考え続けるということは、ずっとやっていきたいと思っている事ですが、考えすぎて止まってしまうということがあります。考え出すと、何も考えないで動き出した時のような勢いはなく、考えている中での勢いとぱっと瞬間的な勢いとでは、勢いの質が違っているようです。違っているようと言うと他人事で無責任な感じですが、明らかに勢いの種類が違います。
 今の僕に足りていないのは、後者の瞬発的にやってしまっている状態です。失敗が許されず、やり直しが効きません。それだけ聞くとどこかぞっとするというか、二の足を踏んでしまいそうですが、今回の芸術祭では、これまで使ってきた鉛筆でも油絵具でもなくボールペンを使うことに決めました。
      こじんまりとしたものではなく、”大きい紙にボールペンで描く” をやりたいと思っています。ボールペンは、どこでも手に入る線は細く文字を書くのに適した身近なものを使います。練り消しで修正したり、色を重ねたり、そういうことはできないボールペン。描いた線は消すこともできません。躊躇していると、描き進めることもできません。
 勢いを持って思い切りよく描くをやってみようと思います。自分にとって勢いを持って描くということがどういうことであるのか。可能な限り多くのものを描いて、その中から勢いを感じるものを、展示したいと思います。テーマやモチーフとしては、ヨハネの黙示録の中に登場する情景や奇妙な生き物を描きたいと思っています。
(直前の書き足しあれこれ)
今日は4月20日(木)です。もうあと30分ほどで21日(金)になります。もう開催直前であるのに、ヨハネの黙示録に取り組めていません。なぜ取り組めていないのか。この数日は、自分自身に自問していました。やろうと思えばできるけど、どうも自分の中で取り組むことに対しての納得感がありません。過去をなぞっているようで、新鮮な気持ちで取り組めない自分がいることに気がつきました。
ヨハネの黙示録は、僕にとってあまりにも遠い存在。関心がなくなったわけではなく、またいずれは対決する日が来るのだと思います。だけど、今の僕にとっては今生きているこの世界であり、社会との対決が必要なのだということを感じています。「絶対のリアリティ」を何に感じるか。それは終末論的な磁場の中にある大都会です。私たちが自らの身を守る要塞として作り上げてきたコンクリートジャングル。
僕が住んでいるところからは、新宿のビル群の光が見えます。夜なのに、空は煌々と光っています。肉眼ではなかなかわかりづらいのですが、写真に納めてみると異様なまでの明るさを目の当たりにします。夜はずっとそんな光景が広がっている。朝になるまで、そうした光続けるビル群は、永遠にあるかのように確固たるものして君臨しているように見えます。
そして、より自分に引き寄せた時、今この時代を生きている一つの命として存在しているということを、自分自身にとっての「絶対のリアリティ」。それは高島野十郎が描いた蝋燭の炎の中に見出すことができるように思います。そこに描かれた炎には、永遠というものを感じさせます。そこに存在し続ける永遠な存在としての炎。対決しているとの時の僕はただただずっと見入ってしまってました。
現在進行形の自分によっての「絶対のリアリティ」。それは大都会の夜のビル群の光。そして高島野十郎が描いた蝋燭の炎。この2つに収斂されていくように思います。ヨハネの黙示録に描かれる破壊と再生。大都会の夜のビル群の光は破壊の象徴であり、高島野十郎が描いた蝋燭の炎は再生。普遍に存在し続ける永遠。「良きこと・大切なこと」を内包している。響き合うものを感じています。
1986年生まれ。東京育ち。とにかく体を動かすことが好き。日常の中に、集中して目の前のことに無心で取り組んでいる状態を求めている。絵を描くこと、表現をするということも、そういう感覚を持っている。
今回は、鉛筆でのデッサンや油絵で描くこと、紙粘土で表現することなど今までにやってきたことは一度やめて、時間をかければどうにかなったり、何度でも修正や加筆、調整の可能な世界から距離を起き、出たとこ勝負の思いのままに描くということをとにかくやってみたいと思います。ちまちまと書くよりは、思いっきり表現するということをしたいと思っています。
note:hamanekko
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