【メメント・モリ】
遠くから、微かに声が聞こえてくる。
どこかで聞いたような声。俺の名を呼ぶ、懐かしい声。
「……いさ……かい、しゅう…さん……」
温かい水の中に浮いているような、ふわふわとした感覚だった。昼下がりにウォーターベッドで気持ちよく昼寝しているような…子供の頃に見たアニメ映画に出てくる巨大な猫のバスに乗ったような…あれはいつか乗ってみたいと弟としばらく盛り上がった記憶が…
「赤井秀一ィィイイ!!」
「ぐぇっ」
腹にどすっと重い一撃を受け、思わず蛙が押し潰されたような声が出た。
はたと顔を上げれば、小麦色の肌に金髪の青年が、大きな瞳をくるくるさせながら赤井の顔を覗き込んでいる。
「やっと目が覚めましたか」
覚めたというか、君が拳で覚ましたんだろう…と痛む腹をさすりながら起き上がる。目の前にいた男は垂れ目のベビーフェイスにどこか偉そうにも見える勝ち気な笑みを浮かべていた。
「赤井さん、こんばんは。いやこんにちは?おはようございます?あ、はじめまして、の方がいいかな?どこか痛くないですか?お腹空いてないですか?自分が誰かわかりますか?」
「ちょ、ちょっと待て」
ぐいぐいと迫るように矢継ぎ早に質問する男に、赤井は戸惑った。だが男は気にしない様子で続ける。
「あ、喉が渇いたら教えてくださいね。コーヒーならありますから。インスタントですけど」
「いやちょっと待ってくれ!」
目の前に手をかざして止めると、男はやっと口をつぐんだ。丸い眼をさらに丸くしたその表情は、青年というよりは少年のようにも見える。よく見ると、その瞳は晴れた夏空のように澄んだ青色をしていた。
「まず、身体は痛くない…今のところは。空腹も渇きもない。自分の名前も…ちゃんと分かっているが…」
「それなら良かった」
「良くない」
弾んだ声ではしゃぐ男をぴしゃりと制す。
「まず、君は誰だ?そしてここはどこだ?」
赤井の質問に、男がきょと、と小首を傾げた。可愛らしくもどこかあざとさのある仕草である。
「…言ってませんでしたっけ?」
「君な…」
赤井は思わずツッコミの声を上げた。イラッとした赤井を気にも留めず、あっけらかんと笑って男が弁解する。
「すみません、なにぶん不慣れなもので…僕はバーボン。ここは“狭間”という場所で…ってあれ、もしかして赤井さん」
バーボンと名乗ったその男は、白シャツに黒いベスト、ベージュのパンツを履いて、首には青い石のブローチをつけたタイを、手には白手袋をはめていた。その手を細い顎に当て、赤井の顔を覗き込む。
「ご自分がなんでここにいるか、ご存知ないんです?」
改めて周囲を見回すと、そこは、不思議な空間だった。床も壁も天井も白い立方体の部屋で、窓も扉もない。
赤井が寝ていたのは、ベッドとも言えないような同じく白い台だった。感触はコンクリートのように硬いが、冷たくはない。
「…ここは、なんだ?」
「だから“狭間”という…簡単に言えば、あの世とこの世の中継地、ですかね?」
その言葉に、赤井が目を見張る。
いま、もしかしなくても、この少年のような男は、「あの世」と言ったのか?
