名池弁財天像
「市杵島姫命」弁財天
拝殿天井の木札
昭和 39 年7 月 7 日 復興菊名池畔江
昭和 47 年7 月 7 日 遷座公園内現地江
②弁財天はどんな神様?
弁才天と市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
弁才天はもとはインドの神様で、サラスヴァティーという河川の神です。
奈良時代から弁財天信仰が始まったと言われており、弁才天が日本に伝わり「市杵島比売命」と同一視されました。弁才市杵島姫命は、日本神話の女神で宗像三女神の一柱ですが、神仏習合により弁才天と同一視され、初めは「弁才天」でしたが「弁財天」となったことで、河川の神、水の神に加え、学問、弁舌・音楽(芸能)、増益・延命、商売繁盛の神として祀られるようになりました。
(4)菊名池と「鎌倉殿」の関係は
①菊名池弁財天とは
菊名池弁財天を管理している古郡さん、染乃よこやまの横山清和さんにお伺いすると、縁起など詳らかなことはわかっていないとのこと。OKスーパーの並びにマグロ屋さんがありますが、そこに一本の大きなイチョウの木が立っています。昔は、その木の下に小さな祠があり、それを菊名池弁財天として祀っていた。分社とか妙蓮寺の境外社とかではなく、地域の人が自主的に建てた祠で、いわば民間信仰として祀っていたのが始まりのようです。
古郡さんによると、菊名池弁財天は市杵島姫命である。広島の安芸の宮島の厳島神社・御本社の祭神・三女神のうちの市杵島姫命を祀っているという。
弁財天=市杵島姫命であるということにこだわっておられたのは印象深い。つまりは、菊名池弁財天は、どこからか勧請した社ということではなく、民間信仰として村人が祀った市杵島姫命であったというのが地域の言い伝えのようである。
しかし、現在地にたつ菊名池弁財天及び社殿には、まだまだ謎が残る。仮説を立てるなら、社殿の欄間の彫刻に、義経に係わる場面が飾られていることから、「鎌倉殿」や「江の島」と深い繋がりを感じます。
社殿の彫刻の解説をします。池之端商店街入口に向いて「五条の橋の牛若松と弁慶」が描かれています。西側、拝殿の裏側には、「義経と頼朝兄弟の涙の再会」の場面が有ります。そして、北側、プール側に面して「壇ノ浦の合戦で義経が八艘飛び」をしている場面が描かれています。これは一見の価値があります。
ここから連想すると、菊名池弁財天と江の島弁財天のつながりが色濃く見えてきます。なぜなら、江の島弁財天の伝説に『義経と大日法』の話が出てくるからです。
②義経と弁財天のつながり
拝殿の欄間
南側 池之端商店街入口の側
五条大橋の牛若丸と弁慶
義経・頼朝の涙の会見
拝殿裏側の彫刻
北側 プール側の欄間
壇ノ浦の合戦 義経の八艘飛び
③義経と天女伝説
義経と大日の法 ~ 江の島弁財天の伝説
源義経は、奥州平泉の藤原秀衡から「大日の法」という兵法の巻物についての話を聞きます。この兵法を使えば日本の国は思いのまま操れるというのです。その大日の法の巻物は「千鳥」といわれる島の喜見城の都にあると云います。王の名は「かねひら王」といいました。
早速義経は大日の法の巻物を手に入れるために島へ渡ります。
「千島」には・・・牛頭・馬頭・阿防羅利・夜叉鬼などの大勢の鬼がいました。義経は鬼達を前に「たいとう丸」という名の笛を吹きます。
すると鬼達はその音色に感動して「かねひら王」へ奏聞します。義経が大王の前で「たいとう丸」を吹くと、大王は大いに喜びました。
義経は大日の法の伝授を願い出でますが、大王は大日の法については口を開こうとはしませんでした。
後日、酒宴の席が設けられました。その席には、大王の娘もいました。「あさひ天女」といいます。
