NOVELETTE

夜の森はマラカイト9777words)

 ・モブJK視点

 ・原作より33年後くらいの初老赤安のお話

 うちは田舎だ。うんざりするほど。

 高校までの自転車通学40分のうち30分は田んぼと畑しか見えないし、最寄りのコンビニまで車で45分かかる。マックなんて1時間だ。

 家と畑と田んぼ。山と川。本当にそれしかない。村(市町村合併で住所は市だけどついそう呼んでしまう。だっていかにも“村”だから)に住んでる人のほとんどは中年以上で、10代以下はわたしと弟とこないだ生まれた赤ん坊の3人だけ。ご近所はみんな同じ苗字だから「停車場の」とか「三本松の」とか昔の住所や特徴で判別する。もちろん全員顔見知り。知らない人や車が来ればすぐに噂になる。絵に描いたような田舎だ。

 だからわたしはここが嫌いだった。こんな何もなくて閉鎖的で野暮ったくてダサいところ、一刻も早く出たかった。都会に憧れがあるわけじゃないけど、とにかくここにいるのが嫌だったのだ。


 村に入ると、途中で道が二又に分かれる。右側の坂を登った1番奥にあるのがウチ。その向こうは山しかない。

 だけど、5年くらい前から、その山の中に住んでいる男のひとたちがいる。人口は減る一方で増えるのは子供が生まれたときくらいしかない村だから、そのひとたちが引っ越してきたときはかなり大きな話題になった。なにか良からぬことをするつもりなんじゃないかと根拠のない噂をする老人も多かった。

 わたしがその男のひとを見たのは、彼らが引っ越してきて3日後。わざわざ村の家を一軒一軒回って、引越しの挨拶に来たのだ。

『初めまして。ご挨拶が遅くなり申し訳ありません。先日、この道の先に引っ越して来ました、降谷と申します』

 すごくきれいなひとだった。年齢はたぶん40代くらいで、肌がつやつやした小麦色で、田舎では見たことがないきれいな金髪で、村どころか市内でも滅多にお目にかかれないような整った顔立ちをしていた。最初は外国人かと思ったけど、喋り方に訛りはまったくないからもしかしたらハーフなのかもと、ハーフに会ったことがないわたしはひそかに心躍らせた。

『つまらないものですが』と差し出された菓子折りは、田舎に住んでるわたしですら知ってるような有名銘菓で、うちの周りでは手に入らないものだった。母は菓子折りに目を輝かせていたけど、わたしはその男のひとに釘付けだった。

 すっごく美人なのに、物腰が柔らかくて笑顔が優しくて、動きや言葉が優雅で洗練されていて、TVや映画で見る俳優さんみたいだったから。

『しがない中年ふたりの隠居暮らしですが、皆さまの生活にはあまり干渉しないようにしますので、どうかお気になさらないでくださいね』

 中年なんて言葉がまったく似合わない爽やかな笑顔で、降谷さんは村人たち(の主に女たち)の心を見事に掻っ攫っていったのだった。

 ところで、降谷さんの言う「中年ふたり」のもうひとりは、ほとんど村には姿を見せなかった。噂では「身の丈8尺くらいのでっかいガイジンさんだ」とか「熊みたいに真っ黒くて怖い人だった」とか「降谷さんはさる高貴な身分のお方で、おっかないボディガードがついてるんだ」とか聞いたけどどうもウソくさい。

 わたしがそのひとに会ったのはそれからしばらく後、山に遊びに行った弟を探しに行ったときだった。

 弟には少し発達障害がある。だからじっとしていられなくなると、勝手にひとりで外に出てしまう。その日はたまたま家にわたしと弟しかいなくて、夕方になってまた弟がいなくなっていることに気づき、仕方なく探しに出かけたのだ。

 とはいえ、弟の行き先はいつも大体同じ。山の中に流れている小川だ。弟は川の流れを見るのが好きで、よくそこの川原にある大きな石の上に座り込んでじっと川を眺めている。

 その日もいつもと同じように川原にいた。

 いつもと違ったのは、弟の隣に全身真っ黒な背の高い男のひとが立っていたことだった。

 びっくりして一瞬警戒したけど、振り返ったそのひとの顔を見たらすぐにわかった。このひとが、降谷さんと一緒に暮らしているひとなんだろうと。

 なんとなく、纏っている雰囲気が似ていたから。

『…君は、彼の知り合い?』

 そのひとは降谷さんよりだいぶ年上で、とても顔が整っていて、ちょっと目付きが鋭くて怖いけど、すごく渋くてかっこいいひとだった。おまけに声も渋くてかっこいいし、筋肉がしっかりついた身体付きは海外のモデルみたい。髪に白いものが混じっているけど、白髪というよりグレイヘアって感じがしてそれすらかっこいい。太鼓腹でハゲた村のおじさんたちとは大違いだ。わたしは馬鹿みたいにドキドキして、頷くことしか出来なかった。

『もしかして、お姉さんかな?』

『やはりそうか。顔が似ていたから。彼を迎えに来てくれたんだな』

『もうじき陽が落ちる。早く帰った方がいい』

 こくこくと頷いて、川をじっと見つめている弟の手を無理矢理引っ張って立たせる。でもこのままこの場を去るのが惜しくて、勇気を出して顔を上げた。

『あのっ…』

 近くで見ると、そのひとは不思議な色の眼をしていた。たぶん、初夏の新緑のような深い翠色。

『ありがとうございました…!』

 なんに対するお礼なのか自分でもよくわかってなかったけど、そのひとはふわりと微笑んでくれた。それがまた優しくて人懐っこくて、わたしは顔を真っ赤にして足早にその場を立ち去った。弟が大人しくしてて良かった。



 それからも、ごくたまに彼らふたりを見かけることはあったが、交流することはなかった。降谷さんが挨拶のときに言った通り、彼らは村とは距離を置いてほとんど干渉しないで生活していた。

 最初はあることないこと噂していた村人たちも、害はないとわかったのかそのうちふたりのことを気にしなくなっていった。

 たぶん、降谷さんとあの黒ずくめの男のひとは、都会から来たんだろうと思う。わたしの周りでは絶対にいなかったタイプだし、あのふたりにしかない独特のヒリヒリした雰囲気みたいなものがあった。

 村のみんなは、降谷さんはイケメンで優しくていいひとだけどもう1人はちょっと無愛想で怖いわね、なんて話してたけど、黒ずくめのひともいいひとだとわたしにはわかる。あんな時間に山の中にいた弟を放っておけなくて一緒にいてくれたんだから。

 わたしはと言えば、県外の大学を目指して成績を上げることに四苦八苦している傍らで、たまに彼らのことを思い出していた。男ふたりで暮らしているということは結婚していないのか、仕事はしてないみたいだけどどうやって稼いでいるのか、どこから来たのか、今まで何をしていたのか、何故こんな田舎に引っ越してきたのか。

 考えすぎたおかげで、彼らふたりの過去を勝手に想像して作った設定ノートは3冊目だ。勉強の息抜きの域を超えてる自覚はあるが、楽しいんだから仕方ない。

(ちなみに最近は、ふたりはそれぞれ違う国のスパイで、悪い組織に潜入しているときに出会って意気投合するんだけどスパイだからなかなか相手に心を許せなくて、数十年経ってスパイであることから解放されてようやく本来の姿で一緒にいることができるようになった、という設定にハマってる。なかなかいいでしょ?)


 そして、彼らがうちの村にやって来て、5年目の秋を迎えた。


 *


 弟の脱走癖は、弟が中学校に上がっても治らなかった。

 仕方なく、うちの玄関は内側からも鍵がないと開けられないようになった。1つ目の鍵で玄関の外から鍵を開け、中に入って扉を閉めたら、2つ目の鍵で中から鍵をかける。家を出るときはその逆。正直とても面倒くさいが、弟を脱走させないためなので仕方ない。

 この日、わたしはとても疲れていた。嫌いな数学で抜き打ち小テスト、5限は体育で苦手なバスケ、おまけに土砂降りの中カッパ姿で自転車を漕いで帰宅。家に着く頃にはへとへとで、顔と下半身は雨でびしょ濡れだし、カッパの中は蒸れて気持ち悪いし、とにかくお風呂に入りたかった。

 玄関にあったのは弟の靴のみ。父が仕事でいないのはいつもだけど、珍しく母もいなかった。そういえば今日はおばあちゃんの家に泊まるんだっけと思い出しながら、カッパを脱ぎ捨てカバンを自室に放り込みお風呂場へ直行する。

 母に急かされないのをいいことに、久しぶりにゆっくりお湯に浸かった。いつの間にか雨は上がったようで、窓の外から鈴虫の鳴き声が聞こえてくる。

 久しぶりの長風呂でいい気分のわたしは、鼻歌を歌いながらドライヤーでしっかり髪を乾かした。田舎者でも髪を濡れたままにしておいてはいけないことは知ってる。

 冷蔵庫から麦茶を取り出すときに、夕飯用のサラダがラップして入れてあるのが見え、お腹がきゅうっと鳴った。そうだ弟を呼んで夕飯にしよう、そう考えた瞬間、違和感に気づく。

 わたし以外の、人の気配がない。

 弟はTVっ子で、学校から帰った後はずっとTVを見ている。たしか、わたしが帰ってきたときはリビングから夕方のニュース番組の音が聞こえたと思う。

 なのに今は、何の音もない。リビングには誰もいない。テーブルの上にリモコンと、飲みかけの麦茶が入ったコップが置いてあるだけ。

 嫌な予感がした。

(わたし…中の鍵、かけたっけ…?)

 慌てて玄関に走る。そこにあったのはわたしの泥まみれのスニーカーだけ。恐る恐るドアノブに手を伸ばす。ゆっくりと回すと、何の抵抗もなく扉が開いた。

(うそ…ッ!)

 大きく開いた扉の向こうには、弟はおろか誰の姿もなかった。



 太陽はとっくに山の向こうに沈んでいる。

 ただでさえ民家も街灯も少ない村だから夜は真っ暗だけど、それ以上に山の中は闇だった。川へと続く獣道を、ケータイのライトだけを頼りに進んでいく。雨露で濡れた草をかき分けながら歩いているので、せっかくお風呂に入った身体はまたびしょ濡れ泥だらけだ。でもそんなこと気にしていられなかった。

 どうせまたいつものあの場所だろうというほのかな期待と、あの場所にいなかったらどうしようという大きな不安。

 そして、悪い予感が的中した。

「なんで…いないのよぉ…」

 雨の後で水量が増えた川の周りには、誰もいなかった。弟がいつも座っていたお気に入りの石は半分以上が濁った水に浸かっていて、もはやそこは小川とは言えないくらいの太さと水流になっていた。

(どうしよう…ここにいないってことは、どこを探せば…山の中なんてここ以外行ったことないのに…もし、川に流されてたら…)

 嫌な想像が次々と浮かんでくる。探しに行かなきゃと焦るのに足が動かない。

 不安と、それ以上の恐怖で、全身が震える。ごうごうと唸りを上げる川の流れ。そんな場合じゃないのに、勝手に涙が出てくる。

(わたしの所為だ…わたしがちゃんと鍵かけなかったから…わたしの所為で…)


「どうしたんだい、こんな時間に」


 突然、背後から掛けられた男の声にビクッとして振り返る。

 この状況にまるで似つかわしくない優しい声の主は、降谷さんだった。

「君、坂上のお宅の子だよね?名前は確か…」

 降谷さんは、夜の闇のなかにいてもまるで月の光を浴びてるかのようにほんのり輝いて見えた。あたたかい声で、ふわりと微笑みながら近づいてくる彼は、わたしにとってはまさに救世主だった。