「君…あの世、というのは」
「バーボン、ですよ。ああ、やっぱり自覚はないんですね」
まるで同情するかのようにバーボンが哀しそうな笑顔を見せた。
「下を見てください」
言われるままに足元を見下ろすと、白い床が透き通って透明になった。この不思議な部屋は中空に浮いているらしく、地面が遥か下方にある。赤井の真下には倒壊したビルと瓦礫の山があり、その隙間に、誰かが倒れていた。
そいつは男で、FBIのレイドジャケットを羽織り、黒い帽子を被っていた。傍らにはライフルが投げ出されている。アキュラシー・インターナショナル社のL96A1、赤井の愛銃と同じものだ。
そいつは血塗れだった。身体中に裂傷があり、下には血溜まりができている。頭からも出血がある。衣服は焼け焦げ、顔は血の気がなく、見るからに助からないだろうと思われる状態だった。
問題はそいつの顔が、赤井と瓜二つなことである。
「あれは…誰だ?」
口を突いて出た疑問に答えをくれたのは、倒れている赤井のそっくりさんに駆け寄った男だ。レイドジャケットを着たその男は、アンドレ・キャメルだった。
『赤井さん…!赤井さん、そんな…』
キャメルは倒れているそいつに駆け寄り、震える声でそう言った。キャメルに続いて、同じ格好やスーツ姿の男女がそいつの周りに集まってくる。
『アカイさん!!』『マジかよ…』『アカイ…目を開けてくれよ、アカイ!』
男に向かって口々に赤井の名を呼ぶ彼らは、確かに赤井の良く知った同僚たちだった。彼らは皆、悲痛な表情をしていた。中には泣き出す者もいる。
ここまでくれば、赤井にも状況はよく理解できた。信じたくはないが。
「つまり俺は死んで…あの世に行く途中というわけか」
そう言った瞬間、何かの光景がフラッシュバックのように脳裏に浮かんだ。
これは記憶だ、つい先ほどの。
組織の残党を集団で逮捕できるはずの計画。奴らの潜伏場所ではなく付近のビルに爆弾が仕掛けられていたのは赤井を狙ったものだったのだろう。そうだ、罠かもしれないと言っていた。誰だ。誰か。その主張を赤井は受け入れなかった。俺がやるのが効率的だと言い張って。結果、爆風をまともに浴び、爆弾の中に仕込まれていた鉄片が赤井の全身を切り裂いた。
「…思い出しましたか?」
バーボンは聖母マリアのようにただ柔和に微笑んでいた。
「ご覧いただいた通りです。あなたは爆発に巻き込まれ死亡した。あなたの魂は肉体から抜けて、本来であればまっすぐに死者の国へ行くはずだった。それなのに現世に留まり、当てどなく浮遊している状態です」
淡々とした説明は、赤井の耳から入って脳内にじわじわと浸透していくようだった。理解はできても実感はない。なのに、“死”という事象に内側から侵食されるような恐怖を感じた。
「まあ、死ぬ人は大概未練があるものですけど、魂が肉体から抜け出たのに現世に留まるっていうのは、実は結構珍しいことなんです。だから僕が派遣されてきたというわけで」
バーボンは終始事務的で淡白な物言いだった。同情も悲哀も何もない。それが赤井にとっては、己の死が事実であることの証明なのだと思わされた。
「つまりですね、あなたはあちらへどうしても行きたくない理由があるんだと思うんです。それだけの強い想いが。それを解消して、未練を断ち切って、あちらへ連れていくのが僕の仕事です」
「…つまり、君は天使というわけか」
「…まあ、そんなところです」
バーボンが曖昧に微笑む。羽根こそないが、確かに整った顔立ちに艶やかなブロンドヘアは天使のように美しい。だがまさか比喩ではなく本物の神の遣いだとは。
「どうです、未練。あなたの心残りはなんですか?」
「急に言われても…思いつかんよ」
「何かあるでしょう。仕事とか家族とか恋人とか」
「恋人…は、いない」
そう言った途端に、胸がじわりと痛んだ。
