約束のスターリーナイト】



◾️Prologue◾️


 なあゼロ、知ってる?


 何を?


 天の河って、川じゃないんだ。小さい星がたくさん集まって、川みたいに見えるんだって。


 でも、空に川なんか見えないよ。


 東京じゃそうだよな。でも、オレの住んでた長野じゃ、毎日いーっぱい星が見れたんだよ。天の河だって夏の大三角だって、さそり座の赤い心臓だって見れたんだ。


 すごいな!いつか行ってみたいなあ、ヒロの家。


 …うん、いつか、きっと。


 なあヒロ。


 うん?


 天の河がたくさん星が集まってできてるんなら、その星は、河の中の石や砂の粒なんだろうなぁ。その一つ一つの星に、ぼくたちみたいな生き物がいたら面白いね!


 …そうだな。


 そうか。そう考えると、ぼくたちは宇宙という大きな河に棲んでる小さな魚なんだ。小さいから目に見える景色も限られてるけど、頑張って大きくなれば、もっと広い景色が見られるようになるんだ。棲んでる河の大きさだって知ることができる。


 …ゼロはすごいな。そんなこと、思いつきもしなかった。お前と一緒にいると、オレの知らない世界を教えてもらえる。本当にうれしいよ。ありがとう、ゼロ。


 なあ、ヒロ。いつか一緒に行こうよ、長野に。ヒロの家に。


 うん、きっと。


 きっと、いつか、一緒に……


 

 ✳︎



(ごめん…おまえとの約束、守れなかったな…)




◇1◇


 遠くから、ガタンゴトンと規則正しい音が聞こえてくる。

 ガタンゴトン、ガタンゴトンと音は徐々に大きくなり、音に合わせて身体もゆらゆら揺られていた。

 やがて、まるで彗星のようにきらきらした光が目の前をさぁっと通り過ぎたかと思うと、次の瞬間、零は電車の中にいた。4人がけのボックス席が2列に並んだ、そのうちのひとつの窓際の席に座っていた。

 あまり見覚えのない電車だった。青いビロード張りの座席、黄色い小さな電燈が並んだ鼠色の壁。どこか古ぼけて、昔の映画に出てきそうな電車だなと思った。

 物珍しそうにあたりを見回すと、通路を挟んだ向こう側のボックス席に誰かが座っていた。たぶん、零と同じ小学校高学年くらいだろう。ちょうど背丈も零と同じくらいで、窓から身を乗り出し外を眺めている。黒い上着を着た背格好にどこか見覚えがあり、零は思わずあれっと声を上げた。

「ヒロ?」

 その子が頭を引っ込めてこちらを見る。それは、確かに零の友達の、景光だった。

「ゼロ。間に合ったんだね」

「ヒロ、この電車は…?」

「寝ぼけてるのか? 一緒にオレの家に行こうって言ってたじゃないか」

 そうだったっけ…零はぼんやり考えた。

 そうだ、昔、ヒロと一緒に夜空を眺めたとき、いつか長野のヒロの家に行こうと言った。長野だと星がよく見えるから、一緒に天の河を見ようって。

 でもそう言ったら、ヒロがとても哀しそうな顔をした。だから、きっとヒロは家に帰りたいけど、帰りたくない理由があるんだろう、これ以上ヒロに長野の家の話はしない方がいいだろう、そう思ったのを覚えている。なのに。

 これは、長野へ向かう電車なのか。

「もうじき次の駅に着くよ。ほら、はくちょうの停車場だって」

 黒くて丸い板のような何かを見ながら、景光は弾んだ声で言った。零は景光の隣に座り、それを覗き込む。

「それは何? 地図?」

「そうだよ、最初の駅でもらったんだ。ゼロはもらわなかったの?」

「うん…僕、気づいたらここに座ってたんだ」

 景光の持っていた地図は、黒曜石のような円盤状の板に無数の白い点が打ち込まれたもので、どこの地理を示しているのかまるで見当がつかなかった。それは地図というよりも星図盤のように見えた。

 電車は相変わらず、ごとごとと音を立てて走っている。周りに他の乗客はいない。零と景光の2人だけだ。

「ねぇゼロ、外を見てよ」

 景光に誘われるまま、窓の外に目を遣る。そこは、満月に照らされた水面のように妖しく光っていた。そう見えたのは銀色のすすきの穂で、風に吹かれた一面のすすきが波のようにそよぎ、不思議なうねりを生んでいた。

「すごい…きれい」

「きらきらして、海みたいだ」

 大きく開いた車窓から、二人並んでその美しい景色を眺める。夜空を背景に、大きくカーブを描きながらすすきの群生の間を突き進んでいく二両編成の電車は、まるで大海原での冒険に漕ぎ出した小さなボートのようで、少しの心許なさと沸き上がる期待感が零の心を躍らせた。

