SHORT STORY

ワンドロ「嘘」4131words)🆕

 ・ワンドロで書いた付き合ってない赤安

 だからぼくは、赤井秀一がきらいだ。


 *


 それは、開花宣言間もない平日の昼間のこと。

 仕事中、ふと窓の向こうを見遣れば、抜けるような青空と日比谷公園の満開に近い桜並木のコントラストが眩しい。ちょうど仕事も一段落したところだったので、自席で遅めのお昼を摂ろうと弁当箱を広げた午後3時。

 いただきます、と丁寧に手を合わせて箸を持ったところで、不意に弁当が翳った。

「ホォー…美味そうな弁当だ。きみの手作りか?」

 …実は、少し前からこちらをちらちらと気にしていたのは分かっていた。分かっていて気づいていない振りをしていた。その後同僚に呼ばれて退室したのを確認したので昼休憩を摂ることにしたのだが、きっと降谷に話しかけるチャンスをうかがっていたのだろう彼はすぐさま戻ってきて、これ幸いと近づいてきたようだ。

 内心で溜息をついた降谷は、仕方なく顔を上げた。すると、降谷のデスクの前に立った赤井秀一が、缶コーヒーをこちらに差し出し憎たらしいほど整った顔でにこやかに微笑んでいる。

「…どうも。ええ、まあ、一応」

「さすがだな。ああ、これは今そこの自販機で買ってきたものだ」

「…ありがとう、ございます」

 仕方なく受け取った缶コーヒーは、降谷の好みのミルク入り。熱いほどにあたたかいので買ったばかりなのは確かだろう。

 個人的には弁当には緑茶のほうが嬉しいんだけど、とは思ったものの表に出さず、缶コーヒーを脇に置いて降谷は玉子焼きを一切れ口に運んだ。うん、美味い。脂ののった鯖もいい焼き加減だ。

 降谷は黙々と食べ進めるが、赤井はその場を動こうとしない。なにやらただ微笑んでこちらを見つめてくる視線に居心地の悪さを感じながら、降谷は平静を装って視線を弁当に向けたまま口を開いた。

「…で、何か?」

「ん?」

「僕に用事があるのでは?」

「いや?特に」

「…は?」

 思わず顔を上げると、すぐ近くに赤井の整った顔面があって降谷は固まった。赤井はさも興味深そうに降谷の手元を覗き込んでいる。

「一度、きみの手作り弁当を見てみたかったんだ…きみの部下がやたらと自慢するから」

 そして降谷と目を合わせ、深い緑の目元をやわらかく緩める。

「毎日遅くまで働いているのに、ちゃんと弁当を作るなんて、きみは本当にすごいな」

 ドギュウウウウウウンッ!!!!

 降谷の心臓がバズーカを撃ち込まれたような衝撃に見舞われた。だが、腐っても公安警察かつトリプルフェイス、未曾有の衝撃に内心が大混乱に陥っていることなど毛ほども表に出さず、いつも通りのクール&ビューティー降谷零の表情を保ったまま応える。

「…別に、毎日作ってるわけじゃないですし、料理がストレス発散になるだけですし」

「だが栄養のバランスや彩りも考えられた美しい弁当だ。なかなかできることじゃない」

「…どうも」

「いつか、ご相伴に預かりたいものだ…」

 まるで溶かした蜂蜜のごとき甘く熱のこもった微笑みに、降谷はぐっと奥歯を噛み締め、箸が折れそうなほど拳を握りしめて耐える。そうでもしないと褐色の肌すら茹蛸になってしまうほど赤面しそうだったからだ(とはいえハニーブロンドの隙間から覗く耳はほんのり朱に染まっていた)。

 邪魔をした、と颯爽と踵を返し左手を掲げる赤井の後ろ姿を恨めしく見送りながら、降谷は内心で毒づいた。

(くっそ…馬鹿にしやがって赤井秀一…!)

 打倒組織を目指し、日本警察とFBIとで合同捜査を行うようになってしばらく。協力体制を敷くため和解とまではいかなくとも多少なりとも歩み寄ろうとしていた降谷だったが、何故か赤井秀一は、そんな苦悩や努力を一切合切飛び越えて急激に降谷との距離を詰めてきた。

 具体的に言えば、何かにつけ降谷を褒めそやすようになったのだ。

 降谷が作戦の穴を指摘すれば「きみは誰よりも公平で的確だな」、一見理不尽とも思える指示を出しても「きみの言うことなら疑いなどしないさ」、作戦が功を奏せば「さすが降谷くんだ」などなど。

 その甘言の嵐は職務に留まらない。「きみの人当たりの良さ、見習いたいよ」「きみのずば抜けた筋力・体力、どちらも賞賛に値するな」「きみの博識さと巧みな話術には恐れ入るよ」などなどなど…。

 だが、降谷はそれらを素直に褒め言葉として受け取ることができなかった。むしろあからさまに褒めそやすようになった赤井を不審に思うようになった。なにがしか裏の意図があるのではないかと勘繰り警戒していた。

 何故なら、かつて赤井秀一に完全に見下され子ども扱いされ馬鹿にされたことがあったから。

(ちくしょう…赤井のやつ、嘘ばっかりついて揶揄って…心の中では僕のこと「毛の生えそろってないガキ」だの「色気も体力もない軟弱野郎」だの思ってるくせに…!)

 がつがつ白飯をかき込みながら、心の中では赤井への悪態が止まらない。

 だって、本当に傷ついたのだ。ライと呼ばれていた赤井に、そう言われたとき。ライという男の凄さ・怖さを実感し、尊敬に値する男だと認識していたから、余計に。

 赤井秀一と降谷零として再会してから、赤井が降谷を見る目は明らかに変わっていたが、それでも降谷はこの5年間繰り返し思い出しては何度も傷ついた言葉を忘れられずにいた。どんなにやわらかく優しい表情を向けられても、美しいグリーンガーネットで熱心に見つめられても、どうせまた僕を馬鹿にしているのだ、年下だから子どもだからと見下しているのだと思ってしまうのだ。そうして弾みそうになる心を必死に抑え込んできたのだ。

 無言で弁当を食べ切った降谷は、最後に赤井からもらった缶をプシュと開け、すっかり温くなったそれをぐびりと煽る。喉を滑り落ちていくほんのり甘いミルクコーヒーを一気に飲み切り、最後に空になった缶を右手で強く握りしめた。

(俺は絶対に、おまえに騙されない…!おまえに今の俺を認めさせてやる…!)

 デスクに置かれたスチール製の空き缶は、見事にべこリと大きく凹んでいた。



 それから数日たった、ある日。

(あーあ…桜、終わっちゃうな…)

 窓から見えるピンクと緑がまだらになった桜並木をぼんやりと眺めながら、降谷は小さくため息をついた。

 数日前の雨とその後の強風のおかげで満開だった桜は半分以上散っていた。別に花見をしたいと思っていたわけではなかったが、いざ桜の時期が終わると思うとなんだか惜しい気がしてしまう。

(今なら、お花見でもなんでもする時間はあるのにな…)

 そう自嘲して、もうひとつ溜息。

 何故なら、それ以外に何もすることがないからだ。右の二の腕と腹に銃創を負い、急遽入院する羽目になってしまったから。

 昨晩、組織相手に少々派手な捕り物があった。逸る気持ちがなかったと言えば嘘になる。FBIと合同の作戦で、メンバーに赤井秀一もいた。「無理をするな」と気遣う素振りをする彼に少々ムキになってしまった。

 おかげで一瞬の判断を見誤り、敵の銃弾を受けてしまった。臓器も血管も腱も無事だったが、さすがに腹に穴が開いては自力でどうにかできるものではない。出血量もそこそこあったため、降谷は病院に運ばれ緊急手術ののち入院する運びとなったわけである。

「…暇だなぁ…」

 ぽつりとした呟きは、穏やかな春の陽気にさらわれ虚空に消える。

 今朝見舞いに来た部下は「絶対安静ですからね」と宣いPC一つ持ってきてくれない。スマホをいじるにも立ち上がるにもちょっとした動作が傷に響くので、降谷はただひたすらベッドに横になるしかできなかった。

 と、

 コンコン

 控えめに扉をノックする音がした。「どうぞ」と答える前に扉がスライドして現れた人物に、降谷は思わず瞠目する。

 どこか固い表情をした赤井秀一が、ゆっくりと入ってきた。

「…関係者以外立入禁止のはずですが」

 訝し気に眉をしかめる降谷に、しかし赤井はしれっと答える。

「撃たれたきみを搬送したのは俺だ。これでも関係者じゃないと?」

「…その節は…ご迷惑をおかけしました」

「そう思うなら、今後はあんな無茶な行動は慎んでほしいものだな。心臓がいくつあっても足りないよ」

 ベッドの横までやってくると、赤井は憎たらしいほど整った顔を怒りのような痛みのようななにかに歪ませ、左手を差し出した。その手にあるのは、先日降谷に差し入れたものと同じ、降谷がよく飲んでいるお気に入りの缶コーヒー。

 その心遣いになんだか居た堪れない気持ちになった降谷は、それを受け取らず誤魔化すようにふいっと顔を逸らす。

「…別に、心配してくれなんて頼んでない。あなたは僕が頼りないって思ってるかもしれないけど、僕は僕にできることをやってるだけだ。あなたの助けなんかなくたって僕は…」

「降谷くん」

 静かな、だが緊張感のある声だった。その赤井の圧に思わず黙し、振り返る。

 赤井はまっすぐに、降谷を見つめていた。どこか熱のこもった瞳で、怖いほど真剣な表情で。

「…確かにそうだ。俺が勝手にきみを心配しているだけだ。だがきみを頼りないなんて思ったことは一度もない。ただ俺が…平気でいられないんだよ…きみが傷つくのが」

 ゆっくりと、赤井がベッドの端に腰を下ろす。急激に体重をかけることがないよう、降谷の傷に響かないよう慎重に。

 そして布団の上で固く握りしめていた降谷の左の拳を手で包み込み、指を1本ずつほどいていく。

「頼む…俺を頼ってくれ。きみがひとりで闘って傷つくのを、黙って見ているのはもう…俺が俺を、赦せないんだ…」

 大きな男の手に包まれた左手に、お気に入りの缶コーヒー。そこから伝わるぬくもりに、はらりと、降谷の口から素直な言葉がこぼれ落ちる。

「…なんで…?」

 赤井は驚いたように瞠目した。そして一度瞼を閉じ、再び降谷を見つめる。ただひたすらに、まっすぐに。

「…誰よりも、きみを大切に想うから。きみを護れなかった自分を殺したくなるくらいに」

 真摯で、真っ正直で、偽りなどかけらもない澄んだグリーンガーネットが、降谷の心臓を射抜く。

 その言葉の意味を理解するより前に、その眼が、表情が雄弁に降谷に語りかけていた。

 降谷はもうこれ以上、高鳴る鼓動に、紅潮する頬に、期待してしまう気持ちに気づかない振りなどできない。


 *


 …だからぼくは、赤井秀一がきらいだ。

 ぼくの心や脳をぐちゃぐちゃに掻き乱して、おまえのことしか考えられなくするから。




おわり

ワンドロ「はじめて」(3831words)🆕

 ・ワンドロで書いた、ふたりのはじめての出逢い

 ・こういうパターンのライ零(大零?)もありかな?と思って

 ・モブがいます

 俺はきっと、この運命のような出会いを、生涯忘れないだろう。


 *


 俺が“諸星大”として組織に加入してしばらく。この任務で成功を収めればコードネームを取得できるかもしれない…つまり、潜入任務の目的にさらに近づけるかもしれない、そういう命運がかかっている任務だった。

 今日の俺の仕事は、組織が目をつけているとある実業家が、組織のアジトの情報を隠し持っているかもしれないという噂の真相を確かめること。男が懇意にしているクラブに張り込み、若い男女を侍らせソファ席でくつろぐ彼にどう近づこうかと策を練っていると、突如店内で爆発が起こった。最近流行りの過激派による爆破テロだとすぐにわかった。ヤツに近づくチャンスだと思った俺は、すぐさま男に駆け寄り声をかけようとしたが、逃げ足の速いヤツは周囲で倒れているお仲間に見向きもせず我先にと逃げ出していた。