恋人はいない。それは正しいはずだ。
なのに、この心臓を締め付けられるような感覚はなんだろう。
「そうなんですか?てことは仕事かなあ。中には財産って人もいるみたいですけど、あなたはそういうタイプじゃなさそうだし」
バーボンが右手を掲げ、指を鳴らした。
ぱちん、という音とともに真っ白い部屋が消える。赤井もバーボンも、宙に浮いていた。重力も風も感じない。そういう存在になったのだと改めて思わされた。
「じゃ、早速行きましょうか」
バーボンがにっと笑う。無邪気さと妖艶さを兼ね備えた笑顔だった。
「あなたの心残りを探しに」
◆ ◆ ◆
「さ、まずは仕事ですね。あなた仕事人間ぽいし」
赤井の心残りを探す旅は、日本に出向しているFBIの仲間のもとへ行くことから始まった。
警視庁に間借りしている会議室で、キャメルは未だ泣き崩れていた。キャメルだけではない、その傍らのジョディも、よく知った同僚たちも、泣いている。
「あなた、意外と慕われていたんですね」
「……」
バーボンの言葉に赤井は何も返せなかった。目の前で打ちひしがれる同僚たちの姿が、あまりにも悲痛で。
「俺は…本当に死んだんだな」
ずしんと、胸に鉛の塊を押し込められたような感覚になり、赤井は奥歯を噛み締めた。まだどこか夢を見ているようで実感はない。だが同僚たちの悲しむ姿は否が応にも己の「死」を突きつけてくる。
「…どうです?心残り」
傍から静かにかけられた声に、赤井はハッと我に返った。
「ああ…そうだな」
赤井は同僚たちの姿から無理矢理目を逸らし、机上の捜査資料に視線を走らせた。
例の組織に関する捜査は大詰めだった。もはや組織としての形は成しておらず、赤井を爆殺した残党もおおかた確保できたようだ。行く末を見届けられないのは残念だが、もう赤井がいなくても充分闘える。
「…どうやら、俺の心残りは仕事じゃないようだ」
そう言うと、バーボンは赤井と嘆き悲しむFBIたちを見比べ、考え込むように右手を顎に当てた。
「そうみたいですね。仕事じゃないとなると、家族か友達か…やっぱり財産ですか?」
「…さあ、わからんよ」
赤井は同僚たちを見た。あとは頼む、と心の中で呟く。バーボンに向き直ると、彼が大きく頷いた。
「じゃ、次はご家族に会いに行きましょう」
◆
家族より先に会いたい人がいる、と言って向かったのは米花町だった。
長いこと世話になった工藤邸の隣の一軒家。さらにその地下にある研究室。
そこでは、白衣を着た小さな少女が何かの実験中だった。今は灰原哀と呼ばれる少女の前には不思議な色の液体が入ったビーカーやら電熱器やら様々な器具が並んでいる。そこから察するに何らかの薬品を作っているようだ。
少し離れたところから、赤井はその真剣な横顔を眺めていた。
「あの子は…?」
「昔の恋人の妹だ。亡くなった彼女の代わりに、俺があの子を守ると決めていた」
沖矢昴として何度か接したが、それ以外はすべて盗聴器を通した一方的な関係だった。当然赤井秀一としては姿を見せていない。
向こうからはこちらが見えないとはいえ、本当の姿で彼女の前に立っているのはなんだか不思議な気分だ。
「何を作ってるんですか?」
「恐らく、自分やボウヤの身体をもとに戻すための解毒薬だろう…組織のアジトから焼失したと思われていた薬のデータが出てきたと言っていた。それがあればちゃんと元に戻れる薬が作れるんだろうと…」
ふっと、何かが引っかかって赤井は眉根を寄せた。
『薬のデータが出てきた』と、『これで解毒薬が作れるらしい』と、誰かから聞いた。だが、誰から聞いたのか、それが分からない。
(なんだ…この感覚は)
思い出したいのに、思い出せない。脳の内側がむず痒いような、胸の奥がじわじわと痛むような、そんな感覚。
誰が、赤井に、それを言った?
