─ 意識・反応・カルマの数理構造 ─
2025年5月5日 テラビジョン 坂根英樹 / Hideki Sakane
本稿は、仏教の心の構造を制御理論や数理モデルの観点から再構成し、人間の意識・感情・反応・業の働きを可視化する試みである。特に八識(六識・末那識・阿頼耶識)および五蘊(色・受・想・行・識)の心的プロセスを、比例(P)、微分(D)、積分(I)といった制御理論の枠組みに対応させることで、仏教的修行の必要性や心の変容のメカニズムを数式的に説明する。
This study seeks to reformulate the Buddhist model of the mind through the lens of control theory and mathematical modeling. By aligning the functions of the eight consciousnesses and the five aggregates with proportional (P), derivative (D), and integral (I) control systems, we aim to make visible the structure behind mental responses, emotions, memory, and karma. This model also highlights the functional necessity of spiritual practice as a robust optimization of inner processing.
人間の心の働きは、大きく表層意識と深層意識に分けられる。
表層意識は「五蘊(ごうん)」によって構成される。五蘊とは、色・受・想・行・識の五つであり、人間の存在と意識の基本要素とされる。このうち「色」は身体を表し、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)という六つの感覚器官とつながっている。
一方、深層意識には「末那識(まなしき)」と「阿頼耶識(あらやしき)」が含まれる。
末那識(まなしき)は「マナ(manas)」というサンスクリット語に由来し、“思量・分別”という意味を持つ。自己と他者を識別し、自我への執着に基づいて判断する深層意識である。
阿頼耶識(あらやしき)は「アラヤ(ālaya)=蔵(くら)」を意味し、経験や行為(業)の痕跡が深層に保存され、無意識のレベルで働く識である。
このように、五蘊は現在の感覚・判断・思考を構成し、末那識と阿頼耶識はそれを支える深層的背景となっている。このような表層意識と深層意識の二重構造は、古代インドの仏教思想においてすでに確立されており、龍樹(ナーガールジュナ)の『中論』における空の思想をはじめ、無著(アサンガ)および世親(ヴァスバンドゥ)の唯識論において、八識構造として体系的に記述されている。
五蘊のうち「受・想・行・識」は、心の作用として次のように説明される:
受(じゅ):感覚の受容。外界からの刺激に対して「快・不快・中性」の感情を生じさせる。
想(そう):表象・記憶・連想。受け取った刺激を識別し、過去の記憶と結びつけて認識する。
行(ぎょう):意志的な反応や、習慣的な思考・行動パターン。ここで「反応の型」が決定される。
識(しき):それらを統合して「知」として保持する機能。意識的判断の根底となる認識作用である。
これらの作用は「刹那(せつな)」と呼ばれるごく短い時間単位で連続的に生起し、瞬間ごとに心の反応が形成されていく。仏教において刹那とは、心が生起・持続・滅のプロセスを一回転する最小単位であり、現代の研究では、おおよそ75分の1秒(約13ミリ秒)に相当すると仮定されている。これはあくまで仮説的な目安であり、人間の認知処理や知覚閾値と照らし合わせて導かれた推定値である。その速さで受・想・行・識のプロセスは常に動いている。
この意識構造において、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)は表層意識の「色」の側面に位置づけられ、外界からの入力を受け取る感覚の基盤をなす。つまり、心の働きにおける入力系とは、六根を通じて六つの対象を分別し、それを意識が処理するプロセスである。次章では、この六根の働きと、それに対応する六つの分別対象の構造について数式モデル化を行い詳しく検討する。
人間の心は、眼・耳・鼻・舌・身・意の六根を通じて、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・思考という刺激を受け取る。この入力は六つの対象(色・声・香・味・触・法)として分別される。
数式モデル: I(t) = Σ (Rₖ × Sₖ(t)) for k = 1 to 6
Rₖ:六根それぞれの感度(感受係数)
Sₖ(t):刺激信号(6分別された対象)
I(t):その瞬間の総入力強度
つまり、これらの式が個々の人間においてセンサーの感度が違うことを意味している。言うまでもなく、tは刹那を示す。