 思わず舌打ちして、それから床に倒れ込む若者たちを見渡す。

 爆発は男が座っていたソファ席のすぐ横にあった観葉植物が火元のようだ。だが小規模だったため、ほとんどの客は軽傷で混乱しながらも身の安全を確かめている。

 だがひとり、未だ床に倒れて突っ伏したままの者がいた。男のすぐ隣にいた金髪の若い男だ。もしかしたら爆発元の一番近くにいて爆風を食らったのかもしれないと思い、俺はそっと彼に近づく。

「おい、大丈夫か」

 見る限り、出血や外傷はない。だがもし頭を打っていたら事だ。肩を叩いて声をかけるが、青年はぴくりともしない。

「おい…」

 彼の顔を覗き込み長い前髪を払う。ちらちら燃える炎のあかりを浴びて横たわる青年の、あらわれたのは驚くほど幼気な寝顔だった。

 固く閉じた瞼を縁取る長い睫毛は金、無防備に薄く開いた唇は桜色。煤で汚れた褐色の肌はそれでもみずみずしく、ともすればティーンエイジャーにも見えるほど頬は丸みを帯びている。くすんだ金の髪は絹糸のように艶やかに輝いていた。

 思わず息を呑んだ。天使が翼を隠して地上に降り立ったのかと思った。それほどに、目を奪われた。

「ん…」

 と、その天使が小さく呻き身じろぎした。両腕をついて起き上がろうとする上体を支えてやると、彼がその瞼を開く。

 その灰色味を帯びた美しいブルーアイズに、俺はまたしても釘付けになった。

「…なに…なにがあった…?」

 そのとき、遠くから聞こえたパトカーのサイレンにはっと我に返る。今の俺は“諸星大”なのだ。こんなところで長居してはいけない。

 だが、目の前でこの状況を飲み込めず混乱している彼を放ってはおけない。

「…来い」

 俺は衝動的に、彼の手を取り裏口へと向かった。



 セーフハウスに戻った俺は、彼の手当てをしながら何があったかを説明した。彼は「レイ」と名乗った。大学の短期留学でアメリカに来ていたが、あの実業家…ジェフ・パーソンにナンパされてたまたまクラブにいたのだと。

「日本人か?」

「ええ、一応。ちょっと遊んでみようって思っただけなのに…やっぱアメリカって怖い国だ」

 むしろどこか楽し気にレイは笑う。その悪戯っ子のような無邪気な笑顔に俺はさらに興味をひかれた。

「諸星さんはどうしてあそこへ?」

「なんだ、俺がいちゃ変か?」

「うん、なんか似合わない。だって諸星さん、ずーっとちらちらこっちを見てたでしょ」

 その目敏さに驚いた。確かに張り込みは専門ではないが、一通りの訓練は受けている。その視線に気づいていたとは。

 するとレイは恥ずかしそうに頬を染め俯いた。

「だって、かっこいいなって…僕もこっそり見てたから」

 ただのリップサービスだ。そうわかっていても、俺は心が湧き立つのを抑えられなかった。しかし今は取り逃がした魚を追わなければならない。

「バレてたか。実は俺、あのジェフ・パーソンに会いに行ったんだ。あのクラブに出入りしてるって噂を聞いて、投資をお願いできないかと…だが、こんなことになったらもう無理かもしれないな…」

「へぇ…あ、でも僕ならあなたの力になれるかも」

 焦げ跡のついたジーンズの尻ポケットから、レイは小さなカードを取り出した。

「だってホラ、いつでも連絡しろって押し付けられたんだ」

 それは、ジェフ・パーソンのプライベート用の名刺だった。



 組織としての任務に、レイを巻き込むことに抵抗がなかったわけではない。彼はただの学生だ。こんな裏社会のことなど知る必要はないしできるなら見せたくはない。

 だが彼は「手当てしてくれたお礼がしたい」と譲らなかった。おかげでふたりで男の自宅に乗り込むことになり、俺はいかにきな臭いワードを出さずにヤツから話を聞き出すかに苦心した。

 男はレイをいたく気に入ったようで、爆発のときはさっさと見捨てて逃げたくせに、俺の会社に来いとしつこかった。費用はすべて持つ、ビザのことも心配するな、君に相応しいしかるべきポストを用意しようと。

 レイは聡明だった。男の必死な誘いをのらりくらりと躱しながら俺の話題にすり替えた。おかげで俺はヤツに自分の持っている会社・土地・建物について存分に喋らせることに成功し、結果としてヤツはシロだと確信した。

(ああ、良かった)

 と内心ほっとしたのは、男を殺さずに済んだからだ。シロなら放置、クロなら即殺せ。それが組織の命令だったから。

(彼に余計な血を見せずに済んで良かった)

 用が済んだ俺はレイに目配せし、話を切り上げる。きっと彼は、「投資をお願いしたい」というのが出まかせだということにも早々に気づいていたのだろう。「俺の会社に」と食い下がる男を軽くあしらい、「また連絡しますね」とさわやかに微笑んで辞した直後、ヤツの名刺をぐしゃりを握りつぶし側溝に投げ棄てた。

「申し訳ないけど、僕、もう内定もらってるんで」

「ホォー…優秀なきみのことだ、よほどいい会社に就職するんだろう」

「まあ…そこそこいい会社ですよ。結構ブラックですけど」

 打ち上げしましょうよと言い出したのはレイだ。彼と離れがたくて、つい頷いてしまったのは俺だ。組織への報告は明日でいい。もう少しだけ、彼との心地好い時間を味わっていたい。

 だって、学生である彼とFBIから組織に潜入している俺が、これ以上関係を築くわけにはいかないからだ。

 酒を飲んでもいいのかと問うと、彼は僕こう見えて成人してるんですよと笑った。男の前で見せていた貼りついた人形のようなそれとは違う、穏やかで楽しそうな心からの笑顔。

 はっきりと自覚した。俺はレイに惹かれている。美しく、聡明で、無邪気な彼。こんな関係でなければ…と思う反面、だからこそ出会えたのだろうということも分かっている。

 それでも…

(こんなにも、夜が明けなければいいと願ったことはなかったな…)

 セーフハウスに戻り、乾杯。彼はビール、俺はウイスキー。とりとめのない会話すら楽しくて仕方ないのだから重症だ。

「アジア人は幼く見えるものだが、きみはとりわけそうだな」

「諸星さんだってアジア系だろ。ていうか日本人?でも眼は緑だから、ハーフ?」

「クォーターだよ。四分の三は日本人」

「へぇ…きれーだね、その眼」

「…きみこそ」

 俺の眼を覗き込むレイの顔が、少しずつ近づいてくる。ああほんとうに、美しい瞳だ。軽い酩酊状態からうっすら赤くなった目元に、熱く潤むブルーグレイの双眸。

「まるで、海を映した宝石みたいで…」

「…ほんと?うれしい…」

 レイの甘い微笑みがますます近づく。体温を感じるほどに。そっと頬に手を添える。ああ…あたたかい。親指で滑らかな肌を撫でると、レイが猫のように俺の手に頬をすり寄せてくる。

「諸星さんの手…おっきくてあったかい…」

 たぶん、俺たちは互いに惹かれあっていた。どうしようもなく。

 そっと唇を重ねたのは、双方からだった。触れるだけのキスが俺の内側を熱く滾らせる。

 このまま永劫になってしまえと願うほどの口づけ。名残惜しそうにゆっくりと唇を離すと、レイは哀しそうに儚い笑みを浮かべた。

 もうタイムリミットなのだと、わかった。

「またいつか会えるだろうか…」

 俺の問いに、彼は祈るように瞼を閉じる。

「ええ…もしかしたら、きっと」

 



 * * *




 3日後、俺はベルモットに呼び出されて組織のアジトへ向かった。

「あなたの仕事は充分に評価されたわ。今日からあなたは“ライ”。悪くないでしょ?」

「…ああ、悪くない」

 晴れない気持ちを押し隠すように煙草に火をつける。これで組織の中核に一歩近づいた。これでいいのだと己に言い聞かせながら、ニコチンを肺いっぱいに吸い込んだ。

 そして紫煙の向こうで人を食ったように笑いながらワイングラスを弄んでいる魔女を睨めつける。

「で?用はそれだけか」

「あら、せっかちな男は嫌われるわよ」

「フン。お前に好かれようなんざ端から思ってねぇよ」

「失礼な男」

 と、そのとき、控えめに扉をノックする音がした。ベルモットが破顔し立ち上がる。

「そうそう、あなたと同じく今日からコードネーム持ちになった子を紹介するわ」

 ガチャリ。重い音がして扉が開く。

「さあ…いらっしゃい」

 俺は瞠目した。

 なぜ。きみは誰だ。どうしてここに。次々と浮かぶ疑問と戸惑いが脳内にひしめき、だがひとかけらも言葉にならない。

 なぜなら、そこにいたのは、みずみずしく輝く褐色の肌にくすんだ金の髪を持つ青年… 

 3日前、俺と永劫にも似たキスをした青年が、あのときとはまるで別人のように妖艶に微笑む。



「はじめまして、ライ…

 バーボン。これが僕のコードネームです」



 ああ…

 俺はきっと、この絶望のような出逢いを、生涯忘れないだろう。





The  end

2023バニーの日(2760words)

 ・付き合いはじめの初々しい赤安とバニーの日

 ・挿絵つき

「赤井、知ってます?8月2日ってバニーの日なんですって」

 そう言ってこちらに笑いかけた彼は、いたずらっ子のように青い垂れ目をきらめかせていた。

「…今夜、楽しみにしててくださいね?」



 そんなことを言われて、期待しない男はいない。

 赤井秀一は逸る気持ちを抑えて、降谷の自宅のインターフォンを押した。

 紆余曲折を経て正式に降谷と恋人関係になったはいいものの、激務に追われ恋人らしいことはほとんどできていないのが現状だ。実際デートは数回食事に行っただけだし、セックスだってたった2回、それも緊急招集やら何やらで余韻に浸る余裕もなかった。合鍵をもらうどころか、お互いの自宅に行ったこともない。

 そんな折にやってきた“バニーの日”であり、冒頭のセリフである。

 これはもう、お誘い以外のなにものでもないと赤井秀一は確信していた。そして降谷も赤井と同じように恋人とふたりだけの時間を過ごしたいと望んでいるのだわかって内心湧き立った。心のなかではオーディエンスが総員スタンディングオベーションだ。

 しかも明日は双方休み。オフ。つまり仕事に行かなくてもいい日なのである。

(スキンはちゃんと準備した…ローションは降谷くんの家にあるから…待て待て、まずは食事だろう。そのあとシャワーを…どうせなら一緒に…)

 今にもスタンディングオベーションしそうな股間を懸命に抑え込みながら、赤井はセックスを覚えたてのティーンのように今夜に向けて念入りにシミュレーションをした。

(ようやくきみに触れられる…降谷くん…いや、零…)

 インターフォンを押して数秒、扉の向こうからパタパタとこちらへ向かう軽快な足音がして、赤井は相好を崩した。まったく、きみは足音さえもかわいいのか。かつてはあのしなやかな脚が放つ重々しいキックを喰らって吹っ飛んだものだったが。

 カチャリ、解錠する音がして、ゆっくりと扉が開く。現れた降谷をみて、赤井はだらしなく頬が緩みそうになった。

「…いらっしゃい、赤井」

 照れくさそうにはにかみながら上目遣いで赤井を見つめる降谷。ただでさえかわいい笑顔をさらにレベルアップさせているのが、降谷の頭のうえにぴょこんと飛び出ているうさぎの耳だ。ピンク色のふわふわとした毛でできており、おそらくカチューシャのようなものでつけているのだろう。

 降谷零が、恥ずかしそうに頬を染めてピンクのうさ耳をつけている。おそらく――いや9割9分9厘、自分のために。

 その事実に赤井はたまらない気持ちになった。降谷へのいとおしさが溢れ、思わず彼の身体を抱きすくめる。

「待たせたな、れ…いや降谷くん」

「赤井…」

 久方ぶりの抱擁、服越しに感じる体温、ほのかに香る体臭を赤井はじっくりと堪能した。降谷は一瞬驚いて身を固くしたが、やがて仕方がないと苦笑し赤井の背に腕を回した。

 と、赤井は抱き締めている降谷の身体が、やたらあたたかいことに気づいた。あたたかいし、やわらかいし、なんだかモフモフしている。

(Why…mofumofu…?」)

 まったくの想定外の感触に、赤井は戸惑いながら腕の力を緩めた。降谷の両肩を掴み、その全身に目を向け、きょとんと眼を見開く。

「降谷くん…その格好…」

「へへ…かわいいでしょう?」

 降谷は照れくさそうに、だがどこか嬉しそうに微笑んだ。

「だって、バニーの日ですから、ね?」

「…ああ、バニー、だな…」

 たしかに、降谷はバニーの格好をしていた。まごうかたなきバニーだ…ただ、それは赤井秀一の期待と大きくかけ離れていた。

 頭にうさ耳をつけていた降谷の首から下は、指先まですっぽり覆い隠すタイプの着ぐるみだったのだ。全身が艶やかな毛並みのピンク色の毛に覆われており、ふわふわもこもこと無駄に手触りは良い。良いのだが。

(まさか…ここまでとはな…)

 己の中で膨らんでいた期待(と股間)が、しゅるしゅるとしぼんでいくのを赤井は感じた。そして同時に、己の浅はかさに打ちのめされていた。

 そう…赤井と恋人になるまで降谷は性的なものにほとんど縁がなかったらしいのだ。その降谷が、“バニーの日”だからって赤井と同じバニーを持ってくるとは限らない。むしろ、誰よりも清廉として高潔な彼が、煩悩まみれの赤井と同じことを考えるはずがないのである。

(かわいらしいが…たしかに着ぐるみもよく似合ってとてもかわいらしいが…!)