(だれが…)
「赤井さん?」
肩を揺さぶられ、赤井ははっと我に返った。見れば、バーボンが心配そうに赤井の顔を覗き込んでいる。
「大丈夫ですか?」
「…すまない、大丈夫だ。問題ない」
「良かった」
ほっとしたように見せたバーボンの笑顔に、赤井は再び心臓のあたりに疼きを覚えた。何故だろう、どこか懐かしいような感覚がする。だが今優先すべきは小さな科学者たる彼女だ。
出来るならば、明美の代わりに彼女の行く末を見届けたかった。どんな選択をしても可能な限り見守っていきたかった。
しかし、赤井は悲観していない。彼女にはやるべきことがあるからだ。小さな身体で大人顔負けの頭脳を駆使し、これからも科学者として活躍するだろう。あるいは名探偵の右腕として。
「行こう…次の場所へ」
赤井が振り返ると、バーボンが頷いた。
阿笠邸を出たところで、せっかくだし大事な友人の顔も見ていきたいと言って、隣の工藤邸にもこっそりお邪魔した。
優作は書斎で執筆を、有希子はキッチンで紅茶を淹れている。この2人の友人には本当に世話になった。沖矢昴として、赤井秀一として、感謝してもしきれないほど。
きっと、赤井が死んだと知ったら悲しませてしまうだろう。心の中で謝辞を述べ、深く首を垂れる。
と。
『あかい』
不意に背後から呼ばれた気がして、赤井は振り返った。だが誰もいない。隣のバーボンを見ると、きょとんとした顔で小首を傾げている。
「どうしました?」
どうやら彼ではないようだ。声はよく似ていたが、確かにバーボンは赤井を呼び捨てにはしていない。
(…誰の声だったんだろう)
どこか懐かしい、何度も聞いた呼び方だった気がする。
だがその声の主が思い出せないまま、赤井は工藤邸を後にした。
◆
家族のことは、宮野志保以上に気がかりだ。組織を壊滅に追い込んだ今になっても、父・赤井務武の行方は掴めていなかった。母・メアリーとも結局まともに顔を合わせていない。赤井が生きていたことはおそらく知っていただろうが、まさか本当に死ぬとは思っていなかったはずだ。
未だ隠れるようにホテルで暮らしている小さな母と妹の姿を遠くから眺めて、赤井は感傷的な気持ちになった。表向きは赤井はすでに死んだことになっているから、もしかしたら二人には本当に死んだことを知らされないかもしれない。もし知らせたら、妹は二度も兄を喪うことになる。ならばこのまま、赤井はとっくの昔に死んでいたという情報のままで留めておくのが賢明なのかもしれないなと、赤井は思った。
「…もう少し、近くで見たらどうですか」
バーボンの勧めに従い、赤井はホテルの部屋の中まで浮遊していった。
メアリーはデスクでタブレットを操作している。真純はスマホで電話していたが、「本当かコナンくん!今すぐ行くよ!」と答えたかと思うとジャケットを羽織り颯爽と出ていった。何か事件でも起きたのだろう。
ひとり残された母の姿を眺める。こんな姿になっても諜報機関で現役らしい母ならば、赤井の本当の死をどこかで知るだろう。父親に続き長男までもいなくなったと知ったらどう思うだろうか。さすがの彼女も哀しみの涙をこぼすだろうか。
と、メアリーの手が止まった。顔を上げ、不意に赤井の方へ目線を向ける。
「…秀一、か?」
はっと息を呑んだ。目が合うわけではない。なのに、メアリーは確実に赤井のことを見ていた。母さん、と呼びかける前に、メアリーが続ける。
「悪いが、私にはおまえの姿は見えないし声も聞こえない。ただ何となく感じるんだ。おまえの気配を」
メアリーは目を伏せた。おそらく、赤井の気配がある、ということの意味を考えているのだろう。やがて深い溜息をつき、瞼を開けた。赤井と同じ色の瞳には強い意志の光が灯っている。
「案ずるな。おまえがいなくとも使命をやり遂げる。そういう仲間だろう、おまえの周りにいたのは」
赤井は瞠目した。この母は、何と聡く靭つよいのだろう。この一瞬で息子の現状を把握し、息子が憂うであろう心情までも理解した。死してなお、母には敵わないのだと思わされる。
「おまえの父のことも…務武さんのことも、心配しなくていい。必ず私が探し出してみせる。おまえのためじゃないぞ、私が彼に会いたいからだ」
