デュイン史の連邦期は連邦の傘下に入ったphil.2003以降を指す。
phil.2003年3月に、連邦はデュインにデュイン総合府を設置し現在の八県二自治区に繋がる態勢を整えた。
ユエスレオネ本土における人口問題や食料生産、雇用の確保といった各種問題の解決のため、デュインへの移住制度が一般に公表された。
ユエスレオネ連邦議会はファイクレオネのユエスレオネ本土にあり異世界であるデュインからの投票は安全性に懸念が残ったため、移民の投票権はデュイン総合府に限り認められることとなった。
デュインという広大な土地の供給により移住先と働き口を得たユエスレオネ国民であったが、その一方で、デュイン先住民は移民のための土地を確保するために先祖伝来の土地を徴発され、居留地に押し込められた上に選挙権や政府との交渉権も与えられなかった。
xelkenは島嶼部には侵攻できていなかったため、こうした連邦の振る舞いは、特に島嶼部の先住民の多くからは「大陸部における混乱に乗じて解放者のように乗り込んできた悪党」として激烈な反発があがった。ユエスレオネ国民としての権利は一部認められていたため、居留地にとどまれば食糧や生活必需品に関しては配給が受け取れたが、それも2004年9月のショレゼスコおよび翌10月の経済危機(ショレゼスコ危機)のために中止され、困窮した先住民たちは暴動を起こしリパラオネ人の工場や農地を破壊した。経済危機とこの9月暴動のためにデュインには失業者があふれることとなり、2006年に成立したリパラオネナショナリズム過激派のxelken.alesが彼らを吸収することとなった。
これらの結果を受け、連邦は2005年3月、配給を再開させるとともに、比較的連邦に対して友好的なグループの存在していたヴィッセンスタンツ人、ファーシュヴァーク人、アポート人、リスターメ人、サラス人、チョルセ人、ズィタラク人、ラッビヤ人によるデュイン先住民族会議を設立し、先住民感情の受け皿とすることを図った。
デュインは2003年の成立からしばらく総合府が全土を直接管理していたが、2005年3月に行政区分を設け二自治区八県体制を確立した。自治区になったのはクランタルとイェテザルであるが、クランタルは連邦に対して特に友好的だったサイパオプ人の土地であり、「連邦に協力すれば権限を与える」という懐柔案の提示であった。またイェテザルは、デュイン戦争の際に共闘し自治権の保障とXelken侵攻前の土地に民を帰還させるという約束をしていたヴィッセンスタンツへの対価である。
また、連邦はデュイン総合府に対して各行政区分に十分な権限を与え文化と言語の保守を促進させるよう指示した。
この「文化と言語の保守」は先住民を居留区に押し込めるという形で実現され、先住民にとっては保全を名目にした生活レベルの抑圧となった。
phil.2007年、デイシェス北東部で大規模な油田が発見され、採掘がはじまった。エルフ熱などに起因する『大移動』以降、石油は安定した供給元が見つかっていなかったが、このブラディー油田が開発されたことで石油とガスが手に入ることとなり、デュインのみならず連邦本土やPMCFにも大きな影響を与えるようになった。
phil.2010年1月1日にデュイン・クランタル区庁が占領されたことを皮切りにデュイン地域の全体でxelken.alesは蜂起を開始した。xelken.alesの目的は連邦を破壊して古理語と新理語を再編したノヨ・リネパーイネ(NIL)を普及させ国際語とすることであったが、この主張は二等市民としての扱いに耐えかねたデュイン先住民たちの反連邦感情に共鳴する部分があり、共闘関係となった。
先住民の独立運動は初期にはデモ集会や行進による平和的なものであったが、連邦の取り締まりで先住民側に死傷者が発生し、デモに巻き込まれた一般人の移民が負傷したことで互いの反感は次第に高ぶっていくこととなる。特にデュイン戦争後に連邦により行われたパニャル先住民であるドゥバーギョ人の虐殺はこの一連の運動で連邦との闘いの犠牲者として神聖化され、「パニャルを思いだせ」は先住民たちの間でスローガンのようなものへと変化していった。
独立過激派による都市からの移民の追放や、それに対抗する連邦海軍の艦砲射撃などの惨事を経て、連邦は2010年8月2日に「全てのデュイン先住民にユエスレオネ国民としてのあらゆる権利を認める」という人権宣言を行った。これにより先住民独立派の多くは本来の目的を達成したとみなして矛を収めることとなり、残りの独立過激派とXelken.alesは各地の反乱を抑える必要がなくなり余力のできた連邦軍により鎮圧へと向かうこととなる。
この戦争は1年2ヵ月後のphil.2011年3月3日に連邦側が終結宣言を行ったことで終わった。
デュイン先住民に選挙権や土地の所有権といった一般的な人権と考えられる権利が認められ、社会保障も受けられるようになった。これにより有権者数が増加して連邦政治のバランスが大きく変わることとなった。しかし一度制度によって画定された差別は簡単にはなくなることはなく、一定の改善がみられるようになるには数十年の歳月を要した。
また、先住民の蜂起はデュインの産業にたいして農業工業ともに甚大な被害を与えることに成功した。これにより連邦本土は先住民の力を無視できなくなり、デュインの世論が政策決定に大きな比重を占めるようになった。
また、この戦争には隣国である南サニスからもxelken.alesの掃討に軍勢が送られてきており、多くの戦争犯罪が起きている。さらに南サニスはこの派兵による出費で国家財政が崩壊し、別の隣国であるタフターの鉱山資源を目指して2012年に侵攻を行い四年戦争を開始することとなる。
phil.2012年、デュイン北西の沖合を震源とする地震が発生した。この地震は各地で建物の倒壊や津波による多くの犠牲者を出したほか、沿岸部の農地が津波による塩害で一時的に使えなくなるなどの被害を出した。
揺れによる被害はラファンカ、シェルタズャート、シェルトズャートゥンデ、サラス、パニャル、リスターメ、クランタルの六県一区で、津波による被害はシェルタズャート、シェルトズャートゥンデ、サラスの三県で発生した。とりわけシェルトズャートゥンデ北部の沿岸は標高が低く耕作地が広がっていた土地であったために被害が大きくなった。
デュイン総合府の対応は早く、地震発生からおよそ十日の間に被害状況を把握すると救済のための臨時予算を編成し、各県に救済と復興を指示した。しかし現場では、実際にはユエスレオネ移民のみが十分な支援を受け、先住民族は冷遇されるような事態が頻発した。こうした問題は、当時のデュインは総合府が人権宣言を行って1年ほどしか経っていない状況であり、移民による先住民族への差別意識が根強く残っていたことが背景にある。支援を受けたことで自立を取り戻した被災移民の有志が独自に先住民族らを支援するような光景も見られ、住民たちが出自を超えた結束を果たした地域もあった。
phil.2014年にはこれらの差別による復興の遅れが明らかになっていた。復興の遅れによる弊害としては農業生産の落ち込みの回復が遅れたことで連邦全土における国産の食糧供給に問題が出たこと、そして農業に従事していた人々が職を失い、テロ組織やマフィアがビジネスを行う隙を作ってしまったことなどが挙げられる。
こうした各種の復興政策の杜撰さから、総合府議会では与党の社会民主党が盛んに攻撃された。この結果、phil.2015年に行われたデュイン総合府選挙で社会民主党が敗退してメイナ党が勝利し、政権を握ることとなった。