日本キリスト教会房総君津教会 Bōsō Kimitsu Church, Church of Christ Japan
マルコ福音書 14:53-65 kin3silver3031@gmail.com(半角小文字)
『救い主、裁判を受ける』 金田聖治
~人間の手で造られたのではない神ご自身の神殿~
14:53 人々は、イエスを大祭司のところへ連れて行った。祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まって来た。54 ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役たちと一緒に座って、火にあたっていた。55 祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった。56 多くの者がイエスに不利な偽証をしたが、その証言は食い違っていたからである。57 すると、数人の者が立ち上がって、イエスに不利な偽証をした。58 「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました。」59 しかし、この場合も、彼らの証言は食い違った。60 そこで、大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」61 しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。62 イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」63 大祭司は、衣を引き裂きながら言った。「これでもまだ証人が必要だろうか。64 諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか。」一同は、死刑にすべきだと決議した。65 それから、ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、「言い当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちは、イエスを平手で打った。 (マルコ福音書 14:53-65)
【説き明かし】
マルコ福音書 14章。その頃、ユダヤの国はローマ帝国の植民地にされていた。そのため裁判も2段階の手続きで行われた。まず、ユダヤ人の議会での下調べ。その結果をもって、最終的にはローマ帝国から遣わされた指導者ピラトによる死刑判決。ユダヤ人のヘロデ王は権力のない形ばかりの王なので、その裁判はマルコ福音書では省かれている。で、それらの前半の取り調べ。
まず58節、「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました」。数人の者たちが立って証言した。そのとおりで、それは確かに救い主イエスご自身がおっしゃっていたことだ(マタイ26:61,マルコ15:29,ヨハネ2:19)。また、大祭司から「お前は神の子、救い主なのか」と問われて、「そうです」とイエスは答えた。神を冒涜していると判断されて、イエスを死刑にすべきだと決議された。
さて、私たちは毎日毎日、お互い同士で裁いたり裁かれたりし合っている。大切な家族の間でも、親子で、夫婦の間で、また隣近所同士で、職場でも。あるいはキリストの教会の中でさえ。1コリント手紙4章。(先に注意しておく。「私にはやましいところはない」と主の弟子は発言するが、あの彼もうっかり間違えている。やましいところが無い人間など、どこにも1人もいない。これが聖書からの根本的な人間理解。よくよく覚えておこう)主の弟子はこう語りかけた;「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。(もし仮に)自分には何もやましいところがないとしても、それでわたしが義とされているわけではない。わたしを裁くのは主なのです。ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません」と。私たちを裁く方が来られる。私たちを裁くのは救い主イエスである。そのただお独りの方は、私たちの罪をすべてご自身で担い、自ら裁かれてくださった。十字架と復活の主である。
つまり、あなたや私を裁くのは他の誰でもなく自分自身ですらなく、ただただ主イエスだけである。ですから主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけない。先走って、誰からも軽々しく裁かれてはならないし、その裁きに屈服してはならない。私たちを裁く方が来られる。ここで直ちに私たちは、全聖書中の究極の判断基準の前に立たされる。つまり、何によって救われるのかという判断基準。2000年もの間、キリストの教会はほとんどもっぱら、この問いの前で揺れ動きつづけた。良い行いによって救われるのか、それともただ恵みによるのか。困ったことに、聖書自身はその両方の互いに矛盾する答えを差し出しているかのようにも見える。けれど、ここで心を惑わされてはならない。もちろん、ただただ恵みによって救われるのである。条件は、主イエスを信じるというただ1点。救われるに値しない罪人が、けれどなお憐れみを受けて救われる。罪人を憐れんで救う神であり、誰一人の例外もなく、皆このように救われ、神の子供たちとされた。良い行いなどどうでもいいというわけではない。けれどそれは、『救われるための条件』ではない。むしろ順序が逆であり、恵みを受け救われた者は、その恵みの結果として実を結び、やがて良い行いをする者たちとされてゆく。だんだんと少しずつ。これが信仰理解の基本中の基本だ。ただ恵み、ただただ神が私たちを憐れんでくださることによって。聖書自身が断固として証言する(ローマ手紙3:21-26,5:6-11,8:31-)。ご自分の体を引き裂き、ご自分の血を流しつくしてくださった救い主イエス。私たちの罪をすべてご自身の肩にすっかり背負ってくださった方が、世界とすべての生き物たちのための裁き主。その最後の法廷で、救い主イエスは私たちに何をどう問いただすのか。「さまざまな回り道や後戻りがそれぞれにあったとしても、なにしろ主イエスを信じつづけてあなたも生きて死ぬことができた。よかったね」と喜び祝ってくださる。
今日の箇所の中で最も大切なのは58節。救い主イエスはご自分でおっしゃっていた。『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と。救い主イエスの死と葬りと復活。それだけではなくイエスに率いられて、私たち自身も同じ道筋を辿る。古い罪の自分自身と死に別れ、それを葬っていただき、神の御前に新しいいのちを生きはじめる。神が造った新しい神殿。この教会も含めてすべてのキリスト教会がそうであり、同時に、神を信じるすべてのクリスチャンは『神がその体の中に住んでくださる神殿』とされた。聖書は証言する、「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなる。……あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです」(ローマ手紙 6:8-11,1コリント手紙 3:16-17)。神である救い主イエスからの、世界と私たちに対する約束である。 (2026,3,15)