 思わず、駆け寄って降谷さんに縋り付く。

「助けて…助けてください!」

「何があった?」

「弟が、いなくなっちゃった…ひとりでどこかに行っちゃった…!」

 弟に障害があること、脱走癖があること、両親は今はいないこと。泣きながらの説明は支離滅裂だったけど、降谷さんはすぐに察してくれたようだ。頷いて懐からケータイを取り出す。

「分かった。まずは村の人たちと、警察にも連絡した方がいいな。ご両親にも早く帰ってきてもらえないか確認して…」

「村の人には言わないで…!うちの弟、知恵遅れだってみんなに嫌われてるの。村に迷惑をかけたら、今よりもっと居づらくなっちゃうから…」

「…ご両親は?」

「父も…弟のこと嫌ってて…母は祖母の介護で疲れてて…これ以上迷惑かけられないよ…」

 涙ながらのわたしの言葉に、降谷さんは押し黙った。もしかして可哀想なうちだと思われたのかもしれない。

 でも、今のわたしには、頼れるのは降谷さんしかいないのだ。

 わたしは降谷さんに掴みかかり、パーカーをぎゅっと握りしめた。

「お願い降谷さん。弟を…ヒロを探してください!」

 降谷さんが驚いたように目をまんまるにした。その大きな瞳が潤んで揺れたように見えたのは気のせいだろうか。

「ヒロ…君の弟は、ヒロって言うのか?」

「うん…ひろゆきだから、わたしはヒロって呼んでる…」

 降谷さんはすぐにケータイで電話をかけた。その相手は警察でも村の人でもないようだ。

「赤井?事件だ」

 知らない名前。もしかして降谷さんが一緒に住んでるあのひとだろうか。いつだか、川を眺める弟のそばにいてくれた、すらりとした立ち姿を思い出す。大きくて頼もしい、大人の男のひとだ。

 要点を話しただけで赤井さんというひともすぐに理解してくれたようだった。電話を切った降谷さんは、力強い笑顔で振り返った。

「大丈夫、僕たちに任せて」



 降谷さんは懐中電灯、わたしはケータイのライトで照らしながら、草をかき分け道なき道を進む。何度も呼びかけたヒロの名前はただ虚空に吸い込まれるだけだ。

 ヒロの性格・特徴を降谷さんに説明すると、赤井さんと電話で相談して、「川に沿って探したほうが賢明だろう」という結論になったらしい。わたしは降谷さんと一緒に下流へ、赤井さんは上流へ向かって探すことになった。

「寒いだろう。僕ので悪いけど」

 お風呂上がりでTシャツ姿のままのわたしに、降谷さんは着ていた水色のパーカーを貸してくれた。あったかくていい匂いがするそれは、わたしにはかなり大きくて、手が全部袖の中に隠れてしまう。降谷さんも大人の男のひとなんだって、こんなときなのにちょっとどきどきしてしまった。

 1時間近く経っただろうか。わたしと降谷さんは山を抜け、村の中程まで来ていた。慣れない山の中を歩いて足が棒のようだったけど、「少し休もうか?」という提案には首を横に振った。休んでる場合じゃない。

「ヒロー!どこにいるのー!」

「ヒロ君!迎えに来たよ!出ておいで!」

 途中、降谷さんは何度も赤井さんとイヤホン型のモニターで話をしていた。真剣な、緊張感のある表情で言葉少なに会話していたかと思うと、わたしを振り返って安心させるように微笑む。近くで見ると、その目尻には鳥の足跡のような笑い皺が刻まれていた。もしかしたら、降谷さんは思ったより年上なのかもしれない。

 雨は止んだけど、川はどんどん水嵩を増していく。濁った水が渦を巻き、岩にぶつかって飛沫をあげている。いつの間にか、雲が流れた夜空には星がきらきらと瞬いていた。

「ヒローッ!!返事して…!」

 叫び続けた喉が悲鳴をあげている。川を見ると、つい濁流に飲まれて流されていくヒロの姿を想像してしまう。だめだ。だめだ。こんなところで諦めちゃだめだ。ヒロはわたしが助けるんだ。

 もう一度、ヒロの名前を叫ぼうとした、そのとき。

「待って」

 降谷さんが急に鋭い声を出した。イヤホンの向こうに神経を研ぎ澄ませている。

「…本当か?怪我は?」

 その答えを聞いた降谷さんは、ほっとしたように破顔してわたしに手を差し出した。

「ヒロ君が見つかった。戻ろう。もう少しだけ、歩けるかい?」



 ヒロがいたのは、川の水源地だったそうだ。

 ひとりで真っ暗な山の中をごうごうと唸る川沿いに登って行って、水源まで辿り着いたところで疲れて眠ってしまったのだろう。そこにあった大きな木の根元で寝ていたそうだ。

 わたしは降谷さんに導かれ、山の中にある一軒の平屋に辿り着いた。古いけど、しっかり手入れされた家だとわかる。

「ここ…降谷さんの家なの…?」

「そうだよ。廃屋を格安で買い取ってリフォームしたんだ。赤井とふたりでちょっとずつ」

 裏に畑もあるんだよ、赤井とふたりで一から作ったんだ、と誇らしげに語る降谷さんはどこか子供みたいで、ちょっとかわいいなと思った。大人の男のひとにかわいいなんて思ったのは初めてだ。

 家の中はあたたかかった。障子を開けて灯りのついた居間に入ると、毛布にくるまったヒロが、湯気のたつマグカップを両手で持って座っていた。その隣には、ヒロを守るように大きな男のひとが座っている。赤井さんだ。

「ヒロ…」

 思わず呼びかけると、ヒロがぱっと顔を上げた。

「…あけみ、ちゃ…」

 みるみるうちに、その顔がくしゃくしゃに歪んで涙が溢れ出す。

「あけみちゃぁん!」

「ヒロ…ッ!」

 ずっと我慢していたものが、一気に堰を切って溢れ出した。わたしもヒロも。

 お互いに駆け寄り、きつく抱きしめ合ってふたりして泣いた。ヒロはわんわん泣き喚いていたけど、わたしはなんとか唇を噛み締めて我慢した。そうしないと大声をあげてしまいそうだったから、中学生にしては小柄なからだを強く抱きしめながら心の中で何度も謝った。ごめんね、ヒロ。遅くなってごめん。ひとりにしてごめん。守ってあげられなくてごめん。

 しばらくすると、ようやくヒロの鳴き声が小さくなった。

「君は、あけみと言うのか…」

 ぽつり、呟くように聞こえた声は赤井さんだった。顔を上げると、わたしたちのすぐそばにいて、わたしに目線を合わせて屈んでくれていた。

「良かったな、あけみ」

 降谷さんと同じように目尻には深い笑い皺。澄んだ泉のような深い若緑の瞳を細めて、慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、大きな手でわたしの頭を撫でてくれる。

 その手があまりにあたたかくて、わたしの目からまた涙が溢れ出した。こんなふうに頭を撫でられたのは、弟が生まれる前以来じゃないだろうか。

 ひとしきり泣くと、だいぶ気分がスッキリした。突然のワガママで迷惑をかけたわたしたちを、ふたりは甲斐甲斐しく世話してくれた。降谷さんがホットタオルを用意してくれて、赤井さんがあったかいミルクティーを出してくれて。

「それ飲んだら、おうちまで送っていくよ。お父さんが帰ってくるまでにおうちにいた方がいいだろ?」

 降谷さんも赤井さんもわたしたちのことを怒らなかった。ただ優しく慰めて、受け入れてくれた。

 ヒロはすっかり赤井さんが気に入ったようで、赤井さんの傍から離れようとしなかった。赤井さんも黙ってヒロがいることを許してくれている。ヒロがこんなふうに母とわたし以外に懐くのは初めてで、わたしは嬉しくなった。

 帰りは降谷さんが車で家まで送ってくれた。

「また、おうちに行ってもいいですか?」

 車を降りる前にそう尋ねると、降谷さんは少し困ったように笑った。

「…いいよ。お母さんがOKなら、ね」

 たぶん、母はいい顔はしないだろう。でも、すぐにNoと言われなかったことにわたしは安心した。良かった、拒絶されなくて。

「じゃあおやすみ。ゆっくり休んで」

「はい。本当にありがとうございました」

 遠ざかるテールランプを見送りながら、わたしはあのあたたかい家と、そこにいたふたりの男の人たちを思い出した。

 わたしが嫌いなこの田舎は、あのひとたちが一緒に暮らすのにはちょうどいいんだろう。都会からこんな田舎の、しかも山の中に移住してきたということは、きっとそれ相応の理由があるんだろうから。

 でも、わたしはそれを追求したいとは思わない。むしろ、こんな田舎だからこそあのひとたちがふたりで暮らせるんだと思うと、少しだけここが誇らしくなった。相変わらず好きにはなれないけど。

 隣で同じようにじっと見送っているヒロの顔を見る。中学生になっても勝手に脱走する困った弟だけど、わたしのたったひとりの弟。

「ヒロ」

 振り返ったその表情が少しだけ大人びて見えたのは、今日の出来事のおかげだろうか。

「うちに入ろう」

 ぎゅっとヒロの手を握りしめると、ヒロが微笑んで頷いた。

 降谷さんと赤井さんが助けてくれたこの子を、ちゃんと守らなきゃ。改めて、わたしは自分にそう誓った。



 ***



「ただいま〜」

 ガラガラと引き戸の開く音と共に降谷の声がしたので、赤井は洗い物をカゴに入れ、マグカップをふたつ持って居間へと戻った。

「お疲れ、零」

「ありがと」

 ちゃぶ台に座る降谷の前に湯気のたつカップを置く。山の中を、子供を気にかけながら歩き回ったためか、珍しく疲れの滲んだ表情で降谷はコーヒーを啜った。かく言う赤井も、眠った少年を抱えてぬかるんだ山道を降りたせいで全身に疲労が溜まっているのを感じる。毎日畑仕事をしているからそこまで体力は落ちていないと思っていたが、やはり寄る年波には敵わないようだ。

「赤井もお疲れ様。…夕飯、どうします?」

「そうだな…実はあまり腹が減ってないんだ」

「あは…僕もです。なんだか、胸がいっぱいで」

 両手でマグカップを包み込むように持ち湯気をぼんやりと眺めるのは、降谷が思考しているときの癖だ。若い頃から変わっていないその姿に、赤井は少し懐かしい気持ちになった。

「…あの子たちのことを考えてるんだろ」

 斜め向かいに座る赤井の問いかけに、降谷がマグカップを置いて弱々しく微笑んだ。

「ええ…“あけみさん”と“ヒロ”を、救うことができて良かったなって」

 それは赤井も同じだった。

 なんというサプライズだろう。身を隠すように移り住んだ縁もゆかりもないこの場所で、かつて救えなかった彼女・彼と同じ名を持つ子供たちを助けることになるとは。

 ちゃぶ台の上に投げ出された降谷の右手を、黙って上から握りしめる。かつて銃器を持って共に闘ったその手は、すっかり皺が増えて毎日の畑仕事のせいでガサガサだ。でも、何よりも愛しい人の愛しい手だ。

 指を交差させて同じように皺だらけの赤井の手を握り返してきた降谷は、ブルーグレーの瞳を細めて微笑んだ。

「…でも、不謹慎かもしれないけど、久しぶりにこういう緊張感を味わって、なんていうか…“生きてる”って実感しました。…もう現場なんて二度と出なくていいと思ってたのに」

 例の組織を壊滅に至らしめたのがもう四半世紀も前になる。その後、紆余曲折を経て降谷と赤井は恋人関係を結び、降谷の怪我を切っ掛けにして捜査官を引退、赤井は降谷と共に日本に骨を埋める決断をした。

 それから10年。互いにもう天命を超え、つましい隠居生活も板についてきたと思っていた。朝日と共に目覚め、畑の世話をし、古い家の修繕をしながら自給自足の毎日。代わり映えのないスローライフ。こういうのも悪くないと思っていたが、迷子探しとはいえ人命のかかったスリリングな思いをすると、現役時代を思い出して血が滾るのは赤井も同じだ。

「そうだな…。でも俺は、今の選択が間違っているとは思っていない」

 言いながら、降谷の右親指の付け根にある傷痕をするりとなぞった。深く抉れたそこを止血した日のことは、今でも鮮明に覚えている。未だ身体中に痕が残る傷を、救援が来るまでの間懸命に手当てした日のことを。死ぬな死なないでくれと、何度も祈った日のことを。

 応と答える代わりに、降谷はその手に己の左手を重ねた。

「もちろん、僕もです。あなたと生きて死ぬことが、今の僕の最重要任務ですから」

 向かい合い、互いを見つめ合う。増えた皺と白髪はふたりで連れ添ってきた年輪だ。肌は艶をなくし、筋肉も減り、毎日毎晩否応なしに衰えを感じるが、澄んだブルーグレーとヘーゼルグリーンは変わらず互いだけを見つめている。

 久方ぶりの口付けは、以前よりかさついた唇だったけれど、以前と変わらぬ、互いの心と身体を熱くさせ情欲を呼び起こすものだった。

 穏やかで優しい熱に包まれながら、赤井は祈るようにそっと瞼を閉じた。



The  End.

