①『感謝と共に』K.S.(家族/女性)
依存症者は私の息子で、下に妹と弟がおります。私は三人の子供を抱え、夫と共に全国を転勤しながら子供を育ててきました。転居は実に十二回に及びます。
息子は大学の時、ある国家資格を目指して大学へのかたわら塾へ通い始めました。夜勉強していると頭が冴えて眠れなくなっていったそうです。そこで寝る為の手っ取り早い方法がアルコールを飲む事でした。この寝酒がアルコール依存症への始まりでした。
なかなか受からない試験に、息子は次第に不安定になっていきました。持病の喘息もあり、内科の先生は精神科医を紹介して下さいました。そこでは双極性
うつ病ということで、抗鬱剤と睡眠薬を処方され、息子はそれをアルコールと一緒に飲むという最悪のパターンにはまっていきました。東京から千葉に引っ越してからは益々荒れていきました。言葉尻りをとらえては逆上し勉強も手につきません。目を三角に吊り上げ、鬼のような形相で、大声を上げ、暴言を吐く息子の姿は忘れられません。でもいつも騒いで居たわけでもなく、仕事やアルバイトもし、静かに進路を相談してくる事もありました。そんな息子に私は、いつか目が覚めてくれるに違いないと信じ、慰め、励ましあらゆる事をしました。でも期待はいつも突然全部裏切られました。
息子の様子がおかしくなると、私は急いで台所の刃物を全部バスタオルにくるんで隠しました。本人を含め、家族の誰かが息子を刺すかもしれない危機感がありました。人様に迷惑をかけるようになってしまうなら、自分が刺して一緒に死のうと、口には出さないものの、家族全員がそれぞれそう思っていました。ある夜、激しい暴力をふるわれました。一生懸命育てた息子からどなられ、暴力をふるわれる悲しさ、みじめさ、情けなさ、せつなさは例え様もありません。私は「もう死のう」と思いました。出刃包丁をタオルに巻いて抱え、海に向かって歩き出しました。そのまま海に入っていくつもりでした。が、途中で動けなくなりました。体中が痛んで歩けません。気がつくと娘夫婦に助け出されていました。これがC市の相談窓口へ娘が電話をかけるきっかけになりました。そこで紹介されたのが断酒会でした。藁をもすがる思いで娘夫婦共々、夫と私も参加しました。
初めての例会で、私は皆様方の暖かい眼差しを感じ、気が付くと今まで誰にも言えず一人で背負ってきた苦しさを泣きながら話していました。この方達が本当に息子と同じ依存症なのかしらと信じられませんでした。そしてこの方達を見た事が息子への希望になっていきました。この断酒会からアルコール専門病院のS療養所を紹介され、息子は信じられない程素直に受診し、断酒会にも入会しました。よほど苦しかったのだと思います。「何とかしてくれ!」と泣きながら叫んでいる姿を何度も見ています。
酒の止まった息子は数か月後、S県の知り会いの職場に就職して行きました。夫と私の実家も近く、資格も活かせる希望通りの職場でした。N断酒会にも入会出来て、私は心底ほっとしました。が、そんなに甘くはありません。酒は止まったものの、一人暮らしで精神的にも不安定、職場でもうまくいかなかったようです。徐々に処方薬へ移っていきました。喘息で内科への入退院を繰り返し、又、親戚の精神病院にも短期の入退院が続きました。その都度私は双方の病院からも息子の職場からも呼び出されました。何度千葉から通ったことでしょう。こんな状態が長く続くわけがありません。就職四年目の三月の真夜中、「今すぐ帰れ。とっとと消えろ!」と包丁をちらつかせながら叫ぶ息子の姿に、私はいつにない恐怖を感じました。その時「ここに居たくない!私はここにいてはいけないんだ」という強い思いが私を貫きました。私は息子のアパートの鍵を投げつけ、千葉に逃げ帰って来ました。
その一か月半後、N断酒会の方からお電話が入りました。「S君はこの連休で今日千葉に帰ったようです」この一本の電話で、私達は一大決心をする事になります。それは、誰にも居場所を告げず、近くに住む娘夫婦共々家を出る事でした。自分のやった事は全て忘れて、いつものように何事もなかったかのようにのうのうと帰って来る息子を家族全員で拒否したのです。息子は、断酒会には通っているものの、十数年に亘る飲酒や処方薬によって引き起こされる数々の問題、その苦しさと緊張の日々に皆がもう堪えられなくなっておりました。全員で行動を起こしたのです。息子が千葉へ帰り着くまでに事を運ばなければなりません。先ず、鍵屋さんを呼んで玄関の鍵を換えました。着替えをまとめ、お金を用意し、行く先をパソコンで検索し、雨戸を閉めて家を出ました。正に時間との闘いでした。今こそ全員で取り組む絶好のチャンスだと思いつつも、息子に何をされるかわからない恐怖。突然鍵が合わなくなり、家にも入れず、家族に忽然と姿を消された息子への不憫さ、そして私達のこれから・・・を思うと、足は震え、胸は張り裂けんばかりでした。この辛い覚悟を家族全員で決め、息子につきつけた忘れられない日です。(私達のこの行動はS県N断酒会とC県C断酒新生会、S県の福祉担当の方には連絡しておきました)