 やがて、すすきの向こうに小高い島が見え、電車はスピードを落とし始めた。島には一本の光る十字架が建っている。

「はくちょうの駅だ」

 景光が島を指さす。電車はさらにゆっくりになり、島がどんどん近づき、そのうち古めかしい駅舎とプラットホームが現れた。

 ギィっと軋むような音がして、電車が停まる。

「20分停車します」

 車掌だろうか、落ち着いた男の声が車内に流れた。次いで、隣の車両から何人か大人が降りていくのが見えた。

「ゼロ、僕らも降りよう」

 景光が勢いよく立ち上がる。

「ここで降りるのか? ここが、ヒロの家があるところ?」

「違うよ、うちはもっともっと先。でも20分も停まるのに、じっとしてるのはもったいないよ」

 言うなり、出口に向かって駆け出した。慌てて零が後を追う。

 ホームに降りると、背の高い時計塔があった。文字盤が淡く光っており、針は11時を指している。さっき見えた十字架は、たぶんこの時計塔だったのだ。

「ゼロ! 行こう!」

 景光はすでに改札の外にいた。不思議なことに、駅舎や改札には誰もいなかった。駅員も、次の発車を待つ客も。

「早く!」

 景光に急かされ、零は走って改札を抜けた。

「いいのかな、駅員さんに切符を見せなくても」

「いいんだよ、誰もいないし。戻るときに見せればいいよ」

 駅前には、大きなイチョウの木が立っていた。その奥にまっすぐ延びた広い道路があり、二人はそこを並んで歩き出した。

「ここはどこだろう。はくちょうなんて地名、聞いたことないけど」

 あたりを見回しながら零が言った。道路の両脇はすすきの群生で、金や銀の光を放ちながら風にそよいでいる。

「オレも聞いたことない。たぶん、東京と長野の間だから、山梨とかじゃないかな。ゼロ、地理は得意?」

「得意は得意だけど、山梨の細かい地名までは知らないよ」

「だろ? じゃあ聞いたことなくても問題ないよ」

 景光は零を先導するようにズンズンと進んでいく。やがてすすきが途切れ、広い河原のような場所に出た。崖のようになっている急坂を降りると、そこの砂にはまるで水晶やルビーやトパーズのようにきらきらとした小石が散らばっていて、河原全体が星空のように見えた。

「すごい、この石、中で火が燃えてる」

 景光が小石を拾って感嘆の声を上げる。零も手近の石を拾って覗き込むと、アクアマリンのようなそれの中心で白い炎が揺らめいていた。

「ほんとだ。石の中にちっちゃな火がある」

「ゼロと同じだね」

 不意に投げかけられた言葉に、零が顔を上げる。景光は、いつもより少し大人びた表情をしていた。

「その石の色。ゼロの瞳と同じだ」

「僕と…?」

「空のように青くて、真ん中で強い意志が燃えていて…すごくキレイだね」

 景光がにこりと笑う。つられて、零も笑った。昔からそうだ。景光は零の髪色も肌の色も眼の色も決して区別しない。その代わり、時々こうして褒めてくれる。他の人からどう言われても、景光が褒めてくれるから、零は自分のこの色が好きになった。

「見て、こっちにも何かある」

 景光が小石を放って水際の方へ駆け出す。後を追って見ると、白い砂に黒々とした大きな木の実が埋まっていた。景光が一つ拾い上げてしげしげと眺める。

「これ、くるみだ」

「くるみ? これが」

「そうだよ。この硬い殻の中にくるみの実が入ってるんだ」

「割ってみよう」

「ダメだよ、くるみは人の力じゃ割れないんだ」

 景光の言葉に零は肩を落とす。そうか、僕の力じゃ割れないのか。

 そこへ遠くから、大人の男の怒鳴り声が響いた。

「ダメだダメだ! そんな乱暴に触るな。その突起を壊さないように、スコープを使いたまえスコープを」

 振り返ると、崖の下の白い岩がごろごろ転がっているところで、何人かの大人たちが立ったりしゃがんだりして、熱心に石や土を見ていた。

 何をしているんだろうと興味を惹かれ、そろりと近づく。

 すると、さっき怒鳴っていた男がくるりと振り返り、零と景光を見た。

「君たちは見学か?」

 それは大柄で、髪が短く、がっしりとした体つきの、大学士のような男だった。ツルハシを肩に担ぎ、右手には鑿を持ったまま、鷹揚と立っている。

 急に話しかけられた驚きと持っているものの物騒さに思わず何も言えずにいると、大学士は景光の掌を見て破顔した。

「おっ、それはくるみだな。いいもの見つけたじゃないか。ここはだいたい120万年前の地層でな、このくるみはその頃のものだよ。さらにその前はここは海だったんだ。少し掘ると貝殻とか海獣の骨が出てくる。ほら、見てみな」

 大学士がツルハシで示した先では、確かに立ったりしゃがんだりした大人たちが、シャベルのような道具を使って地面を掘って、出たものを観察したり丁寧に払ったりしている。

「発掘ですか?」

 零が尋ねると、大学士はさらに人懐こい笑顔になって、

「よくわかったな! 俺たちはここで大昔の動物の骨を掘ってるんだ。この場所が何もないただの海や陸じゃなく、牛や鳥や海の生き物が棲んでたってことを証明したいのさ」

 得意げに語る彼にふたりが感心していると、向こうから声が掛けられた。どうやら大学士を呼んでいるようだ。

「すまない、そろそろ戻らないと」

「いえ、オレたちも行かないといけない時間なので」

 行こうゼロ、と景光が駆け出す。慌てて彼に一礼し後を追おうとすると、

「お前ならどこへでもいけるよ、降谷」

 はっと振り返ったときには、すでに彼は背中を向けて仲間の元へ戻ろうとしていた。向こうから、誰かが彼を呼ぶ声が響く。

「こっち見てもらえますか、伊達班長!」

(だ、て…はんちょう?)

 途端に、頭を何度も揺さぶられたように眩暈がした。何故かはわからない。あの人の声と、言葉と、その名前とが、零のなかの遠い記憶を掘り起こそうとしている。

(あれ、あの人…どこかで、会った…?)