おふろぎらいのてで井しゅういち。6413words)

 ・主役は降谷さんのおうちにいるテデ井さん(自我あり)

 おれの名前は赤井秀一。

 正確に言えば、赤井秀一というホモ・サピエンスのオスをモデルにつくられた、熊のぬいぐるみだ。いわゆるテディ・ベアと呼ばれる玩具の一種である。

 そう…おれはぬいぐるみだ。ぬいぐるみと言えば一般的には子どもの遊び相手として買い与えられることが多いが、基本的にはモノ、つまり無機物である。使い込んだ玩具には魂や目に見えないナニカが宿ることがあるとも言われているが…おれはじつは生まれたてだ。ヒト、つまり人間の時間軸で言うと1歳である。そしておれは生まれたときから“おれ”としての自我を持っている。理由は不明だ。

 だが、おれは“おれ”という自我があってよかったと思っている。

 何せおれの持ち主ときたら、稀に見る破天荒なニンゲンなのだ。極度の仕事人間でほとんど家にいないし、たまに帰ってきたと思ったら身体中に怪我を負っているし、ごくごくたまに一日中家にいると思ったら山のように料理を作って「食べきれないな…」などとぼやいている。基本的に「やすむ」ということをしないのだ。海に棲んでいる魚類のなかには止まったら死んでしまうという種がいるらしいが、まさにそれのようだ。

 そういうときこそ、おれの出番である。

 おれはテディ・ベア。子どもの遊び相手にも、おとなの癒しにもなれる優秀な玩具だ。

 今夜もまた、帰ってきて服を脱ぎ捨てたままベッドに横になった零くんのもとへ、とことこと駆け寄りぴょんと飛び乗る。

 おっと、すまない。おれの持ち主のことを紹介し忘れていたな。

 降谷零くん。おれのモデルになった赤井秀一と同じ、ホモ・サピエンスのオスだ。褐色の肌とはちみつ色の髪を持つベイビー・フェイスなキュートボーイだが、じつはこの日本という国を護る重要なポストに就いているのだという。どんな組織でどんな仕事をしているかは、少々漢字が多すぎて正確に把握していないが(だっておれはテディ・ベア。由来は英国である)。

 気絶したようにうつ伏せになっている彼の頬を、フェルトと赤茶の毛で覆われた前脚(手、と言ってもいいか)でそっと撫でる。3日ぶりに帰宅した零くんの眼の下には、黒々としたクマが刻まれていた。おれとおなじ名前のくせに、このクマは本当に厄介ものだ。これが出現すればするほど、零くんが疲れているという証拠である。

 おれはこの厄介ものに消えてなくなれと念じながら、零くんの頬や髪を撫で続けた。だいぶかさついてはいるが、それでも陽の光をたっぷり含んだようなきれいな肌と髪。

 しばらくそうしていると、「ん…?」とちいさくうめき声をあげて零くんが目を覚ました。おれの姿を認め、その澄んだ青い瞳をやさしく細める。

「…おはよ、シュウ…」

 挨拶がわりに零くんの鼻におれの鼻を押し当てる。テディ・ベア式のキスだ。おはよう、そしておつかれさま、零くん。

 零くんはくすぐったそうにふふふと笑って、そしておれの頭を撫でた。ニット帽の上から、そしてそこからぴょこんと飛び出ている耳をむにむにと揉み、おれの身体をそっと抱き寄せる。おれの顔に頬擦りする零くんは、瞼を閉じてうっとりとした表情を浮かべている。

「…はぁ…シュウの毛はほんと、やわらかくてきもちいー…」

 そう、彼はおれを“シュウ”と呼ぶ。おれのモデルである赤井秀一からそう名付けてくれたのだ。

 そしておれの赤茶の毛並みをたいへん気に入って「癒されるなあ」と言ってくれる。足裏のフェルト部分も好きらしく、おれを抱いてくれているときは手脚や耳をいつまでもくるくると撫でるのだ。そしておれは、零くんに撫でてもらうのがなかなか悪くないと思っている。

 だから今も、おれは零くんのすべすべの肌に頬擦りし返す。

 あまり家に帰れないからこそ、こうして自宅のベッドで休めるときは、零くんが癒されるように全力でテディ・ベアとしての仕事を全うするのである。

「ねぇ…シュウ…?」

 うとうととして今にも寝そうになりながら、零くんがおれに話しかける。

「…あいつ、ちゃんとごはんたべてるかな…」

 思わず、零くんの頬を撫でる手が止まった。だが零くんは気にすることなく、ぽつぽつと言葉を続ける。

「今日もさ…会議でちょっとやり合っちゃって…いやあいつの言い分もわかるんだけど…」

 零くんがこうやって“あいつ”のことを話すのは、たいてい夢うつつのときだ。普段は決して弱音や愚痴を言わない零くんが、つい吐露してしまう、心の奥底にしまっている本音。

「なんで俺、あんな可愛くない言い方しかできないんだろ…これ以上、きらわれたくないのに…」

 あかい……

 ため息のようにそうつぶやくと、零くんはすうすうと寝息を立て始めた。

 じつは、“赤井秀一”というニンゲンのことを、おれはよく知らない。英国出身で米国籍を持ち、現在は日本にいるFBI特別捜査官であるということはわかっているが、そのほかの情報はほとんど持っていないのだ。容姿だけは、零くんが本の間に挟んでこっそり所持している若い頃の写真で確認したが、まあそれなりに男前であることは認めるが、おれほどではない。

 だから、零くんが何故そこまでニンゲンの“赤井秀一”に心を乱されているのか、よくわかっていないのだ。

 亡くなってしまった大事な同期たちの話をするときすら、クールで理性的なのに。

 だが、おなじ“赤井秀一”でも、おれとやつは違う。やつは零くんを脅かし、おれは零くんを癒す。やつにできないことが、おれには出来るのだ。

 フェルトと毛に覆われた手で、ぎゅっと寄った零くんの眉間を撫でる。すると心なしか零くんの表情がやわらいだ。

 それに喜びと誇らしさを感じながら、おれは今夜も零くんのとなりで彼の休息と安寧を守るのである。





 翌日、8時に飛び起きた零くんは、昨夜のしおらしい姿が嘘だったかのように元気だった。

 シャワーを浴びてさっぱりしたあと、家中の掃除と溜まった洗濯ものを片付け、お昼ご飯もそこそこに作り置きの料理を量産する。せっかくの休日だというのに忙しないが、本人はいたって楽しそうだ。この家に来た当初は休まないで大丈夫なのかと心配したが、これが零くんなりのリフレッシュ方法なのだと理解してからは、コマネズミのように動き回る零くんを可愛いなあと思いながらあたたかく見守っている。

 夕方前に一通り家事を終わらせると、零くんは外へトレーニングに出かけた。小一時間で帰ってきた彼は、何故かびしょ濡れだった。

「公園で筋トレしてたら、近くのベンチで置き引き事件が起きてさー。犯人を捕まえに飛びかかったら噴水に飛び込んじゃった」

 梅雨前とは言え夕刻は気温がぐっと下がる。早く風呂に入って温まるといいと、短い手脚と動かぬ表情を駆使して伝えていると、零くんが「そうだ」と嬉しそうに振り返った。

「お風呂、シュウも一緒に入ろっか」

 おれの時間が、ぴしりと、止まった。



 …自慢じゃないが、おれの赤茶の毛はさらさらふわふわだ。もともとの毛質が上等だし、零くんが定期的にブラッシングしてくれるのでその毛並みはさらに色艶が良くなっていると思う。万一汚れたとしても零くんがすぐきれいにしてくれるから、おれのからだは常に清潔なんだ。

 だから零くん。おれに風呂は不要だ。

「そんなこと言って、シュウ…風呂が苦手なんだろ?」

 ちがう、おれに苦手なものなんかない。ただ、必要のないことできみの手を煩わせたくないだけさ。

「別にいいんだよ?そんな見栄張らなくても」

 見栄なんか張ってない。それにおれの中には綿が詰まってるから、一度濡らすと乾かすのが大変だぞ。きみにそんな苦労は…

「大丈夫!君を乾かすのもブラッシングするのも好きだから」

 いやしかしだな、零くん…

「お風呂入ってぴかぴかにしたら、もっと男前になっちゃうだろうね〜」

 …いや、それはそうだが、零く…

「だから、一緒にお風呂はいろ?ね?」

 …誰よりもたいせつなひとから、上目遣いで可愛らしく小首を傾げて「ね?」とおねだりされて、断れるおとこがいるだろうか(いやいない)。

 かくしておれは、あっという間に服を剥ぎ取られ、赤茶の毛に覆われた裸体を晒しながら、零くんに連れられてバスルームへやって来たのだった。



「はー、気持ちよかったぁー」

 頬を上気させタオルで頭をがしがし拭きながら、零くんがコップの水をぐびぐびと飲んだ。ぷはーと心底気持ちよさそうな溜息をついて、すっきりしたような満面の笑みで振り返る。

「ね?シュウも気持ちよかったろ?」

 ダイニングテーブルの上でバスタオルにくるまったおれは、YESとも NOとも言えずただ項垂れていた。

 …おれのなかではいま、最悪と最高が同居して大喧嘩しているところなのだ。風呂でたっぷり湯を吸ったからだが重くて最悪、ふわふわだった赤茶の毛がじっとり濡れて不快、だけど零くんにからだを洗ってもらったのは気持ちよかったし零くんがとても楽しそうでうれしそうなのは最高。

 水を飲み干した零くんはおれを抱き上げ、鼻歌を歌いながら寝室へと向かった。ベッドに腰掛け、おれの濡れた顔やからだをタオルでやさしく拭く。

「ふふ…お風呂嫌いなのによく頑張ったね、シュウ」

 …嫌いじゃない、あまり好まないだけだ。

「…そうだね?でも偉かったよ」

 そう言って、零くんはおれの頭のてっぺんにちゅっとキスしてくれた。…まあ、そこそこ気持ちよかったし、零くんがそんなに喜んでくれるなら風呂も悪くないかもな…年に1回くらいは。