そんな私達にN断酒会の方が動いて下さいました。S病院への入院は、S県内の複数の断酒会の方々の入念な打ち合わせと、ご協力のおかげです。「同じ仲間だからね」と病院まで付き添って下さった方々。本当に有難うございました。感謝の申上げようもございません。実はこの二日後には下の息子の結婚式が迫っておりました。八月には娘の出産も控えておりました。正に綱渡りのような日々でした。下の息子はそのままアメリカへ赴任して行きました。
初めて行ったその病院の若い女医さんは、私と息子にこう言い放ちました。「こんな認知障害の変な息子なんか野たれ死んでもいいでしょ! お母さんはあるミーティングへ行きなさい」私は傷つきながらも従うしかありませんでした。初めてのミーティングで私はある言葉に衝撃を受けます。「変えられないものを受け入れる落ち着き、変えられるものは変えていく勇気、そしてこの二つのものを見分ける賢さ」そう、平安の祈りです。
私はS県でもあちこちの断酒会に出させて頂き、依存症についても勉強し頭ではわかったつもりでおりました。病院内の勉強会でもいろいろ教えて下さいます。断酒会に行けば心は軽くなり、癒され楽しみでもありました。が、今一つ満たされないものがありました。本人達は依存症という立派な病名を頂いて、治療の場も有ります。が、あくまでもお酒を止めたい本人達の会です。ご夫婦は一緒に通う方が、本人の断酒継続の為、共依存である家族の為にも良い事は良くわかっています。当時は家族会もありませんでした。母親の立場の方も殆んどいらっしゃいませんでした。親子は法律上、別れられません。ひとりぼっちの母親は、息子を依存症にしてしまったと自分を責め続け、おろおろと泣きながら死んでいったのでしょうか。本人以上に長い年月を苦しんで来た家族、特に母親の私には、自分の心を早く自分で整える何かが欲しかったのです。そんな私に、この言葉はストンと心に落ちたのです。以来、私は息子の事より自分自身に目を向け、自分の心と向き合い続けました。どうして私はこう思うのだろう、どうして私はこんなに傷つくのだろう。どうして理不尽な言動を隠して、何事もなかったように明るくふるまうのだろう。そこにあったのは母親としての責任感と罪悪感。息子を一人前の大人としてではなく、自分の子供として見てしまう母親ならではの甘さと弱さ。自己犠牲。暴力への恐怖。世間体等々でした。そして、家族、親戚、教育者、職場、医療関係者、宗教関係者までもが依存症を長引かせる原因を作っている現実を、直視せざるを得ませんでした。私は自分を変えていく勇気を持とうと堅く心に決めました。息子は天の摂理におまかせしよう。神様、仏様、ご先祖様どうぞ息子をお守り下さいと祈りました。そして毎日を意識して過ごしました。翌二月退院を余儀なくされた息子は千葉へ帰って来ました。私は「断酒、新生の為の協力はするけれど、基本的には何もしない」ときちんと静かに伝えました。実は揺り戻しは数回ありましたが、この時こそと勇気を持って対応しました。そのうち、私は息子の事は気にならなくなりました。息子はいつの間にか断酒会を回り始め、気が付くと断酒会のお手伝いをするようになっていました。そして仕事を見つけて働き出しました。
夫が亡くなって今年で八年です。あまりにも突然な夫の死でした。前夜まで孫と遊んでいた夫が翌朝救急車で運ばれて、わずか八日間の出来事でした。夫の耳元で「親父安心しろよ! 俺は真面目に、誠実に、ちゃんと生きるからな 安心しろ!」と大声で何度も叫んでいる息子の姿が目に焼き付いています。きっと主人に届いたことでしょう。私が絶望感とイライラを夫にぶつけていた時も黙って聞いていてくれました。思えば私の両親がそうであったように、夫とは一度も喧嘩をした事はなかったのです。S県での四年間、大勢の方に大変なご迷惑をかけました。申し訳なさでいっぱいです。その反面大勢の断酒会の方の優しさに出会う事が出来ました。「又原点に戻って始めましょう、自分を大切にしなさい」とずっと寄り添って下さった方、千葉から知り会いのI断酒会の方に「S君をよろしく」と頼んで下さった方もいらっしゃいました。この離れて住んだ辛い年月が私達親子にはお互い必要だったのだと思います。依存症を通して学んだ事は私の生き方の指針となりました。