 果たして、赤井秀一も恋人の前ではただの男であった。だからかわいいお誘いを受ければ期待してしまうし、期待が高じて助平な妄想を抱いてしまうし、それが外れるとものすごく残念な気持ちになってしまう。

 だが赤井秀一は、そこで「勝手に期待をしてしまった俺が悪かった」と自省することができる男であった。

「赤井…やっぱり、変ですか…?」

 黙ってしまった赤井に不安になったのか、わずかに眉を八の字にした降谷が恐る恐る問いかける。

 すると赤井は、隙がないほど完璧なジェントルスマイルで降谷に微笑みかけた。

「まさか!とても可愛らしいよ、降谷くん。似合ってる」

「…ほんとに?三十路にもなってって呆れてません…?」

「むしろ着ぐるみすら着こなしているきみに驚くばかりだよ…俺の恋人は最高だ」

 艶やかなミルクティブロンドを撫で、不安げに揺れる目元にちゅっとキスをすると、降谷はようやくほっとしたように吐息した。

「よかった…」

 その様子に、赤井もつられてフッと笑みをこぼす。

(残念ではあったがかわいい降谷くんが見られたし、何より多忙なきみが俺のためを想って懸命に考えてくれたんだ…嬉しいことじゃないか)

 さあ入って、と嬉しそうな降谷に手を引かれ、赤井は靴を脱いで部屋に上がった。

 そう、今夜ははじめて彼の部屋に招かれたのだ。きっといい夜になるだろう…そんな予感に胸を躍らせながら降谷の後についていくと、リビングに入る前でふと降谷が立ち止まった。

「…降谷くん?」

「赤井…あの、実は…」

 珍しく口ごもる降谷を怪訝に見遣ると、髪の隙間からぴょこりと覗く耳がじわじわと赤くなっていくのが見えた。

 ちらり、窺うように、それとも誘うように、降谷が赤井を振り返る。

「…このうさぎの下にね…“別のうさぎ”が隠れてるんです…」

 ジィィ…降谷がゆっくりと、胸の前にあるファスナーを下ろしていく。少しずつあらわになっていく着ぐるみの中身に、赤井ははっと息を呑んだ。

「…降谷くん、きみ、それ…」

 褐色の素肌に、白い襟と、赤い蝶ネクタイ、さらに黒いベストのようなビスチェのような…

 着ぐるみ姿を披露したときよりもさらに恥ずかしそうに頬を染め、潤んだ瞳を向ける降谷は、なによりも蠱惑的で赤井の劣情を誘った。

「…食事の後に、こっちのバニーも見せてあげますね?」

(ほんとうにきみは最高だ…降谷くん…いや零…!!)



 その後は、赤井の期待(と妄想)以上に“いい夜”になったのは言うまでもない。




おわり

アルコホル・キッス2166words)

 ・ライバボ

 ・中の人の耳舐めエピソードに感化されて書いたお話

 たぶん、ふたりとも疲れが溜まっていたのだ。

 おまけに数日間にわたり潜入していた仕事が終わり、明日から1週間のオフ。手元にはベルモットから「ご褒美よ」と渡された20年ものの高級ウイスキー(たしか時価で数万円したはずだ)。

 あまりに疲れていたため、互いにシャワーを浴びて飯も食べずにその高級ウイスキーを開ける。まずはストレート、次にロック。途中から冷蔵庫にあったビールやワインも持ち出し、空きっ腹にちゃんぽんをした結果、珍しくバーボンが酩酊状態に陥った。

「ライー?きーてますぅー?」

「ああ、きーてるきーてる」

 どこか舌ったらずに答えるライも、実は結構酔っている。顔が火照り、思考にもやがかかって、当然話はほとんど聞いていない。ソファに並んで座るバーボンがしなだれかかってきても、身体をぺたぺた触られても、ただされるがままに受け入れて空いた右手でその細腰を抱くだけだ。

 バーボンはといえば、厚い胸板や逞しい二の腕をむにむにと触りながら「ライのおっぱいすごーい」と笑う。酔って熱を持った指で鎖骨、首筋、頬に触れ、その視線がある一点に吸い寄せられる。

「ライの耳ってぇ…けっこー小さいんですねぇ」

 傾けたグラスから喉に流れ落ちるウイスキーをごくんと飲み込み、ライが首を傾げる。

「そうか?」

「うん…カラダとかほかはぜんぶおっきいのに、耳はちっちゃいの…なんかかわいい…」

 どこか楽しそうに呟きながら、バーボンの指がさわさわと右の耳朶をくすぐる。輪郭をするりとなぞり、上のくぼみに指先を突っ込みくるくると遊ばせる。

本人はただ遊んでいるだけだろうが、その動きに性感を刺激されるようで、ライは慌ててバーボンの身体を押し返そうとした。

「おい、これ以上はやめ…ッ」

 はむっ

 耳朶に濡れた感触と熱い吐息を感じ、そこを唇で食まれたのだと気づいた。ぞくりと戦慄にも似た何かが腰に走る。

「おいっバーボン…ッ」

「えへへ、かわいいでちゅねぇ〜ライ〜」

 はむはむ、ぺろ、ぺろり

 外周を甘噛みされ、耳孔を舐められる。身体を押し返そうにも、バーボンが完全に体重をかけてきているため叶わない。舌先が耳孔の奥まで入り込み、唾液を塗り込まれ、じゅううっと音を立てて吸われると、思わず吐息が漏れそうになりライは奥歯を噛み締めた。

「く、そっ…おい、この酔っ払い…ッ!いい加減にしろ…!」

「ええ〜酔ってませんよぉ〜」

 バーボンの言は完璧に酔っ払いのそれである。その間も後ろから腕を回して左耳をこすこすと撫で、空いた右の人差し指で頚動脈、喉仏をするりとなぞる。

 もう我慢ならなかった。

「バーボン…覚悟しろよ…」

 ライの翡翠色の瞳がぎらりと煌めく。

 え、と思う間も無く、ライが腰に回していた右手でバーボンの臀部を鷲掴んだ。

「うっひゃあ!ちょっ、何すんですかぁ〜!」

 バーボンの反応は色気もくそもないものだったが気にしない。男のくせに柔らかな臀部を揉みしだき、滑らかな曲線を描く腰を撫で、シャツの隙間から引き締まった脇腹を直接愛撫する。すると、バーボンの声に少しずつ艶が混じってきた。

「あ…ッ、もぉ、やめてくださ…いっ…ンッ!」

 その隙にグラスをテーブルに置く。両手が自由になればこっちのものだ。

 右手は変わらず腰周辺に触れながら、ライは左手をバーボンの首元に滑らせ、その細い顎をくいっと持ち上げた。

「らい…?」

 どこか不安げに揺れる濡れたベイビーブルー。それがまたライをたまらない気持ちにさせる。いつまでも見ていたい衝動を堪え、ライはバーボンの顔を容赦なく横に向けた。そうして現れた小麦色の耳に、がぶりと噛み付く。

「ッあああ…っ!」

「お返しだぞ、バーボン?」

 ふふっとちいさく笑んだライは、その口と舌と歯を駆使してバーボンの形の良い耳を愛撫し始めた。

「ああ…っ、やぁー…や、そこやらぁ…ッ」

「やだ?いい、の間違いだろ…?」

「ちが…っ、ん、んああっ、あっ、奥だめぇ」

「そうか、奥がいいんだな」

 じゅるっ、れろれろ、かりっ、じゅるるるっ

 淫らな音に聴覚と触覚を支配され、熱い両手で全身を愛撫されると、バーボンはただびくびくと身体を跳ねさせ、あえかな声で喘ぐことしかできない。

 と、ライの左手がするすると下がっていき、バーボンの下腹部に触れた。

「んあッ!や、だめぇ!」

「おいおいバーボン…これだけで勃たせてんのか?」

 そう耳元で囁くと、その顔と耳がさらに真っ赤に染まる。

 バーボンのそこは、ズボンの上からでも分かるほどに反応していたのだ。

「やらぁ…ちがうもん…」

「何が違う?こんなにはっきり勃起させて」

 からかうように再び耳朶を食んで引っ張ると、びくりと反応したバーボンの瞳が涙に濡れて揺らいだ。

 もうだめだった。理性なんかとっくに灼き切れている。

 ライがバーボンの肩を押すと、その身体は簡単にソファに倒れ込んだ。上から覆い被さると、バーボンが上目遣いで見上げてくる。熱く濡れたベイビーブルー。

 腹の奥底から、どうしようもない衝動が沸き起こり、ライは舌舐めずりをした。

「…最初に仕掛けたのは、おまえだからな」

 貪るように噛み付いたバーボンの唇は、極上の果実のようだった。




おわり

ハニーキャットな彼4659words)

 赤井が降谷さんの髪の毛と同じ毛色の猫を拾うお話

 ・SF(少し不思議)

 冷たい雨のそぼ降る夜。

 駐車場に停めてある愛車に乗り込み、ドアを閉めようとした瞬間だった。


「…ンナァー…」


 微かに、だが確かに、か細い動物の鳴き声が聞こえた。恐らく猫だろう。声の出どころは不明だが、愛車のすぐ近くであることは予想がついた。

 このまま発進して万が一轢いてしまったりしてはまずい。

 そう思って傘もささずに車外へ出る。隣の車との間、車体の後ろや下にはそれらしき姿はない。襟首から冷たい雨が入り込んでブルリと寒気がした。

 と、再び小さな鳴き声。おずおずと、遠慮がちに助けを求めているようなその声に、もしやと思い至る。

 愛車のボンネットを開けると、案の定、エンジンルームで丸くなっていたのは、猫だった。

「ンナァ」

 赤井に見つかったというのに、その猫は逃げも怯えもせず座ったまま、首をしゃんと伸ばして一声鳴いた。まるで「よく見つけたな」とでも言いたそうな、偉そうな態度である。

 ようく見れば、だいぶ毛並みのいい成猫だった。艶々したハニーブロンドの毛は長めで、すらりとした体躯にちいさな頭は人間ならモデル並の体型になるだろう。そして一心に赤井を見上げる双眸は、澄んだ碧(あお)だった。

「…きみ、どこから来たんだ」

 思わずそう話しかけてしまったのは、その猫の風貌がどこかの誰かによく似ていたからだ。

 今も尚、トリプルフェイスを巧みに使い分けて例の組織を壊滅せんと暗躍している彼。浅からぬ因縁がありながら表面上は一応和解した、だがあの工藤邸での一夜以来、赤井との接触を一切絶っている彼に。