義経は「たいとう丸」で天女に『想夫恋』という曲を吹きました。これを聞いた天女は義経に心を寄せて、契りを結んだと云います。
天女は、義経に懇願されて大日の法の巻物を盗み出します。
そして、義経はそれを三日三晩かけて書き写しますが書写を終えると、大日の法の巻物の文字が消えてなくなってしまったといいます。
天女は「何か大事が起こる予兆に違いありません」といって、義経を逃がすことにします。巻物の文字が消えてしまったことを知った大王は、義経を追わせますが、義経は天女から教わった兵法で討手から逃げ切り、無事に帰ることが出来ました。しかし天女は大王に殺されてしまいます。天女は、江の島弁財天の化身だったと云います。義経に兵法を教えるために、鬼の娘として生まれたのだと。
ある夜天女は義経の枕元に現れ、自分の死を告げます。天女の死を知った義経は、丁重に菩提を弔いました。
その後義経は、「大日の法」を自在に操り、源氏の御代としたと云います。
④頼朝と八臂弁財天
源頼朝は、藤原秀衡を制圧しようと、八臂弁財天を江島神社に奉納したため、弁財天は戦勝祈願の女神にもなりました。
言い伝えでは、養和2年(1182年)源頼朝が奥州平泉の藤原秀衡調伏のため僧:文覚に命じて江の島に弁財天を勧請しました。その弁財天が八臂弁財天でした。
4月5日、その供養のため、足利義兼・北条時政・新田義重・畠山重忠・下河辺行平・下河辺政義・結城朝光・上総広常・足立遠元・土肥實平・宇佐美実政・佐々木定綱・佐々木盛綱・和田義盛・三浦義連・佐野忠家らを供として江の島を訪れます。
江島神社・奥津宮の鳥居は、その時頼朝が寄進したものと伝えられています。
文覚はそのまま江の島に籠もり、21日間の断食をして祈りを捧げたと云うことです。
背景には、前年の養和元年(11481年)8月、清盛の跡を継いだ平宗盛は、藤原秀衡を陸奥守に推挙し、頼朝追討令を出しています。このことへの対抗策だったと思われます。
⑤江の島弁財天と八臂弁財天と市杵島姫命
市杵島姫命は、宗像三女神の一柱です。
宗像三女神とは、タギリヒメノミコト(田心姫命/多紀理毘賣命)沖津宮<長女>
タギツヒメノミコト(湍津姫命) 中津宮<次女>
イチキシマヒメノミコト(市杵島姫命) 辺津宮<三女>
市杵島姫命は弁才天と同一視されて、市杵島姫命=弁才天となっている。したがって、弁才天も神様である。もともと弁才天はインドの女神サラスヴァティーのことである。
江の島弁財天といえば、裸弁財天ですが、正式名称は「妙音弁財天」といいます。
妙音弁財天
八臂弁財天
宗像三女神である市杵島姫命は、航海安全・交通安全・富貴栄達・金運財運向上・商売繁盛・学業成就・諸芸上達・国歌鎮護に御利益があるとされています。
一方、インドの女神サラスヴァティーは、川の神・水の神であり、日本に入ってからは弁才天・弁財天と呼ばれ、弁才天が弁才天となり、琵琶を持つことから音楽の神となり、商売繁盛・弁舌に御利益がるとされる。
江の島の妙音弁財天は、裸のお姿であることから「裸弁才天」と呼ばれている。何故裸なのかについては、鎌倉時代の流行で仏像を裸で作り、着物を着せて祀っていたことによる。
江島神社の八臂弁財天は、源頼朝が寄進したと伝わるもので、藤原秀衡を制圧するために奉納したことから、戦勝祈願の意味合いも持つこととなった。
寿永2年(1182年)、頼朝が奥州平泉の藤原秀衡調伏のため、僧:文覚に命じて江島神社に八臂弁財天を勧請した。僧文覚はそのまま江の島に籠もり、21日間断食をして祈りを捧げたということです。
3 謎は深まる菊名池弁財天
(1)えっ、祭りの山車!?
