ここには
があります。
以下では各ミッションの見どころを紹介します。
遠州人の気質を表す言葉として「やらまいか」という言葉があります。遠州弁で「やってやろうじゃないか」という意味です。とかく浜松人は「理屈は置いといて、ともかくやらまいか」と、前のめりに実践を重視します。
明治維新によって浜松城が老中出世の城でなくなった時も、太平洋戦争によって街中が焼き尽くされた時も、浜松人は、「やらまいか精神」を発揮し、復活を遂げました。
浜松のものづくりと出世のスピリッツは、そんな「やらまいか精神」と関わっているのかもしれません。
「やらまいか」の精神にあふれた浜松の街を巡ることで、出世とものづくりのパワーを感じ取ってくれたら幸いです。
1番目のミッション最大の見どころは、東洋最大の楽器博物館、浜松市楽器博物館です。「世界の楽器を平等に扱う」というコンセプトの元、クラシックの楽器はもちろん、雅楽やガムランなどの世界の民族楽器、さらには鍵盤ハーモニカやリコーダーなどの教育楽器まで収蔵されているほか、浜松の楽器製造産業の歴史についての展示もあります。また、ヘッドホンガイドで聴きたい楽器の音を聞くことはもちろん、毎日4回行われるギャラリートークでは、展示品の楽器について学芸員さんから説明を受けることもできます。(入館料大人800円 9:30~17:00 第2・4水曜休館)
ものづくりの町、浜松の代表として、当ミッションでは河合楽器の創業者河合小市の銅像を目指して、河合楽器本社をめざしましょう。河合は日本楽器(後のヤマハ)の職人としてその身を起こし、ピアノ職人として独立してからも多くの創意工夫で「発明小市」の名を残しました。そんな小市を慕ってか、今でも河合楽器の近くには浜松のものづくりを支える町工場が操業しています。
自動車メーカー、スズキ発祥の地を目指します。鈴木道雄が1909年に開発した鈴木式織機は、日本の二大自動織機の一つに数えられる画期的な発明でした。織機は自動車やオートバイ製造の技術にも転用しやすかったことから、鈴木は1950年に自転車補助エンジンを用いたオートバイ製造に乗り出します。そんなスズキの発祥の地には、それを伝える小さな道標が立つだけですが、小さな町工場からオートバイや自動車メーカーとして発展していった歴史を感じてください。
蓮実重彦や本多周五などの文芸評論家が絶賛し、「私小説の極北」と称された小説家、藤枝静男の旧居跡です。藤枝は浜松で眼科医を開業するかたわら小説家として活躍し、「イペリット眼」「欣求浄土」「田紳有楽」「空気頭」など、私小説のスタイルをとりながらも虚実のあわいに遊ぶマジックリアリズム的作品を残しました。今でもご子孫が眼科を開業しておいでですので、付近を通行される際は迷惑にならないよう、ご配慮ください。
江戸幕府第2代将軍、徳川秀忠が産湯をつかったとされる井戸の跡を目指します。秀忠は、家康を父に、西郷の局を母として、浜松で生まれました。西郷の局は早馬町にあった家臣の下屋敷で秀忠を生んだと言われており、産湯をつかったとされる井戸が復元されています。
浜松八幡宮は、浜松在城中の家康が、祈願所として崇敬し、武運長久を祈った神社です。ここのご神木「雲立の楠」は、家康が武田信玄との戦に敗れて逃げ帰る途中、追手から身を守るためにこの木のうろに隠れた際、瑞雲が生じて家康を守ったという伝説があります。また、当社の社殿は太平洋戦争時の浜松空襲で焼失を免れた、数少ない建物の一つでもあります。
浜松東照宮は1886年創建。神社としての歴史は浅いものの、その地は浜松城の前身である曳馬城の跡地に立っています。曳馬城には家康が入城しただけでなく、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が、当時の主君であった松下嘉兵衛と共に訪れたという伝説があること、さらにはこの神社の直近に「アート商会」を創業した本田宗一郎が「世界のホンダ」にまで発展したことから、出世祈願のパワースポットとして、近年多くの参詣者が訪れるようになっています。
「神君」と言われる家康も、浜松では負け戦のエピソードが多く、特に三方原の敗戦は家康最大の危機でもありました。そんな犀ケ崖は、家康の負け戦の象徴的な地です。犀が崖資料館には、三方原の戦いに関する資料が展示されています。またこの戦いでの戦没者の霊を慰めるため、三河から浄土宗僧侶の宗円が招かれ、念仏踊りが行われるようになりました。今でも遠州各地に伝わる民俗文化財「遠州大念仏」の資料展示も行われています。(資料館は入場無料。祝日の翌日と毎週月曜休館。午前9:00~午後5:00)