 思い出せない、いつ、どこで会ったのか。でも確かに会ったことがある。ほんの短い間だけど、とても近しい…親密な…

(伊達…班長…)

「ゼロ!」

 強く肩を掴まれ、びくりと我に返った。息を切らした景光が顔を覗き込んでいる。

「ヒロ…」

「どうしたんだよ、急にしゃがみ込んで」

「なんか、急に眩暈がして」

「大丈夫か? もうじき電車が出る時間だから、急いで戻らないと」

「平気だよ。行こう、ヒロ」

 零が走り出し、景光がその後を追いかける。さっきの不調が嘘のように足が軽かった。いくら走っても疲れないような気がした。

 ふたりは元来た道を駆け抜け、改札も通り過ぎて電車に飛び乗った。次の瞬間、扉が音を立てて閉まり、笛が鳴った。ゆっくりと電車が動き出す。

「ギリギリセーフだな、ゼロ」

 景光がにっと笑う。だな、と零も笑い、元いた席に向かい合わせで座った。




◇2◇

 

「お隣、座ってもいいかな?」

 車窓から流れ行く景色を眺めていると、背後からそう声を掛けられた。

 振り返ると、茶色いコートを着た若い男が大きな荷物を担いで立っていた。少し髪が長くて、垂れ目で、人好きのする笑顔の男だ。

「はい、どうぞ」

「ありがとう、お邪魔するよ」

 零が頷くと、男は通路を挟んだ向こうのボックス席に荷物を置き、零の隣にどっかりと腰を下ろした。見れば、置いた荷物の向かいにはサングラスを掛けた男が、つまらなそうに欠伸をして頬杖をつきながら座っている。いつの間に、ほかのお客が乗っていたのだろう。

「君たちはどこまで行くんだい?」

 零の隣に座った男が話しかけてきた。

「僕たち、長野のヒロの家まで行くんです」

「長野まで。それは随分遠くまで行くんだな」

「はい。約束したので」

「そっか。でも、この電車はどこまでも行けるから、乗ってればそのうち着くさ」

「この電車はどこへ行くんですか?」

「いろんな所へ行くよ。君の行きたい場所や、俺の仕事場だって」

 そこで、それまで黙り込んでいた景光が、割り込むようにずいっと身を乗り出してきた。

「おじさんは、何をする人なの?」

「おじっ…」

 男がぴしりと凍りつき、向こうの席ではサングラスの男がぶはっと吹き出した。そのまま肩を震わせて俯いている。

 しかし景光は気に留めず、さらに迫るように続けた。

「そんな大きい荷物持って、オレたちに親切そうに話しかけて、なんか怪しい。悪いけど、ゼロもオレも親はいないんだ。誘拐したって身代金は取れないぞ」

 景光は真剣な表情で男を牽制する。

 すると、隣からだっはっはっはと大爆笑が聞こえた。サングラスの男が腹を抱えて大笑いしている。

「やべーウケる! おじさん呼ばわりに誘拐犯扱い! サイコーだなお前ら!」

「うるせー笑いすぎだ松田!」

「だってよぉ、そんだけお前が胡散臭く見えるってことだろ、ハギよぉ」

 松田と呼ばれた男は引きっつったように笑い続けているし、ハギと呼ばれた男は松田を黙らせようと殴りかかっている。

 その光景をぽかんと見ていた零は、またしても眩暈のような感覚に襲われた。

(まつだ…? はぎ…?)

(知ってる…ぼく、ふたりのことを知ってる…?)

 ひーひーと笑いが収まらないサングラスの男にヘッドロックを仕掛けながら、ハギと呼ばれた男は零と景光に言った。

「俺、こう見えてもまだ二十代だからね! お兄さんはね、鳥をとる人なんだ」

「鳥? とる? ああ、写真を撮るってこと?」

「違うよ。鳥を捕まえるんだ。空を飛んでるきれいな鳥をね、片っ端から捕って畳んでカバンに仕舞うのさ。おい、もういい加減笑うのやめろ」

「いや無理。俺あと1ヶ月はこれで笑えるわ」

 男はサングラスを外し、目尻に溜まった涙を拭いながら言った。その顔は思った以上に若く見えた。

「それにお前ら、こいつの言うことを信じちゃいけねぇぜ。きれいな鳥ってのは、つまりカワイイ女の子のことよ。このチャラ男は女の子を片っ端から引っ掛けて食べてんのさ」

「おいっ! 子供相手にそーいうこと言うのやめろよ」

 ニヤニヤ笑う男の口を鳥捕りの男が慌てて塞ごうとする。

「俺は女の子も大好きだけど、鳥を捕るのも好きなんだ。ほら、今日だってこんなにたくさん」

 取り繕うようにそう言ってカバンから取り出したのは、白い包みだった。開けると、鳥の形をした何かが入っている。

「なんですか、それ」

 零が尋ねると、鳥捕りは得意げに胸を張って、

「今日捕れたてホヤホヤのハトだ。つるやサギは時間がかかるけど、ハトはもう食べられるぞ」

「えっ?」

 思わず目を剥いた。

「食べる…んですか? つるやサギや…ハトを?」

「ああ、うまいぞ。これなんかちょうど食べ頃だ」

 鳥捕りが包みからハトの形をしたそれをふたりに差し出す。確かに、見た目はお菓子のようだ。恐る恐る受け取り、匂いを嗅いでみると、美味しそうな甘い匂いがした。

 零と景光は目を見合わせ、せーのでハトにかぶりつく。さくっと軽い音がして、素朴なクッキーのような味がした。

(ていうか、これ…鳩サブレでは…?)

