ベルギーは多様な文化や芸術を誇る国である。ダンス、演劇、パフォーミング・アーツなどの舞台芸術に関しては国内外で高い評価を受けており、なかでもダンスについては、ブリュッセルが世界的に重要な発信拠点の一つにまでなっている。
ベルギーの総人口は1200万人弱で、日本の10分の1にも満たない(2024年1月の法定人口:11,763,650、ベルギー統計局調べ)。また、2023年度のGDP成長率は1.4%(ベルギー国立銀行調べ)で、日本と同じくインフレ圧力に直面している。このような経済状況のなか、舞台芸術、とりわけダンスに関するブリュッセルの役割は、芸術の都として有名なフランスのパリに比肩するといっても過言ではない。その理由は、独自の発展を遂げたベルギーの舞台芸術史をみても明らかで、実践家を養成するための高等専門教育機関が充実するとともに、文化政策に重点を置く方向に政府が舵を切ったことであろう。舞台芸術史に関しては、拙論「ベルギーの舞台芸術」(『「ベルギー」とは何か?』松籟社、2013、pp. 143-163)で詳述したので参照されたい。また、教育機関と文化政策については第2章と第3章で取り上げるので、ここでは、多言語国家であるベルギー独自の国家形態に触れておく。
ベルギーは、フランスの7月革命の影響のもと1830年に独立を宣言し、1839年のロンドン条約によってネーデルラント王国からの独立が正式に認められた独立国家である。君主制国家である同国の正式名称はRoyaume de Belgique(仏)/Koninkrijk België(蘭)/Königreich Belgien(独)で、日本語ではベルギー王国と訳される。独立当初は、フランス語を統一言語とした国家であったが、当初からフラマン語(ベルギーで話されるオランダ語)話者やドイツ語話者も共存していた同国は次第に属地的言語主義の方向へと舵を取る。とりわけ1960年代、フランス語圏(ワロン地域)の経済低迷とフラマン語圏(フランデレン地域)の経済発展によって両地域の力関係が逆転することを機に、言語的軋轢が一層激しくなり、ベルギーは両地域の分権化を推進し、1963年には言語境界線まで定められた。そして、1993年正式に連邦国家へと移行したベルギーは「多極共存型民主主義」という特異な政治体制の連邦立憲君主制国家となる。立法権を行使できるのは、国家元首である国王、および首相を代表とする連邦政府であるが、議院内閣制をとる連邦議会メンバーは国王の子女を除いて五つの自治政府から選出された議員からなる。自治政府とは、三つの地域と三つの言語共同体から構成されるが、フラマン語圏のみ地域と言語共同体が統合されているので五つである。各自治政府は独自の権限を持ち、文化政策を含むさまざまな分野での役割を分担している。大まかに言えば、各地域政府がそれぞれの地域内の経済、雇用、農業、環境、インフラ整備等の政策を担当し、各言語共同体政府が文化、教育、保健、福祉等の政策を担っている。
Gouvernement fédéral(仏)/Federale regering(蘭)/Föderalregierung(独):財務、法務、外務、内務、国防、厚生等の中央行政機関(省)によって国家全体に関わる政策、および各自治政府との調整を担当。
フランデレン地域(Vlaams Gewest):フラマン語圏地域の経済やインフラ政策を主に担当。
ワロン地域(Région wallonne):フランス語圏地域の経済やインフラ政策を主に担当。
ブリュッセル首都圏地域(仏: Région de Bruxelles-Capitale / 蘭: Brussels Hoofdstedelijk Gewest):ブリュッセルを中心とした地域の経済やインフラ政策を主に担当。
フラマン語共同体(Vlaamse Gemeenschap):フラマン語を話す共同体。フランデレン地域とブリュッセル内のフラマン語話者に対する文化や教育政策を主に担当。
フランス語共同体(Communauté française):フランス語を話す共同体。ワロン地域(ドイツ語圏を除く)とブリュッセル内のフランス語話者に対する文化や教育政策を主に担当。
ドイツ語共同体(Deutschsprachige Gemeinschaft):ドイツ語を話す共同体。ベルギー東部の少数のドイツ語話者に対する文化や教育政策を主に担当。
なお、フランデレン地域とフラマン語共同体だけは一つの政府としてフランデレンの名のもとに統合されているので合計五つということになるが、フランデレン政府内では、文化、教育、保健、福祉等の政策をフラマン語共同体が担い、経済、雇用、農業、環境、インフラ整備等の政策をフランデレン地域が担当しているので、実質的な役割分担は他の自治政府と変わらない。また、ブリュッセル首都圏地域政府が設けられた理由は複雑である。首都ブリュッセルは地理的にはフランデレン地域である。それにも関わらず同市にはフランス語話者が多い。だからといって、フランデレン政府からみれば、首都圏地域の自治をフランス語共同体政府の管轄にするわけにはいかない。そこで、地域政府として両地域から独立したブリュッセル首都圏地域政府が設けられ、それと同時に総人口の1%にも満たないベルギー東部のドイツ語話者の自治権も認めるかたちで、1993年、正式に複数の地域政府と共同体政府からなる連邦制度が始まったのである。現在、ブリュッセルには、ベルギー連邦政府、ブリュッセル首都圏地域政府、フランデレン政府、フランス語共同体政府が置かれている。つまり、ブリュッセルは、これら四政府それぞれの首都なのである。なお、ワロン地域政府は南のナミュールにあり、ワロン地域内のリエージュ州の東側に位置するドイツ語共同体の政府はドイツとオランダの国境近くのオイペンにある。
ちなみに、ブリュッセル首都圏地域のフラマン語圏とフランス語圏に関する政策については、フラマン語共同体委員会Vlaamse Gemeenschapscommissie ( VGC ) とフランス語共同体委員会Commission communautaire française ( COCOF ) がそれぞれ中心となって、文化、青少年、スポーツ、教育、福祉等に関する政策を執り行っている。それぞれのシンボル・マークには、前者がN-Brussel、後者がFrancophones Bruxellesと明記されており、支援の際にもこのシンボル・マークだけが記載される場合が多い。
最後に、文化政策に関する役割分担について触れておく。文化政策は各言語共同体が権限を持ち、文化振興、芸術支援、文化財保護、メディアや教育に関する政策を担当し、共同体ごとに異なる文化的ニーズに対応している。その一方、地域政府は経済やインフラ整備に関連する政策を主に担当するため、文化政策に直接的な関わりはない。ただし、文化施設やイベント等の物理的インフラに関与することはある。例えば、建物などの有形文化財保護政策がこれにあたる。これらのことを踏まえて、ここではベルギーの高等専門教育機関と文化政策について考察する。
なお、2011年にフランス語共同体は公式文書や公式ホームページの表記を「ワロニー=ブリュッセル連合Fédération Wallonie-Bruxelles(FWB)*」に変更することを決定した。憲法第2条の表記はまだフランス語共同体のままであるが、煩雑さを避けるために以下の文章では、フランス語共同体を示す場合、「ワロニー=ブリュッセル連合」の表記を用いる。
* Fédérationという表記について。ベルギーの統括政府である連邦政府Gouvernement fédéralと同じFédérationという語を用いていることは非常に意味深であるが、それをここで問題にするつもりはない。ここでは、「連合」という訳語の選択理由を述べるにとどめる。Fédérationには「連邦」「連盟」「連合」等の訳語があるが、Fédération Wallonie-Bruxellesは共同目的で盟約を結んだ組織ではないのだから、その意味を表す「連盟」は該当しない。また、「連邦」は連邦政府と混同しやすい。そこで、誤解を避けるために「連合」という訳語を選択した。