 赤井の質問に、猫は小首を傾げるばかりだ。ぺろぺろと前脚を舐めるさまは余裕ぶっているようだが、後ろ脚や尻尾には緊張が見られる。

「…もしかして、迷子なのか?」

 そう尋ねると、猫はちらりと赤井を見遣った。どうやら答えはYESのようだ。それなのに素直にそうとは言えない天邪鬼。本当に、誰かさんを彷彿とさせる。

「…おいで」

 微笑んで、赤井は姿勢良く座っている蜂蜜色の猫にそっと手を伸ばした。



「…ッツ…」

 自宅代わりのホテルに帰り着いた赤井は、熱いシャワーをかけた途端走った痛みに顔をしかめた。

 袖を捲った両腕には、いくつもの小さな切り傷がある。

「…きみのせいだぞ」

 恨みがましい眼で足元を見ると、そこにちょこんと座した猫が気まずそうに視線を逸らした。

 それらの傷は、すべてこの猫につけられたものだ。愛車のエンジンルームから猫を掬い上げたまでは良かったが、その身体が想像以上に冷えていたのに気づき、ジャケットの中で温めようと懐に入れたら、急に「ブニャーッ」と叫んで暴れ出したのである。

 それが猫とは思えないほど強い力で、赤井も本気で対抗する羽目になった。さすがに衣服が破れることはなかったが、その剃刀のように鋭い爪が何度も肌を掠った。

 なんとか猫を宥めすかして抱きかかえながら帰宅した赤井は、大して汚れてはいないが首輪がない以上野良猫である可能性が高いと考え、こうしてバスルームへ直行したわけである。

「さあ、まずは身体をきれいにしよう」

 ぬるま湯を張った洗面器を示すと、猫は意外にも自らその中へ足を進めた。湯の中央に姿勢良く座り、「洗え」と言わんばかりのふてぶてしい態度に赤井は思わず笑みを漏らす。

(なるほど…他人に強制されるのがいやなのか)

 洗面器の湯を掬い、艶やかなハニーブロンドにそっとかけると、猫は気持ちよさそうに目を細めた。猫は水を嫌がるというのが一般的だが、この猫は例外らしい。ボディソープの泡で優しく身体を洗うと、猫はさらにうっとりとした表情を浮かべた。

 まるでプライドの高い女王様のようだ。だが赤井は、そのクイーンに仕えるのが嫌ではなかった。

 そう、そんな仕草も佇まいも、“彼”のように思えて仕方がないから。

「…きみ、降谷くんに似てるな」

 ぼそりとしたつぶやきに、猫がぴくりと髭を震わせ顔を上げた。バスルームの明るい照明を浴びて、そのブルーの瞳が煌めいている。

 彼とおなじ、美しい碧。

 その色に見つめられると、赤井のなかから燃え盛るような衝動が沸き起こるのだ。

 ずっと眺めていたいような、大切に仕舞っておきたいような、自分の手で汚してしまいたいような、独り占めしたくなるような、度し難い感情。

 胸を焦がすようなそれを振り払うようにシャワーコックを捻る。だが少々捻りすぎたのか、勢いよく噴き出たシャワーが猫の顔と赤井のシャツを濡らした。

「ンニャッ!」と叫んで、猫がブルブルと全身を震わせると、水滴と共に泡が飛んで赤井のシャツがさらに濡れる。

「すまない、つい…だが俺もこれは脱ぐしかないな…」

 ふむ、と思案した赤井は、すぐさまシャツのボタンを外し出した。

 びっくりしたように目をまんまるにする猫に、赤井がにいっと笑いかける。

「せっかくだ、裸の付き合いといこうじゃないか」



 風呂から上がると、猫はブルルっと身震いして水滴を払ってから満足そうに伸びをした。次いでソファに置かれたタオルに、自ら身体をこすりつける。

 その隣では、紅潮した顔に冷えたペットボトルを押し当てながら、赤井がぐったりと座っていた。

「きみ…風呂が好きなんだな…」

 そうぼやくと、猫は「その通り!」とでも言うように「ナッ」と短く鳴いた。

 猫は風呂の湯も嫌がらなかった。それどころか全身を洗い終えたら湯船に入れろと主張し、赤井の膝の上で、赤井がのぼせるまで風呂を楽しんだのである。

「きみ…本当に人間みたいだな…」

「ンナ?」

「風呂好きだったり、俺が裸になったときは恥ずかしそうに俯いたり…俺の言葉を理解してるみたいに反応したり…」

「……」

「ほら、黙った。やっぱり俺の言うことちゃんと理解してるんだな」

 猫は黙ったまま、しらばっくれるように濡れた毛をぺろぺろと舐めていた。

 ふふ、と笑みを漏らし、赤井がその小さな頭をそっと撫でる。

「ほんとうに、きみは降谷くんとよく似ているな…」

 ぴくり、と猫の耳がかすかに反応した。伺うように見上げたその碧い瞳に、赤井は降谷の面影を見ている。

「降谷くんはすごい男なんだ。いまもたくさんの仕事をこなしながらひとりで闘っている。凛と強くて気高くて、俺が尊敬する数少ないうちのひとりだよ」

 赤井がタオルごと猫を持ち上げ、太腿の上に載せた。濡れた身体を拭いてやりながらも、降谷への想いは溢れて止まらない。

 何故なら、赤井の降谷零に対する感情は、共に組織に敵する仲間という以上に近しくなりたいという願望と欲求を伴ったものだから。

「それに…彼はすごく可愛いんだ。容姿だけじゃないぞ。何事に対しても完璧な彼が、俺に対してだけはムキになったり突っかかったりしてくるんだ。可愛くて仕方がない。…彼には内緒だぞ?」

 やわらかな顎下をくすぐりながら人差し指を立てて猫の口に当てる。すると猫がぶわっと毛を逆立て、「ブミャアッ」と鳴きながら赤井の膝から飛び降りようとした。赤井は慌ててその身体を両手で抱え込む。

「こら暴れるな。拭けないだろう」

「ニャッ!ウニャぁ〜ッ!ナァン!」

「おいおい、落ち着け。大丈夫だから」

 なんとか宥めようとするが、猫はまるで液体か軟体動物のようにやわらかい身体をくねらせ、どうにか赤井の手から逃れようとする。

 だが、赤井は決して離さなかった。いまこの手を離したら、どこかへ逃げてそのままいなくなってしまうような気がして。

 あの夜以来、逢えない降谷零のように。

「ウウウッ、ナァッ、ブミャァア」

「ほら、大丈夫…俺はきみの味方だから」

 タオルで包んだ身体を両手で抱きしめ、ゆっくりやさしく撫でる。やがて落ち着いたのか、猫はウウウと唸りながら暴れるのをやめた。

 不満そうに目尻を吊り上げながらもおとなしく赤井の腕の中に収まっている猫に、赤井は思わず破顔する。

「OK,good boy…良い子だ」

 そして、その艶やかな蜂蜜色の頬にチュッとキスをした。

 と、そのとき。


 ボンッ!!


 腕の中の猫が爆発したように白い煙に包まれる。

 次の瞬間、赤井は腕の中に猫の何十倍もの重さを感じて反射的にそれを支えた。

 煙の中から現れたそれは、降谷零だった。

「……」

「……」

「……ふる…や、くん…?」

 赤井は呆然とその名を呟き、降谷はその丸い目をぱちくりさせる。

 降谷は全裸だった。おまけに髪や身体が濡れて火照っていた。

 そう、ついさっきまで腕の中にいた猫とおなじ、蜂蜜色の髪の毛が。

 まるで、風呂上がりのように。

「……」

「……あの…」

「……うん?」

「…えっと…その、失礼…しました」

 慎重に、降谷は赤井の膝の上から降りる。立ち上がった時に引き締まった褐色のヒップと太腿が目に入り、赤井は思わず顔を逸らした。

 だが降谷がそそくさとその場を離れようとすると、すぐさまその腕をはっしと掴む。

「…降谷くん?」

「…はい…」

「きみは…降谷くんなんだな?」

「…はい」

「…まずは…服を貸そう」

「おねがいします…」

「その後、ゆっくり話を聞こうじゃないか…きみが猫になっていた理由を」

 やさしいが、決してNOとは言えない口調で赤井は言った。背中を向けたまま降谷がおずおずと頷くと、赤井はほっとしたように吐息し、部屋を出ていく。

 バタン、と扉が閉まると、降谷はなだれ込むようにソファに座り込んだ。

(ああああ〜嘘だろぉ…?なんでいま元に戻っちゃうんだよ…)

 タオルで股間を隠すのも忘れて、降谷は悶えのたうち回った。

 脳裏に浮かぶのは、猫の姿に変化してしまった直後のベルモットの言葉である。



『ふふ…これはね、組織が開発した新薬よ。飲んだ人間を猫に変化させる薬』

『残念ながら解毒剤はまだないの。でも、ひとつだけ元に戻る方法があるわ。…なんだと思う?』

『…スノーホワイト。スリーピング・ビューティ。あとは…ビューティ・アンド・ザ・ビースト、かしら?』

 にぃ、と微笑んだその顔は、まさしく魔女の微笑みだった。

『愛する人のキスで呪いが解けるなんて、ロマンチックで素敵じゃない?』



「くっそ…どうすりゃいいんだ…」

 ソファに座って頭を抱えながら、降谷がぼやく。

 赤井の前だと調子が狂うから会わないようにしていた。それでもどうしても逢いたくなったから猫になったのをいいことに彼の車で待ち伏せしていたが、どうせ赤井のことだから邪魔だと追い払われると予想していたのだ(だからちょっと悪戯でもしてやろうという魂胆もあった)。

 まさか、寝泊まりしている部屋に連れて来られるなんて思ってもみなかったし、ましてや懐で優しく抱きしめられるとか一緒に風呂に入るとか、降谷零じぶんのことをどう思っているか(まさかの賞賛の嵐で顔から火が出るかと思った。このときほど毛だらけで良かったと思ったことはない)を赤井の口から聞かされるなんて、想定外もいいところなのだ。

 赤井のキスで、元の姿に戻るなんてことも。

 と、かすかに、扉の向こうからこちらへ近づく足音がした。

 心臓がドキリと跳ねる。じわりと汗が滲む。喉が乾く。頬が熱い。

 足音が、鼓動が、どんどん大きく、速くなる。

 それは、死刑執行のカウントダウンか、それとも。





おわり

夜明けのコーヒー(2428words)

 ・もちろん(?)付き合ってない赤安です

「…かい……あかい…」

 遠くから、俺を呼ぶ声がする。男の声。耳に馴染む、優しい声。

「あかい…おきて…赤井…」

 少し高めで、透明感があって、柔らかくて、芯が通って、だが俺の前でだけすこし甘くなる声。

 同時に瞼の向こうに明るい光を感じた。靄がかっていた意識が徐々に晴れていく。

「赤井、もう朝ですよ…はやく起きて…」

 その声に誘われるように、俺はゆっくりと目を開けた。レースカーテン越しにあたたかな朝陽が差し込む。その光に照らされて、目の前で俺を覗き込んでいる人物の顔がはっきりと見えた。

 溶かしたミルクチョコレートのように艶やかな肌、陽の光に透けてきらめく金糸のような髪、ブルーグレーの大きな丸い瞳は甘やかに垂れ、その造形はまさしく神の創りたもうた天使のようだ。

 そして俺は、その天使が俺のOne and onlyいとしいひとであることを知っていた。

「おはよう…My sweetie」

 陶器のような頬にそっと手を沿わせると、目の前の天使がふふっと吐息を漏らすように笑んだ。

「おはようございます。でももう10時ですよ、寝坊助さん」

「それは大変だ。きみと過ごす大切な時間が減ってしまう」

「そう思うなら早く起きて」

 ちゅっと俺の額にキスを落とし、天使は俺の手をするりと抜けて行ってしまう。彼が軽やかにステップを踏むと、ブロンドヘアがさらさらと揺れ、腰の後ろで結ばれたエプロンのリボンがふわりと踊った。

 寝室のドアを開けたところで、天使がくるりと振り返る。

「あ、朝ごはんはどうします?もうじきお昼ですけど」

 清潔なベッドに横たわったまま、俺は思案した。今から彼の手を煩わせてしまうのは本意ではない。それに、不思議と腹が減っていない。

「…朝はいいかな。いまはきみのコーヒーが飲みたいよ」

 そう言うと、天使はとてもうれしそうに、ひときわ美しく微笑んだ。

「あなた、本当に僕のコーヒーが好きですねえ」

「ああ、大好きだよ。もし世界が終わるとしたら、最後の晩餐はきみの作った鯖の味噌煮とコーヒーと決めてるんだ」

「食べ合わせ最悪でしょ、それ。だいたいこんなときに、そんな縁起の悪い話しないでください」

 彼の言葉に、俺は確かにそうだなと頷いた。こんなに明るくて気持ちのいい朝にすべき話ではない。

「コーヒーを淹れますから、早く着替えて顔洗って」

 そう言って、天使はキッチンへと消えていった。

 なんて幸せな朝だろう。ふかふかのベッドでゆっくり目覚めて、なんの憂いも心配事もなくて、誰よりもいとしいひとがそばにいる。まるで夢のようだ。仕事と使命に追われた殺伐とした日々はもう…

(…もう?)