 タオルドライのあとはドライヤーだ。熱すぎない温風を当てながら、零くんがやさしく手櫛で毛を整えてくれる。うん、これはいい。なかの綿からどんどん水分が抜けてからだが軽くなっていくのもなかなか快感だ。これを味わえるならたまには風呂に入ってもいいかもな…半年に1回くらいは。

 たっぷり時間をかけて丁寧に乾かしてもらったおれは、すっかり上機嫌だ。自慢の赤茶の毛はますますふわさらつやつやだし、零くんにたくさん触ってもらってうれしいし、なんだか前よりからだが軽くなった気がする。

 零くんが出してくれた新しい服とニット帽を身につけると、もはや生まれ変わった気分だった。

「シュウ、男前度が上がったね。かっこいい」

 今度は自分の髪をドライヤーでガシガシ乾かしながら、零くんが笑う。おれの毛はあんなに丁寧に乾かしてくれたのに、自分のはなんて適当なんだ。零くんのはちみつ色の毛もさらさらできれいなのに。

 …もしおれがテディベアじゃなくホモ・サピエンスの赤井秀一だったら、零くんがおれにやってくれたように、零くんの髪をやさしく乾かしてあげられるのかな。

 と、テーブル上にあった対ニンゲン用携帯通信端末(すまーとほんというものだ)がブーッと音を立てて震えた。気づいた零くんがドライヤーを止めて端末を見た瞬間、その顔がサッと赤くなる。

「…赤井…?うそ、なんで…」

 着信の相手は、まさかの赤井秀一らしい。端末を手にした零くんは、そのままブーブー鳴り続けるそれを見つめていた。出ようか出まいか迷っているようだ。

 零くんのもとへきて1年、こんなことははじめてだった。赤井秀一から連絡がくるも、零くんがどうしようとオロオロするのも。

 だがおれは、この1年ずっと零くんのそばで零くんを見てきた。だからわかるのだ。いま、おれは何をすべきなのか。

 おれは零くんの肩によじ登り、通話ボタンの上でうろうろするの零くんの右手をえいっと押した。

 プッ

「あっちょっシュウ…!」

『…降谷くん?』

 端末から聞こえる、落ち着いた男の声。それにはっとした零くんは、慌てて端末を耳に当てて姿勢を正した。

「あ、赤井…っ!」

「…いえお風呂から上がってドライヤーしてたところで…!」

「いえっ全然!全く問題ないです…!」

 向こうの声は聞こえなくなったが、零くんの言葉と態度から、「今大丈夫か」と気遣われているのだとわかる。相手の様子から状況を慮り伺いを立てるとは、赤井秀一なかなかやるな。

 と、零くんがまるい眼をさらに大きく見開いた。

「…は?僕に?見せたいもの…?いま…?」

「えっビデオ通話!?いま!?」

「いやちょ、待っ…!」

 零くんの静止も虚しく、赤井秀一はビデオ通話に変えたらしい。全く、なんて強引なやつだ。さっき誉めたのは取り消しだ。

 慌ててビデオ通話に切り替えた零くんは、画面を見た途端驚きのあまりあんぐりと口を開けた。

『…見てくれ』

 どこか神妙な相手の声に、おれも思わず端末の画面を覗き込む。

 そこにいたのは、赤井秀一だった。零くんの持っている写真より髪が短くて少し老けているようだが。

 いやそんなことはどうでもいい。おれは、赤井秀一の胸元に抱かれているものに、一瞬で目を奪われた。

 それは、テディベアだった。おれとおなじ、テディベア。全身がミルクティホワイトの毛に覆われ、足裏のフェルトはベージュ。零くんのと似たようなグレーのスーツのお尻部分には穴が空いており、ぴょこんと尻尾が飛び出ている。

 そしてそのテディベアは、赤井秀一の胸元に埋めていた顔をくるりとこちらに向けた。

 そう…おれとおなじように、自我のあるテディベアなのだ。

 だがおれが驚いたのはそれだけではない。彼はーー仮にこのテディベアがオスだと仮定しての呼び方だがーー、とてもきれいなブルーグレーの瞳をしていたのである。

 まるで、零くんとおなじ色の。

「それ…って…まさか」

 零くんが信じられないという声でつぶやいていたが、おれもおなじ気持ちだった。

 おれとおなじように自我を持ったテディベアが…しかも零くんそっくりのテディベアがいるなんて。

 おれは端末の画面がもっと良く見えるように零くんの腕によじ登った。すると、画面の中の赤井秀一が驚いたように眼を丸くする。

『降谷くん、まさか、それは…』

 どうやらおれの姿を見つけてしまったらしい。画面の中のテディベアも、おれを見て心なしか表情が輝いた気がする。

 だが、2体目の動くテディベアを見ても赤井秀一は冷静だった。『なるほど』と手を顎に当て数秒考え込み、すぐさま口を開く。

『どうやらこれはきみのところにいるそれと同種のようだ。ものは相談だが、これからきみのところへ行ってもいいだろうか』

「…はっ!?今から!?」

 赤井秀一の申し出に、零くんは動揺を隠しきれない。だが赤井秀一は続けて、

『ああ。これがなんなのか、きみにいろいろ聞きたいんだ。風呂上がりに申し訳ないが…駄目か?』

 駄目押しとばかりに、少し困ったように眉をひそめる。こいつは、そうしたら零くんが断れないことを知ってやっているのだ。

 案の定零くんは、渋々といった様子で(だが内心のうれしさを隠しきれない様子で)頷いた。

「…し、仕方ないですね!ただし手ぶらじゃ追い返しますよ」

『当然だ。上物の酒を持って行こう』

 楽しそうに微笑んだ赤井秀一は『30分で着く』と言って通話を切った。

 …なんということだ。零くんにとって久しぶりの貴重な休日だったのに、この怒涛の展開。

 おれの綿が詰まっているだけのからだが、熱くなってどきどきと脈打つような気さえしてくる。

 おなじようにどきどきしているだろう零くんは、ブラックアウトした端末を見つめながら呆然と呟いた。

「…部屋、掃除しておいてよかった…」


 ーーおれも、いまばかりは心底思うよ…風呂に入ってきれいにしてもらってよかった、とな。



 そしておれたちはたっぷり5分は呆けた後我に返り、慌ただしくふたりを迎えるための準備をはじめたのだった。




つづく…かも?

プロポーズ大作戦!5512words)

 ・こじれにこじれるプロポーズ話

「赤井、僕と結婚しろ」


 唐突だった。

 唐突すぎて、不可解すぎて、つい語調が強くなる。

「は?急にどうした」

「いいから、結婚しろ。はいって言え」

「…いやだ」

「なんでだよ!」

「きみこそなんなんだ。いくら付き合ってるからって、男同士で結婚なんかできるわけないだろう」

「…あなたまで、そんなこと言うんですね」

「どういう意味だ」

「もういい」

 それきり、降谷は口を閉ざした。

 折しも赤井のスマホに緊急呼び出しがかかり、どこか思い詰めた様子の降谷が気になりつつも、赤井はジャケットを羽織り家を出た。

 バタン、と無情に閉じられた扉を見ながら、降谷はぽつ、と呟く。

「…赤井のばかやろう」





「は?結婚!?」

 赤井にしては大変珍しい素っ頓狂な声と大仰なリアクションに、ジョディは驚いて目を瞠った。

 ランチを終え、デスクでコーヒーを飲んでいたときだった。

「何よ、そんなに驚くこと?」

「おどっ、…ろくに決まってるだろう…あの降谷くんが結婚?何かの間違いじゃないか」

「それはなさそうよ。カザミから聞いた話だし。お相手は警察庁のお偉方のお嬢さんですって。まあ、政略結婚てやつじゃない?」

 あの男の奥さんなんて息が詰まりそうよねー、とジョディは他人事のように暢気だ。いや実際他人事だし、赤井にとってもそうだと思っている。なぜなら、赤井と降谷の交際は他の誰も知らないのだから。

 例の組織が壊滅してしばらく、組織の残党狩りも落ち着いてきた頃だった。こういうことは曖昧にしたくないので、と降谷から提案され、ふたりは恋人という関係に落ち着いた。だが同時に、関係を決して公にしないようにしましょう、と言い出したのも降谷だ。日本はまだ同性同士の交際には偏見が強いし、ましてや警察は古い体質なので、と。

 その降谷が、赤井に黙って他の女と結婚とは。

(…まさか、あのときの)

『結婚しろ』と、理由もなしに言ってきたあの日。やけに思いつめた表情をしていた。あれ以来、降谷とは顔を合わせていない。連絡もない。

(もしやあれが、彼からの不器用なアピールだったのか)

 もしくは、SOS。

 呼び出しでバタついたとはいえ、彼の真意を問い質さなかったのは赤井の落ち度だ。降谷零という男の生真面目さを思えば、あの言葉の裏に多大な感情が隠されていると分かるのに。

 いても立ってもいられず、赤井はジョディを残して降谷の元へと向かった。



 降谷はあっさりと捕まった。そして、赤井の問いにあっさりと頷いた。

「とても良い方なんですよ。政略結婚であると納得済みで、必要最低限のこと以外はお互いに干渉しない契約です。書類上は婚姻関係を結ぶし必要があれば子供も作るけど、それ以外は何をしても自由。趣味や仕事、もちろん愛人を作ることも」

「子供だと」

「跡取りが必要でしょう。日本人は血縁にこだわりますから」

 降谷が目を細めて微笑んだ。

「だから、別れましょう」

 思わず、赤井は絶句した。降谷の言葉がふわふわと耳を通り抜ける。あの夜以上に、不可解だった、目の前の恋人が。

「僕はね、赤井。まだまだ上に行きたいんです。この国を守るために。そのために必要なら愛してもいない女と結婚するし、子供だって作るし、あなたを切り捨てる。そう決めたんですよ」

「だめだ、そんなこと…どうしてきみが」

 何を言えばいいのかわからなかった。何をしたいのかもわからなかった。ただただ、赤井は混乱した。降谷の真意が見えなくて。

「きみの本当の望みは何だ」

 降谷の笑顔は、美しく、哀しかった。

「この国のしあわせを」



 もし。

 考えても詮無いことだけれど、もし、を考えてしまう。

 もしあのとき、赤井がYESと言ったら。

 あるいは、どうしてそんなことを言うんだと冷静に確認できたら。

 彼はまだ、俺の隣で明るい笑顔を見せてくれていたんだろうか。

 降谷の第一義はこの国だ。それは重々承知しているし、そういう彼だからこそ赤井は惹かれた。共に闘い共に笑い、彼の隣で眠る幸せを1日1日積み重ねて行けたら。

 周囲に関係を明かせないことは不満だったが、この閉鎖的な国では仕方ないと納得した。ふたりの認識においてすれ違いが起きなければいいだけだし、起きるわけないと思っていたのだ。

 だが、すれ違いは起きてしまった。

(俺は、なんてことを)

 覆水盆に返らずだ。ジョディにまで話が伝わっているということは、もう婚約は成ったのだろう。もう、どうしようもできない。

(…本当に、もうどうしようもできないのか?)

