松下 貢(2020年5月16日)
新型コロナウィルスによる感染症(以下、COVID-19と呼ぶ)の感染拡大は、国民生活に多大の影響を及ぼしている。かつての3・11東日本大震災とその直後の福島原発事故も、国全体にかかわる重大な災害ではあったが、直接被害を被った東日本一帯を除くと、多くの人たちにとって間接的な出来事という気分が無きにしもあらずであった。しかし、今回のCOVID-19の場合、国内どこと言わず、それどころか世界中のどこにいようが、人と人が接触する限り、人種、貧富など一切お構いなく、感染する可能性がある。もちろん、そのような感染症の拡大防止は、誰もが説くように、一国の経済に絶大の影響が及ぶことは間違いないけれども、それによって社会がどのように変わり、変えるべきかに思いを馳せると、経済問題以上に重大な社会問題が浮上するように思われる。
そのことを説明するために、ここでは先ずどのような経過で我が国のCOVID-19問題が生じ、どのように推移し、どこに問題があったかを簡単にたどってみる。次に、そのような問題点がなぜ生じたかを分析し、それを踏まえて、今後をどのように展望すべきかを議論してみる。
1.初動対策の問題点
筆者が初めてCOVID-19のことを小耳にはさんだのは1月中旬のことであった。友人の話として、中国に新型の肺炎が流行し始めており、1月下旬の春節の頃に中国人観光客が大挙押し掛けると、日本も大変なことになるかもしれないと中国人の知り合いが言っていたということであった。しかし、その頃は気にも掛けなかったし、その1か月後の状況など夢にも想像できなかった。実際、その友人もそのことを筆者に話したことすら忘れていたほどである。実際には2月に入るとまさしく感染のクラスターが発生し、COVID-19は日本国内に次第に広がることになる。さらに、クルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号の乗客乗員の大量感染が明らかとなるが、政府は国外からの批判に右往左往するだけで、中途半端な形の検疫で処理してしまった。
国外でウィルスの感染症が流行し始めた場合、初動の徹底した水際対策はその感染症が国内で流行することを防止するための鉄則である。上のような経過は、明らかにその水際対策に失敗したことを示している。このことは、COVID-19の水際対策に見事に成功した隣国台湾の例を見れば、際立って明らかであるといえよう。もう一つの隣国の韓国も初動の対応は見事だったのであるが、新興宗教団体の謀反ともいえる行動で感染者の爆発を招いた。しかし、その後の徹底した検査の実施により、今では日本より新規感染者数を抑えることに成功している。
たとえ初動の防疫検査が人的にも経済的にも大変な負担であっても、それに成功した暁にはその後の防疫の負担が格段に軽減され、人々の日常生活も完全復帰とはいかなくてもそれなりに戻ることになる。台湾がそのよい例である。そんなことは当たり前のことであるが、それではなぜ日本政府がこの初動対策をしなかったのかという、重大な問題が浮かび上がる。その理由を考えてみよう。
第一に考えられるのは、安倍政権にとってほとんど死活の政策であるアベノミクスのじり貧をなんとしても下支えしたかったことが考えられる。そのために、経済成長の一翼を支える外国からの観光客を、徹底して足止めして検疫することなどとても考えられなかった。特に中国からの観光客はアベノミクスにとって格好のお客さんであったために、COVID-19の初動の防疫は理の当然として失敗した。
アベノミクスについては、初期の景気浮揚で成功が語られるが、それはその前の民主党政権時代からすでに現れていたリーマンショックの回復基調に乗っていただけで、必ずしもアベノミクスのせいだけではない。このことはすでに経済学者から指摘されている1)。その上、安倍政権がアベノミクスの成果として、戦後最長の好景気(筆者は揶揄的に「アベノ景気」と称している)を自画自賛しているが、都合のいい数字をほじくり出して並べ(これも筆者は揶揄的に「アベノ統計」と称している)、無理やり景気がいいといっているだけで、国民の実感とはおよそかけ離れている。リーマンショックと3・11東日本大震災のダブルパンチ的な不景気を経験した国民の大部分にとって、逆累進課税の典型である消費税増税に直面して財布のひもを固く締めるのは当然であって、今後一層はっきりするアベノミクスの失敗をCOVID-19のせいだけにするのは全くの筋違いである。そのCOVID-19の初動対策のミスも、安倍政権のなせる業なのである。