残念ながら調べを進めるうちに、『わがまち港北 1(平井誠二著)』にこんな記述がありました。
「第48回 港北の七福神たち -その二-
(途中省略)
七、菊名池公園内(菊名一丁目) ここだけは寺ではありません。菊名池は湧水池で、平安時代より灌漑用水として大切にされてきました。池には龍神が住むという伝説があります。 前回紹介した山本さん(菊名在住:山本清次さん)の夢枕に弁財天が立ったことから、池のほとりにお祀りすることになりました。社殿はなんと祭りの山車を転用したものです。
弁財天はインドの女神ですが、豊穣や蓄財、音楽の神様となっています。普通の弁財天は琵琶を持って座っていますが、ここは右手に降魔(ごうま)の剣、左手に招福の玉を持つ立像です。
七福神の乗った宝船は、年賀状を始めとしてお正月のめでたい図柄として定着していますが、この絵は江戸時代中期から流行したもので、幕末になると枕の下に敷いて寝るという風習も始まりました。皆さんも、正月二日の夜はこれでよい初夢をご覧になって、初詣に七福神巡りをしてみませんか。
(二〇〇二年十二月号)- 12 -
付記 菊名弁財天は、元は妙蓮寺の境外社でした。
※横山さんによると、菊名池弁財天と妙蓮寺は関係は無かったとのことです。
なんと、前述した菊名池弁財天の拝殿は、祭りの山車を転用したもののようです。それにしても、どの町の山車だったのでしょうか。疑問は深まるばかりです。
妙蓮寺さんの境外社であったろうことはうなづけられます。「千年以上の歴史をもつ菊名池弁財天」は、妙蓮寺さんが合併する前の「蓮光寺」さんは、菊名池畔までも境内敷地であったのでしょう。はたして、妙蓮寺さんに記録が残っているでしょうか。
(2)謎は深まる菊名池弁財天
菊名池弁財天の独特な立像、右手に剣を持ち左手に宝玉を持つお姿はどこから来たのでしょうか。
調べるうちに、東京国立博物館で展示された『宇賀神弁財天像』に行きあたりました。この宇賀神弁財天は、右手に剣・左手に宝玉を持っています。しかし、「宇賀神」の証として頭の上に、顔は翁・身体は蛇の姿の「宇賀神」が乗っています。
菊名池弁財天像は持ち物は同じですが、頭に「宇賀神」は見当たりません。ますます、謎の深まる菊名池弁財天です。
毎年お正月には、額の絵と同じ弁財天様のお姿が御開帳されます。正月まで待つことにしましょうか。
4 まとめ ~ 菊名池弁財天とは
(1)菊名池弁財天の縁起については、調査不足で謎ばかり残ります。
はっきりしているのは、昭和39年復興、昭和47年現地に遷座という事実だけです。
(2)菊名池弁財天立像は、菊名池の龍神伝説に深く関わっており、右手には龍を納めるための剣を持ち、左手には龍の頭(脳)から出た玉である宝玉を持つ姿は、独特の弁財天像と言えます。
⇒主祭神は『市杵島姫命』
もともと龍神は水の神であり、神の使いといわれており、龍神伝説は各地に存在する。神社やお寺の手水舎・手水鉢には龍が鎮座しており、水を司る神として祀られている。龍神と菊名池弁財天の関係はつながっている。
(3)菊名池弁財天は、『宇賀神弁財天』と同じく宝剣と宝玉を持つ弁財天であること。しかし、頭に「宇賀神」が乗っていないのは、『宇賀神弁財天』ではないのかもしれない。
(4)弁財天にまつわる義経・頼朝=「鎌倉殿」の伝説や言い伝えは、菊名池弁財天と江の島弁財天との繋がりを暗示します。
(5)実は、菊名池弁財天の社殿は、祭りの山車を転用したものである。菊名神社の祭礼に使っていた山車で、妙蓮寺境内の倉庫に保管されていたものだそうです。何処の町会のものかは、今となっては判明しないようです。菊名池プール建設時に、横浜市が一角を「菊名池弁財天」用に土地を提供し、現在地に遷座したとのこと。
(6)いろいろな謎を持つ菊名池弁財天。
はたして、菊名池弁財天が持つ右手の剣と左手の宝玉は、何を意味するのか。
農業に必要な水の神であること。そこに龍神伝説深いつながりを持つこと。
「財」のつく弁財天であることから、商売繁盛の神として菊名池畔商店街の守り神として鎮座しているのではないだろうか。
水の神様なので、水田の傍に弁財天像がつくられ、農家の信仰も厚い神様となった。芸事の神でもあり、音楽家は弁財天をお参りするそうです。
女神なので、女性の霊を慰める目的でたてることも多いそうです。
謎の解明は、毎年正月に額の絵と同じ弁財天様の御開帳があります。次のお正月を待つことにしましょう。
つづく・・・
1篠原城と旧鎌倉街道・下の道 ~ 篠原再発見!!
篠原・富士塚は、鎌倉時代から「いざ鎌倉!!」の大事な交通の要衝でした。江戸時代も・・・
2明治以降の移り変わりと、戦後住宅街となった富士塚の歴史
加藤 繁さんのお話では、ナント! 昔、自治会館あたりに新撰組の「天然理心流道場」があったそうです。
「富士塚」周辺も戦中・戦後に「塚」も壊され、住宅地になりました。戦後しばらく、「富士塚」の周辺は、進駐軍の住宅地として使われた時期があったそうです。
横浜線の開通、東横線の開通、大きな大戦のあと多くの人が富士塚に移り住んできました。
富士塚はどう発展してきたのでしょうか。富士塚の歴史は、まだまだ続きます。