赤井とよく似た目元を細め、メアリーが微笑んだ。
「だから、おまえは気にしないで自分の道を征ゆけばいい」
赤井は母の眼を見つめた。自分と同じ、深いヘーゼルグリーンの虹彩。親子の絆など気にしたことはないが、間違いなく自分はこの人の息子だとわかる要素の一つだった。
このひとの前では、ついぞ素直に礼も言ってこなかった。こうして最後に面と向かって会えたのは、神様がくれたギフトなのかもしれない。
「…すまない、母さん」
赤井がメアリーの小さな手に己の左手を添える。物理的な接触はできないが、その瞬間、メアリーが確かにやわらかく微笑んだ。姿が見えずとも、声が聞こえずとも、彼女には赤井の気持ちが伝わったはずだ。
赤井はメアリーの手を離し、そのまま部屋の外へと飛び出した。バーボンが慌てて後を追いかけてくる。
「…いいんですか」
「ああ。家族についての心残りはもうない。母さんがすべて請け負ってくれた」
「でも、妹さんや弟さんは?会わなくていいんですか?」
「いいさ。あいつらはあいつらで逞しく生きていくだろう。俺たち家族はそれでいいんだ」
どこか晴れやかな気分で、赤井は雲ひとつない青空を悠々と飛び続けた。
◆
バーボンは不思議な人だった。
いや天使だから人間ではないのだが、赤井が今まで出会ったどの人物とも違っていた。
子供のように無邪気かと思えば、竹を割ったようなキッパリとした態度は男らしい。時には艶っぽい笑顔やまっすぐ実直な眼差しも見せる。そのくるくる変わるさまざまな表情は見ていて飽きない。
次第に赤井は、バーボンに対し好ましい感情を抱くようになっていた。
「結局、わかりませんでしたね…心残り」
夕焼け色に染まる空をふよふよと漂いながら、バーボンはうーんと唸った。
あの後、心残りに心当たりがないなら片っ端から会いに行きましょうとバーボンが言い、赤井は今までの人生で出会ってきた人々の元を訪れた。
江戸川少年、毛利蘭、沖矢昴として関わりが深かった少年探偵団や阿笠博士、上司であるジェイムズ・ブラック、いずれ赤井家の一員になるであろう弟の恋人、合同捜査で顔を合わせたことのある警視庁の捜査員たち、アメリカにいた頃世話になった同僚やご近所さんたち…。
だがどの人物の顔を見ても、死してなおこの世にしがみつくほどの心残りがあるとは思えなかった。
「もしかして何かの手違いとかなんですかねえ…どう思います、あか…赤井さん?」
赤井は顎に手を当て、何やら考え込んでいた。今、何よりも気になっているのが、時折どこからともなく聞こえてくる声のことだった。
工藤邸を訪れた時に聞こえたのと同じ、少し高めで張りのある男の声。バーボンによく似た、でもバーボンより赤井の胸を打つ声。
『…あかい…赤井…』
『起きて…赤井…』
『目を開けて…』
その声の主を探したくて皆に会いに行ったようなものだ。だが、該当する人物はいなかった。
(何故だ…こんなに耳に馴染む声なのに。俺にとって、もっと大事な人間がいるのか…?)
と、その時。
『赤井』
あの声が聞こえた。はっきりと、赤井の背後から。
『赤井、おれの声が聞こえる?』
「ああ…きこえる…」
「赤井さん?」
突然、何の脈絡もなく言葉を発した赤井に、バーボンは戸惑っている。バーボンにはあの声が聞こえていないのか。だが赤井は気になどしていられなかった。
誰かが、俺を呼んでいる。必死に、切実に、いとおしい声で。
『赤井、頼むから目を覚まして』
声はどんどん遠ざかっていく。西だ。沈みゆく太陽の向こうだ。そこに、彼がいる。
『おねがいだから、おれをひとりにしないで…』
彼?彼とは誰だ。わからない。でもそこにいる。会いたい。きみに。俺を呼ぶいとしいきみに。
会いたいんだ。
『死なないで、赤井』
「ーーー降谷くん!」
気づいた時には、赤井は白い部屋の中に立っていた。
ブラインドの隙間からオレンジ色の光が差し込んでいる、6畳ほどの小さな個室。目の前にはベッドがあり、誰かが寝ていた。いくつもの管に繋がれた男。ベッドの横にはスーツ姿の男が座っている。だいぶくたびれて汚れているそのグレーのスーツは、よく見覚えがあるものだ。夕陽に照らされて煌めく金糸のような髪の毛も。