第二に、安倍首相は外交という名のもとにものすごく精力的に外国旅行をしてきたが、実績というほどのものはほとんどなく(これも筆者は揶揄的に「アベノ外交」と称している)、中国の習近平国家主席をつつがなく招聘し、自身の外交政策の成功例にしたかった。そのために中国発の感染症の徹底的な水際防疫対策に遠慮するような、忖度的な配慮があった。忖度してもらうのが好きな人間が目上と思う者には忖度するものであることは、トランプ大統領に対する安倍首相の態度を見ていれば、一目瞭然であろう。
第三に、安倍首相にとって、「福島はunder control」という、国民の誰が見ても真っ赤な嘘をついてまで呼び込んだオリンピックをどうしても実現したかった。その上、これが実現すれば、アベノミクスにとっても非常にいい影響を及ぼすはずだという思惑もあった。そのために初動の水際対策をごたごたやっている姿を諸外国に見せたくなかった。普通に考えれば、それをちゃんとやることがオリンピック実現のための一番の方策なのであるが、見栄っ張りの首相にはそれができなかった。
2.その後の経緯とその問題点
初動対策の失敗により全国各地に感染クラスターが発生し、初めのうちは新感染者がどこで感染したかの追跡調査はできていて、クラスター調査で何とか間に合っていた。ところが、そのうちにどこで感染したかわからない新感染者が出始め、その数がどんどん増え始めた。これではクラスター調査だけで感染拡大を抑え込むことは不可能である。何とか抑え込むためには韓国がやって成功しているように、PCR検査の数を徹底的に増やさなければならないと考えるのが普通である。ところが実際には、日本の国民一定数(例えば国民10万人)当りのPCR検査数は、諸外国に比べて桁違いに少ない。これでは諸外国から、日本の感染者数が実態とかけ離れているのではないかと疑われても仕方のないことである。実際、検出されていない(すなわち、市中にうようよしている)けれども感染能力はある無症状感染者が、感染陽性者で隔離または自宅待機しているものの数の10倍ぐらいいるのではないかという報告もある。
ところが、安倍政権はPCR検査数を増やす努力も怠った。理由は簡単で、PCR検査ができる保健所等の施設が少なすぎたうえに、感染陽性者が多数に及ぶとそれを受け入れる医療施設が足りず、医療崩壊を招きかねないと思ったからである。結果として、自慢の先進国日本の医療体制がこれほどまでに弱体化していたことが明らかになったのである。その後、安倍首相はことあるたびにPCR検査数を増やすと明言しているが、実現していない。このような基本的な医療施設の体制は一朝一夕でできるものではなく、日頃の地道な政治的努力の積み重ねで実現することは、ドイツの例を見れば明らかである。
こうなると感染拡大に対する打つ手はどんどん限られてきて、安倍政権の対応策は、青天の霹靂のような「全国の一斉休校」要請、エイプリルフールと見まがう「アベノマスク」の配布決定、一部都府県の「緊急事態宣言」からさらに全国一律の「緊急事態宣言」へと突き進む。このように信じられない後手に次ぐ後手の政策を行った上に国民の行動自粛を強く要請しておきながら、それに伴う国民の経済的不利益を補償する政策がもっと後手だというのはどうしたことであろうか。
挙句の果てに、安倍首相は自分の無策を棚に上げて、こともあろうに、COVID-19の対策がうまくいかないのは自分をがんじがらめにしている憲法のせいで、これを何としても変えなければならないなどと言い始めている。もともと彼は決して自分の失策を認めることがなく、必ずほかの人かものになすり付けるのであるが、ここに至って彼の無責任さも極まれりといったところである。
3.COVID-19の終息後をどうするか
(1)これからの生活
今回のCOVID-19は国民全員の生活に非常に大きな影響を及ぼしており、かつて当たり前のようにしていた多くのことができない不自由な生活を強いられている。このような不自由さに耐えた経験をした者にとっては、当分その経験が頭から離れないであろう。したがって、たとえCOVID-19が終息したとしても、単純に元の生活に戻ることは考えにくい。これまでのCOVID-19の経験を踏まえたうえで、それ以前の生活をすっかり見直してみるいい機会だと考えるのも悪くはないように思われる。
