■わがまち富士塚の歴史を知ろう
■富士塚の比定地は?
「港北百話 ―古老の話から― (昭和51年(1976年)刊行)」によると、『富士塚 富士塚の地名になっている塚は、現在の富士塚二丁目、小恵幼稚園上の高台に、冨士浅間神社という小さな社とその脇の大きな松の木の下に、富士塚と呼んだ大きな塚があった。それが大正初期に神社の合併があって、この社はなくなり、その後塚も松の木も宅地化の波に流されていつしか無くなり、今はその跡さえ無い。』
■そもそも『塚』とは?
富士塚の『塚』とは何でしょう?
そもそも「塚」とは、その周辺の地面よりこんもりと丸く盛り上がった場所を指し、自然の地形を利用したものや、盛り土をして山のように加工したものをいいます。この様な地形から、誰かを葬った墓である古墳や、何らかの意味を込めた場所として石造や木造などの祠や塔、碑を設けて祈りを捧げた施設が『塚』と呼ばれています。
ですから『塚』は、必ずしも誰かの墓とは限りません。誰かを祀り、鎮魂・信仰する対象として「塚」が造られる場合も多くあります。
■富士塚の『塚』
私達が住んでいる富士塚の「塚」は、確証はありませんが往古は「古墳」であったかもしれませんが、富士山を祀る塚として名付けられたのではないでしょうか。
江戸時代(文化7年(1810年)~文政13年(1830年))に編纂された『新編武蔵風土記稿』には、橘樹郡神奈川領之十、篠原村の項に、『富士塚谷 (村の)東北ノ間ヲ云フ』と記され、現在の富士塚の地名が出て来ます。
篠原村に隣接する村は、東は菊名・大豆戸の二村に境し、南は六角橋村~神奈川宿に接し、西は岸の根・鳥山の二村に向かい、北は都筑郡の新羽村に交じり、再び大豆戸村に及ぶ位置関係にあります。
篠原村の項に『大塚 村ノ東畑ノ中ニアリ、高一丈許、鋪(平らな面)ノ径四間許、コノ塚ノ傍ヲホレバ、タマタマ永楽銭ナドヲ得ル事アルヨシ土人ノイヘリ、イカサマニモ古塚ナルベケレド、何人ノ塚ナルコトカハ今ヨリ考フベカラズ』とあり、富士塚1丁目の大塚坂の由来となっている塚がありました。古老の話では、戦国時代の武将の墓と伝えられています。実際、古老の話でも古銭が出て来たという話があり、この記述が裏付けられています。同時に『與五郎塚 大塚ノアタリニアリ、古老ノモノガタリニ、ココハ往昔村民與五郎ト云者入定セシ所ト云へり』との記述があり、今は場所不明となっていますが、與五郎という人が即身仏として「入定」した場所が與五郎塚であると記されています。
■富士講
富士塚の名は、江戸時代後期から始まったとされる「富士講」に由来する。
富 士の山開きのある七月一日、各部落にある浅間神社では氏子や信者が集まって祭事を行なった。他の講社のように隣近所の人が大多数参加して行う講と異なり「富士講」は村の有志が集まり、白衣の先達よろしく「六根清浄」を唱えて七富士めぐりなどをした。七富士めぐりは、荏田(荏田富士)、川和(川和富士)、池辺(池辺富士)、茅ヶ崎(茅ヶ崎富士)、北山田(北山田富士)、新羽(新羽富士)、篠原の富士塚が一つの組み合わせとなっていた。
■サイノカミ(セイノカミ・サイト)
篠原の富士塚には、セイノカミドとという屋号を持った家がある。
富士塚二丁目の峯岸家である。道路に面した同家の屋敷内には江戸時代安永六年(1777年)の年号の入ったセイノカミの塔があるためにこのように呼ばれているとのことである(「港北百話」より)。
セイノカミは、村の入口・谷戸の辻々にある道祖神と一緒に祀られていた。
セイノカミは、男女一対の像が一般的である。村の入口で邪気を払い、村を守ると共に、村の子孫繁栄・健康を祈る神である。
■古代の篠原地区・富士塚の地形
私達のまち富士塚・篠原地区は、谷戸の囲まれた小高い丘となっています。妙蓮寺の駅あたりを頂点に白幡・白楽に至る道は緩やかな下り坂、武相学園の丘から仲手原・菊名池に至る道は傾斜のある下り坂。武相学園の尾根が分水嶺となっています。同じように、篠原東から篠原八幡神社に至る尾根道(旧・鎌倉道)も分水嶺となっています。篠原八幡神社から錦が丘に至る尾根道も表谷と富士塚の分水嶺となる地形です。
古代(石器時代・縄文時代・弥生時代)の篠原地区はどんな地形にあったのでしょう。
縄文時代に「縄文海進」という海水面が今よりも5m以上高くなっていました。新横浜駅も沼が迫る湿地帯でした。従って、古代、篠原台地は海に突き出た半島であり、縄文時代の貝塚や住居跡が発掘され、人が暮らしていたことが発掘調査から明らかにされています。
水色の部分が、海・湿地帯・・・新幹線・新横浜駅は海の中。篠原の丘は海に突き出た半島でした。
■富士塚でも発掘調査が
宅地開発に伴う事前発掘調査が行われました。50㎝~1m掘り下げると次の写真にあるように、畝状遺構や柱穴、竪穴住居跡が出土しました。
畝状遺構及び柱穴跡・住居跡を発掘