 美味しい。確かに美味しいが、

(違う、そうじゃない…)

 こうなると、彼の鳥を捕ってお菓子にするという話が全面的に怪しくなってくる。零がちらと鳥捕りを見ると、彼はニコニコとハト、もとい鳩サブレを食べるふたりを見ていた。だがその表情は子供を騙そうとしているようには見えない。

「な、うまいだろ?」

 零は仕方なく、「美味しいです」と答えた。嘘をついているわけではないが、本音を隠している居心地の悪さは拭えない。話題を変えようと、今度はもう一人の頬杖をついた男に話しかけた。

「あなたはなんの仕事をしてるんですか?」

「俺? 俺は燈台守だよ。燈台を守るのが仕事さ」

「何かっこつけてんの。陣平ちゃん、昨夜も仕事サボってたんでしょ」

 横から鳥捕りが嘴を挟んでくる。

「んなことねーよ」

「近所の奥さんから聞いたよ? 昨夜は燈台が真っ昼間みたいに眩しくて、苦情の電話したのに誰も出なかったって」

「俺の仕事は燈台の管理。燈台は光ってりゃいーだろ? クレーム対応は専門外だ」

「屁理屈ぅー」

「うるせー」

 燈台守と鳥捕りのやり取りは、とても気心の知れた間柄のそれだった。この感じを知っている気がする、と零は少し懐かしいような気持ちになった。

 ひとしきり盛り上がった後、燈台守が零と景光を振り返った。

「お前らはどこから乗ってきたんだ?」

 問われ、そういえばどこから乗ったんだろうと零ははっとした。気づいたら電車の中にいた。だがその前のことは、頭に霞みがかかったようになって思い出せない。

 助けを求めるように景光を見ると、彼はひとつ頷いた。

「オレたち、遠くから来たんです」

「遠くから。ふたりだけで?」

「はい、ふたりだけで」

「そうか」

 景光の回答は結局何も答えてはいなかったが、燈台守は満足そうに笑い、またつまらなそうに欠伸をした。




◇3◇


「切符を拝見します」

 いつの間にか、通路に背の高い男がすっと立っていた。帽子を目深にかぶってメガネをかけて、深く落ち着いた声をしていた。格好からしてこの電車の車掌のようだ。

 車掌のセリフに、鳥捕りと燈台守はそれぞれポケットや懐を探り、小さな紙切れを取り出した。それを渡すと、車掌ははさみのようなものでぱちんと切れ込みを入れ、それぞれに返した。

 零は焦った。切符? そんなもの知らない。だって気づいたら電車に乗っていたのだ。切符を買った覚えもなければ、改札で駅員に切符を見せた記憶もない。

(ヒロは? ヒロはどうなんだ?)

 もしかして同じように困っているのでは、と景光を見ると、なんてことはないように上着の胸ポケットからグレーの切符を取り出していた。車掌はそれを受け取りながら、零に(君のは?)と糸のように細い眼を向ける。

 あるわけないと思いつつも、一縷の望みを託し急いで上着やズボンを探った。すると、ズボンの尻ポケットに、四つに折り畳まれた緑色の紙が入っていた。

 切符には思えない、しかし零が持っていたのはこれだけだ。どうしよう、これでいいのかな、と迷っていると、車掌がパッと紙を取り上げた。

 四折のそれを丁寧に開き、そこに書かれた内容を見て、車掌が「おや」と呟いた。

「これは、三次空間からお持ちになったのですか」

 車掌の言葉に、鳥捕りと燈台守が紙を覗き込み、驚きの声を上げる。

「すげー! こいつは天上に行ける切符だぜ」

「天上どころじゃない、どこまででも行ける切符だ。初めて見たよ。大したもんだなあ」

 零は首を傾げた。てんじょうだとかさんじ空間だとか、何のことかさっぱりわからない。だが、この切符があれば、このまま景光と電車に乗っていてもいいということはわかった。

「サウザンクロスへ着くのは次の第三時頃です。それまで失くさずに大切にお持ちください」

 そう柔らかく微笑んで、車掌は零に切符を返した。はがきサイズのその紙には、黒い唐草模様の中に日本語でも英語でもない文字がいくつか散りばめられていて、これのどこがそんなにすごい切符なのか、零には皆目見当がつかなかった。

 では失礼、と車掌が立ち去る。零は切符をなくしてはならぬと慌ててズボンのポケットに仕舞った。

 電車はしばらく、ごとごとと走り続けた。すすきの群生を抜け、川沿いを走り、幻燈のように光る草原を横目に猛スピードで駆けていた。

「もうすぐわしの停車場だ」

 黒い円盤の地図をくるくる回しながら景光が言う。ふと見上げると、鳥捕りの姿がなかった。燈台守が一人、景色も見ずに欠伸をしているだけだ。

「あの、鳥を捕るお兄さんは…」

 零が話しかけると、燈台守がサングラスをかけながら言った。

「あいつは、行っちまったよ」

「行った…どこへですか?」

「ずっと遠くだ。手に入らない鳥を捕まえに飛んでっちまった」

「そんなに珍しい鳥が?」

 零の問いに、彼は答えなかった。代わりに、懐からぴかぴかに光る赤い苹果(りんご)を取り出し、零に差し出した。

「あいつからの伝言だ。『振り返るなよ、降谷ちゃん』」

 思わず息を呑んだ。燈台守はサングラスの向こうで、優しいような挑むような眼をしていた。

「俺も、お前の信念を信じてるぜ、ゼロ」

 次の瞬間、苹果がごとっと床に落ちた。




◇4◇


「ゼロ?」

 とんと肩を叩かれてはっと我に帰る。景光だった。慌てて隣のボックス席に視線を移すと、そこには誰の姿もなくなっていた。

「大丈夫か? ゼロ」

 景光が零の足元から何かを拾い上げた。それは、赤くてつやつやとした苹果だった。

「ほら、落ちたぞ」

「うん…ありがとうヒロ」

 苹果を受け取り、車内を見回す。零と景光の他は誰もいなかった。燈台守も、鳥捕りも、鳥捕りの大きな荷物も消えていた。燈台守から最後にもらった苹果だけが、ただ零の手の中にあった。