私にはもうひとつ大事にしている事があります。当時三歳になったばかりの娘の孫がF市のアンデルセン公園でアスレティックをした時の事を話してくれました。「あのね、ばあば、お空の高い高いところで、ロープがぐらぐら揺れて、本当に怖かったんだよ。いつの間にか逆さまになっちゃってて、怖くて泣いちゃったんだ。だけどね、こうやって涙をふいて(両手が離せないのでシャツの袖で)前を向いて行ったんだ。そうしたら後ろから来たお兄ちゃん達が僕の手を踏んで、ロープがもっと揺れて又泣いちゃったんだ。二回くらいあったよ。だけど又、こうやって、こうやって(両袖で)涙を拭いて前を向いて、頑張って行ったんだよ。そしたら出口の所にパパとママが待っててね。ほんとにうれしかったんだ」まだ語彙が少ない幼い孫が、とつとつと話してくれた「涙をふいて、前をむいて」の言葉です。
今、息子は上手に見繕ってお買い物をして来てくれます。一円のおつりも違える事はありません。冬の夜は私の寝室を温めておいてくれます。
私は今も大勢の人に支えられて生きています。何と感謝したらいいのでしょう。私は難病を抱えつつも不安も恐れもありません。心は自由です。
皆様、本当に有難うございました。
②『大切な居場所』T.N.(本人/男性)
19歳で上京して、 大学の男子寮の新入生歓迎会で大量に日本酒を飲んだ。ほぼ初めての酒だったが、自分から挑戦するように飲んだ。学費と寮費を稼ぐために、危険で泥まみれのアルバイトで得た金も、半分くらいは、酒代に化けたのではないか。 自分は酒に強いなどと思い込み、 先輩や同僚の中には、少量の酒で真っ赤になる人もいる中で、私は生白い顔をしてグイグイ飲んでいたらしい。
25歳の時、 縁あって都心の病院に就職して生定すると、 毎夜飲み歩いてA市まで帰った。 遠かった。 しばしば酒友だちの部屋に泊まって飲み明かした。 酒の種類など何でも良く、とにかく、 すきっ腹に酒を流し込むときの快感を楽しむのが私の酒だった。ビールで満杯の胃から出る豪快なゲップ。 日本酒が胃の壁にみて、 脳天に回ってくる間の至福の時。ストレートのウイスキーがガツンと胃の壁を殴る。この快感の後に酒が体中に回ってくる。 すべてが快感だった。
人生はもちろん仕事と酒だけではなく、結婚もして3人の息子の父親にもなったが、 子供や家庭の行事の時に、 私は常に大量飲酒をしていたらしい。誰も用意していないのに、 常に自分で酒を用意していた。そして、 自分は人が言うほど大酒飲みではない。「ほーら、こんなに遠慮深いでしょ」 と見栄を張り、一人になるのを待って大量に飲みなおす。 隠れ酒が習慣になっていた。「今日は飲まない」 という決心はいつも守れなかった。 夕方に、やがて朝方に、 酒が体から抜ける悪感が苦しい。 いわゆる離脱症状に苦しむ毎日。 「ああ、飲まないと死ぬ!」 という恐怖感と全身のふるえ、発汗が襲ってくる毎日が続いていた。
年2回の職員検診でアルコール性肝炎を指摘されて目にも黄疸が現れると、 勤め先に入院させられたが 「ウチでは、アルコール専門治療はできない」と、毎回 「飲める体」 に戻してくれて退院させられた。「酒をやめて・・・・」 と、 真剣に訴える友人・知人には嘘ばかりついていた。 大事な仕事からは外されて、 毎日がむなしく孤独な深酒、隠れ酒を10年以上も続けていた。
痩せこけて顔色も悪く朝から酒臭い私は、42歳の夏には食事が摂れなくなった。 秋には水も飲めないのに、酒だけはいくらでも飲めた。激しい脱水症状を呈したまま、 はるか遠い国立療養所久里浜病院 (当時) に連れていかれ、 緊急入院となった。 2か月半の徹底した内科治療と精神療法、集団活動と体育のおかげで、 失いかけた命を救われ、正気に帰ってきた。 大量飲酒で高めに変動していた高血圧もなくなり、 肝機能検査の全項目が正常値に戻って安定した。入院プログラムには、AAと断酒会の誕生と歴史の1日がかりの学習があり、 横須賀など近隣の断酒例会にも通った。アル中の断酒というものが、生涯をかけた 「一大事業」 だということが分かってきた。 同時に、退院して酒の無い人生が送れるかという不安も慕ってきた。 「あんな、 同じ傷を舐め合うような断酒会なんか入るものか」 と、孤独な断酒を始めたが、 朝シアナマイドを飲んでも、夕方には激しい飲酒欲求で気が変になりそうだった。