たとえば、今回の行動自粛の要請で自宅にいる機会が増えた方は多いであろう。もっとも、星野源の『うちで踊ろう』に合わせ、犬とたわむれてすっかりくつろいでいるどこかの首相のような自宅自粛は、私たち庶民にはまず無理であるが。マスコミは自宅待機によるDVの増加などネガティブな報道が多いが、それだけではないはずである。これまでほとんど何も考えずに自動的にやっていた自分自身の行動、家族との生活などをもっとポジティブに見直す機会も多かったのでなかろうか。だとすると、COVID-19が終息したからといって単純に元の生活に戻ることは考えにくい。たとえばこれまで、宣伝の行き届いたレストランの予約がようやくとれて、家族で出掛け、時間に追われて食事を終わり、そそくさと自宅に戻り、疲れ果てて寝るだけより、自宅にいて家族皆で手伝い合いながら食卓の準備を整え、誰に遠慮することもなくわいわい言いながら食事をするほうが、はるかに楽しくておいしくゆったりしていて、しかもはるかに家計の節約になることを再発見するなどということもあろう。高齢者にとっては、かつてのごくありふれた光景である。
(2)政策の問題点
かつて、やはり中国初のウィルス感染症に重症急性呼吸器症候群(SARS)があり、日本でも大きなニュースとなった。このSARSの問題を感染症の専門家が軽視しているわけがない。このような感染症がいつ起こるかは別として、いずれ必ず起こることだから、感染症の専門家はそれに備えることの重要性を確実に認識している。しかし、それに備えるために準備を整えておくのは政治の問題である。このSARSの経験を生かして、今回のCOVID-19に対する水際対策をちゃんとやったのが、隣国の台湾であり、韓国であった。しかし、上に記したように、安倍政権は感染症防止の鉄則である初動検疫を完全に怠ってしまい、その後の感染症拡大を招いてしまった。韓国の新興宗教団体による感染者数爆発をしり目に、日本ではあんなことはあり得ないといっていたはずが、現在では累積の感染者数は韓国のそれをはるかに上回る。それどころか、PCR検査数が桁違いに少ないので、感染者の実数は韓国のそれよりはるかはるかに多いかもしれない。
それにしても経済大国、科学先進国と自認している日本がなぜこれほどまでにCOVID-19に無力だったのであろうか。アベノミクスが経済政策として失敗だったことは上で見た通りである。しかし、それだけですまない、社会的に本質的な問題が潜んでいると思われる。経済政策というのは、多くの場合そのときの短期的な経済状態を重視し、それに対処する傾向が強い。アベノミクスも、初めは3本の矢と称していたが、これまでのところ第一の矢の政策に終始していることを見ても明らかであろう。しかし、一向に進まない第二、第三の矢に進むのを目標に、経済効率が上げられそうな政策しかやってこなかったために、経済成長には直接結びつかなくても社会にとって重要な社会インフラの維持、整備に目が向かなかった。それどころか、それらを事実上じり貧の状態にしてしまったということができる。
今回のCOVID-19によって明らかになった、それらの例をいくつか挙げてみよう。
(a) 病院などの医療施設の弱体化
日本社会の超高齢化ははるか以前からはっきりしていたのに、その対策としての社会インフラは一向に見直されることなく、診療体制はその費用ばかりが問題にされ、利用者負担が日に日に増えるのに、診療施設のほうは改善されることがないという、情けない状況である。その結果は、COVID-19の蔓延で医療崩壊の恐ればかりが強調されても、日本に比べて感染者数がはるかに多いドイツと比べてなぜそうなのかが問題にされない。
(b) 働く人たちが抱える乳幼児の託児・保育施設及び高齢者の介護施設の貧弱さ
阿部政権は働き方改革と称して女性の地位向上など言葉では華々しく言っているが、実情は一向に進んでいないことはこれまでも指摘されてきたことである。しかし、ここにきて働く女性や共働き夫婦のための託児・保育施設が足りないだけでなく、いったんことが起こっても彼らの乳幼児を保護し世話をするようなシステムが完備していないことが明らかとなった。これでは働き方改革といっても、経済成長に都合の良い働き方を目指しているだけだと思われても仕方がない。同じようなことはそのまま高齢者の介護施設の貧弱さにも言える。
(c) 小・中・高校の教育体制と大学などの教育・研究体制の弱体化