 ふたりがどこに行ったのか、景光に訊こうとしてやめた。なんとなく、それを知るのが怖かった。

(もう、会えないのかな…)

 再び席に座り、ぼうっと外を眺める。少しだけ眩暈がして目の奥がずきずきと鈍く痛んだ。

 さっき、河原で大学士から別れ際に言葉をかけられた時と同じだった。鳥捕りと燈台守のやり取りを見ていた時と同じ。頭を揺さぶられるような、記憶の奥底をまさぐられるような、そういう感覚だった。

 いつの間にか、次の駅に着いていた。景光が言っていたわしの停車場だ。ホームの時計は2時を示している。

 やがて電車は出発し、川沿いから外れて森の中に入って行った頃には、零の眩暈は治っていた。

 窓から見える景色は黒々とした森の影ばかり。しかし時折、影の合間にてっぺんが青や赤や銀に光る三角形のタワーが点在していた。

「あれは何だろう」

 零が不思議なタワーについ身を乗り出すと、景光が答える。

「あれは三角標だよ。星と地上の距離を測るためのものだ」

「不思議だな。どういう法則があってあれは建っているんだろう」

 三角標は、みっつ固まっていたり遠く離れていたりとてんでばらばらに建っていた。零の疑問に、景光は手元の地図と見比べながら言う。

「それぞれ、何かのものや生き物のかたちを表してるみたいだ。右の四角く並んでるのは顕微鏡を表してて、その向こうにあるのがインディアンだって」

「インディアン? どこが?」

「その横にあるのが孔雀だ」

「全然そんなふうに見えないよ」

「きっと昔の人が決めたんだろうな。ほら、あっちに見えるのは蛇遣いらしい」

 零は景光が指差した方を、目を凝らしたりわざと遠目で見たりして、不規則に並んだ三角標から蛇遣いの姿を見つけようとした。大きな変形五角形とその向こうに点々と長く延びているのは、言われてみれば大蛇とそれを抱える人、に見えなくもない、かもしれない。

 そう思った時。

「妹を見なかった?」

 急に背後から声をかけられ、零はびっくりして飛び上がりそうになった。見れば、零と同じか少し年上の髪の長い少女が、背凭れの上からこっちを覗き込んでいる。

「君は誰だ?」

「ねぇ、妹を見なかった?」

「妹?」

「茶色の髪をしたちいさい女の子よ。わたしと一緒に行くはずだったのに、いなくなっちゃったの」

「ごめん、僕らは見てないや」

 零が申し訳なさそうに返すと、少女は哀しげに眼を潤ませて「そう」と顔を伏せた。

「君は、どこから来たの?」

 景光が問いかける。少女は背凭れから降りて、景光の隣に座った。薄黄色の上着を膝の上に置いている。

「よく覚えてないの。お母さんとお父さんとはずいぶん前に別れたけど、妹はずっと一緒だったの。妹は頭が良いから、大人たちに大事にされてたわ。でも、大人たちは決していい人じゃなかった。だから妹を連れて逃げようとしたのに、いつの間にか妹がいなくなってたの」

 少女は淡々と語った。本当は逆なのだろうと零は思った。妹が大人から大事にされていたのなら、妹がいなくなったのではなく、少女が大人から捨てられたのだ。そうして妹と離れ離れにされたのだろう。

 だが、それをこの少女に伝えるのは残酷すぎる。代わりにと、燈台守からもらった苹果を差し出した。

「妹さんと早く会えるといいね」

「ありがとう」

 少女は苹果を両手で受け取り、うやうやしくそれを食べた。瑞々しく甘酸っぱい香りがして、零は苹果を渡したことを少しだけ後悔した。

 気づけば電車は森を抜け、崖のような山道を登っている。と、左側の窓の外がぼうっと赤く光った。はるか遠くの地平に、ちらちらと燃える炎が見える。

「あの火は何だろう。あんなに赤く燃えるなんて」

 零が尋ねると、景光が地図を見ながら目を輝かせた。

「すごい、あれは蠍の火だ」

「あら、わたし、蠍の火なら知ってるわ」と少女が続けた。

「昔、野原に一匹の蠍がいて、ちいさな虫や生き物を殺して食べていたんですって。ある日、いたちが現れて、蠍は食べられそうになったんですって。蠍は逃げて逃げて、なんとか逃げ切れたけれど、家族とは離れ離れになってしまったんですって。それで、蠍はこう言ってお祈りしたそうよ。

 ああ、わたしはいままでいくつの命を獲ってきたかわからない、そしてわたしがいたちに獲られようとした時は一生懸命逃げて、家族と遠く離れてしまった。どうしてわたしはわたしの体をいたちにくれてやらなかったのだろう、そうすれば今頃家族はいたちに追われず安心に暮らせたかもしれない、いたちはあと一日生き延びたかもしれない。神様、どうかわたしの心を見てください。もうわたしは家族に会えない。ならばせめて、このからだをみんなのまことのさいわいのためにお使いください。

