妙立寺は、京都の日蓮宗本山・立本寺の末寺であり、正治元年(1198)、御潜幸中の後鳥羽上皇が天台宗の祈願所として創立されたと伝わります。
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千箇寺詣の寺
(千箇寺部屋らくがきの跡)
日蓮宗 霊亀山 妙立寺
日本国第八十二代天皇 後鳥羽上皇ゆかりのお寺
村雲御所 常孝院宮日照大比丘尼ゆかりのお寺
開山 大覚大僧正妙実上人の御真作 肥後阿闍梨日像菩薩の御開眼
奉安 雨乞いの日蓮大菩薩像
戦国大名 加藤清正公 拝領「玄武の神鈴」
織田信長公忠臣 小河愛平公ゆかり「日蓮聖人像」
縁起
当山は、京都の日蓮宗本山・立本寺の末寺であり、正治元年(1198年)、御潜幸中の後鳥羽上皇が天台宗の祈願所として創建され15の末寺があったと伝わります。
延慶二年(1309年)日蓮聖人の孫弟子である日像上人が、弟子の大覚上人を伴い、北陸伝道の途中、長浜を訪れ布教をされました。日像上人の説法を聞いた住職・檀信徒達が上人に、帰依・改宗し、荒廃していた妙立寺の再建を懇願しました。日像上人はこの地を訪れ「霊亀山妙立寺」を再建され、大覚上人を開山として定めましたが、度重なる戦火で焼失しました。当時、京都大本山・妙顕寺第二世法灯を継いだ大覚上人は西国(備前・備中)伝道中でしたが、知らせを聞き再び訪れ当寺を再建されました。
天正七年(1579年)『安土法論』の法難を受け、織田信長によって伽藍は尽く灰燼に帰しました。時の檀信徒たちの発起で天正十一年(1583年)に堂宇が再建されました。
寛政六年(1794年)「村雲御所・第八世常孝院宮日照大比丘尼(霊元天皇の皇祖孫 日照女王)」門跡を永代供養する事になり、祈願寺となりました。
山門横の『千箇寺部屋』には、参拝者の書き残した「らくがき」が現存します。境内には、後鳥羽上皇お手植えの「鳥羽桜」、お手洗い井戸の「岩亀水」や「詠歌」が伝わります。
『植えおきて後のかたみとなす桜は色香妙なる法の庭もせ』
後鳥羽上皇
妙立寺は、後鳥羽上皇の祈願所として建久10年(1199)行幸の際、創立されたと伝わります。本堂右側奥に「鳥羽桜」と「岩亀水」があります。
「千箇寺詣り」とは、日蓮宗独特の風習であり、白装束に手甲・脚絆にうちわ太鼓叩いて「南無妙法蓮華経」の題目を唱えて、目標の一千箇寺巡礼をする参拝者達で、最終目的地は「山梨県の身延山・久遠寺である。
妙立寺は、北陸道・東海道・中仙道・琵琶湖海上交通の要所として千箇寺詣りの巡礼者が立ち寄ったことが想像される。「らくがき」の書かれた年代を見れば、江戸中期から明治初期までのものが記されている。
《千箇寺詣の歌》
◆「夏はつる 冬は着て寝る し長かな 祖師の恵て廻る千ケ寺詣り」
(解説)妙立寺の千箇寺部屋をはじめとする各宿泊所は、夏は暑く冬は寒くて大変です。しかし日蓮聖人のご報恩により廻ることが出来ます。
◆「脇のお寺じゃ布団を貸せた、ここのお寺は風かせた」
(解説)前に宿泊したお寺では布団を貸してくれたが、妙立寺では何もなく風が吹いて寒かった
後鳥羽上皇(1180-1239)高倉天皇の第4皇子。寿永2年(1183)、わずか4歳で即位、建久9年(1198)に譲位してから院政を行った。将軍源実朝が鎌倉で暗殺された頃から討幕を計画、承久3年(1221)兵を上げたが幕府軍に完敗した。
乱後、隠岐に流され17年あまりの余生を過ごした。
長浜市は、建久10年(1199)と承久2年(1220)の2度にわたって、後鳥羽上皇が密かに訪れたという伝承が根強く残っている。その伝説は「名超寺」にいた旧知の僧を訪ねてのものであったと伝わる。この間、近くの神社に参拝したり、下坂鍛冶に作刀を命じたと言われる。この時、気に入った刀剣に「菊十六紋」入れた所から、「菊一文字」が生まれた説もある。
上皇が訪れたとされる寺社は、鳥羽上にあった法徳寺、布施にあった富施寺、神田の妙立寺(みょうりゅうじ)である。各地に「上皇腰掛け石」「お手植えの杉」などの伝承が残る。
妙立寺には、お手植えの桜『鳥羽桜』や御手洗いに使ったとされる『岩亀水』という井戸が残る。
また境内地にて詠んだ詠歌が伝わる。
イラスト画像(イラストレーター月戸氏によるものです)と妙立寺御朱印