阿部首相の突然の全国一斉休校の要請はまだ記憶に新しい。台湾のように、初動防疫対策としての水際検疫を始めると同時に、近い将来に起き得る休校措置も視野に入れて教育界と連携してオンライン教育などの計画を練っているのならまだしも、そういうことは一切なく突然の休校要請である。これでは現場は単に困惑と混乱に陥ることは火を見るよりも明らかである。ここでも明瞭に見えてきたのは、何か事が起こってもほとんど対応できない教育現場の弱体化である。長期の自民党政権による教育改革と称する教員数の削減、それによる教員のブラック企業的な長時間労働、教員の自主性を無視した教育委員会を通じての教育の統制。これらは経済成長至上主義のアベノミクスにより一層加速された。これらのことは大学などの高等教育機関にも及んであり、大学改革と称する法人化政策などにより大学間の格差は極端なまでに開いてしまった。確かにごく一部の大学は依然として教育・研究の質が維持できているとしても、全体的に見た場合、かつてよりはるかに貧弱になったことはこれまでもいろいろなところで指摘されている。これは地方の国公立大学や多くの私立大学の現状を見れば明らかである。
(d) 基礎研究体制の弱体化
今回、COVID-19の問題が表面化した際に、数ある医療やそれに関係する基礎研究組織のどれだけが名乗りを上げて問題点を整理し、これからの対策を提言し、各自の立場から問題の研究に携わるようになったであろうか。これもアベノミクスが始まって以来特に顕著になったことであるが、すぐにも儲かりそうな応用研究には金に糸目をつけないのに、いつものになるかわからないような基礎研究には目もくれないという政策のつけが回ったというべきである。結局、今回のCOVID-19の問題で分かったことは、国全体で見たときの基礎研究上の体力がすっかり落ちていたことであろう。
(3)社会的共通資本を基礎にした政策
以上をまとめると、いずれも国の将来を左右する重要な社会インフラが、アベノミクスのあおりを食って、どれもこれもすでにすっかり弱体化していて、COVID-19に全く対応できない状態になってしまっていたということである。アベノミクスを典型とする経済成長至上主義が、それにそぐわない社会の基本的インフラをいかに無視し置き去りにするか、今回のCOVID-19が期せずして明らかにしたというべきである。したがって、そのことの根本的見直しなくして、今後の社会の発展はあり得ない。経済の発展より先に、私たち一人ひとりの人間にとってより重要な社会の発展という視点がこれからは不可欠である。
COVID-19の教訓は決してそれだけではない。たとえ現在それが終息に向かっているように見えても、どんな感染症にも第2波、第3波が起こり得ることを忘れてはならない。上でCOVID-19によって基本的な社会インフラの不備が浮かび上がったと記したが、その不備によってCOVID-19の感染拡大が助長されたことは間違いない。逆にいうと、アベノミクスのような経済成長至上主義を続ける限り、新種の感染症がはびこりやすい環境を作り出し、維持し続けるということができる。COVID-19やその第2波、第3波をいずれ抑え込むことに成功したとしても、現在の日本は次の新種の感染症に脆弱な国であるということができよう。そのためにも、政府のいう経済のV字回復などに惑わされず、人々の生活にとって重要な基本的インフラの充実した新しい社会を目指すべきである。
今回のCOVID-19のことなどまったく予想しないで、その発生の2月ほど前に出した拙著2)の最後の部分で強調したことだが、経済成長至上主義の独り歩きはもうそろそろ終わりにして、経済学の上に適当な社会学を確立し、経済的価値の上に何らかの社会的価値基準を置くような社会にするべきではないかと思うがいかがであろうか。その上で社会が必要とする経済発展を考えればよいのである。私たちは3・11東日本大震災と悲惨な原発事故の経験と教訓を決して無駄にしてはならないし、今回のCOVID-19もそうである。その点で、空気、水、森林、田畑などの自然環境や、道路、交通機関、上・下水道、電気・ガスなど、教育、研究、医療など、私たちの生活に基本的に必要なものを社会的共通資本3)とし、市場経済になじまないものとする方策は、今後一層重要になるものと信じたい。このことが、いつか分からないとしてもいずれ確実に押し寄せる新しい感染症の有力な防御策になると思うからである。
1) 伊東光晴『アベノミクス批判』(岩波書店、2014)
2) 松下貢『統計分布を知れば世界がわかる』(中公新書、2019)
3) 宇沢弘文『社会的共通資本』(岩波新書、2000)