ピッ、ピッ、ピッ。管が繋がれている機械が規則正しい電子音を奏でている。通常よりもかなり遅いその心拍を生み出しているベッドの男の顔は、酸素マスクとガーゼと生々しい傷跡で覆われていてもすぐに判別できた。
それは、赤井秀一…自分だった。
「…ここだけは、来ないでほしかったんですけどね」
音もなく隣に立ったのはバーボンだ。そのどこか冷めた瞳は、先程まで生き生きとした表情を浮かべていたのと別人のようだった。
赤井は、ベッドに横たわる自分の姿を呆然と眺めた。血の気のない肌、曇る酸素マスク、微かに上下する胸。
「俺は…生きてるのか?」
「辛うじて。予断を許さない状況、というやつです」
次いでベッド脇に座る男に視線を走らせる。肩を落とし項垂れるその男を赤井はよく知っていた。むしろ、何故今まで彼のことを思い出せなかったのか。
降谷零。赤井にとって誰よりも大切な人。
不意に記憶が蘇った。
作戦開始5分前。赤井は降谷のプライベート携帯に連絡を入れた。なんでこっちの番号知ってるんですかと驚く降谷に、赤井は己の決意を伝えた。
『無事に生きて帰れたら、きみに伝えたいことがあるんだ』
『なんで予告するんですか、楽しみが減るでしょう』
『いいんだ、万が一のために退路を断っておきたい』
『万が一はないですよ、必ず生きて戻るんですから』
そう言った降谷の顔は、きっと誰よりも力強く美しいのだろうと赤井は思った。
罠かもしれなくても、無謀でも、一刻も早く組織の残党を狩り尽くしたかった。誰よりも美しく自己犠牲的な男を、昏く深い底なし沼から救いたかったのだ。
『生きて、僕に会いに来い、赤井』
『もちろんだ、降谷くん』
それが、最後の会話だった。
頭が痛かった。
肉体がないのだからおそらく幻痛だろうが、そうと分かっていても治らない。じくじくと痛むこめかみを押さえながら、赤井は振り返った。降谷零の顔をした、天使を。
「君は…誰だ。バーボンは彼のことだ。君はバーボンじゃない」
「ええ、僕はバーボンじゃない。あなたの記憶にある、一番近しい人物の姿をお借りしました。あなたが油断してくれるように」
天使は柔らかく微笑んだ。よく見れば、その表情は彼と同じようで少し違う。彼はもっと情に篤く強い意志を宿した瞳をしている。
天使の微笑みはやわらかく、どこか冷ややかだった。
「僕はあなたを迎えに来たんです。彼への執着が強すぎて生を手放せないあなたを、死者の国へ連れて行くために」
「なるほど…きみは天使ではなく、死神ということか」
「あなた方の使う言葉で表すなら、それが最適解でしょう」
死神はただ淡々と続けた。
「あの爆発で、あなたの命は終わる予定でした。なのにあなたの魂が死者の国に来ない。迎えにきてみれば、あなたはたったひとりの男に執着してこの世にしがみついている。家族でも恋人でもない相手に。だから、彼のことを忘れてもらうしかないと思ったんです」
淡々としていながらだんだんと熱のこもる言葉に、赤井は瞠目した。死神は、苦しんでいるのだ。赤井を説得することを。
「もう、あなたの運命は尽きたんです。あなたは彼への想いを諦めて、生を、彼を手放さないといけない。そうしないと、あなただけじゃなく彼のことも縛り付けることになってしまう」
赤井は降谷に視線を向けた。薄汚れた格好のまま、祈るように両手を組み力なく座っている彼は、いつから赤井のそばにいるのだろう。赤井、目を開けてと、何度願っているのだろう。
赤井のこころはひとつに決まっていた。
彼によく似た死神を振り返る。口の端に不敵な笑みを浮かべて。
「上等だ。彼を縛り付けられるなら、死など選んでやるか。彼が生きる世界が俺のいるべき場所だ。彼とずっと一緒にいられるなら、俺は神にだって叛いてやるさ」
赤井のグリーンの瞳が生き生きと輝きだす。それは赤井自身の生命力であり、魂のちからだった。
その輝きが増せば増すほど、ベッドで眠る赤井の白い頬に少しずつ血の気が戻ってくる。脈拍も徐々に速くなり、それと共に肉体に引っ張られるような感覚がした。生命力に呼応して、魂が肉体に呼ばれているのだと赤井は理解した。