 はた、と気がついた。身体が動かない。彼が待っているから起きなければならないのに、腕も脚もピクリともしない。

 そういえば、と視線を巡らす。白い壁と白い天井、窓にかかる白いレースのカーテン。

 どこだ、ここは。ここは俺の部屋じゃない。

 と、部屋の向こうの方から香ばしい香りが漂ってきた。ああ、いとしいひとがコーヒーを淹れてくれている…いとしい…彼は…

 いや、違う。コーヒーじゃない。この匂いは知っている。

 よく嗅ぎ慣れた、これは…この臭いは…


(爆薬と…血だ)







「ーー赤井ッ!」

 がくんと大きく体を揺さぶられ、赤井は固く閉じていた瞼を開いた。

 途端に眩い光が眼に突き刺さる。それは朝陽ではなかった。炎だ。真っ赤な火があちこちで燃え盛っている。

「赤井、こっちを見ろ。僕がわかるか」

 無理矢理顎を掴まれ顔を正面に向けられると、目の前で必死の形相をしている男が眼に入った。

 ミルクチョコレート色の肌、炎に煽られて靡くブロンドヘア、そして濡れたブルーグレーの瞳。

「ふる…や、くん…?」

 呟くようにその名を呼ぶと、降谷零はほっとしたように口角を緩めた。

「よかった。意識は無事のようだな」

「いったい、なにが…ッ!」

 身体を起こそうとすると、腹部に激痛が走った。見れば、右の脇腹に大きな傷があり出血している。そこだけではない、身体中に大小の裂傷、火傷、出血、痣が認められる。自分も、そして目の前の降谷も煤だらけだ。さらに、己の身体がコンクリートの瓦礫の中に倒れていることに気づいた。

 脱いだジャケットでテキパキと止血を施しながら、降谷が言った。

「記憶が混濁してるようですね。あなた、爆発に巻き込まれたんですよ。さっきまで瓦礫に埋もれてたのを僕が助けてあげたというわけです」

「ああ…そうか…」

 赤井はようやく思い出した。今は、組織掃討作戦の真っ最中。降谷の指揮のもと組織のアジトを叩くべく待機していたら、ビルが突如爆発したのだ。

(あのしあわせな光景は…本当に夢だったのか)

 どこか落胆した気持ちの赤井の前に、さっと手を差し出したのは降谷だった。

「さ、行きましょう」

「…?」

「何ぼーっとしてるんです。幸い脚の骨は折れてない。早く逃げないとまたコンクリに潰されますよ」

 頷き、赤井が降谷の手に己のそれを重ねる。その手はあたたかく力強かった。

 不意に、強い光が目に刺さる。夜明けだ。ビルとビルの間から、真白い朝陽が差し込んでいる。

 降谷に支えられて歩きながら、赤井はふと朝陽に照らされる彼の横顔を見た。

 決して諦めまいと、凛と前を見据える燃えるような瞳。

 理解した。そうだ、これが赤井の好きな降谷零なのだ。

「…降谷くん」

「なんです」

「帰ったら、きみのコーヒーが飲んでみたい…俺のために、コーヒーを淹れてくれないか」

 降谷が驚いたように振り返る。そうして見せた笑顔は、薄汚れていたけれど夢の中の彼よりも美しいと思った。

「ちゃんと帰れたら、ね」

 きっと彼の淹れてくれたコーヒーは世界一美味いのだろう。そんな予感に胸を弾ませながら、赤井はちいさく微笑んだ。





おわり

from ZERO(2901words)

 ・「Kill me,Baby」の続き

 ・赤も安もでてこないけど赤安です

 ・挿絵つき

 あの日のことを今でもよく憶えている。

 学校からの帰り道。血のように真っ赤な夕焼けを背負った彼は、顔が影になってどんな表情をしているのか分からなかった。

 組織が瓦解し、元の身体に戻れる可能性が高まってきた頃だった。



『安室透は、…降谷零は、死にました』


『君には、直接伝えた方がいいかと思って』



 咄嗟に言葉が出なかった。言葉の意味はわかっても、理解することは出来なかった。ましてや、信じることなど。

 嘘だ。有り得ない。ふざけるな。頭に浮かんだ反論は、しかしそれを宣告した死神のごとき男の様子に飲み込まれた。

 男は泣いていた。涙を流さず、声も上げず、深い悲しみと怒りを必死に押し殺して。

 公安に勤めている彼が見せた激情は、その言葉がまことであることの証左でしかない。

 男…警視庁公安部の風見裕也は無言で会釈し、踵を返した。何か言わねば、と思ったが、結局何と言えばいいか分からず喉が詰まった。

 かろうじて出たのは、ただ一言。

『どうして…!』

 振り返った彼の顔は、夕陽に照らされて尚、昏い闇の中にいた。



『殺されたんだ…赤井秀一に』




*  *  *




「…工藤くん?」

 名を呼ばれはっと我に返ると、向かいに座っている宮野志保が怪訝そうにこちらを見ていた。

「どうしたの?考え事?」

 さして心配している様子もなく、手にしたマグカップの中身にふうふうと息を吹きかけている。見れば、新一の前にもコーヒーの入ったカップが置かれていた。どうやら彼女が淹れてくれたようだ。

「ああ、悪い。ちょっと昔のこと思い出してた」

「あら、珍しい。今追ってる事件より大事な思い出?」

「茶化すなよ」

 湯気を立てているマグカップを両手で持つ。火傷しそうなくらいの熱が、強張っていた気持ちを少しほぐしてくれるようだった。

「公安の風見さんが、俺に会いに来た時のこと」

 その言葉に、志保の眉がぴくりと反応した。ゆらゆらと波打つコーヒーを眺めながらぽつりと呟く。

「もう…3年も経ったんだな…」

 その言葉は思いの外淋しげな響きを帯びていた。それを聞いて、志保がマグカップをテーブルに置く。

「3年経っても何年経っても、忘れられるものじゃないわ。何度も思い出して、何度も泣きたくなるけど、それでいいのよ。それだけあのひとのことは信頼してたでしょう」

 志保なりの慰めに、新一は口角を緩めた。

「…サンキューな、宮野」

(けど、それだけじゃないんだよ)

 かつて新一が志保に話したのは、“安室が誰かに殺されたらしい”ということだけ。殺した相手が彼女の従兄弟だとは、とても言えなかった。

 赤井秀一が安室透こと降谷零を撃ち殺したという事実は、ごく一部の者しか知らない。警察内部でも秘匿されているようだ。当然だろう、組織壊滅の最大功労者である現役FBI捜査官が、同じく最後まで組織に潜入し暗躍していた公安、それも“ゼロ”の警察官を殺したなど、不祥事以外の何ものでもない。

 しかも、直後から赤井秀一は失踪していた。表立って指名手配はしていないが、各国の捜査機関が四方八方手を尽くしているにも関わらず、見つからないらしい。

 かく言う新一も、大学生と探偵業の傍ら、赤井の行方を探しているがまるで手掛かりはない。

「コーヒーありがとな。頼んだ映像の解析、よろしく」

「はいはい。ほんと人使いが荒いんだから」

 コーヒーを飲み終わったところで、新一は阿笠邸を辞した。元の身体に戻ってからも、志保は探偵・工藤新一の助手のような役割を担ってくれている。新一にとってのワトソンだ。文句を言いながらも引き受けてくれるあたり、彼女もやり甲斐を感じているのだろう。その関係は未だに変わらない。

 自宅に戻ったとき、郵便受けに封筒が挟まっていることに気付いた。家を出るときはなかったので、届いたばかりなのだろう。

 郵便受けから封筒を取り出す。新一宛の真っ白い封筒で、国際郵便だった。差出人の名前はない。宛名の字にも見覚えはなかった。

 なにやら気になり、封筒の裏を再度確認する。と、左下に小さなマークが書かれていることに気づいた。

 縦長の楕円。アルファベットのOだろうか。

 何か頭に引っかかるものを感じながら、新一は玄関の扉を開け自宅に入っていった。





 深夜23時を回り、風見はようやく自宅マンションに帰ってきた。

 近頃、国内外ともにきな臭い。現在はとある右翼団体の幹部と思しき人物に張り付いて動向を探っているのだが、なかなか尻尾が掴めない。おかげで連日帰宅は深夜だ。公安として他の案件も抱えているため、休みを取るのも一苦労である。

 いや、それだけではなかった。3年前、降谷零が亡くなってから、風見は心が死んだように感じていた。深い恨みと憎しみが己の中に居座り、根を張って動かない。しかし、それを誰に向けていいかがわからなかった。ただ心を無にして仕事をこなすことだけを考えていた。それしか、その気持ちを気に掛けずに済む方法がなかったのだ。

 疲労が溜まった身体を引き摺るようにエントランスに入る。郵便受けを覗くと、いくつか封書が届いていた。公共料金の請求書、米花デパートのダイレクトメール、それらに混じって1通、真っ白い封筒があった。

 どうやら国際郵便のようである。海外に知り合いなどいただろうかと何気なく裏返すと、差出人の名前はなかった。

 ただ、封筒の左下に、小さな楕円が書かれている。

 アルファベットのOのような、数字のゼロのような。

 風見はハッとして、急ぎ足でエレベータに向かった。

 胸がざわざわと騒ぎ立て、心臓がうるさいくらいに高鳴っている。

 慌ただしく鍵を開け、自宅の扉を閉めると靴も脱がずにその場で白い封筒の口を破いた。震える手で、ガタガタの破れ目から中身を取り出す。

 葉書サイズの紙が二枚。一枚は真っ白いメモのようだった。

 そこには、ただ一言。



“I'm ok”



 恐る恐る、そのメモの後ろにある紙を取り出す。

 それは写真だった。抜けるような青い空と、太陽にきらめく青い海が写っている。場所を特定できそうなものはない。

 その写真の左端に、ぼやけた人影があった。男の後ろ姿だろう。写っているのは腰から下だけで、清潔感のある白いシャツとチノパンを履いている。

 そのシャツの袖から伸びる腕は、陽に焼けたような小麦色をしていた。その色を、風見はよく知っていた。

「あ…ああ…」

 その小麦色の手は、誰か別の人物の手を引いているように見える。その手は大きくて、色白で、骨張っていて、逞しい男のそれのようだ。

 急速に視界がぼやける。泣いているのだと気づいたのは、写真を持つ手に水滴が落ちたからだった。

 風見には分かったのだ。その手前に写っている人物が誰なのか。そして、この写真を撮ったであろう、彼と手をつないでいる人物が誰なのか。

(ふるやさん…降谷さん…!)

 三年前から凍っていた心が、ようやく溶け出し、確かに脈打つのを感じた。

The end.

Kill me,Baby(3794words)

 ・⚠️軽い死ネタあり

 ・本当に死ぬわけではありませんが、赤井が降谷を殺す描写があります

あかい、お願い。

ぼくをころして。

どうせいつか死ぬのなら、ぼくはあなたに殺されたい。


頼む、赤井。

ぼくを殺してくれ。


------


 風見は走っていた。

 疲労の溜まる脚を懸命に動かし、必死になって肺に酸素を送り込み、ひとりの男の名を何度も何度も呼びながら。

(降谷さん…降谷さん…!)

 彼がいるのはあそこだ、という予感があった。それは直感でしかなかったが、半ば確信でもあった。

(あの男が…降谷さんを手にかけるなら、あそこしかない)

 かつて警視庁公安部に所属していた、そして降谷とともに例の組織に潜入捜査をしていたという、降谷の親友が殉職した場所。あの男が、降谷の親友を殺したという、あの屋上。

 ようやくビルの裏手に辿り着く。だが屋上まではまだだ。錆びついた外階段を駆け上がる。風雨に晒されかなりボロボロだが気にしていられない。腿の筋肉が悲鳴をあげる。目が霞む。肺が軋む。

 あと1階分、まもなく屋上だ。

(降谷さ…!!)