世界で初めてテレビジョン開発に成功したのが、浜松出身の技術者、高柳健次郎です。1926年、浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)において、40本の走査線を用いたブラウン管に「イ」の字を受像させ、世界で初めてテレビジョン開発に成功しました。 静岡大学工学部正門にはそんなテレビジョン開発の父、高柳の記念碑が設置されています。
当時開発が行われていた浜松高等工業学校跡地には、高柳のブラウン管の模式図と、当時受像に成功した「イ」の字を描いた顕彰碑が建てられています。
普済寺は曹洞宗の寺院。「豊川稲荷」として知られる愛知県の妙厳寺は当寺の末寺に当たります。この寺は三方原の合戦の際、「浜松城が落城した」ように見せかけるため、家康によって火を放たれました。しかし再建したのも家康で、この寺の数奇な運命を物語っています。
浜松秋葉神社は、家康が浜松入城の際に秋葉権現を勧請して創建された神社です。鎮座したのは、家康の家臣である奥平信昌の屋敷内で、信昌は後に家康の長女亀姫の婿となりました。街中にありながら、都会の喧騒を忘れる木立に囲まれています。毎年1月には正月飾りを納める焼納祭とその年の豊年を占う管粥祭が行われ、多くの参詣者でにぎわいます。
浜松城の歴代城主には京都所司代や大阪城代、さらには老中などに出世した人物を多く輩出し、五万石ながら幕府の重役への入り口として、「出世城」の別名を持っています。復元された天守閣内部は、家康に関する各種資料や浜松藩の当時の様子が再現されたジオラマなどが展示されています。(入場料大人100円。12/29~30休館。午前8:30 ~ 午後4:30。但し入場は10分前まで)
浜松中央図書館の入り口に立つ記念碑は、日本式点字の父、石川倉次にちなむものです。倉次はは浜松藩士の子として生まれました。幼時から聡明で、8歳から浜松藩校克明館で学んでいます。維新後は教育者として、東京訓盲院の小西信八と共に視覚障害者教育に献身し、フランスのブライユ式6点点字をもとに、日本式6点点字を発明しました。 ポケットタイプの点字器や点字用のタイプライターを発明しただけでなく、聴覚障害者教育にもその才能を発揮しました。
五社神社(現在の正式名称は「五社神社 諏訪神社」)は徳川秀忠生誕の折、秀忠の産土社として創建された神社です。また、国学者の賀茂真淵の師である森暉昌が神職として勤めていたことから、真淵は師の暉昌を光海霊神(うなてりのみたま)と崇め、顕彰碑が建てられています(拝観無料)。 また、かつて遠州地方では「お江戸見たくば五社諏訪ご覧じ、お江戸勝りの五社や諏訪」という俗謡があり、戦前までは国宝に指定されていた壮麗な社殿がありました。
木下恵介記念館は浜松出身の映画監督、木下恵介を顕彰する施設です。館内は木下の書斎を再現した資料室があり、木下の作品を閲覧することもできます。建物自体は戦前に浜松出身の建築家、中村與資平によって「浜松銀行協会」として建造され、浜松市の指定文化財となっています。なお、「木下恵介と女優展」が9月23日まで開かれています。岩下志麻さんの直筆コメントは必見。(入場料100円。月曜休館 9:00~17:00)
田畑政治は1964年東京オリンピック招致のキーマンです。浜松有数の資産家に生まれた政治は、大日本水泳競技連盟(後の日本水泳連盟)理事長を経て、1964東京五輪組織委員会事務総長、日本オリンピック委員会会長を歴任しました。また、「フジヤマのトビウオ」と言われた古橋廣之進の発掘や、女子バレーボールのオリンピック正式種目追加など、日本だけでなく世界のスポーツ界に多くの功績を残しました。
浜松宿は江戸から数えて東海道29番目の宿場町です。戦火によって往時の面影を残す建物は残っていませんが、江戸時代は本陣が6軒、旅籠が94軒もあり、駿河・遠江では最大の宿場町でした。本陣を6軒も擁していたのは、東海道では箱根と浜松だけです。このうち梅屋本陣は先述の賀茂真淵の養家でもあります。また「花のお江戸へ七十里、梅の浪花へ九十里」とも呼ばれ、東海道のほぼ中間地点に当たるだけでなく、天竜川河口の掛塚湊とともつながっており、東西交通、南北交通の拠点でもありました。
太平洋戦争で廃墟となってしまった浜松から真っ先に復興したのが、浜松市最大の繁華街、有楽街です。南北300メートル足らずの通りですが、映画「新宿スワン」のロケ地ともなっています。
創建は江戸時代の享保年間。小さなお稲荷さんですが、ここにも出世開運の逸話があります。とある倒産寸前の呉服屋さんが浜松の営業の帰りに黒田稲荷にお参りをした直後、都はるみさんのコンサートポスターを見て、ダメでもともとのつもりで営業の電話を掛けたところ、快諾を受け、なんとその年の紅白衣装を引き受けることに。それが縁で倒産寸前の呉服屋さんは奇跡の大復活、しかもはるみさんはその年のレコード大賞を受賞したことから、境内にははるみさん直筆の奉納額があります。そんなエピソードから商売繁盛・芸道成就に霊験あらたかな神社として、お参りする人が絶えません。