伊達東地区は、福島県中央を北に流れる一級河川・阿武隈川が運んだ肥沃な土壌が堆積して形成されました。
阿武隈川は、古代から明治までたびたびその流路を変えてきました。
室町時代までは伊達地区の南端にある愛宕山の縁に沿って流れていて、現在の高子の川岸には日本三松原と称えられた「阿武の松原」の名勝が形づくられました。
①~③ 室町時代以前 (阿武の松原が存在)
④ 古川河道 1538年ころ(室町時代後期)
⑤ 1670年ころ(江戸初期)
(参考:伊達町史第3巻)
旧伊達町を含む福島県北部の信達地方は、平安時代末期、奥州藤原氏の一族・佐藤基治(もとはる)の領地でした。
源氏との戦いに敗れ藤原氏が滅亡すると、1190年頃この地域は中村朝宗の領地となります。このとき朝宗は、地名を取って伊達氏に改名しました。以降400年にわたり伊達郡一帯は伊達氏が支配する土地でした。
「伏黒」の地名が初めて現れるのは、室町時代末期の1538年に書かれた「伊達氏段銭古帳」です。当時は阿武隈川は現在の伏黒の東側を流れており、明治まで氾濫の度にしばしば流れを変えました。阿武隈川の流路がほぼ現在の位置になり、「箱崎」が文書に登場するのは江戸時代直前の1594年ころです。
伊達郡を含む信達地方は、戦国末期に一時的に蒲生氏が支配した後、会津上杉家の所領になり、その代官が支配することになります。
信達地方の上杉家支配は江戸時代になってからも1664年まで67年間続きました。しかし上杉家が断絶すると、幕府の代官や大名の分領などたびたび交替し、明治になるまで支配が定まることはありませんでした。
支配者が一定しない中、箱崎・伏黒の農民たちは水利の悪い土地という悪条件を逆手にとって、養蚕業へと進出していきました。1644年、江戸幕府が中国からの生糸の輸入を禁止したことから、岩代(福島)産の生糸が評判となって京都の西陣に買われるようになり、一気に商品経済に突入していきます。
特に伏黒地区は、蚕種(蚕の卵)の生産販売に特化していきました。桑や蚕の品種改良を続け、東日本で蚕種の大きなシェアを獲得し、「奥州蚕種本場」のブランドを獲得するまでになります。
幕末に流行った機織り唄には「保原真綿に 伏黒蚕種、浜(横浜)で名を売る掛田糸」と歌われています。
天王祭や愛宕神社の祭礼は、生糸や蚕種の取引市場としても有名で、関東・関西からも商人がやってきました。
伏黒・箱崎の蚕種・養蚕業は明治に入っても発展を続けます。その結果、明治には電気が引かれ、福島ー伊達ー保原ー掛田を結ぶ軽便鉄道が走るなど早くからインフラが整備されました。しかし、第一次世界大戦の好景気で最高潮に達した後は、関東・信州との競争が激化し苦戦を強いられるようになります。
転換点を迎えた伏黒・箱崎の農家が目を付けた換金作物は、桃・リンゴなどの果樹でした。大正6年(1917年)にはすでに2万本の桃が植えられていました。特に、箱崎地区は早くから果樹に転換を図り、共同防除や出荷組合が作られました。
養蚕業の衰退は昭和初期の大恐慌で決定的となり、その後はリンゴ・桃を中心とした果樹地帯に急激に変貌していきました。
このように、伏黒・箱崎地域が稲作地帯の農家と異なるのは、一貫して換金作物の生産を目指し、お互いに競争しながら創意工夫を重ねたことでした。