 そうしたら蠍はいつの日か、自分のからだが真っ赤な美しい火になって夜の闇を照らしているのを見たんですって。これならきっと家族も安心して眠れるだろう、そう言って地上を見守ってるんですって。きっとあれはその蠍の火だわ」

 三人は揃って地平が赤く燃えるのを眺めた。赤い火の向こうとこちらにはいくつかの三角標がたっていて、不思議なことに今度はそれが蠍のからだや鉤のような尾に見えた。

「きれいな火だね」

「ほんとうにきれいだ」

 電車は走り続け、蠍の火はどんどん後ろに遠ざかっていく。

 それがすっかり見えなくなる頃、車掌の落ち着いた声が車内に響いた。

「間も無く、サウザンクロスに到着します」

 すると少女ははっと顔を上げ、慌ただしく薄黄色の上着を羽織った。

「わたし、降りなくちゃ」

「妹さんはいいのかい?」

 景光が尋ねると、少女は我慢をするように眉根を寄せた。

「本当は会いたいわ。でも、わたしここで降りなくちゃいけないのよ。お母さんとお父さんが待っているんだもの」

 少女の気丈な様子を見て、零もつい口を出した。ズボンのポケットから緑の紙を取り出し、

「じゃあ僕たちと一緒に行こうよ。僕、どこまでも行ける切符を持ってるんだ。一緒に妹さんを探しに行こう」

 しかし、少女は首を横に振った。

「だめなのよ。わたしは天上に行かなくちゃいけないんだもの」

 その時、窓の外に見える青や緑やさまざまな色の光の中に、ひときわ白く輝くおおきな十字架が現れた。それはいままでに見たどの明かりよりも目映く美しいので、零はつい言葉をなくし見惚れてしまった。

「サウザンクロスだわ」

 少女の呟きを合図にしたかのように、電車が減速を始めた。たくさんの電燈が立ち並ぶ中を電車はゆるやかに走り、やがて白い十字架の真ん前で停車した。

 零が止める間もなく、少女は出口に向かって歩き出した。そして扉の手前で立ち止まる。振り返った顔には、昔憧れていたあの女性のような、澄んだ笑みが浮かんでいた。

「もう怪我しちゃダメだよ。バイバイ」

『バイバイだね、零君』

 不意に、懐かしいあのひとの声が聞こえた気がした。思わずあっと頭を押さえる。

(せんせい…? どうして急に…)

 ふと記憶の断片が脳裏に浮かんだ。

 そういえばあの少女、昔に会ったことがある気がする。怪我をしては会いに行った先生の病院で、あの子に手を引かれて、絆創膏を貼ってもらって…

 そう思い出した時には、すでに扉は閉まり、彼女の姿はなかった。ゆっくりと、電車は動き出していた。




◇5◇


 みんないなくなってしまった、と零は急にさびしい気持ちになった。

 がらんとなった車内はごとんごとんと線路を征く音がするのみだ。零と景光の他は誰もいない。

 景光はまるで最初と同じように、窓から身を乗り出していた。年季が入った壁の電燈も、たくさん人が座ったであろう青色をした座席も、最初と同じようにそこにあった。

「僕たち、ふたりだけになってしまったね」

 零がぽつりと呟くと、景光が身体を引っ込めて零の正面に座り直した。

「そうだね、ゼロ」

 景光は優しく笑っている。

 零はぼんやりと気づいた。この電車はどこへ行くのか。誰が乗る電車なのか。なぜ、ヒロと自分がこの電車に乗っているのか。

 だから、零は決心したように顔を上げた。

「ヒロ。僕たち、このままどこまでも一緒に行こう。僕はあの蠍のように、ほんとうのみんなの幸福のためなら、僕の身体なんか百回灼いてもかまわない」

「オレだってそうだ」

 景光は相変わらず笑顔を浮かべて零を見つめていた。その笑顔は、とても大人びていつもの景光ではないようで、零は心臓がちくちくするように感じた。

「でもゼロ、ほんとうの幸福って、なんだろう」

「…わからない」

「みんなが幸福になるためには、オレたちはどうしたらいいんだろう」

「…ヒロは、知ってるの?」

 そう尋ねた次の瞬間、零がまばたきをした瞬間に、景光の姿が変わった。子供ではなく大人に。背が高く、精悍な顔つきで、顎にヒゲを生やした大人の景光になっていた。

 大人の景光は、零の胸を人差し指で示した。

「ゼロ。お前にもわかっているはずだ。お前の進むべき道、お前のあるべき場所。ほんとうの幸福を見つけるために、お前はここにいちゃいけない」

「ヒロ…?」

 零が思わず景光の手を掴もうとすると、パァンと何かが弾けるような音がした。それを合図に、突然景光の全身が真っ赤な炎に包まれた。

「ヒロ!」

 零は景光を助けようと炎に手を伸ばす。

 不思議な炎だった。全く熱くない。それに零が触れようとするとゆらりと形を変えて触れない。景光は満足そうに、でも少しだけ哀しそうに微笑んでいた。

「約束、守れなくてごめんな」

「ヒロっ…!!」

「がんばれよ、ゼロ」

 零が再び手を伸ばすと、炎がひときわ大きく燃え上がった。思わず眩しさに目を覆う。

 次に目を開けたとき、炎は消え、景光の姿も消えていた。

 大人の景光も子供の景光も、彼が持っていた黒い地図も。青いシートには焦げ跡も煤も残っていなかった。

 零は呆然と、ただ立ち尽くすしかできなかった。

 