 ぎゅう、とニット帽を握りしめる。前を見据えるその眼には、強い意志の光が宿っていた。



 次の日から、赤井の猛攻が始まった。

「降谷くん、食事でもどうだ。赤坂の三つ星フレンチの予約が取れたんだが」

「久しぶりに東都水族館に行かないか。思い出の観覧車に乗ってみよう。上じゃなくて中に」

「夜景を見に行くのはどうだろう。ベルツリータワーか東都タワーか。きみが守っている街の灯をふたりで見よう」

 とまあ、毎日のようにやって来てはあの手この手で降谷を誘う。もちろん、降谷の返答は一択だ。

「お断りします」

「まあそう言わずに。付き合ってた頃はデートも満足に出来なかっただろ」

「そうやってさりげなく機密事項を暴露するのやめてもらえませんか。風見がすごい顔になってる」

「面白い顔だ。『時●じかけのオレ●ジ』の洗脳シーンみたいだな」

「いや、どちらかと言うとに●かせんべいでしょう」

「よし、じゃあふたりで映画を見ながらに●かせんべいを食べよう」

「お断りします」

 一事が万事こうである。最初は目を白黒させていた風見たちも次第に慣れ、「どうでもいいから他所でやってください」とあしらう始末だ。

 今日も今日とて赤井は朝から口説きに現れて、つい今しがたジョディが回収してくれたところだった。はあ、と重い溜息をつくと、風見が報告書を差し出してきた。

「お疲れ様です。これを」

「ああ」

「しぶといですね、赤井捜査官も」

「すまない、君たちにも迷惑をかけて。だが、明日が済めばやつも諦めるだろう」

「ああ、明日でしたね、結納」

「僕に親族はいないから向こうのご家族と会うだけだがな。うん、よく出来てる。問題ない」

「ありがとうございます。ところで降谷さん」

「なんだ」

 書類を受け取り、風見はこっそり姿勢を正した。

「私は公務員ですが、公務を離れたところでは個人の意思や思想があって然るべきと考えております。もちろん、社会規範の範囲内でですが」

「…そうだな」

「私個人の感想ですが、あの人と一緒にいる降谷さんはいつも生き生きとしてました。いがみ合っている時でさえどこか楽しそうで。常に神経を張り詰めているあなたが素を曝け出せるのは、きっとあの人の前だけなのだろうと思います。あの人との関係を断つのは、あなた個人にとってはデメリットの方が大きいかと」

「風見」

 鋭く重い一声に、風見は口を閉ざした。皆まで言わずともわかった。降谷はもう、肚を決めたのだと。

「すみません。差し出がましいことを申しました」

「いいんだ。…君の言うことは正しい」

 風見は驚いた。この美しい男の鉄壁の仮面が揺らぐのを初めて見たから。

「でも、僕にとって正しいことがこの国にとって正しいとは限らないんだよ」





 翌日は快晴だった。

 さすがは警察官僚の家だけあり、略式とはいえ結納は都内の高級ホテルのレストランで行われることになっている。ホテルに向かって車を走らせながら、降谷はぼんやりと考えた。

 別に、降谷だって赤井と結婚がしたかったわけではない。婚姻は紙切れ一枚の契約だし、そもそも男同士だからできないのは分かってる(パートナーシップ制度は婚姻とは違い国に認められることにはならないし、降谷の住んでいる自治体ではまだ導入されていない)。

 それでも赤井にああ言ったのは、それ相応の覚悟を持ってこの先の人生を共に歩んで行く気はあるかと問いたかったからだ。

 降谷には、その覚悟があったから。

 そしてもし同じ気持ちならば、赤井にこう告げたかった。

『上に交際申告書を提出します。僕の生涯のパートナーは赤井秀一だけだと、宣言します。いいですか?』

 赤井ならば、もちろんOKだと言って笑ってくれるに違いないと思っていた。

 だが、それは降谷の驕りだったのだと今ならわかる。

(好奇と偏見の目にあいつを晒す前に気付けて良かったんだ)

 別れを告げて数日、何故か赤井は降谷にしつこくアプローチを仕掛けてきたが、きっと急な別れに納得できないだけだろうと思った。男女問わずモテるあいつのことだから、ほとぼりが冷めればすぐに新しい恋人を見つけるだろう。

(それまで、なんとか逃げ切らなければ)

 心臓を引き絞られるような痛みには気づかないふりをして、降谷は駐車場に車を停めエンジンを切った。もう、赤井のことは考えない。今日の結納を以って婚約は正式なものになる。もう後戻りはできないのだ。

 車から降りると、ホテルの入り口に人だかりができているのが見えた。何やらざわついて若い女性の黄色い声も聞こえる。

 芸能人でもいるのだろうか、と気にせず近づくと、視界によく見知った車が映った。

 真っ赤なボディに白いライン、アメリカ車らしい大きさとスポーティな形はこの国ではあまり見かけない。

 その助手席側のドアに寄り掛かるように、長身の男が立っていた。ブラックシャツ、シルバーのレジメンタルタイにチャコールグレーのスリーピースはともすればやくざ者に見えなくもないが、スーツの仕立ての良さと、着ている男のスタイルの良さと佇まいのおかげでまるでハリウッドセレブかのように見える。周囲の野次馬が勘違いするのも無理はない。

 降谷は足を止めた。何故、この男がここにいるのか。しかも、かつて「俺に似合うスーツを選んで欲しい」と言われて降谷が見繕ったアルマーニを着て、トレードマークのニット帽ではなく美容院でセットしてもらったかのようなすっきり小綺麗な髪型をして、真っ赤な薔薇の大きな花束を小脇に抱えて。

「あ、かい…?」

 思わずこぼれた小さな声を、男は聞き逃さなかった。くるりと振り返り、降谷の姿を認めると、すっくと姿勢を正す。

「待っていたよ、降谷くん」

 赤井がどこか緊張した面持ちで微笑んだ。

 降谷はその場に縫い付けられたかのように動けない。

「な、んで…」

「俺のNOCがな、今日がラストチャンスだと教えてくれた。だから、最後の賭けに出ることにしたんだ」

 目の前に、ばさり、と花束を差し出された。中心に一輪の白薔薇、そしてそれを囲うように無数の真っ赤な薔薇。むせ返るような甘い香りが鼻腔をくすぐる。

 赤井は、まるで挑発するように降谷を見た。

「降谷零くん。俺と結婚しろ」

 息が止まった。心臓を、射抜かれた気がした。

「この国で俺たちの関係を続けていくのは大変かもしれない。差別や偏見もあるし、下手をしたらきみの昇進にも響くだろう。この国を守るというきみの正義の妨げになることもあるかもしれない。

 それでも俺は、きみの隣にいたい。この先の未来を、きみと一緒に創っていきたいんだ」

 不意に涙が滲んで降谷は顔を伏せた。あの時言いたかった、聞きたかった言葉だ。でもいまは、それを素直に受け止めることはできない。

「…男同士で、結婚できるわけ、ないでしょう…」

「うん、そうだな。俺もそう言った。でも、将来を誓い合うことが結婚なら、書類上の契約がなくたって出来る」

「…ぼくは、この国のために、生きるんですよ…あなたのためじゃなくて」

「それでいい。俺は自分のために生きるから。きみの隣で、ずっと」

「…あなたね…ほんと、ばかなんだから」

 降谷が一歩、赤井に向かって足を踏み出した。微かに震える両腕を伸ばし、花束をそっと受け取る。

 白薔薇の花言葉は、「私はあなたにふさわしい」、50本の真紅の薔薇は「永遠にあなたを愛しています」。その意味を、降谷は正確に理解した。

 だから、あのときと違い、心の底からの望みを託して。

「赤井、もう一度言う。…僕と結婚しよう」

 降谷の笑顔は、美しく、見たことがないくらい無垢で純粋だった。

 だから、赤井も同じように笑い返した。

「もちろんOKだ、零」



 周囲の野次馬から大きな拍手が起こった。

 さすがに衆人環視の中のプロポーズは目立ちすぎた。もし動画や写真を撮られていたら消してもらうようお願いしなければ、と慌てて振り返る。

 と、野次馬の中に見知った顔を見つけて、降谷ははっと息を呑んだ。

 花束を赤井に託して慌てて駆け寄ると、婚約するはずだった女性はどこか嬉しそうな笑みを浮かべ、その父親である上司は呆れて苦虫を噛み潰したような表情をしている。

「…降谷」

「局長…あの」

 謝罪しなければ、と思うが頭が思うように働かない。と、上司が「もういい」と降谷を制止した。

「…あとでちゃんと、申告書を出しなさい。いいね?」

「…はいっ!」





 祝福ムードの野次馬たちのなかで1人、周囲に厳しい視線を走らせている男がいた。

 眼鏡と眉毛が特徴的なその男は、スマホでその光景を撮影している野次馬たちひとりひとりに「申し訳ないのですが、特殊な身分の人たちなので動画は消してもらえませんか」とこっそり頭を下げていたという…





おわり

てでいとれい(7530words)

 ・赤井そっくりテディベアを買っちゃった降谷さん

 ・テデ井さん発売記念で書きました

 たぶん、ほんの出来心だったのだ。

 その日はとても珍しく定時に退庁できて、珍しく寄り道をして帰ろうと思い立った。いつもは行かないエリアのたまたま通りがかった路地裏に寂れた雑貨屋を見つけ、なんとなく中に入って、なんとなく見渡した棚の上段右端にあったそれがたまたま目に留まった。

 普段だったら見て見ぬ振りをするだろうが、久方ぶりの定時退庁に浮かれていたのだろう、それが、棚の端っこで居心地悪そうに肩をすくめているように見えてしまい、目が離せなくなった。

 赤茶のやわらかそうな毛で覆われた、黒い服と黒い帽子を身に付けているそれは、高さ20センチほどのテディベアだった。

「気になりますか、それ」

 不意に声をかけられ、降谷は振り返った。こじんまりとした店の奥のカウンターには、小さな丸眼鏡をかけた老人がちょこんと座っている。

「なかなかいいでしょ、そのテディベア」

「ええ…珍しい色ですね」

「だいぶ前に仕入れたんだけど、なかなか買い手がつかなくてね。誰にも見向きもされなかったんだが、久しぶりにあなたに見つけてもらえてそいつも喜んでるようだ」

 なんだかうれしそうに笑顔で語る老人に、降谷は内心苦笑した。

 しまった、売れ残りを押し付けられるカモと思われたか。

「いえ、ちょっと知り合いに似てるなって思っただけですから」

 拒絶していると思われないよう、なるべく和やかな声色で対応する。これは早々に理由をつけて退散した方がいいかもしれない。

 だが降谷の言葉に、老人は興味をそそられたようだ。

「ほう、知り合いに。どんな所が?」

 問われ、改めて棚に置かれたテディベアを観察する。黒い服は、よく見れば濃紺のシャツとライダースジャケットだ。ジャケットのレザーは古びているがまだ艶がある。ご丁寧にダークグレーのズボンも履いている。頭にかぶっているのは黒いニット帽で、赤茶の丸い耳が帽子からぴょこんと飛び出していた。そして顔には、翡翠のような鮮やかな翠の丸い石がふたつ、眼としてつけられている。

 そのすべてのパーツがまるで“彼”と同じで、なんと説明したらいいか迷った挙句、降谷は「…雰囲気、ですかね?」と曖昧に答えるにとどめた。

 見れば見るほど、そのテディベアは“彼”を彷彿とさせた。殺したいほど憎んでいた男。何の因果か例の組織を壊滅すべく共闘することになった男。ずっと降谷の胸の内に、洗っても落ちない染みのように、あるいはじわじわと浸食する病魔のように巣食っている男。

「よかったら、連れて行ってくれないか」

 老人のことばに、はっと我に帰る。老人は穏やかに微笑んでいた。

「あなたなら、そいつも喜ぶだろう」

「いや、それは…」

 言いかけて、口をつぐんだ。老人の眼が、あまりに真摯だったから。

 降谷は改めてテディベアを見、そっと手を伸ばした。赤茶の毛は見た目以上にやわらかい。ふわふわとしてとても肌に馴染む。耳や頬を撫でると、その感触に心が穏やかになっていくように感じた。

「…そう、ですね」

 考えるより前に、口から言葉が出ていた。

「この子、買います」



 そんな経緯で、赤茶の毛をしたテディベアが降谷の家に来ることになったのだった。

(いやっ別にあいつに似てるからとかじゃないから!手触りがものすごく気持ちよくて癒されるから!それだけ!)