畝状遺構の発掘
この畑の様な遺構を、畝状遺構と言います。畑の跡と思われます。
丸い穴は、柱穴と思われ、建物の跡と考えられます。
■畝状遺構の側から、下記写真の住居跡も見つかりました
竪穴住居跡=丸い穴は柱穴。穴が重なっているので何度か建て替えた様です。
この竪穴住居跡には、黒く炭化した部分があり、火を燃やした跡であることが判ります。また、土間の部分に敷石をしたと思われる跡が残り、縄文時代でも進化した時代の遺跡であることが判ります。
↑ 縄文後期の住居跡(竪穴住居)
<参考>大塚歳勝土遺跡の竪穴住居(復元)
■加藤様・福田様方の畑から出土した石鍬
横浜市埋蔵文化財センターの鑑定で、縄文後期後葉~弥生時代初期と思われる石器(石の鍬)だそうです。篠原小学校へ教材として寄贈。 このように、篠原台地に位置する富士塚(富士塚谷)は、海が近くにあり、貝や小魚などを食し、畑を耕す裕福な生活を送る縄文人や弥生人達が生活していた所でした。
出土した石鍬
■篠原の一帯を発掘した
武相高校創始者・初代校長 石野 瑛(いしの あきら)先生《考古学者・教育者》
【武相学園】<武相学園学校案内より>
『歴史・沿革』 本学園は昭和17年6月24日、石野瑛が教育者としての抱負を実現するため、大勢の労力的・経済的援助者の力を借りて横浜市港北区篠原町富士塚に武相中学校を創立した。同年7月2日開校式を挙げ、後に同町仲手原に2万坪の萱野原(現武相台)に校地を定め、同18年4月14日竣工、富士塚校舎より移転しました。
『武相の名前の由来』 武相の名前の由来は、武蔵国・相模国の山野が一望に見渡せる恵まれた丘という意味から『武相』の校名が創立者の石野瑛先生により命名されました。
昭和18年4月1日中等学校令並びに中学校規程財団法人武相中学校設立認可。
●武相学園の創立当初の仮校舎が、富士塚2丁目赤丸の辺りにありました。
■石野瑛先生の業績
石野瑛先生は、著名な教育者・考古学者・歴史学者として活躍されました。特に、考古学に関する発掘調査結果・報告書が著作物として、主に大正元年(1912年)から昭和28年(1953年)まで武相関係だけでも40冊以上が刊行されています。
「神奈川県大観 全5巻<武相出版社>」の第2巻「横浜・川崎」に書かれている篠原地区に関する研究成果を紹介します。
□石器時代遺跡(港北区)《「神奈川縣大観2 横濱・川﨑」石野瑛著より》
篠原町武相台遺跡(篠原町仲手原武相学園農場)
縄文時代 武相学園農場より慈雲寺墓地上に至る
昭和18・4/24~28調査
土器(早期-茅山、中期-阿玉台、加曾利E式土器、後期-堀之内式土器)
石器(打石斧、石鏃、石匙)
篠原町 榎本貝塚 (篠原東二丁目・三丁目~武相学園農場)
縄文時代 住居、貝
昭和25・10武相考古学部調査
土器(後期-堀之内式) 石器(麿石斧、打石斧、石棒)
篠原西部貝塚(篠原町1080篠原池東方台地)
縄文時代 包含 貝
昭和24.10.17調査 土器( )
錦ヶ丘貝塚 (篠原町2500)
縄文時代 貝
昭和24.10.17調査 土器( )
富 士 塚 (篠原町 富士塚)
縄文時代 包含
昭和17年6月調査 土器(中期-加曾利E式、後期-堀之内式)、石器
表谷貝塚 (篠原町 表谷)
縄文時代 貝、住居
土器(前-黒浜、諸磯・後-加曾利E式、堀之内式)、石器(打石斧)
東西3ヶ所に有り
加曾利E式土器(月出松遺跡出土)
堀之内式土器[注口土器](華藏台遺跡出土)
(写真提供:横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター 承認 横歴埋第529号令和6年11月21日)
●富士塚遺跡で発掘された、加曾利E式土器・堀之内式土器について
加曾利E式土器は、縄文時代中期(約4500年前)のもので、関東地方を中心に広く見られる土器ですが、どこで作られ富士塚までやってきたかは判っていません。加曾利E式土器の特徴は、土器の上部に渦巻きの文様が見られ、表面には縄を転がした文様(縄文)がみられます。
堀之内式土器は、縄文時代後期(約3500年前)のもので、同じく関東地方を中心に分布し、土器の表面にみられる文様には渦巻きや「U」の字を逆さにしたような文様が、共通してみられます。縄文後期気候が暖かく安定してきた時期で、食べ物を盛り付ける浅鉢や急須のような土器もみられ、文明が成熟してきた様子が見受けられます。
<横浜市埋蔵文化財センターHP Q&A《横浜市内で発見される土器について》参照>
□古墳・横穴・同時代遺跡 《「神奈川縣大観2 横濱・川﨑」石野瑛著より》
篠原大塚 (篠原町2734番地) 高塚 昭和26.8.20調査
篠原富士塚 ※(篠原町 富士塚) 高塚 昭和26.8.20調査
與五郎塚 (篠原町 表谷戸2042番地) 高塚 今はなし