◇6◇


「君はいったい何を泣いている」

 どれくらい時間が経ったのだろう。もしかしたらほんの数瞬かもしれない。

 零は涙で滲む眼を声のした方に向けた。さっきまで景光がいた席の隣に、黒いつば広の帽子を被った大人の男が座っていた。帽子だけではない、上等そうなコートもズボンも、ぴかぴかに磨かれた靴も真っ黒で、でも帽子のせいで顔は見えなかった。

 その声は、何度か聞いた車掌のそれと同じように聞こえた。きっと違う人なのだろうと思ったが、深くて落ち着いた、心地よい色は同じだった。

「もう一度訊く。君は何故泣いている」

「…ヒロが…ともだちが、いってしまったんです、遠くへ」

 零がぽつりと言うと、男は興味深そうにほう、と帽子のつばを少し持ち上げた。その下からのぞいた瞳はきれいな緑色をしている。

「彼は君が行けない遠くへ行ってしまったのだ。君はもう彼を探しても無駄だ」

「でも、一緒にヒロの家に行こうって言ったんだ。どこまでも一緒に行こうって約束したんだ」

 零の両目に溜まった涙が、重力に逆らえなくなったように頬を伝って流れ落ちた。

「どうして、みんな僕を置いていってしまうんだ…」

 零は、声もなく泣いた。

 昔からそうだった。

 家族も、友人たちも、憧れの女性も、生涯の親友も。

 零が好きになったひとたちはみんな、零の傍からいなくなってしまうのだ。

 その度に思い知らされる。己の抗いようのない孤独を。

 孤独であることに後悔はない。だが近しいひとたちとの別れを過去の思い出には出来なかった。ふとした瞬間に脳裏によみがえる記憶が、零の心に痛みと哀しみを呼び起こす。いつまで経ってもじくじくとして治らない、瘡蓋を剥いだ傷のように。

 静かに涙を流す零を、男はまっすぐと見つめていた。

「受け入れることと乗り越えることは別だ。君はいろんな人との別れを自身の糧としてきたはずだ。それが君の強さであり弱さだ。君はすでにそれを自分のものにしているのだから、乗り越えなくても忘れなくてもいいんだよ」

 男の声には不思議なあたたかさがあった。大きな身体で全身を抱き締めてくれているようだ。男は続ける。

「ヒロはカンパネルラだ。だがカンパネルラはヒロだけではない。君がこれからほんとうの幸福を探しに行くとき、きっとまたカンパネルラに会えるだろう」

(カンパネルラ…聞いたことがある。宮沢賢治の童話の登場人物だ)

 零はその童話を思い出そうとした。だが頭がぼんやりとしてうまくできない。

 男は淡々と言葉を紡ぐ。

「今は、太陽があって地球がその周りを回っているから星が動いて見えるというのが常識だろう。だが以前は地球が全ての星の中心にあるとか、この地上は平べったくて海の向こうには何もないとか、そう言われていた時代があった。

 地理も歴史も、数学も音楽も宗教も、変化をするものだ。人も絶えず変化をしている。だが、君がほんとうの幸福を求める心は変わらない。あらゆる人のためにそれを求めるなら、カンパネルラはずっと君の傍にいるだろう」

 零の両の眼からは、さらに涙が溢れ出した。だが、それは悲しみからのものではなかった。目の前の男の言葉が、優しい声が、零の心をあたためてくれたからだ。

 彼の緑の瞳に訴えるように、零は言った。

「あなたは…僕のそばに、いてくれますか」

 男は驚いたように瞠目した。そして、零の右手をそっと取り上げ、その手にあった緑色の紙ごと、おおきくてあたたかな両手で包み込んだ。

「さあ、切符をしっかり持っておいで。君はもう、夢の鉄道の中でなく、現実の世界の火や激しい波の中を自分の足で歩いて行かねばならない。銀河にたったひとつのこの切符を、君は決して失くしてはならない」

 その時、真っ暗な地平線の向こうから青白い光の狼煙が上がった。それはどこまでも昇りつづけ、電車の中をも真昼のように明るく照らした。

「さあ、帰っておやすみ。起きたら、夢の中で決心したとおりにまっすぐ進むんだ。俺はこれからも君のそばにいると約束するよ。降谷零くん」

 光のおかげで、男の顔がはっきりと見えた。彼は、とても優しい笑顔で零を見つめている。

「あ…」

 彼の名を呼ぼうとしたとき、車内を照らす光がどんどん強くなり、目を開けていられないほどの眩さに零は瞼をぎゅっと閉じた。

 いつの間にか電車が走る音がしなくなっていた。男の声も、手を握ってくれる感触もない。

 でも、右手の中には確かにあの切符がある。それだけははっきりしていた。

 やがて、真っ白な光に、零は飲み込まれていった。




◾️Epilogue◾️


 最初に聞こえたのは、小鳥の囀りだった。

 ゆっくりと意識が浮上する。次に感じたのは風だ。少し冷たい、だが柔らかな風が頬を撫でた。

 瞼の向こうが明るい。朝のようだ。そっと両眼を開けると、霞む視界に白い天井が見えた。

 見覚えのない天井だった。どこだろう、と思ったが、そこから先へ思考は動かなかった。脳が泥に浸かったように重い。

 やがて、ピッ、ピッという電子音が聞こえてきた。その音の方へ頭を向けようとして、口が何かに覆われていることに気づいた。

 酸素マスクだ。さらに視線を巡らすと、胸や腕にはたくさんの管が貼り付いている。それらの管は左側に置いてある、何かの機械へ繋がれていた。

(そうか…あのとき、爆発に巻き込まれて…)