退院後間もなく阪神淡路大震災が1月に、オウム真理教による地下鉄サリン事件が3月にあり、 入院患者の受け入れなどで騒然としていたから、「今晩にも飲みそう!」 と苦しくたまらなかった。 そんな中、知り合ったA市の断酒会員に、 拝むように入会を申し込んだ。
以来私は断酒会の皆さんの温かい励ましと時に厳しい指摘を受けながら、 何とか酒を断って新しい人生を歩んでいる。 「上から目線」 でなく、 対等平等な断酒会は実に素晴らしい。
断酒会は、 私の大切な居場所になっている。
③『本当になりたかったもの』S.S. (本人/女性)
思えば、大学を卒業して一人暮らしを始めたころから飲み方がおかしかった。社会人になったら、やりがいのある仕事をバリバリして、生きがいを感じながら一人暮らしの生活を満喫するはずだった。ところが現実の職場は、理想とかけはなれていた。暇で時間を持て余すほどで、工夫もしなくてよい、むしろ余計なことはするなといわれ全くやりがいがないのだ。一人暮らしを始めたばかりの私は、さっさと帰宅し、お酒を飲みながら夕飯を作るのだが、それが終わると、本当にもう何もすることがない。実家の母の過干渉から解放された思いの強いわたしは、母の目を気にしないでよいと飲み過ぎることが増えた。このままではいけないと、市の主催する講座に通ったりして仕事の後の時間を埋めた。それでも、毎日感じる仕事へのむなしさは埋められなかった。毎日ふてくされては飲んで、酒量は増え続け、満腹中枢がおかしくなって、夜中にインスタントラーメンをそのままかじったりしはじめた。
その頃の私は、この荒れた生活の原因はすべて、仕事にやりがいがないからだと思っていた。もともと、大学卒業後の希望は高校の教員だった。だが、教員採用試験に落ち、秋にまだ募集をしていたS県の私立の女子高の学校図書館司書の採用試験を受けた。教員としてではなく学校図書館司書として子どもたちに寄り添う道を選んだ。無事採用されたのだが、その職場で自分のやりたかったことは何一つできなかった。
そこで、C県の教員採用試験をもう一度受けなおして、本当に自分のなりたかったものになろうと思った。そうしたら、生活も改善されるはずだと思っていた。
結果は不合格。正確には、正式採用にはならず、講師なら、ということでC県に戻ることはできた。ところが、そのタイミングで、父の仕事の都合で、両親がインドネシアに行くことになった。再び、親の監視の目のない暮らしが始まった。
高校での講師の仕事は思っていたより、ずっとずっと大変だった。やりがいを通り越して、私には無理だと日々感じながら、逃げ出したくなるのを必死でこらえていた。当然のように酒量は増えた。次第に仕事にもなれ、やりがいを感じることもあり、子どもとの信頼関係を築くこともできたが、酒量はS県にいる時よりさらに増えた。やりがいのある仕事についても、やっぱり私はお酒を飲んだのだ。
この時、まだ20代後半だが、今思えば依存症まっしぐらだ。その後も教員生活を続け(講師2年を経て正式採用)、結婚もするが、お酒の飲み方が改善されることはなかった。嫁姑の関係が上手くいかないと言っては飲み、幸せになるはずだったのにと言っては飲み、結局自分から離婚を申し出て、これまた理想と違う現実から逃避した。
お酒にまつわる失敗も増え始め、職場でも酒臭いと言われるようになり、本当にお酒の飲み方がひどくなって、周囲に迷惑をかけるようになったのは、三度目の結婚をして、子どもを産み、産休明けで職場に復帰した37歳のころだった。
その後、依存症治療のため入院し、病気休暇で1年休んだが、復帰してすぐまた飲んでしまった。その後間もなく、退職願を出して、やりがいに燃えるはずだった職場を辞した。その後もアルコールてんかんで救急車のお世話になること3回。その後、三度目の入院先がH病院で入院プログラムに断酒会通いがあり、断酒会とつながった。断酒会に入会してもなかなか酒は止まらなかったが、通い続ける中で飲まない生活を選べるようになった。
酒が止まって14年になった。今、小学校に読み聞かせに行き、子どもの成長に寄り添う事ができている。やっと、たどり着いた。読み聞かせをより良いものにするために、語りや昔話の勉強も始めた。職業ではないが、おそらく私の学生時代の目標に限りなく近い生活だと思う。本当の目標は酒のない生活の中でやっと手に入れることができた。今の家族と断酒会のおかげに他ならない。