 ハロはあまり見たことがないであろうぬいぐるみの存在をすぐに受け入れた。一応はハロではなく主人のものだと理解できているらしく、匂いは嗅ぐがそれで遊ぶことはしない。

 置き場所は散々迷った挙句、ベッドの枕の横に収まった。寝る前に触ると癒し効果でよく眠れると気付いてしまったからだ。

(…ぬいぐるみなんて初めて買ったけど…悪くないな)

 何かあったときにすぐに処理できるよう、必要最低限のものしか置かない部屋だ。いわゆる玩具の類いはハロのものしかない。それで充分だと思っていた。

 だがこの新しい住人は、思った以上に降谷の生活を豊かにしてくれた。触るとふわふわでさらさらでいつまでも撫でていたくなるし、無表情なはずの顔はだんだん愛らしく見えてくる。ハロを飼い始めた頃を思い出した。まさかぬいぐるみという無機物にそんな感情を抱くようになるとは、降谷にとっては青天の霹靂だった。

 部屋の電気を消しベッドに横たわると、枕元のテディベアに手を伸ばす。特にお気に入りなのは丸い耳だが、身体だけでなく別珍の足裏もレザーのジャケットも手触りがいい。ゆっくりと撫でていると、徐々に眠気がやって来た。

(…なんか、あいつと一緒に寝るみたいだ…へんな感じ…)

 そうして降谷零は今夜も、赤井秀一そっくりのテディベアと安らかな眠りにつくのである。


  *


「降谷くん、犬を飼っているんだって?」

 そう話しかけられたのは、たまたま警視庁に顔を出した帰り、エレベーターを待っている時だった。

 唐突な声に思わず目を丸くして振り返ると、赤井秀一がそこに立っていた。相変わらず黒いライダースにニット帽姿である。

「何故、それを?」

「風見くんがかわいい犬の写真を見ててな。それは君の飼い犬なのかと聞いたら、降谷くんの家の子だと教えてくれた」

「……風見のやつ」

 迂闊すぎるだろう、よりによってFBIの前で個人のスマホを見るなんて。100歩、いや500歩譲ってハロの写真だったからいいが、もし個人情報を見られていたら切腹ものだ。

 だが、赤井のことだ。もしかしたら風見に誘導尋問を仕掛けて“降谷が犬を飼っている”という情報を聞き出したのかもしれない。

 そこまで思考を巡らせてはたと我に返る。

 もしそうだとしたら、何のために?

「…たしかに、うちは犬がいます。仕事で家を空ける時は風見に見てもらってるんですよ」

「名前は?」

「…そこまで言う必要が?」

 エレベーターはなかなか来なかった。ああもう、こんなことなら階段で降りればよかったと思っても後の祭りである。

「きみが、飼い犬にどんな名前をつけたのか気になるからさ」

「…なんですか、それ」

 降谷は赤井に怪訝な目を向けた。だが当の赤井はそれを気にする素振りもなく、余裕ぶった笑みを浮かべている。

「ついでに言うと、俺は犬には目がないんだ。だが日本に来てから触れ合う機会がなくてな。だいぶ寂しい思いをしてるんだよ」

「はあ、そうですか。ドッグカフェでも紹介しましょうか」

「つれないことを言うな、降谷くん」

 ポーン、と軽やかな音が響いた。エレベーターがやっと到着したらしい。扉が開くと同時に降谷は無人の箱の中に滑り込んだ。

「仕事中なので、僕はこれで失礼します」

 速やかに1階と閉ボタンを押す。が、扉は閉まらない。はっと見ると、赤井の右足が閉じようとする扉を遮っていた。完全に悪徳セールスマンのそれである。

「おまっ、何を」

 思わず伸びた腕を、赤井の左手がはっしと掴んだ。

「降谷くんが家に招いてくれるまで、離さないぞ」

「はっ…?」

「降谷くんのうちの犬に会いたい。会わせてくれ」

 赤井はやけに真剣な眼差しだった。そういえば、こうして面と向かって話すのは随分久しぶりな気がする。赤井の翠の眼を正面から見据えるのも。

 と、エレベーター内にビーッと警告音が鳴り響いた。いい加減扉を閉めろということらしい。が、赤井は手を離さない。ただじっと、降谷を見つめている。

 降谷は諦め、これ見よがしにため息をついた。

「…20時に、本庁の駐車場で」

 ぽつりと呟かれた言葉に、赤井が目を丸くする。

「今日、か?」

「無理ならいいですけど」

「いや、行く。必ず行くよ。ありがとう」

 ぱっと赤井が両手を離した。その隙に、閉ボタンを押す。警告音が止み、扉が閉まる直前に、喜色に溢れた言葉が飛び込んできた。

「また後で、降谷くん」


  *


(あいつが家に来たがるなんて、絶対に裏があるに決まってる)

 そう考えた降谷は、赤井をどう攻めようか思案しながら猛然と仕事をこなした。そして約束の時間にわざと5分遅れて駐車場へ向かった。

 だが赤井は何ら気にしていない様子だ。

「きみは約束を違える男じゃないからな」

 と知ったような口ぶりにむっとしつつ、降谷先導で自宅へ向かった。

「ホォー…ここが降谷くんの家か」

 赤井は心なしかウキウキと弾んでいるように見える。そんなに犬と触れ合うのが楽しみなのだろうか。

 ハロは、主人が連れてきた全身黒服の男を歓迎しなかった。部屋の隅に丸まったまま起き上がってこない。だがその耳はぴんと立っていて、赤井を気にしているのがわかる。

「もしかしたら匂いかもしれませんね」

「匂い?」

「あなた煙草吸うでしょう。ハロにとっては未知の匂いだから」

「ホォー…なるほど」

 顎に手を添え、考えるような素振りのあと、赤井がにやりと笑った。

「そうか、この子はハロと言うんだな」

 がちゃん、と思わず乱暴にカップを置いてしまったが中身はこぼさずに済んだ。だが自分からネタを明かしてしまうとは。これでは風見を迂闊だと責められない。

(自分のテリトリだからって警戒を怠るな。相手はあの赤井秀一なんだ)

 降谷は改めて気を引き締め、赤井の向かいに座った。

 それにしても、奇妙な状況である。自宅のダイニングで、赤井秀一と向かい合ってコーヒーを飲んでいるとは。

 犬と触れ合いたいと言ったくせに、赤井はハロに近づこうとしなかった。

「無理に触ろうとしてもハロくんは嫌がるだろう。彼から俺を受け入れてくれるまで気長に待つさ」

 と呑気にコーヒーを啜る赤井はやけに落ち着いている。それに何かを探ろうとする様子もない。まさか本当に犬を触りに来ただけなのか。

 だがこのまま長居されても気まずいだけである。

「ハロ、おいで」

 仕方なしに、降谷は座ったまま身体ごとハロに向いた。ぽんぽんと膝を叩くと、ぴくり、と反応したハロがとととっと駆け寄って膝の上に飛び乗る。

「よーし、いい子だ」

 顎下を撫でてやるとハロは嬉しそうに尻尾を振ってアンッと鳴いた。

 たぶん、主人である降谷が抱いている警戒心を敏感に感じ取っているのだろう。ということはハロはいつまでも赤井に近づかないし、赤井はいつまでもここに居座ることになってしまう。

 仕方ない、と降谷は溜息をついた。

「ハロ。紹介するよ。僕の…なんだろ、仕事仲間とでも言えばいいのかな…の、赤井秀一。見た目は怖いけどそんなに悪いやつじゃないよ」

 言いながら赤井に視線を向けると、ハロも同じように赤井を見た。

 降谷はどきりとした。赤井の眼が、表情が、見たこともないくらいあたたかい色に染まっていたから。

「…かわいいな」

 ついでぼそりと呟かれた言葉に、降谷はかっと頬が熱くなるのを感じた。

(いやっハロがだよな!?可愛いのはハロだよな!?くそっ紛らわしいっ)

 一瞬自分のことかと勘違いしてしまったのは、赤井の両の瞳がまっすぐと降谷に向いていたからだ。だがすぐにその考えを打ち消した。ハロを微笑ましく眺めているのが、たまたまそのように感じられただけだろう。赤井の表情が、あまりにも甘やかで優しいから、ついそう思ってしまっただけだ。

「よろしく、ハロくん」

 赤井が握手をするように右手を差し出す。ハロひその手に顔を近づけ、くんくんと匂いを嗅いだ。

 と、ハロがぱっと膝上から飛び降りた。そのままとととっと走って寝室へ入ってしまう。

「…逃げられましたね」

「むむ…残念だ」

 あまりそう思っていないような表情で赤井はコーヒーを啜った。「犬と触れ合う」という目的は果たせなさそうだが、帰る気はないらしい。降谷はぐいっとカップを呷り、苦味のある液体を喉に流し込んだ。

「で、おまえの本当の目的は何なんだ」

 その問いに、赤井がきょとんと小首を傾げる。

「本当の?ハロくんに会うことだが?」

「しらばっくれるな。犬に触りたいならドッグカフェでも公園でもいくらでも行けばいいだろう。なのにおまえはうちに来たがった。何を探りに来た。僕のことか」

「…まあ、きみのことを探りたいというのは、その通りだな」

「悪いが、自宅に探られてまずいものは置いてないからな」

「そうだろう。だが、俺が知りたいのはそこじゃない」

 赤井は一度言葉を止め、ぐっと降谷を見据えた。まるで、祈るような瞳で。

「俺は、ほんとうの、降谷零が知りたいんだ」

「…は?」

 降谷の頭上に、いくつものハテナが浮かんだ。

 だがそれを尋ねるまえに、ととととっと床を駆ける音がした。寝室からハロが戻ってくる。口に何かを銜え、なぜか赤井に向かって。

「どうしたんだ、ハロくん」

 足元に来たらしいハロに赤井が話しかける。だがテーブルが邪魔で降谷からハロが見えない。

「それを、見せてくれるのか?」

 上体を屈め、次に赤井が起き上がった時、その手にあるものを見て降谷は「アッ」と声をあげて立ち上がった。

「これは…テディベア?」

 枕元に置いておいたはずの赤茶のテディベアがそこにあった。

 赤井が瞠目し、それをまじまじと見つめる。赤井と同じく、黒いニット帽とレザーのライダースジャケットを身につけ、翠の眼をしたテディベアを。

「これは…きみのもの?」

 赤井が尋ねると、ハロはNoとでも言いたげに首を傾げた。赤井がふっと微笑む。

「降谷くんのものか?」

「アンッ!」

「そうか…これが俺に似ていると思って、見せてくれたんだな?」

「アン!」

「そうか、きみは本当に賢い子だな」

 床に行儀良く座っているハロの頭を赤井が撫でると、ハロはその通りですとでも言うように「アンッ」と元気よく返事をした。

 その嬉しそうで誇らしそうな様子は愛らしいことこの上ないが、降谷自身は頭を抱えるしかなかった。

(最悪だ…!よりによって本人に見られるなんて…!)