 降谷はぼんやりと思い出し始めた。脳に酸素と血が通い、徐々に覚醒していくのがわかる。

 かの組織を倒す計画のうち、奴らが薬品開発のために根城にしていた研究所を摘発する作戦の履行中だった。主要関係者は確保し、研究資料を押収するために、組織に精通した降谷が現場に残っていた。

 恐らく、元々こういうことがあった場合の保険が仕掛けられていたのだろう。突如として地下の研究室が爆発を起こし、一階にいた降谷と数名の捜査官、および鑑識が巻き込まれた。

(おれは…たすかったのか…)

 ピッ、ピッという電子音が、生きているという脈動の証拠だ。怪我の程度はまだわからないが、全身の倦怠感や重苦しさからして重傷だったのは間違いない。そう思うと、他の捜査官には犠牲が出たかもしれない。

(はやく、状況を確認しないと…)

 だが、身体が言うことを聞いてくれない。起きるどころか、指先すら満足に動かなかった。

 諦めて、ふぅっと溜息をつく。すると、身体の右側に何やら違和感があった。右手が妙にあたたかい。

 そっとそちらに視線を向けると、黒い塊があった。よくよく見れば、黒いジャケットを着て黒いニット帽を被った男がベッドに突っ伏して眠っていた。降谷の右手は、彼の左手にしっかりと握られている。

 なんだかとても久しぶりに彼の寝顔を見た気がした。両目の下には相変わらず濃い隈が刻まれているが、もしかしてずっと傍にいてくれたのだろうか。

(本当はダメなのに、無理言ってここに入ってきたんだろうな…)

 風見の焦った顔が思い浮かんで、降谷はつい笑みをこぼした。

「あかい…」

 早く、この男を安心させてやりたい。僕は生きて帰ってきたと、あなたとの約束を守るために帰ってきたのだと伝えたい。

 降谷は掠れた声で呼びかけた。

「赤井。起きて」

 すると、男の睫毛が震え、瞼がゆっくりと開かれた。ぼんやりとした眼が降谷の姿を認めると、がばりと勢いよく立ち上がる。

「降谷くん…! 大丈夫か!」

「なんとか…心配かけたようで、すみません」

「何を言ってるんだ。目を醒ましてくれて本当に良かった」

 赤井は降谷の右手を両手で握り締め、指先にキスをした。

「君が生きていてくれて、本当に良かったよ…」

 振り絞るような赤井の言葉に、降谷はじんわりと胸が熱くなるような気がした。

 あの時、彼から渡された「どこまでも行ける切符」はもうない。夜空を駆ける銀河鉄道のなかで体験したことはすべて幻だ。しかし、降谷の心には確かにあの蠍の火のような強い意志が生まれていた。

「赤井…僕、長い夢を見てたんです」

「夢?」

「ええ、親友と電車で旅をする夢です。懐かしい人にたくさん会えて…あなたも夢に出てきたんですよ」

「そうか」

 降谷は挑むように前を見据えていた。

「赤井。これからも戦いは続きます。今までよりもっと辛いことがあるかもしれない。でも、僕はまっすぐに進みます。どこまでも、本当の幸福を手に入れるために」

 その降谷の瞳に、赤井は蒼く燃える炎を見た気がした。どんな夢を見たのかわからない。だが、彼の決意はより一層強固なものになったのだと分かった。

 それならば、赤井の答えはひとつしかない。

「君はまっすぐに突き進め。俺は君の隣で共に戦おう」

 かつては殺したいほど憎んだ男だった。しかし今は、誰よりも信頼して背中を預けられる男。

 その赤井の言葉に、降谷は満足そうに微笑んだ。

「期待してますよ」

「もちろんだ」

 頷いて、さらに降谷の右手を強く握り締める。すると、降谷が力一杯握り返してきた。

 満身創痍でも彼は絶望に囚われない。彼のまっすぐな眼が、力強い言葉が、体温が、赤井を奮い立たせる。公私共にかけがえのないパートナーだ。そして、降谷にとっての赤井もそうであって欲しいと願っている。

「降谷くん、俺はドクターを呼んでくる。少し休むといい」

 そう言って、赤井は降谷の額にキスを贈り、病室を出た。

 ひとりきりになると、静寂が降谷を包んだ。規則正しい電子音を聞きながら、ふと、夢で見たあの光景を思い返していた。

 銀河鉄道で出会ったたくさんの光景を。

 車窓から見えた銀色のすすき畑、河原で拾ったくるみ、美味しい鳥のお菓子、三角標にサウザンクロスのおおきな十字架。かつての友人たちと同じ名前、同じ顔をした大学士、鳥捕り、燈台守。蠍の火の話をしてくれた少女。

 そして、共に銀河を旅した親友。

 最後に切符を手渡してくれた、緑の瞳をしたあの男も。

 みんなが、降谷の背中を押してくれた。

 不思議な旅だった。とても不思議で、とても有意義で、楽しくて、少しだけ切ない旅だった。

(僕はこれからも迷わずに進むよ。みんなのほんとうの幸福を見つけるために)

 大丈夫。これから先、挫けそうになっても赤井が隣にいてくれるから。

 降谷は、祈るように瞼を閉じた。


 ありがとう、僕のカンパネルラ。




◾️end◾️