 ガァン!!


 轟音が耳をつんざく。銃声だ。

 風見は最後の力を振り絞り、階段を駆け上がった。

 屋上について最初に目に入ったのは、闇夜に佇む死神の背中だった。


「遅かったな」


 鋭い目付き、こけた頬、上も下も黒装束に包まれた死神は、下ろした左手に拳銃を持っていた。引き金に人差し指がかかったままのその銃口からは、ゆらりと一筋の硝煙が立ち昇り、あたりには火薬の匂いが漂っている。

 からからの喉から、風見は死神の名を絞り出した。

「赤井…秀一…ッ!」

 死神の前には、コンクリートの壁に背を預け項垂れる人影がある。見覚えのある金髪、褐色の肌、グレーのスーツ。なのにその顔は、まるで見たことのない表情をしていた。

「降谷さん…ッ!」

 風見は倒れている男に駆け寄った。死神になど構っていられなかった。

「降谷さん…降谷さんッ!」

 男の前に膝をつき、その肩を揺さぶる。男の身体は弛緩しきって何の抵抗もない。

 生気のない頬は二度と動かず、固く閉じた瞼は二度と開かないのだろう。左胸を中心に飛び散った血飛沫を見れば、それは一目瞭然だった。

 それでも風見は、一縷の望みを託して首の血管に触れた。そこは、ひとかけらの脈も打っていなかった。

「心臓の鼓動を聞いても無駄だ…拳銃で心臓をぶち抜いてやったからな」

 風見が振り返り様、死神を睨め付ける。その飄々とした様子に、腹の底からマグマのような怒りが湧いてきた。

「赤井…貴様ァ…!」

「降谷零は死んだ。どうせ君達も彼を殺す予定だったんだろう。組織なき今、知り過ぎた彼は君達にとってお荷物だからな」

 思わず、ぐっと奥歯を噛み締める。赤井の言う通りだった。警察上層部は密かに降谷零の抹消を画策していた。風見はその噂を耳にしてから、なんとか降谷を逃せないか裏で駆けずり回っていた。しかしその前に、赤井に降谷を殺されてしまった。

 風見は怒りに涙を滲ませながらさらに赤井を睨んだ。

「貴様は…情も涙もないのか」

「確かに彼はいいパートナーだった。仕事の上ではな。だが、彼は俺のことも知り過ぎている。FBI(われわれ)

にとっても消えてもらった方が都合がいいのさ」

「…悪魔め」

 赤井がふっと鼻で笑った。その昏い微笑みは、まさしく死神のそれだった。

「彼を殺せるのは、俺だけだ。…俺を殺せるのは彼だけだったのと同じようにな」





 降谷零の遺骸は赤井が引き取った。風見は反対したが、降谷に後を頼まれたのだと強く主張すると渋々納得した。

 都内を適当に走り尾行がないことを確かめてから、赤井の運転する車は郊外の寂れたマンションに入っていった。ここは地味だが、意外にセキュリティがしっかりしている。公安はもちろんFBIですらその存在を知らない、赤井の昔からのセーフハウスの一つだった。

 血塗れの降谷の身体をシーツで包んで、赤井は地下の駐車場からエレベーターに乗った。幸い誰にも会うことなく部屋に辿り着く。寝室のベッドに降谷をそうっと横たわらせ、シーツを剥いだ。

 顔に付着した血液を拭い取ると、降谷はただ眠っているだけに見えた。その冷えた頬をさらりとひと撫でし、赤井はベッドサイドのテーブルから注射器を取り上げた。

「待ってろ…今、生き返らせてやるから」

 注射器には透明の液体が入っており、その針は太く長い。針の先端を、降谷の左胸の脇に当てる。

「…すまない」

 肋骨の隙間から、心臓目掛けて、注射針を思い切り突き刺す。

 その瞬間、降谷の固く閉じていた瞼がカッと見開かれた。

「…ッああぁッ!」

 絶叫とともに降谷が跳ね起きた。すぐに苦しそうに何度も咳き込む。その身体を掻き抱き、赤井は背中をさすった。

「大丈夫だ、降谷くん。作戦は成功した」

 涙に潤む眼で見上げ、降谷はその腕に縋り付くように赤井の身体を抱き返した。




 一時的に仮死状態になるのだ、と赤井は説明した。

「この特注の弾丸を心臓のある1箇所に正確に撃ち込めば、心臓は止まり傍目には死んだように見える。そして1時間以内に心臓に直接この解毒剤を打てば、仮死状態から復活できる。文字通り生き返るんだ」

 僕を殺して欲しい、と言ってきた降谷に対し、赤井が提示したアイデアだった。これで公的には降谷零は死ぬ。死んだ者は殺せない。だから日本警察には降谷零は殺せない。

「俺はきみに死んで欲しくない。降谷零を消してでも、きみには生きていて欲しいんだ」

 赤井の訴えを、降谷は受け入れた。心臓のある一点に正確に弾を撃ち込むのは並大抵のことではない。さらに1時間以内の解毒剤投与が間に合うのか、間に合ったとて本当に効くのか。

 一か八かの大勝負を、降谷は赤井に賭けた。そして、勝った。



「まさかこんな大勝負をあなたに預けることになるなんてね…」

 自嘲気味に降谷が笑った。赤井のベッドで上体を起こして、清潔な衣服に着替えて。そして赤井に向かってこうべを垂れる。

「あなたじゃなければ、僕は本当に死んでいました。ありがとうございます。この礼はいつか必ず」

「礼なんかいらないよ。これは君を死なせたくないという俺の我が侭だ。きみこそ、俺の無謀な賭けによくぞ乗ってくれた」

「…言ったでしょう。どうせ死ぬなら、あなたに殺してほしいって」

 一番の味方だったはずの存在に裏切られ、疎まれ、存在を抹消されかけた。その恐怖と傷は計り知れない。

 “降谷零”は死んだ。“バーボン”も、“安室透”も。ここにいるのは、名も無いひとりのただの男だ。

「これで、僕は正真正銘の“ゼロ”です。何も無くなった。何もかも、ゼロからのスタートです」

 もはや諦観すら乗り越えたのだろう、降谷の笑顔は美しく、どこか吹っ切れたような清々しさがあった。

 降谷が振り返る。赤井に向けたその眼は、肚を括った者の強い覚悟が揺らめいていた。

「赤井。バーボンでも安室透でもない、降谷零でもないぼくを、あなたは信じてくれますか」

 赤井は降谷を見つめ返した。この美しく仄白い碧い焔を、いつまでも見ていたかった。いつまでも、自分だけを見ていてほしかった。

「信じるよ。名前があろうと無かろうと、きみはきみだ。俺が認めた、たったひとりの男だ。どんな名でも、何をしても、きみはきみだろう」

 赤井の言葉に、降谷はほっとしたように口角を緩め、息を吐いた。「僕を殺して欲しい」と赤井に会いに来てからずっと思い詰めた表情をしていた降谷が、ようやく見せた心からの笑顔だった。

 静かに頷く降谷の手に、赤井は己のそれを重ねる。しなやかで骨張った、働く男の手。

「…きみが、生きてくれて本当に良かった」

 初めてかもしれない。人を撃つ前に、手が震えたのは。初任務のときですらあんなに緊張しなかった。もし、着弾した位置が1ミリでもズレたら。破片で大きな血管を破いてしまったら。解毒剤の効果が現れなかったら。もし、万が一、この弾丸が本物の弾にすり替えられていたら。

 そんな不安や憶測や妄想は、しかし銃を向けられた降谷を前にして霧散した。

 あの、赤井にすべてを預け、すべてを受け入れんとする、無垢な表情。

(この俺に、スコッチを見殺しにした俺に、きみは、きみ自身を託してくれたんだ)

 その瞬間、赤井の心の底から湧き起こったのは、震えるほどの歓喜だった。



「さて、これからどう生きていくか考えなくちゃな。何にせよ仕事はしないと食べていけないし。新しい名前も考えなきゃ」

「ゆっくり考えるといい。しばらくは身を潜めておいた方がいいだろうから時間はある。俺も全面的にサポートする」

 降谷が驚いたように目を見張る。きっと、彼としては赤井との今までの関係もすべて清算するつもりだったのだろう。だが、赤井はその逆だ。

(叶うなら、この先の未来を俺と一緒に生きて欲しい)

 赤井が右手を差し出す。降谷が目を伏せ、その手に己の右手を重ねる。

 いつか、生まれ変わった彼が新しい人生を歩み出し、赤井が傍にいることを許してくれるなら。

 その時こそ、さっき心のなかで付け加えた言葉を伝えたい。

 そう強く願いながら、赤井は、生まれ変わったばかりの名も無き男と固い握手を交わした。




Continue...

雨上がりの空に(2441words)

 ・赤安に北鎌倉デートしてほしいなと思って書きました

 ・文中のお寺は実在のものです

「ねぇ、ちょっと付き合ってくれませんか」

 そう言った降谷の笑顔は、朝陽に消え入りそうに美しかった。



 例の組織が事実上壊滅しても、世界中にまだその残党が散らばって大小の事件を起こしているのが現状だ。

 鎌倉の廃寺に残党が潜んでいるとの情報が上がったのが2日前。その情報の裏を取り、神奈川県警に協力を仰ぎながらFBI数名とその廃寺に乗り込んだのが昨日22時。残党たちは思いのほかしぶとく、夜半からの雨の影響もありなかなか捕えられなかった。山中での追いかけっこの末ようやく確保した頃には雨も上がり、太陽が顔をのぞかせていた。

 身柄の移送を神奈川県警に任せ、部下に労いの言葉をかけた降谷零は、山際から昇る太陽を見上げ目を細めた。午前7時。人通りが増える前に解決できて良かったとほっと息を吐く。

 と、そこへ、

「降谷くん、使うか?」

 目の前にタオルを差し出してきたのは赤井秀一だった。夜通し雨の中を駆けずり回ったせいでふたりとも濡れ鼠である。降谷が礼を言ってタオルを受け取ると、赤井は自身の被っているニット帽を脱ぎ、ぎゅうっと絞った。

「あっはは、雑巾かよ」

「君のスーツだって泥だらけだぞ。すぐにクリーニングに出したほうがいい」

 遠くで撤収の号がかかる。この後は事情聴取だが、それは降谷の仕事ではない。タオルで頭をがしがし拭きながら「行くぞ」と歩き出す赤井に、降谷は声をかけた。

「ねぇ、ちょっと付き合ってくれませんか」



 鎌倉の中でも、北鎌倉は古刹が多い静かなエリアだ。通学中の学生たちの波に逆らうように、降谷と赤井は北に向かって歩いていた。会話はない。降谷が先導して、ただ黙々と進んでいく。

 まもなく北鎌倉駅に到着するという頃になって、降谷が左に曲がった。石畳の向こうには長い階段と山門が見える。

「東慶寺。臨済宗円覚寺派の禅寺です。僕、このお寺が大好きで」

「ホォ、初耳だな」

「言ってませんからね。ほら、見てください」

 降谷が上を示す。そこには、長い階段の両脇に大輪の紫陽花があった。青、紫、薄青に赤紫、さまざまな色の紫陽花が満開に咲き誇っている。

「見事だな」

「このお寺は、四季折々にいろんな花を楽しめるので有名なんです。あまり観光客も多くないので、僕のお気に入りの場所なんですよ」

 階段を一歩ずつ昇っていく。雨露に濡れた紫陽花が陽の光を反射してきらきらと光っている。まるで降谷の両の瞳のようだと、赤井は思った。

 山門をくぐると石畳が続く。両脇の梅の木には青々とした実がついて重そうだ。

 見渡すと、整えられていない自然のままの庭園がそこにはあった。

「いいところだな」

 赤井は素直にそう思った。赤桃色の皐月、乳白色の蛍袋、橙色の鬼百合。初夏の鮮やかな緑の合間にランダムに配置された花々は、朝陽を浴びて見よと言わんばかりに堂々と咲いている。