 ていうかハロのやつ、さっきまであんなに警戒していたのにもう尻尾を振ってるじゃないか。なんでだ。飼い主の気持ちを汲んでたんじゃないのか。おい、用が済んだらさっさと寝室に戻るのか。薄情者。

「降谷くん」

 不意に名前を呼ばれ、肩がびくりと跳ねる。心臓が早鐘を打ち額に汗が滲む。自分のこころとからだが制御できない。赤井のこととなるといつもそうなのだ。

(くそっ、なんでだ。こいつの前でだけは失敗したくないのに)

「降谷くん」

 再度呼ばれ、恐る恐る顔を上げる。少し困ったように眉根を寄せた赤井が、同じ格好のテディベアをテーブルに座らせている。

「これは、どうしたんだ?」

 静かな問いかけだった。慎重に、言葉を選んで答える。

「…買ったんですけど?」

「俺と同じ格好だな」

「ええ、偶然てすごいですね」

「どうして、これを?」

「…たまたま、目があっちゃったというか…すごい触り心地良かったし…お店のご主人にも薦められたし…なんとなく、出来心で」

 嘘ではない。だが本心は別にある。決して表には出さぬと押し込めて鍵をかけた胸の奥底に。

「気に入ったなら、差し上げますよ」

「この子はきみのものだろう、きみが大切にした方がいい。その方が、こいつも喜ぶ」

 雑貨屋の老人と同じことを言う赤井に、降谷は思わず頷いた。そして、赤井の手からテディベアを受け取る。ふわふわでさらさらとした赤茶の毛は、何度触っても気持ちいい。

「なあ降谷くん。また来てもいいだろうか」

 不意に投げかけられた言葉に、降谷はぱっと顔を上げた。

「へっ?なんで?」

「きみに会いに。…もちろん、ハロくんとそのくまにも」

 赤井はやはり、優しい眼差しをしていた。だがその向こうに、強い意志を宿した眼だった。

「…職場で会えますけど」

「それは仕事だろう。俺は、プライベートでもきみに会いたいんだ」

「…なぜ?」

 思わず、声が震えた。訊いてから後悔した。その問いの答えを、聞きたくないと思った。だが耳を塞ぐことはプライドが許さなかった。

 赤井が腕を伸ばし、ふの手の中のそれをそっと撫でて微笑んだ。

「…きみが、このテディベアを買ったのと同じ理由、かな」

 ああ、と吐息が漏れた。

 降谷がひた隠しにする、心の奥底に根を張る感情。何度消そうと思っても決して消えぬ熾火のようなそれを、赤井は見抜いているのか。

 執着のような、憎悪のような、どろりとした感情を。

「きみが望むなら言葉として伝えよう。だが、まだきみはそれに向き合えないだろう?」

 悔しい、と思った。そんなことまで分かった上で、なお優しさを向ける赤井が。

(だからぼくは、おまえが憎くて憎くてたまらないんだ)

 その優しさに、身を委ねて溺れたくなってしまうから。

「これは…僕にとっては、枷にしかならないものです」

 分かっている。これは言い訳だ。でも、止まらなかった。

「パンドラの箱なんです。開けたら災いや悪いことが起きてしまう。だから厳重に鍵をかけておくんです。誰にも開けられないように」

 両手でテディベアを、身体が潰れるほどにぎゅうっと掴む。それに飽き足らず、降谷は赤茶のやわらかい鼻筋に埋めるように顔を伏せた。

 と、降谷の手がそっとあたたかいものに包まれる。それは赤井の大きな手で、触れられて気付いた。己の身体が細かく震えていたことに。

 ふと眼だけを上げると、赤井の顔が近づいてきた。そのままテディベアの後頭部に口付ける。ちょうど、頭を挟んで降谷の唇と対称になる位置に。

「だが、きみはこのテディベアを、自分の意志で買ったんだろう。俺のことを想ってくれたんだろう。それは枷ではない。俺は、君の枷にはならない」

 赤井が降谷の頭を抱き寄せた。ふわりと、赤井の匂いが鼻腔をくすぐる。煙草と、かすかなコロンと、身を焦がすほどの夏の夕焼けのような匂い。

 たぶん、いくつも鍵をかけても、誰にも見えない奥底に隠しても、それを探し出して強引に暴くのだ、赤井秀一は。かつて降谷が、死んだ赤井をこの世界に引き摺り戻そうとしたように。そして、それをどこか嬉しく感じてしまうことも否めないのだ。

 降谷は諦めたように、赤井の胸に額を押し当てた。どくんどくんと、熱い血潮が鼓動を刻む音がする。赤井が、生きている音がする。

「大丈夫だ、降谷くん。パンドラの箱の一番最後には…“希望”が、残ったじゃないか」

 その声が優しくて抱き締める腕も信じられないくらいあたたかくて、降谷は気付かれないようにひとつぶ涙を零した。



end.



Merry Friggin' Christmas(7450words)

 ・初めて書いた赤安のお話

 ・テーマは「クリスマスの奇跡」

 23時を回り、気温は0度近くまで下がったようだ。雪や風はないが、骨の髄まで滲みるような寒さは、長年ワシントンD.C.で冬を過ごしてきた赤井にとっても堪えるものだった。
 人気のない道を歩きながら、マフラーに顔を埋める。滞在先のホテルまでタクシーに乗っても良かったが、今夜は歩きたい気分だった。
 赤井が家を出てからはじめての、家族で過ごすクリスマス。真純にどうしてもとねだられたから参加したが、今は行ってよかったと思う。妹は年甲斐もなくはしゃいでいたし、母や弟の本当に楽しそうな笑顔が見られた。犯罪を追いかける殺伐とした日々に、ちょうどいいリフレッシュになった。
 思えばFBIの同僚たちも、クリスマスとニューイヤーに関しては家族と過ごすことを何よりも重要視していた。クリスマスまでに犯人を捕らえ休暇をもぎ取ることを狙っていたし、頼むからニューイヤーを迎えるまでは大人しくしててくれと各方面の犯罪者に祈っていた(とはいえ実際に大人しくしてくれる犯罪者は少なかったが)。
 何故そこまでクリスマスに固執するのか赤井には理解できなかったが、今日、18年ぶりに家族揃ってのクリスマスを過ごして、少しだけ理由がわかった気がした。
(クリスマスは、家族が互いのしあわせを祝いあうイベントなんだな)
 サンタがいるかいないかが重要なのではない。クリスマスやサンタというモチーフを通じて相手を想い、尽くすことに意味があるのだ。赤井はそう解釈した。
 FBIに入る為家族を切り捨てたつもりだった。だが、家族の笑顔は何よりも尊いものだと、捨ててはならぬものだと気付かされた。
(クリスマスも悪くないもんだな)
 外気は凍える寒さだったが、赤井の心はあたたかいもので満たされていた。
 来年も休みが取れれば参加しよう、と思いながら角を曲がる。
 と、赤井の目の前に、鮮やかな光の海が出現した。
 道路の両脇に並んだ街路樹が纏う金色のそれは、冬の澄んだ冷たい空気を照らす煌びやかなイルミネーション。まるで数十メートル向こうまで続く光のトンネルのようだった。
 ただの豆電球の集合体でしかないのに、なんと眩く美しいことか。ほう、と思わず感嘆の声が漏れる。かつてニューヨークで見たロックフェラーセンターのクリスマスツリーには敵わないが、ゴールド1色で彩られた街路樹の佇まいは、どこか上品にすら感じる美しさだ。
 滅多に出歩かない道で、まさかこんな景色に出逢えるとは。これもクリスマスの奇跡というやつか?と笑みが溢れた。
 イルミネーションの間をゆっくり歩いていく。深夜であるためか、余程の穴場なのか、赤井の他に人影はない。この景色を独り占めだ。
(こういうのも悪くないな)
 半分ほど進んだところで、ふと見覚えのあるものが視線に入ってきた。イルミネーションの途切れた先に停まっている白い車体。もう少し近づくと、赤井もよく知っている車種だとわかった。何せ、この車とは高速でカーチェイスを繰り広げたことがある。
(まさか)
 フロントガラスに電飾の明かりが反射して中は見えないが、ナンバープレートからして運転席にいるのは十中八九、彼だろう。
 赤井は立ち止まり、彼に見つからぬよう、左の脇道に足を進めた。