「…もし、俺の運命が尽きたと言うなら、なぜまだ魂が肉体と繋がってるんだ。まだ繋がっているということは、切れないということ。つまり戻れるということだろう?」
赤井の言葉に死神は目を丸くした。観念したように顔を伏せ、小さく頷く。
「…そうです。魂はその持ち主が死を受け入れない限り、肉体から切り離せません。…だから、一刻も早く受け入れてもらいたかったのに」
「悪いな。俺は、運命は自分で切り拓くものだと思っている。他人が決めたものをただ受け入れるだけなんてのはごめんだ。それに」
赤井は項垂れる降谷の横に立った。眩しいものを見るように目を細め、微笑む。
「俺は彼に『生きて会いに来い』と言われたんだ。期待を裏切ることはできんだろう」
そっと、降谷の肩に右手を置く。今は触れることはできない彼の身体。誰よりも靭つよいからこそ、護りたいと、俺が護らねばならぬと思ったのは彼だけだ。
死神はこれ見よがしに盛大なため息をついた。呆れたように肩をすくめ、赤井をじとっと睨め付ける。
「…説得は無駄というわけですか」
「そうだな。だが君、本気で説得しようなんて思ってなかっただろう?」
図星を突かれたのか、死神が口籠る。
「俺を本気で死者の国へ連れて行くつもりなら、わざわざ心残りを探しにあんなに方々訪ねる必要はなかったはずだ。違うか?」
死神はイエスともノーとも答えなかった。ただ真っ直ぐに赤井を見つめ、右手を差し出す。
「…あなたの人生を、一緒に辿れて楽しかったです。やはりあなたは僕の思った通りの人だ」
応の代わりに、その手をしっかりと握り返す。死神の手は降谷よりも厚く大きく、指先が石のように硬いことに、赤井は気づいた。ああ、と胸の内で感嘆する。ようやく、腑に落ちた。
だから赤井は、バーボンを名乗った死神に悪戯を仕掛ける子供のような笑みを向けた。
「次に会う時は、俺と彼を一緒に案内してくれ。出来れば、違う人物の姿で」
「違う人物?」
「俺と彼の共通の友人だ。…きっと、彼もやつに会えたら嬉しいだろうから」
その言葉を聞いた瞬間、死神の顔がまるで泣き笑いのように歪んだ。
だがすぐに人懐っこい微笑みを浮かべ、ぽん、と赤井の肩を押す。
「わかった。
…また、50年後に会おうな…、 」
最後に、懐かしい名を呼ばれた気がした。たぶん、かつて呼ばれていた酒の名で。
だがそれを確かめる前に、赤井の魂は真っ白い光の渦に飲み込まれていった。
◆ ◆ ◆
コンコン
控えめなノックの後、そろりと病室の扉が開く。入ってきたのは風見だった。
「…降谷さん」
「状況は」
顔も上げぬまま、降谷が尋ねる。風見は降谷の横に立ち、簡潔に捜査の進捗を報告した。逃げていた者たちも捕らえ、容疑者は全員確保した。今は警視庁で、FBIと手分けして事情聴取をしている。ただし末端も末端の構成員だったらしく、情報にはあまり期待できない、と。
「…わかった。ご苦労」
「あとこれを。着替えと差入れです」
紙袋と共に差し出されたビニル袋には、ペットボトルとゼリー飲料がいくつか入っていた。それらを受け取り、降谷が力なく笑う。
「ありがとう。だが食欲がないんだ」
「なくてもせめてなにか胃に入れてください。もしあなたまで倒れたら…私たちはどうしたらいいか」
「心配かけてすまない。でも僕は大丈夫だから」
ちらりとベッドを一瞥してから、目礼して風見は退室した。その背中を眺めながら、降谷はぼんやりと考える。
何故、今自分は大事な捜査しごとを投げ出してまでここにいるのか。
何故、身内でもないのに赤井が目覚めるのをここで待っているのか。
…あの日、あの作戦中。
妙な胸騒ぎがしたのだ。だから赤井をあのビルから遠ざけようとしたのに、赤井は「俺がやるのが効率的だ」と言って聞かなかった。降谷には、赤井にその言を撤回させるほどの理屈がなかった。根拠のない勘だったから。だが、理屈など関係なく無理矢理配置を変えてしまえばよかったと、降谷はずっと後悔している。
(もし…赤井まで、いなくなってしまったら)