「でしょう。この時期は特にきれいで。春は桜に梅、秋は紅葉。いつ来ても素晴らしい庭なんです」

 もちろん冬もね、と降谷は付け加えた。

 二人並んで本堂に向かう。経も真言も赤井は詠めないが、降谷に倣って手を合わせているとそれだけで心が凪いでいくように感じた。

 仏に手を合わせるとは、己と向かい合うのと同義だと赤井は考える。そうして向かい合うと、この先どうすべきかの道筋が見えてくる気がするのだ。

 赤井は合掌を解き、降谷に向き直った。

「零…次は秋に来よう。ここに、一緒に」

 降谷はゆっくりと瞼を開けた。振り返ったその目には、穏やかな哀しみが浮かんでいる。紫陽花と同じ、濡れた蒼。

「無理ですよ…だって、あなたはもうアメリカに帰るんだから」

 赤井はぐっと奥歯を噛み締めた。


 守れない約束はしたくないんです、僕、と降谷は言う。

 帰ってこいとも、待っているとも言えない。だって、降谷自身が明日をも知れぬ身だから。

 だから終わりにしましょうと言った。ここが潮時だ、あなたも僕も縛られることはないんですと。

 その決意に揺らぎはないのだと、改めて突きつけられ、赤井はほぞを噛んだ。

 想いがあれば距離も時間も耐えられると主張する赤井。守れない約束で縛りたくないし縛られたくないと言う降谷。何度も話し合ったが平行線だった。

 そして、赤井は明日、日本を発つ。

「ここに誘ったのは、最後に、僕の日本はこんなに素晴らしいんだってあなたに見せつけたかったからです。僕からあなたへの餞別代わりだと思ってください」

 本堂の先にも庭が続いていた。桔梗、梔子、山法師。人の手が入っていない雑然と、混沌とした庭。そしてここにも、澄んだ蒼い紫陽花が咲いている。

 降谷の瞳と同じ色の花弁からは、今にも水滴がこぼれ落ちそうだ。

「…約束は、たしかに守れないかもしれない」

 不意にかけられた言葉に、降谷が振り返る。

「だから約束はしない。代わりに誓うことにする。俺が勝手に誓うだけだから、君は何も気にすることはない」

 赤井は微笑んだ。己の気持ちと降谷の気持ち。どちらも諦めたくはないから。

「…そうだな。ここの御本尊に誓うよ。必ず、きみのもとへ帰ってくると。また二人で、ここへ来ると」

 降谷ははっと瞠目した。そして何かに耐えるように俯く。ぼそりと呟くような声はかすかに震えていた。

「…ここ、縁切寺だったんですよ。江戸時代、夫と離縁できない女性のための駆け込み寺だったんです。…だから連れてきたのに」

 次に顔を上げた時、降谷は憑き物が落ちたような笑顔だった。

「そんなところで縁を結ぼうとするなんて、あなたらしいなあ」

 降谷の目元が鈍く光る。久しぶりに見るなんの屈託もない彼の笑顔は、眩しいほどの朝陽を浴びてとても美しかった。

「行こう、零」

 赤井が左手を差し出す。

 秋か、冬か、春か、それとも夏か。きっとまたふたりでここへ来るのだろうという予想に心を弾ませながら、降谷はその手に右手を重ねた。




おわり

はつこい(2331words)

 ・ほぼ会話のみ

 ・当然(?)付き合ってない赤安です

 薄暗いバーの片隅で、溶けた氷がカランと澄んだ音を立てた。

 ふたつのグラスには、琥珀色のバーボンが鈍い光を放っている。

「初恋の思い出…ですか?」

「そう。きみの初恋はいつだった?」

「んー…僕あんまり恋愛をしてこなかったんで、かなり遅いんですけど」

「ホォー。相手は?」

「きれいなロングヘアのひとでした。さらさらの黒髪で、触ってみたいなあって密かに思ってた」

「大和撫子ってやつか」

「そんなんじゃないんですよ。言葉遣いは雑だし乱暴だし、煙草バカスカ吸うし、目付き悪いし」

「…なかなか強烈な相手だな」

「でも、たまにすごく優しいんです。さりげなく僕を庇ってくれたり、頭を撫でてくれたり…もしかしたら弟みたいに思われてたのかもしれないけど…」

「相手は年上か」

「ええ。すごくクールでスマートで、僕の憧れでした」

「告白は?」

「まさか!向こうには恋人がいましたし、僕には興味ないんだろうなって思ってたから」

「なぜ、そんなやつを好きになったんだ?」

「…僕、一度死にかけたことがあるんです。凍った湖の上でミスっちゃって、氷が割れて水の中にドボン。そしたらもーパニックですよ。潜水訓練もしてたのに、あまりの冷たさにショック状態で。あ、もう死ぬのかなって本気で思った。こんなところで、自分のミスで、無様に死ぬのかなって。

 そしたら、そのひとが湖に飛び込んだんです。死ぬほど冷たいのに、僕を助ける為に。…気付いたら僕は、湖のほとりにあった小屋にいました。暖かい暖炉のそばで、裸で、毛布に包まれて。そのひとは僕を後ろから抱いて温めてくれてました。僕を命懸けで救ってくれたんだってわかりました。それなのにそのひとは『気にするな、困ってる人を助けるのは当然だ』なんて言うから…」

「…好きに、なったのか?」

「ええ。なったというか、それで自覚したというか…かっこよくて優しくて、僕のヒーローだと思いました」

「…記憶違いでなければ、俺も同じような経験をしたんだが…助ける側で」

「へぇー、偶然の一致ですね」

「その後、しばらく吹雪が続いて、小屋から出られなくなって」

「僕も同じです。で、裸であっため合ってたら、なんか変な雰囲気になっちゃって」

「…ああ、そうだったな」

「僕、実はあれが初体験だったんですよね。あんなところでなし崩し的にヤることになるとは、思ってなかったなあ」

「…悪かった」

「え?あなたじゃなくて僕の初恋のひとですよ?きっと僕が任務でカラダを使ってるって噂を間に受けてたんでしょうね。濡らすものもなかったのに無理矢理…ま、僕も自分から受け入れたんで同意の上ですよ。くっそ痛かったですけど」

「…だが、きみはあの時」

「好きだったんで。あのひとになら、何されても嬉しいって思ったんで。くっそ痛かったですけどね」

「…本当に、すまなかった」

「やだなあ。あなたじゃないって言ったでしょ」

「降谷くん」

 カラカラと笑うその言葉を、遮るように名を呼んだ。

「確かに、噂のことは知っていた。だがすぐにそれがガセだと気付いた。でも止められなかった。きみが俺の腕の中で泣いていたから…」

「へえ。泣いていたから憐んで慰めてやろうと?」

「違う!断じて憐みじゃない。俺はきみをあたためてやりたかったんだ。身体だけじゃなく心も」

「高尚なボランティア精神ですね。それで好きでもない男とセックスできるなんて」

「そんな言い方をするな」

「いいんですよ。僕は嬉しかった。たったひとときでも、好きな人と一緒になれたんだから」

「だめだ。そんなのは駄目だ」

「過去の出来事にダメって言われても」

「あんなクソ野郎のことを後生大事に思い出にしないでくれ。あいつはきみが大切なのにその気持ちを言えなかった臆病者だ。抱けば伝わるなんて都合の良いことを考えていた。きみが大切なのに、きみの気持ちを蔑ろにしていた」

「仕方ないですよ、お互いの立場もありましたし」

「頼むから、あいつを赦さないでくれ。終わったことにしないでくれ」

「…どうして?」

 ブルーグレーの瞳が、まっすぐに隣を見つめる。

「どうして、終わったことにしてほしくないんです?」

「…今の俺は、昔のあいつよりもっときみのことが大切だからだ」

 対するヘーゼルグリーンの瞳が、蝋燭の灯りにゆらりと揺れた。

「あいつはきみを傷つけた。過去だろうとなんだろうと俺はそれが許せない。あいつの罪を償えるのは俺だけだ。どうか俺にチャンスをくれないか」

「チャンス?」

「きみを幸せにするチャンスだよ」

 世界から音が消えた気がした。聞こえるのは、目の前の男の、艶やかで少し震える声だけ。

「許されるなら、きみを幸せにするのは俺でありたい。きみと一緒に笑って、哀しい時は涙を拭って、きみと同じ景色を見ていたい。ずっときみの傍で、きみと生きていきたいんだ」

「…まるで、プロポーズみたいですね」

「みたいじゃなくて、そうなんだ」

「僕たち、付き合ってもいないのに?」

「そうだな。じゃあまずは恋人から」

 どんな標的も逃さないスナイパーの瞳が、今は目の前の男だけを射抜くように見つめている。真摯に、誠実に、祈るように。

「降谷零くん。これから先の人生を、俺と一緒に歩いていかないか」

「…きっと、どこへでも行けるんでしょうね…赤井と一緒なら」

 穏やかな微笑みを浮かべ、降谷がグラスを掲げた。

「ふたりで、見たことのない景色を見に行きましょう」

 YESの代わりに、赤井もグラスを掲げる。互いにグラスを傾けると、カチンと涼やかな音が響いた。

 指輪も儀式もないけれど、それはたしかに、ふたりの永遠の誓いだった。



end.

秘密の小箱(1886words)

 ・珍しく付き合っている赤安

 ・こっそり「零くん寝顔フォルダ」を作っている赤井

 降谷零との関係が仕事仲間から恋人へと発展して、気づけば半年が経とうとしていた。

 交際は順調だが、普通の恋人なら当たり前にしていることが出来ないという制約が多少なりともある。

 そのうちの一つが写真である。ツーショットの記念写真はおろかスナップショットとしてすら形に残せないのは、互いの職業と立場から仕方がないことではあった。

 それは重々承知しているのだ。

 だから赤井秀一は、降谷に決してバレないように、彼が寝た後にこっそり寝顔をスマホで撮影するようになったのである。


 夜を共にする度に1枚、2枚と増えていく降谷零の寝顔写真。このために消音カメラのアプリも導入済みだ。

 本人に言えば絶対に怒られるしせっかく撮った写真も消されてしまうから、内心で悪いなと思いながらも赤井は夜毎、無音でシャッターを切る。撮った後はすぐ画像に保護をかけ非表示にする。気づけば【零くん寝顔フォルダ】の画像は100枚を超えていた。


 彼は寝ている時も、起きている時と同様表情豊かだ。微笑んだりむすっとしたり真剣な顔をしたりと色々な表情を見せてくれる。時々、悪い夢にうなされることもあるが、そっと抱きしめてやると落ち着いた。静かに涙を流すときは震える瞼にキスをして涙を吸い取った。

 そんな彼をいつまでも見ていたくて、降谷と同じベッドで寝た翌日はいつも寝不足だ。でも、飽くことなく愛しい寝顔を見つめ、それをそっとスマホに収めていると、とても幸せで満ち足りた気持ちになる。

 本人すらも知らない本人の顔。後にも先にも赤井しか知らない降谷の寝顔は、紛れもなく赤井の宝物だった。



 その日の夜も、いつものようにどろどろになるまで抱き合って、疲れた降谷が先に眠った。月明かりに浮かび上がる降谷の寝顔は無垢でとてもきれいだ。

 いつものようにスマホを取り出し、カメラアプリを起動する。降谷の顔にピントを合わせ、明るさを調整する。室内は月明かりのみで薄暗いが、最新機種のスマホなだけあって暗がりでも充分綺麗に撮れるのだ。

 スマホのカメラ越しに降谷を見つめる。今夜はとても安らいだ表情だ。夢も見ないでぐっすり寝ているのだろう。

 赤井はスマホ画面の下部にある、カメラマークを指でタップした。


 カシャッ


 どきりと心臓が跳ねた。驚きのあまりスマホを取り落としそうになる。

(なぜ音がッ…!)