  ★

 コンコン。
 遠慮がちに、サイドウィンドウを叩く音がした。音がした助手席の向こうに目を向けると、黒い人影が立っている。
 コンコン。
 人影は、顔を見せないよう、わざと直立した姿勢を取っていた。暗くて正確にはわからないが服装は黒一色のようなので、警邏中の巡査というわけではなさそうだ。だとすると、知り合いか。だがこんな時間に、こんなところで。
 警戒を解かずに黙っていると、窓の向こうでひらひらと手が振られた。男の左手だ。次いで、出ておいでと言わんばかりに人差し指をくいっと曲げた。そのどこか挑発するような仕草に、ある一人の男の顔が浮かんだ。
 なぜ、あなたがここに?
 尚も無視を続けると、またコンコンと窓を叩かれ、おいでと手招きされた。全く諦めるつもりはないらしい。
 仕方ない、と溜息を吐いて、運転席のドアを開けた。途端に冷気が全身を包む。ブルリと首をすくめながら、車の外に立った。
「せっかく、1人でイルミネーションを楽しんでいたんですがねぇ」
「そうか。奇遇だな、俺も1人なんだよ、安室くん」
「お互い1人なんですから、僕の邪魔をせずそのまま1人で帰ったらよかったんじゃないですか、FBI」
 そう吐き捨て、安室、もとい降谷零はわざと大きな音を立ててドアを閉めた。だが、赤井秀一は嫌味を意にも介さず、ほら、と車越しに何かを投げて寄越す。
「ちょ、何を」
 思わず受け取ると、温かい。缶コーヒーだった。
「なんです、これ」
「ホテルへ帰る途中でたまたまここを通りかかってな。こんなに素晴らしいイルミネーションが見られる場所があったとは知らなかったよ。君は毎年ここに来るのか?」
「いや僕は部下からここのイルミネーションがすごいと聞いて…ってそうじゃない!」
「ああ、それはさっき向こうの自販機で買ったんだ。遠慮しないでいい」
「それはどうも…って!それも違う!」
 赤井相手だと、やはり調子が狂う。普段はしないノリツッコミをしてしまう程には。
 赤井が缶コーヒーのプルタブを開け、乾杯でもするように上に掲げた。
「冷めるぞ」
「…」
「さっき買ったばかりだから何も仕込まれてない。安心しろ」
「…いただきます」
 憮然としつつも降谷はプルタブを開け、そのまま一口呷った。温かい液体が喉を滑り落ち、コーヒーの深い香りと苦味が鼻を抜ける。それを見て、赤井も缶に口をつけた。コーヒーのおかげで、身体の内側が少しだけ温まった気がした。
「で?」
「ん?」
「なんで、缶コーヒーを買ってまで、わざわざ僕に声を? 風邪をひく前にさっさとホテルに帰ればいいじゃないですか」
 缶コーヒーに罪はないのでありがたくいただくが、それとこれとは別の話だ。おまけに(暖房は切っていたがそれなりに)暖かい車内から極寒の外へ出る羽目になった。
 愛車を挟んだ立ち位置のまま、降谷は赤井を睨め付けた。すると赤井は、ホールドアップでもするように両手を上げて、
「ウィンドウ越しより、生で見たほうがキレイだろう?」
「は?」
「イルミネーション」
「…それだけか、FBI」
「一応、助手席に誰もいないことは確認したぞ」
「そういう問題じゃない…!」
 思わず、握った缶を愛車のルーフに叩きつける。いつもそうだ。赤井のやることなすこと、すべてが降谷の思う通りにいかない。質問すればわざと降谷の想定からズレた回答をするし、怒りをぶつけてもひらりとかわされる。殺したいほど憎まれていると知っていながらこうして暢気に話しかけてくるあたり、余裕を見せつけられているようでさらに腹立たしい。
 そして赤井は、自分のそうした振る舞いがさらに降谷を煽ることを知っているのだ。本当にタチが悪い。
 くそっと思わず悪態をついた降谷に、しかし赤井は気にも留めず話しかける。
「だが安室くん、見てみろ。素晴らしい景色じゃないか」
 赤井の視線に誘われて、つい顔を右に向ける。ゴールドに輝く並木路。たしかに、車内から窓越しに眺めるよりも、より煌びやかで崇高に見えた。
「…そう、ですね…」
「クリスマスにこんな景色に出逢えるとはな」
 赤井は、どこか弾んだ声で言った。イルミネーションに照らされたその横顔は今まで見たことのない表情で、降谷は不意打ちを喰らった気がした。
「…あなたも、クリスマスは特別なんですね」
「ん? まあ、今までそう思ったことはなかったがな。今年は色々と気付かされたことがあったよ」
「…へぇ、そうですか」
 赤井はふと降谷に視線を移した。さっきまで噛み付いてきた降谷が、急に大人しくなったように思えたからだ。
 事実、降谷はイルミネーションには目もくれず、ただ俯いていた。横髪に隠されてどんな表情をしているのか分からない。
「安室くん?」
 呼びかけると、降谷は俯いたまま、愛車の前方へ移動した。ボンネットに腰掛け、そのままふぅっと息を吐いた。
「僕ね、クリスマスを特別って思ったことがないんです。12月24日だって25日だって、365日のうちの1日に過ぎない。誰が生まれようが死のうが変わらない。みんなからしたら年に一度のスペシャルな日かもしれないけど、僕にとってはそうなんです」
 なぜ、こんな話を赤井にしているのだろうと、喋りながら降谷は考えた。赤井に不意を突かれたから? イルミネーションに目が眩んだ? わからない、と思いながら、口は止められなかった。ぽつりぽつりと出てくる言葉を、赤井は黙って聞いている。
「クリスマスって、家族や恋人と、チキンとケーキでお祝いする日、なんですよね。でも、そもそも何を祝うんでしょうね。キリストの生誕祭って言いますけど、12月25日がクリスマスになったのってキリストの誕生日だからじゃなくて、ローマの冬至だったからじゃないですか。それに、この時期にほかの宗教の行事があるからわざとキリスト教のイベントを設定したって説もありますよね。となると、ますますキリスト教徒じゃない日本人がクリスマスを祝うことって、不毛じゃないかなって思うんです。まあ、そのお陰で経済が回って景気回復に繋がるなら、やる意義はあるのかなって思いますけど」
 降谷の口調は淡々として変わらない。だが赤井には、彼の心の奥底に仕舞い込まれたなにかの感情があるように思えてならなかった。もしかしたら彼自身も気づいていない、淋しさのような憧憬のような感情が。
「あ、バカにしてるわけじゃないですよ。イベントに託けてお互いの絆を確かめ合うのも、悪くないと思ってます。でも、僕はあまり興味ないかな。今までそれで特に問題なかったし、たぶんこれからもクリスマスは祝わないでしょうね」
 以前、降谷零を調べた時のことを思い出す。公安、中でもゼロの所属だけあって出てきたデータは限られていたが、家族に関しては「なし」という情報だった。それはつまり、降谷零に家族と呼べる存在はいないということだろう。今だけではなく、もしかしたら、昔から。
 きっと、ずっと1人だったのだ。降谷零のクリスマスは。
 時には友人たちと過ごすこともあっただろうが、家に帰れば1人きりだ。もちろんサンタも来ない。互いの幸福を願う相手もいない。
 だから、幼い頃からずっと、クリスマスなんか特別じゃないと自分に言い聞かせ、自分の気持ちを押し殺してきたのだろう。ほかの子供たちが当たり前に享受する幸せを、羨む感情と共に。
「…だったら、何故、今日ここに?」
 赤井の質問に、降谷は虚をつかれたように振り返った。赤井は降谷の横に立っている。その眼は真っ直ぐに降谷を見つめている。
「このイルミネーションを見に、今日、ここへ来たのは何故だ」
「たまたまですよ。たまたま、今日は仕事が早めに終わったから」
「終わらせた、の間違いじゃないのか」
「しつこいぞFBI。偶然だと言ってるでしょう」
 淡い金の光に照らされた降谷の横顔は、いつもより彼を幼く見せた。不思議だ。赤井に匹敵する戦闘力と頭脳を持ち、日本を背負って戦っている降谷が、今はまるで迷子の少年のようだ。自分の家に帰れず、どこに行けばいいかもわらなくて、ひとりぽつんと立ち尽くしている。でも一人前にプライドがあるから、誰にも助けを求めることはできない、可哀想な少年。
 赤井は初めて、降谷に庇護欲を覚えた。
(だれかいないのだろうか。彼を抱き締めて、彼の傍で彼を温めてやれる人間は)
 いや、初めてではないかもしれない。ライとバーボンとして共に組織に潜っていた時、どこか危なっかしい彼の言動にいつもやきもきしていた。その頃から、彼は赤井にとって、目が離せない存在だった。
(この、強くて寂しい男の頑なな心を溶かせる人間は…)
 誰が彼の寂しさに気づける。誰が彼に寄り添える。本音を決して言わない、彼の心の内を誰が理解できるのか。

 はた、と気づいた。
 それに当てはまるのは、ひとりしかいないではないか。
 降谷零という人間を理解し、その心の奥底に隠された気持ちを読み取り、彼に影響を与えられる存在。彼と互角に戦えて、同等の頭脳を持ち、互いに背中を預けられる存在。常に冷静で自分を失わない男が、唯一心乱される相手。

(…俺、か…?)

 次の瞬間、ふっと辺りが暗黒に染まった。眩いばかりのイルミネーションが一気に消灯したのだ。
「0時か。クリスマスが終わっちゃいましたね」
 降谷が呟く。その声は、どこかほっとしたようにも聞こえた。
 やがて、暗闇に目が慣れてくる。西に沈みかけている太った半月のおかげもあり、徐々にRX-7の白い流線型や、ぐいっと缶コーヒーを呷る降谷の姿が見えるようになった。
「さて、そろそろ帰りますね。明日は朝から仕事なんです。あなたも風邪ひかないうちに帰った方がいいですよ」
 コーヒーご馳走様でした、と降谷が運転席のドアノブに手をかける。開きかけたドアを、上からバタンと閉めたのは赤井だ。
「…何するんですか」
 ぎろりと赤井を睨みつける。不愉快だった。悉く、降谷の思い通りに行動しないこの男が。赤井の言動にいちいち驚かされ掻き乱される自分の心が。
 しかし、赤井はそんな降谷に気づいているのかいないのか、どこかウキウキとした様子で言った。
「安室くん、いや降谷零くん。俺たちのクリスマスはまだ終わってないぞ」
「は?」
「夜が明けるまでがクリスマスだ」
「なんですかそのルール」
「今決めた」
「ちょっと待て」
「何故なら、俺はまだクリスマスプレゼントをもらってないからな」
「そんなの知るか」
「君にはプレゼントをあげたじゃないか」
「はぁ? 何ももらってないですよ」
「それ」
 赤井が指し示したのは、降谷の右手に握られた缶コーヒーだった。
「いやこれそこの自販機で買ったやつでしょう!」
「そうだ。でも俺から君へのクリスマスプレゼントだ。だったら君から俺へのプレゼントもあって然るべきだろう」
 堂々と宣う赤井に、降谷は絶句した。なんたる暴論だ。たかが120円の缶コーヒーをプレゼントだと言い張る図々しさ。もちろんプレゼントは値段ではなく気持ちだとわかっている。わかっているからこそ、この缶コーヒーがお前の何の気持ちなんだと突っ込みたくなる。だが、そうしたら赤井の思う壺だ。返す言葉が見つからずあんぐりしていると、赤井はさっと左手を差し出した。
「…何ですか、この手は」
「くれないのか?」
「あるわけないでしょう!」
「そうか…残念だな」
 心なしか、赤井がしゅんとしたように見える。その姿がまるで飼い主に怒られた大型犬のようで、降谷は動揺した。
(あ、赤井に耳が見える…垂れた犬耳が見える…)
 おかしい。赤井秀一はこんなに表情が豊かな男だったか。いや潜入捜査を任されるくらいだから、演技力もそれなりにあるはず。これは芝居だ。そうに違いない。
 そう自分に言い聞かせないと絆されそうになってしまう程度には、降谷は動揺していた。
 そんな降谷に、赤井は追い討ちをかける。
「それなら、降谷くん」
「な、なんですか」
「これから一杯やろうかと思ってたんだ。付き合ってくれないか」
 ………?
「はぁーーー!?」
 思わず叫んでしまい、慌てて口をつぐむ。深夜に出していい声量ではなかった。しかし、それくらい赤井の提案は降谷にとって突拍子もないものだった。
「いやいやいやいや何言ってんですか。僕たちそういう間柄じゃないでしょう」
「今まではそうだったが、これからもそうでなければならないことはないだろう。むしろ、俺たちの関係を進めるいい機会じゃないか」
「いや待てちょっと待てFBI。進める必要ないでしょうが」
「何故だ」
「むしろなんで進めようとしてるんですかあなたは」
「君が」
 言いかけて、赤井は一瞬押し黙った。本当の理由を言えば、降谷は逆に赤井を退けようとするだろう。それは赤井の本意ではない。
「興味があるんだ、君に」
「…はぁ?」
 本日何度目になるだろう、降谷にそう返されるのは。だが赤井は気にしない。
「付き合いはそこそこ長いが、あまりプライベートな話はしてこなかっただろう。だからこそ、安室透でもバーボンでもない、降谷零という男の素顔が見てみたいんだ」
 降谷は相変わらず絶句していた。無理もないだろう。ひたすら敵意を向けていた、何なら殺そうとしていた相手から、仲良くなりたいと言われたのだから。
 たっぷり10秒は硬直した後、降谷は毒気を抜かれたようにふっと笑った。
「…いや、素顔なんて、あなたにだけは絶対に見せませんけど」
 月明かりの中で見るその笑顔に赤井は胸を突かれた気がした。常に眉間に力が入っていた降谷が、初めて見せる一面だった。
(そんな顔もするんだな、君は)
 もっと見てみたいと思った。今まで赤井には見せて来なかった彼の色々な顔を。トリプルフェイスではない、ただの降谷零を。
「まあでも、一杯だけなら、いいですよ」
「本当か?」
「ええ。缶コーヒーのお返しには割高だけど、代わりにあなたの弱味を探らせてもらいます」
「いいだろう、いくらでも探ってくれ」
「ムカつくな。すぐに酔い潰してやる」
「残念だが、酒に呑まれたことはないんだ」
「言ったな? 後悔しても知りませんよ?」
「望むところだ」
 2人でRX-7に乗り込む。赤井はワクワクしていた。こんな気持ちになるのはいつぶりだろう。これも、クリスマスの奇跡なのだろうか。
 きっと今夜は特別になるだろうという予感がした。降谷にとっても自分にとっても、忘れられない夜になるだろうと。
 RX-7の白い車体が、さっきまで金に彩られていた並木路をゆっくりと発進する。助手席から見る降谷も新鮮だった。
「なあ、降谷くん」
「なんですか」
「いいクリスマスだな」
「はあ?」
 また訳の分からないことを言って、とぶつくさ言う降谷を見て赤井は微笑んだ。
 間違いなく、今夜は特別なクリスマスだ。


end.