I(t) で表される入力信号は、五蘊の第一段階である「色」によってまず受容され、そこから以下の意識過程に送られて処理されていく。その全体的な出力 E(t) は、各段階にかかるゲインを乗じた形で次のように定式化される:
入力刺激は、色・受・想・行・識という五つの意識段階で処理される。この流れには、各段階ごとにゲイン(重み付け)がかかる。
数式モデル: E(t) = G₁×色 → G₂×受 → G₃×想 → G₄×行 → G₅×識
E(t) = G₁ × G₂ × G₃ × G₄ × G₅ × I(t)
Gₙ:五蘊それぞれにかかる感受係数(ゲイン)
E(t):現在の感情・思考・反応を統合した出力
ここは比例制御(P)層であり、刺激に対する即時的な感情反応(好き・嫌いなど)が生まれる。
E(t) の変化を感知するのが末那識である。ここでは反応の変化率が測定され、急激な変化が“自己”と紐づく。
数式モデル: M(t) = dE(t)/dt
急変動 → 強い自我反応(執着・怒りなど)
緩やかな変化 → 無視・スルーされやすい
末那識は、自我の境界を形成する微分装置として機能する。
E(t) は時間を通じて蓄積され、長期的記憶・性格・業として保存される。それが阿頼耶識の働きである。
数式モデル: A(t) = ∫ E(t) dt from t₀ to t
A(t):心の深層記憶・カルマの蓄積
これは積分制御(I)に対応し、繰り返し体験された情報が未来の判断に影響を与える。
表層意識(五蘊)= 比例制御(P):感情・即時的判断
末那識(自我)= 微分制御(D):変化の感度・自己認識
阿頼耶識(記憶)= 積分制御(I):経験の蓄積・傾向形成
この三層制御モデルにより、仏教における心の仕組みは、情報処理的・数理的に再構成される。
このように心のメカニズムを仏教的教えに基づいて数式化することもできる。つまり、この数式モデルに基づいて自分の心の観察をすることが可能となる。
この数式モデルから、心の構造は、入力刺激に対して敏感に反応し、ノイズ(誤認・ストレス)に弱く、安定性に欠ける。
つまり、私達人間は表層意識は比例制御の中にあり、入力値と自らが持つゲインによって心を揺さぶられている。
正見とはそれらの入力センサーを誤認内容にする(六根清浄)ことと、敏感に反応しないしないゲインとすることとすることが必要となる。それが、修行と言われるものと定義できる。ゲインの調整は自分を追い込むことで動じない値にすることと言える。
末那識は自己維持に作用するが、それは微分された変化率によって反応していることを知ることが大切ということと言える。
つまり、過去との差である。何との差、いつとの差によって自分が反応しているかを自らが探究することが末那識を強化することになる。そして、それらの差が積分されて心に圧し掛かっているのが阿頼耶識である。カルマの記録と言っても過言ではない。
ゲインの再調整(五蘊の反応感度の調整)
微分・積分精度の強化(自我の感度とカルマ記録の精密化)
結果として、ロバスト性=揺らぎへの耐性が高まる
つまり修行は、心の安定性を最適化する制御システムの再構築である。
最終的に、調整された心のゲイン(反応の仕方)は、阿頼耶識に蓄積され、それが生理的構造=遺伝子に影響を与える。
数式的因果連鎖: Gₙ(t) → A(t) → Dₙ(t+1)
Gₙ(t):現在の心の感度調整
A(t):経験としての蓄積
Dₙ(t+1):次世代における表現型の傾向
つまり、心の修行と意識の記録は、未来の生命に微細な形で継承される。
仏教における心の構造は、比例・微分・積分という制御理論と見事に対応する。表層的な感情の発生から、自己認識の形成、そして経験の蓄積による人格やカルマの生成まで、数理的記述は可能であり、また極めて論理的でもある。
このモデルにより、修行の意義は「精神論」ではなく「情報制御理論」として再定義される。心は変えられる。しかも、精密に制御可能なシステムとして。
The structure of consciousness in Buddhism can be reinterpreted through the lens of proportional, derivative, and integral control systems. From the generation of immediate emotional responses to the formation of ego and the accumulation of karmic memory, this model offers a logical and mathematically coherent description of the mind. Through this lens, spiritual practice emerges not as vague aspiration, but as a process of robust and precise optimization of internal systems—a training in regulating the very architecture of human perception and reaction.