日本キリスト教会房総君津教会 Bōsō Kimitsu Church, Church of Christ Japan
ルカ福音書 15:1-7 牧師 金田聖治
『見失った一匹の羊』 ~神の御心(1)~
15:1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。3 そこで、イエスは次のたとえを話された。4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。 (ルカ福音書 15:1-7)
1-2節、「徴税人や罪人がみな、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした」。救い主イエスが徴税人たちといっしょに親しく愉快に食事をしている。その様子を通りすがりに見て、「罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と腹を立て、不平不満をもらす者たちがいた。おかしなことだ。通りすがりに見かけただけで、「ああ、この人と、この人とこの人は罪人」などとどうして分かったのか。まるでそれぞれ額に『罪人』などとレッテルが張られているかのように。(1)まず、罪人。エジプトで400年間も奴隷にされていた神の民イスラエルがそこから連れ出されて40年間も荒れ野を旅した時、その3か月目に、モーセが山の頂上に登って神から10個の戒めを受け取った。それは、『神をこそ敬い、尊んで、神に聴き従いなさい』、そして『隣人を愛し、敬いなさい』という2つの中身を持っていた。真剣に、本気で、その戒めに従おうとするなら、とうてい出来ないはずの厳しく難しい律法である(出エジプト記20:1-17)。1000年ほど経つうちに、それらには、『こういう場合には~』などと但し書きが付け加えられ、600~800ものごく形式的で人間的なこまかな規則にすり替えられてしまった(例えば「安息日に働いてはならない」は、こういう場合に、こういう条件で、何メートル、何キログラム以内の重さの荷物は動かして良い、などと)。律法学者や、信仰を教える教師たちの手によって、『神からの律法を重んじる』はずの人々は、うわべを取り繕うだけのごく人間的な律法主義者・偽善者に成り下がった。(2)徴税人が憎まれ、見下されつづけた理由。当時のユダヤはローマ帝国の植民地にされていた。ただ「徴税人」だという理由で人々から憎まれ、軽蔑されつづける者たちがいた。今の税務署職員などとはずいぶん違う。なぜなら徴税人によって集められた税金は彼らのためではなく、もっぱらローマ帝国のためだけに使われた。ユダヤの國と人々は強く大きな国によって奪い取られ、踏みつけにされつづけた。本当はローマ帝国とその皇帝を憎みたかったが、その代わりに、税金を取り立てる徴税人を憎み、軽蔑した。八つ当たりだ。救い主イエスは、だから徴税人の1人を自分の弟子とし、他の徴税人たちや、罪人などと差別され続ける人たちと親しく付き合い、彼らに、神を信じて生きることの格別な幸いを語り聞かせつづけた。ファリサイ派の人々や律法学者たちは、だから救い主イエスを軽蔑し、憎んだ。
「罪人たちを迎えて」という彼らのつぶやきは的確であり、神の真実を言い当てている。そのとおり。救い主イエスは、罪人を救うためにこの世界に降りて来られた。彼らの罪をゆるし、その彼らの心の思いと行いとを清くし、神の国へと迎え入れること。それこそが、救い主イエスに託された使命である。このお独りの方は正しい人を招くためではなく、ただ罪人を招いて悔い改めさせ、罪から救い出してくださるためにこの世界に来てくださった(1テモテ手紙1:15参照)。そのために救い主はへりくだり、ご自分を無にし、虚しくなさり、神であられることの栄光も尊厳もポイと投げ捨てた。けれど私たちには自分自身が罪人であり、神に背くあまりに罪深いものであり、心がとても頑なだという自覚が、ほんのわずかでもあるだろうか? むしろ、ひどくゴウマンになり、神の恵みにふさわしい清く正しいつもりの自分だと思い込んでしまった。正しいつもり、ふさわしく賢い、ご立派な偉い人間のつもりの、あの愚かなファリサイ派の人々と律法学者たちのように。