 慌ててスマホの側面を見ると、サイレントスイッチが入っていなかった。

 赤井は家にいるときは必ずマナーモードにしていた。余計な着信音で降谷との時間を邪魔されたくないからだ。今日も降谷の家に来る前にそうしたことを覚えている。

 それが解除されている。勝手にそうなるはずがない。人為的な操作だ。そして、ここでそんなことが出来るのは1人しかいない。


「撮りましたね?」


 落ち着いた声が室内に響く。

 降谷がぱちりと両眼を開け、静かに赤井を見つめていた。

「零…きみ、」

「前から怪しんでたんです。あなた、僕の前では必要最低限しかスマホを触らないのに、寝る前になると絶対にそばに持ってくる。何かあるのかなーと思ってこないだ寝たふりしたら、僕が寝たあとにこそこそしてるから」

 悪戯心から、こっそりマナーモードを解除したという。

 そう語る降谷は微笑んでいて、心なしか楽しそうに見えた。

 拍子抜けした赤井が降谷におずおずと顔を寄せる。

「怒ってない…のか?」

「んー…本当は怒らなきゃいけないんですけど…あなたのことだから、データの管理はちゃんとしてくれてるだろうし」

 それに、と続けながら、降谷は布団のなかから何かを取り出した。

 その右手にあるのは降谷のスマホである。

「お互い様、ですから」

 スマホに写っていたのは、赤井の寝顔だった。口を半開きにして、すっかり心を許したような腑抜けた寝顔に、恥ずかしいやら嬉しいやらで赤井の顔が赤く染まる。

「いつの間に」

「ぼくの宝物です。消せなんて言わせませんからね」

 その誇らしげな笑顔があまりに可愛らしくて、赤井は思わずその頬に口付けた。

「当然だ。ということは、俺の宝物も消さないでいいのかな?」

「お互い様ですから」

 と言って赤井の首に腕を回す降谷にいざなわれるまま、今度は唇に深いキスをする。

 脳が痺れるような、互いに溶け合ってひとつになってしまうような、甘い甘いキス。

 口付けの合間に、降谷がふふっとちいさく笑った。

「…こんどは、ふたりで一緒に写った写真、撮りましょうね」

「…仰せのままに、 my darling」



End.

午前零時のシェイクスピア(2712words)

 ・付き合っている赤安のバレンタイン

 赤井と恋人同士になって、初めて迎えるイベントがバレンタインデーだった。しかも今年は日曜日。今のところは赤井も降谷も休みの予定である。

 つまり、初めて恋人らしいイベントを一緒に過ごせるのがバレンタインということだ。

 今まであまりイベント事には興味がなかった。だが、今年は恋人もいることだし何かした方がいいのか…でも何をしたらいいのだろう…というのが降谷の目下の悩みである。

 バレンタインだからと張り切ってチョコを渡すのは気恥ずかしいがせっかくなら赤井に特別なものをプレゼントしたいという気持ちと、そんなことでいちいちドキドキワクワクハラハラする公安所属三十路男どうなんだキモいぞやめておけという気持ちがせめぎ合っているのだ。


 そうこうしているうちに2月14日当日。結局、仕事に追われたこともありチョコもプレゼントも用意できなかった。

 今夜は赤井から食事に誘われている。幸い今日は休みだし、食事の前に何か見繕うか…しかし何を用意すりゃいいんだ…と悶々と考えていると、仕事用スマホがけたたましい着信音を奏でた。

『お休みのところ申し訳ありません。実は、マルタイに動きがあると情報が入りまして』

 風見からの緊急連絡。それは昨年末から公安がマークしている某国の工作員についてだった。

「今行く」と返事をして手早くスーツに着替える。家を出る直前、赤井に簡素なメールを送った。

『すみません。今日は行けません』


     ✳︎


 家に辿り着いたとき、既に時計の針は午前0時を回っていた。

 身体が泥のように重い。深夜まで張り込み・尾行を続けたにも関わらず、あと一歩のところでマルタイに逃げられてしまった。 

 公安がマークしていることはおそらく気付かれていないだろうが、結局振り出しに戻ってしまった分、徒労感が大きい。

 はあ、と溜息をついて玄関の鍵を開ける。扉を引くと、その隙間からふんわりと花のような甘い香りが漂ってきた。なんだろう、と疑問に思いながら玄関の灯りをつける。

 目に飛び込んできたのは、真っ赤な薔薇だ。シューズボックスの上に、深紅の薔薇の花束が飾られている。

 度肝を抜かれて呆然とそれを見つめていると、花の隙間に二つ折りのカードが差し込まれていることに気づいた。

 靴も脱がずにカードを引き抜く。表面には「Happy Valentine」の文字。カードを開いた降谷は、そこに書かれている文章に目を通すとはっと顔を上げた。靴を脱ぐのももどかしく急いで部屋に上がる。

「赤井…!」

 リビングに赤井の姿はなかった。その代わり見つけたのは、ローテーブルの上にある赤いリボンでラッピングされた小箱と、『零くん、お疲れ様』と走り書きされた手紙。それを手に取り、思わず笑みがこぼれる。

「きったない字だなあ…」

 約束をドタキャンしてしまったにも関わらず、こうしてサプライズを用意してくれる赤井の心遣いが嬉しかった。気づけば、鉛のような疲労感はすっかりなくなっていた。

「…ふるやくん…?」

 不意に聞こえたその声に振り返ろうとすると、背中があたたかいものに包まれる。後ろから降谷のからだを抱き締めてきたのは、赤井だった。寝ぼけ眼であるところを見ると、降谷の帰宅を察知して起きてきたらしい。赤井は降谷のうなじに小さくキスをして、「おかえり」と微笑んだ。

 思わず、身体を反転させて赤井に抱きついた。その首筋に顔を埋め、背中に回した腕に力を込める。首筋からはせっけんと赤井の匂いがした。

「ただいま。…ありがとう、赤井」

「すまない、勝手に上がらせてもらった」

「構いませんよ。合鍵渡してるんだから」

 さらに強く抱き締めると、赤井もぎゅうっと抱き締め返してきた。スーツが皺になるかもしれないと思ったがそんなことはどうでも良かった。赤井の少し高めの体温が心地良かった。

「今日はごめん…ドタキャンしちゃって」

「仕事だったんだ、気にしてないさ。それよりちゃんと飯は食ったか?」

「いえ…張り込みだったんで何も…」

「仕事に精を出す事は素晴らしいが、ちゃんと身体も大事にしてくれ」

「はい…気をつけます」

 しゃべりながら、赤井は降谷の髪をゆっくりと梳いていた。その優しい手付きとあたたかさに、徐々に眠気がやってくる。

 このまま寝てしまいたいという欲求をなんとか抑えて、降谷は顔をあげた。

「ねぇ赤井、これって『十二夜』ですよね」

 薔薇の花束に差し込まれていたカードを赤井の目の前に掲げる。カードの中には、短い英文が書かれていた。


“What is love?  'Tis not hereafter;Present mirth hath present laughter.”


 シェイクスピアの戯曲『十二夜』に出てくる道化師の言葉だ。宴会で歌われるラヴソングの一節。

「そうだ。よくわかったな」

 赤井が微笑む。

 気を良くした降谷は、赤井の肩にもたれかかり、カードに書かれた一文を日本語で読み上げた。

「『恋は明日のものでなし、今この時の歓びなり』…不思議だな。赤井にかかるとこのセリフ、ずいぶん前向きな言葉になるんですね」

 本来は恋愛の儚さを説いた歌なのに、と降谷が笑う。すると、赤井も笑ってそっと降谷の額に口付けた。

「…君との関係を、儚いものにはしたくないからな」

 お互いの仕事の性質上、将来を約束するのは難しい。劇中の道化師がこの続きで歌うように「先のことはわからない」のだ。

 だからこそ、今この時のよろこびを大切にしよう。ふたり一緒にいられる歓びを。

「…僕も、そう思います」

 降谷が再び、赤井の肩口に頬を寄せる。照れ臭そうな満足そうな笑顔だ。

 そのまま抱き合っていると、ふっと降谷の身体が弛緩した。急に体重がかかり慌てて支える。見れば、降谷は気を失ったように眠っていた。

 赤井は降谷を抱え上げ、寝室へ向かった。ベッドに身体を横たえ、スーツを脱がせネクタイを解く。

 降谷の顔には疲れが色濃く出ていた。休日出勤に深夜までの張り込みは、さすがの降谷にも堪えたようだ。

 その寝顔を眺めていると、赤井の頭にもう一つ、シェイクスピアでお気に入りのセリフが浮かんだ。

『テンペスト』の中で、恋人たちが永遠の愛を誓い合う場面。

 降谷もこの言葉と同じ気持ちであってほしいと願いながら、赤井はキスを贈る。


“I would not wish any companion in the world but you.”


 この世のすべての何よりも、あなたを想っています。



the end.

わすれもの side_Rei(865words)

 ・「わすれもの side_Rye」の続きの赤安期(まだセフレ)

 惰性のように続いていた関係は、紆余曲折を経て再会してからも同じように続いた。

 変わったのは、互いの呼び名がコードネームではなくなったことと、赤井の髪が短くなったこと、最中の赤井が少しおしゃべりになったことくらいだ。

 それでいいと降谷は思った。これ以上、この関係に余計な価値や名前はいらない。組織を完全に壊滅させるまでは、抱かれる度に感じる心臓を締め付けられるような痛みも、赤井に笑顔を向けられる度に湧き上がる情も、見て見ぬふりをする。

 それが最善なのだと、隣で眠る赤井を眺めながら降谷は考えた。

 赤井を起こさぬよう、そっとベッドから抜け出す。毎度のことだからもう慣れた。

 本当はシャワーを浴びたいが、長居は無用だ。汗と体液をティッシュで拭き取り、手早く衣服を身に付ける。いつも通り、可能な限り自分がいた痕跡を消し去る。

 部屋を出る前にもう一度、赤井を振り返った。軽く眉根を寄せ寝息を立てている姿を見ると、どうしようもなく胸が苦しくなる。

 これが最後かもしれないと、毎回自分に言い聞かせる。明日には自分が死ぬかもしれない。赤井に大事なひとができるかもしれない。

 だから、これが最後かもしれないから、降谷は毎回、眠る赤井に言葉をかける。


「赤井…さよなら」


 外は冴え冴えとした月夜。深く溜息をつくと、吐息が白く濁った。

 スマホを取り出すために鞄を探る。と、指先に覚えのない感触が当たった。角ばって平べったい、小さな箱。

 取り出すと、それは煙草だった。この銘柄はよく知っている。

 さっきベッドの上で、その香りのする唇に口付けられた。至近距離で、降谷くん気持ちいいかと問いかけられた。

(なんで…これが鞄に)

 誤って落ちて入ったのだろうか。いや、鞄の口は閉じていたし、箱は鞄の奥底にあった。それに赤井はホテルの部屋では煙草を吸わなかった。

 ならば、何故。

 手の中にある小さな箱を月に翳す。未開封のラッキーストライク。

 どうすべきかの答えが見えないまま、降谷はその箱にちいさくキスをした。



end.

わすれもの side_Rye(818words)

 ・はじめて書いたライバボはセフレでした

 ・はじめてワンドロに参加したお話

 はっと目を覚ますと、周りはまだ暗かった。

(…嫌な夢だったな)

 午前4時。左手で顔を覆うと、額がうっすらと汗ばんでいた。

 嫌な夢を見た。内容はぼんやりとして定かではない。ただ、とても嫌な夢だったことは覚えている。

 ふと横を見ると、狭いシングルベッドには一人分のスペースがぽっかりと空いていた。シーツは冷たい。だいぶ前からそこには誰もいないようだ。

「…バーボン?」

 小声で呼びかける。返事はない。気配もない。

(…またか)

 ライは天井を見上げ、溜息をついた。

 ふたりがベッドを共にしたのはもう何度目だろう。ツーマンセルで仕事を終えた後は大概、そのままどこかの安ホテルに入り、硝煙と汗の匂いをさせたまま抱き合った。慰み、興奮を鎮める、そのほか適当な理由をつけてはセックスした。

 ろくに前戯もせず睦言もなく、獣のように挿入し、射精し、気絶するように眠る。

 そしていつも、朝になるとバーボンは消えていた。

 彼のものは何も残っていない。荷物も、髪の毛も、セックスした痕跡も。

 たった一つを除いて。

 ライは枕に鼻を寄せ、大きく息を吸い込んだ。かすかだが、甘い香りが枕に残っている。

 後ろから挿入すると、縋るように枕に顔を押し付けていた。そのときに染みついたのだろう。コロンと、汗と、彼の体臭。

 この残り香だけが、バーボンの唯一の忘れものだった。

 たった一晩抱き合っただけの匂いなど、すぐに消えてしまう。だから彼はそれだけ消さずに行くのだろう。事実、この枕に残った香りはほとんど消えかけている。

 彼の香り。俺の好きな匂い。俺をどうしようもなく煽る匂い。


「…きみは、ずるい男だ」


 ぼそりと呟き、わずかな残り香をすべて取り込むように息を吸う。

 その匂いに反応してからだの芯が熱を持ち始めたが、ライは無視して再び瞼を閉じた。

 次にバーボンと会える日を心待ちにする自分に、気づかないふりをしながら。



end.