いったい、何度、身を引き裂かれるような別れを味わわなければならないのだろう。
だらりと弛緩した赤井の右手を両手で握りしめ、祈るように額に押し付ける。もう、何度目か分からないほど口にした言葉がまろび出る。
「赤井…頼む、目を開けてくれ…」
と、そのとき。
ぴくり、と赤井の指がかすかに動いた気がした。
はっと顔を上げると、固く閉じられていた瞼がわずかに動いている。思わず立ち上がると手に持っていた袋がバサバサと音を立てて床に落ちたが、気になどしていられない。
「あかい…?」
震える声で、その名を呼ぶ。と、ゆっくりと、赤井がその瞼を開けた。
「…ふる、やく…」
酸素マスク越しのくぐもった声。いつもより掠れた、降谷のよく知る声。そして久しぶりに正面から見るグリーンアイズ。その翡翠のような両の瞳が、たしかに降谷を捉えた。
「赤井…っ」
思わず叫びそうになるのを降谷はぐっと堪えた。なんとか冷静を装い、ナースコールに手を伸ばす。
「待ってろ、今看護師さんを…」
呼ぶから、と言う前に腕を掴まれ、降谷は息を呑んだ。赤井の左手が、目覚めたばかりの赤井の手が、降谷の腕をしっかりと掴んでいるのだ。
苦しそうに呼吸をしながらも、赤井は不敵に笑っている。
「降谷くん…いきて、もどったぞ」
次の瞬間、降谷の両眼から涙が溢れ出した。
「ばか…ッ、馬鹿野郎ぉ…!」
思わず、ベッドに突っ伏す。漏れ出る嗚咽をなんとか押し殺そうとしたが、赤井には聞こえているのだろう。痛みに顔を顰めながら、震える降谷の肩を抱くようにさすった。
「はは…待たせて、悪かった」
「うるさいっ…べつに、待ってたわけじゃない…ッ!」
赤井は何も言わずにただ降谷の肩を抱いた。その手はとてもあたたかかく、涙はなかなか止まらなかった。涙が流れ出るたびに、降谷の胸が深い安堵で満たされる。その所為で、言うつもりのなかった言葉もつい口を突いて出てしまう。
「ぼくの、せいで…あなたまで、いなくなってしまうかと…」
「君の?何故…?俺がこうなったのは自分の判断ミスだ」
「だって…僕が大事に思う人は、みんないなくなっちゃうんです。家族も、初めて好きになった女性も、親友も、大事な友人たちも…みんな、いなくなってしまったから…」
ずっと考えてきた。何故、降谷零のそばにいたひとたちは皆、降谷を置いていなくなってしまったのか。もし、もしも、その原因が降谷にあるのだとしたら。
「僕が、死神だから…赤井まで、いなくなっちゃうのかな…って…」
赤井は瞠目した。降谷の生い立ちをすべて知っているわけではない。だが、多くの親しいひとを亡くしたということは知っている。まさかそのせいで、何事にも秀でたこの男が、こんなにも己の存在を疎んじていたとは。
そして、いま、目の前で必死に嗚咽を堪えて肩を震わせているこの男を、救えるのは自分だけなのだと確信した。
降谷くん、と赤井が呼ぶ。その声があまりにやさしくて、降谷はつられるように顔を上げた。
酸素マスクを外した赤井は、翡翠のように美しい瞳でまっすぐに降谷を見つめ、力強くも希望に満ちた微笑みを浮かべている。
「降谷くん、きみは死神なんかじゃない。俺はきみの声に救われた。きみが何度も俺を呼んでくれたから、こうして生きて戻ってこられたんだ。俺を生かしてくれたきみが、死神であるはずがない」
静かに、真っ赤に充血した降谷の眼からさらに涙が流れ落ちる。それを人差し指で拭い、赤井がふっと笑みをこぼした。
「それに、ホンモノの死神は、音楽が好きそうな気さくなやつだったぞ」
「え?」
何のことか分からず、降谷が目を瞬かせる。だが、今は死神かれのことは言わなくていい。50年後、きっとまた迎えに来てくれるだろうから。
熱く火照った頬を包み込むように、そっと手を添えた。
「降谷くん。生きて戻ったら伝えたいことがあると言っただろう」
その言葉に、降谷が目を見張る。その澄んだ夏空のような瞳が自分だけを映していることに、赤井は言いようのない歓びを感じた。
叶うなら50年後も…彼が迎えに来るときまで、そうであれと願いながら。
「降谷零くん。俺は、きみのことをーーー…」
The End.