昔の預言者たちは、やがて来る救い主は『良い羊飼いである救い主だ』と預言した(エゼキエル書34:1-24)。聖書によって養われた人々は、そのような救い主を待ち望み続けた。迷い出てしまった一匹の羊と羊飼い。羊飼いは、見失ったその一匹の羊を見つけ出すまで、いつまででもどこまででも探しつづける。羊と羊飼いのこの姿は、聖書によって養われつづけてきた人々にとって、とても馴染み深いものである。良い羊飼いのような神が私の主人であってくださる。また、この神によって支えられ、養われ、心強く守られて生きる私たちは一匹の羊のようだ(詩23,同119:176,イザヤ53:6,エゼキエル34:1-24,ヨハネ福音書10:9-16,1ペテロ手紙2:25参照)。さて私たちは、どこがどう羊に似ているというのか。他の動物と比べて、羊には何があり、何がないのでか。立派なツノも恐ろしいキバもない。太くて強い腕もない。固い甲羅におおわれているわけでもない。ウサギのように危険を聞き取る良い耳を持っているわけでもない。格別に足が速いわけでもない。だから、私たちは羊のようなのだ。ライオンや熊に襲われ、狼に追い回され、羊ドロボウに狙われる。だから、私たちは羊のようだ。その弱さと無防備さが、私たちである。ひどい近眼でとても目が悪い。目の前の、いま食べている草しか見えない。うまい草に目も心も奪われ、夢中になって食べているうちに、簡単に道を逸れ、迷子になってしまう。気がつくと仲間たちからも羊飼いからもはぐれて、どこまででも遠くへ迷い出てしまう。
一匹の羊が群れからはぐれて道を迷い出ていったとき、良い羊飼いであられる救い主イエスはどんなに心を痛め、悲しみ、どれほどあわれに思ったことか。だから見つけ出すまで探し回り、追い求め、見つけたときに大喜びに喜ぶ。「ああよかった。うれしい。どうぞ、いっしょに喜んでださい。いなくなっていたあのかわいそうな一匹が見つかりました。死んでいたかも知れないあの一匹が、とうとう生き返った。こんなに嬉しいことはない」と。けれど今日では、危ういところを連れ戻していただいた幸いな羊たちのために一緒に喜べる羊たちはあまり多くはない、かも知れない。あるクリスチャンは正直なところ、自分が羊だなどとは思ってもいない。大きな熊か、素敵なカモシカか、もっと強い、もっと足の速い、もっと利口でたくましい生き物だと思っている。他人事のように、偉そうに、冷ややかに眺めつづけている。だから、こんなたとえ話を聞かされても、うれしくとも何ともない。
4節、 「100匹の羊を持っている人がいて、その1匹を見失ったとすれば、99匹を野原に残して、見失った1匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか?」。さりげなく、まるで当たり前のことのように問いかけられた。さて、あなたならそうしますか? ほとんどの羊飼いは、そのように99匹を野原に残して、見失った1匹を見つけ出すまで捜し回るだろうか? いいえ。私たち人間は、そんなことはしない。自分の損得を第1に考える、賢くて合理的なごく普通の常識かぶれの人間なら、決してしない。するはずがない。99匹分の莫大な損失を度返しして、すっかり目をつぶり、たった1匹の羊を見つけ出すまで捜し回るなど、あまりに愚かで非常識な馬鹿げた判断ではないか? しかもその1匹が千匹か1万匹ほども値打ちのある高価な羊だ、というわけでもない。つまり、そんな愚かなやり方は私たち人間にできることではない。その惨めで可哀そうな小さな一匹をあわれんで惜しむ、ただただあわれみ深い神にしかできない。ほかのどこにもない、その深いあわれみの神を見よ、と語りかけられる。あなたが群れからも羊飼いからもはぐれて道を迷い出ていったとき、良い羊飼いであられる救い主イエスはどんなに心を痛め、悲しみ、どれほど可哀そうに思ったことか。だから後先を考える余裕もなく、見つけ出すまで探し回り、どこまででも追い求め、見つけたときに大喜びに喜ぶ。「よかった。さあ、いっしょに喜んでください。いなくなっていたあの一匹が見つかった。死んでいたかも知れないあの一匹がとうとう生き返った。こんなに嬉しいことはない」と。そうだった。羊のもう一つの決定的な性質は、とても忘れっぽいこと。『喉元過ぐれば熱さを忘るる』と昔の人は言った。嬉しかったことも、神に心から感謝したことも、ごく簡単に忘れてしまった。とても多くゆるされたことも、多く愛されつづけたことも、すっかり忘れ果てた。そのせいで人を愛したり、思いやったり、ゆるしてあげたり、神さまに感謝することさえも、今ではほんのわずかしか出来なくなった。それを、虚しく愚かで惨めで、さびしいクリスチャンという。
7,10節 『悔い改める』。この聖書独特の言葉には、ただ単に「悪かった。とても反省しています」というよりも、もっと嬉しい豊かな意味がある。よそ見をしてあちこちきょろきょろ見回してばかりいた人が『神さまのほうへグルリと向き直る』こと。『どんな神さまか。神がどんなふうに働いておられるのか。何を願って、どうしようとしておられるのか』と目を凝らしつつ生きること。第1に、神のあわれみと真実とを受け取ること。第2に、 (裏面へ)受け取ること。受け取って手放さずにいること。1人の人は、ここでようやく思い当たる。「ああ、そうだった。うっかり忘れていたが、この私こそが羊だった。それも、囲いの中の正しくふさわしいつもりの99匹じゃなくて。たびたび迷子になった。弱くて、あまりに無防備な私だ。羊飼いのような神さまがこんな私のためにさえ確かにいてくださり、何度も何度も探し出し、連れ戻し、私に襲いかかってきた熊やライオンとも命がけで戦って、救い出してくださった。そうしていただくだけのふさわしさや価値があったからではなく、ただただ深く憐れんでいただいたので。だから、こんな私さえ心強い」と。主のものである羊たちよ。私たちクリスチャンの安らかさや慰め深さは、むしろ、深い痛手を負った羊飼いの膝元にある慰めである。血を流し、体を引き裂かれて横たわる瀕死の、自分のために生命をさえ投げ出して死にゆくただお独りの羊飼いの、その痛々しい枕元にある喜びと信頼である。羊飼いの真実さや愛情深さは、そこにあった(ヨハネ10:11,15「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」参照)。こんな自分のためにも深い痛手を負い、血を流してくださった羊飼いを、十字架につけられ、青ざめて身悶えするキリストを目の前に見て、目の前にありありと示されて、そこでその格別な慈しみを味わい知った。「そうだった。すっかり忘れていた。けれど思い出した」。
キリストの教会とは何者だろうか。クリスチャンとは何者か。キリストの福音とは、そもそも一体どんな福音だったのか。それは、救い主イエス・キリストと共にあわれみの食卓につくことである。「肉も飲み物も、食事のための晴れ着も、何の備えもなかった私たちだ」と喜び祝うことである。あの格別なお独りの羊飼いと共に。見つけ出され、連れ戻していただいた羊たちと共に。『救い主イエスと共に食卓につく』のに誰がふさわしいだろうかと、私たちは、まだなお問わねばならないだろうか。いいえ、主イエスを信じて生きる私たちには、それより千倍も万倍も大切なことがある。私たちは主の群れ。主に養われる羊たちである。道を誤り、それぞれの方向に逸れて迷い出ていった私たちを、良い羊飼いであられるお独りの主こそが連れ戻してくださった。喜んでください。今日は『いなくなっていたのに見つかった』という記念日です。『死んでいたのに生き返った』という聖なる日である。物欲しそうにあちらこちらと見回していた私たちが、深く息をつき、神様のほうへグルリと向き直った。自分自身と人間のことばかりクヨクヨと思い煩っていた1人の人が、ついにとうとう神へと思いを凝らしながら生き始める。すると、悔い改める必要などないと思い込んでしまった99人のゴウマンな人たちについてよりも、もっと大きな喜びが天にある。それを神ご自身が、どんなに待ちわびていたことか。その惨めで小さな1人を探し出し、ついにとうとう迎え入れたことを祝って、神ご自身が大喜びに喜ぶ。「食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」(ルカ15:7, 10,22-24,32節, エゼキエル 34:1-16)。
この15章の3つのたとえ話(15:3-7,8-10,11-32)は3つで1組であり、『ルカ福音書の心』だと言い習わされてきた。いいえ、聖書66巻全体の心だと言うべきか。私たち愚かで惨めな小さな者たちを思いやり、案じて、あわれみ続ける神の御心を受け止めたい。
(2025年9月14日)