第87回研究発表会
2025年8月2日(土)
法政大学市ヶ谷キャンパス 大内山校舎 Y804教室(ZOOMによる同時配信)
幹事会 13時00分 より
研究発表(発表30分・質疑25分) 14時00分 より
1. 『テアイテトス』第二部における思考と判断 郷家祐海(慶應義塾大学)
2. 自然本性による幸運: 『エウデモス倫理学』における幸運論をめぐって 加藤喜市(東京大学)
『テアイテトス』第二部における思考と判断
郷家祐海(慶應義塾大学)
本発表では、『テアイテトス』第二部(187a-201c)の議論を通じて、プラトンが私たちの思考や判断についてどのように論じているかを検討する。『テアイテトス』第二部では、「知識は真なる判断である」という定義が検討されるが、そのなかでソクラテスは、思考(διάνοια)を魂による自己との内なる対話として規定し、判断(δόξα)をその帰結とみなしている(189e-190a)。この規定そのものは印象深く、また有名であるにもかかわらず、『テアイテトス』の文脈の中ではほとんど無意味な規定として無視されるか、あるいは過度に理知主義的な見方として批判されてきた。このため、これまでの研究のなかで、思考と判断に関する上記の規定は『テアイテトス』の議論を読み解くうえでほとんど顧みられてこなかった。
本発表の目標は、上記の規定が『テアイテトス』の議論を読み解くうえで重要な意義を持っていることを示すことである。そのために、思考を魂の内的対話とする規定の哲学的含意を取り出し、そのうえでこの規定が『テアイテトス』の議論の文脈のなかでどのような役割を果たすかを論じる。本発表のなかで中心的に検討したいと考えているのは、いわゆる「虚偽判断のパズル」と呼ばれる議論、とりわけ鳥小屋モデル(197a-200c)の箇所である。この箇所の検討を通じて、何事かを思考し判断するという営みについてプラトンがどのような理解をとっているのか、またなぜ鳥小屋モデルが虚偽判断を説明するのに失敗したのかを探っていきたい。
一連の検討を踏まえ、最終的に次のことを提案したい。それはすなわち、鳥小屋モデルの議論を通じてプラトンが示唆しているのは、私たちの思考・判断には個々の状況に応じて知を使用するという実践的側面と、自らの不知を自覚し知を目指すという反省的・目的論的側面の両面が内在しているということである。この点を明らかにすることで、次のような見通しも得られるように思われる。すなわち、『テアイテトス』において展開される「知識とは何か」をめぐる探究はたんなる定義探究にとどまらず、一貫して私たちの魂のあり方とその働きに対する反省に根ざしたものだということである。
自然本性による幸運: 『エウデモス倫理学』における幸運論をめぐって
加藤喜市(東京大学)
本発表では、『エウデモス倫理学』第8巻第2章のテクスト解釈から、アリストテレスにおける「幸運(エウテュキアー)」の概念について明らかにすることを目的とする。周知のごとく『エウデモス倫理学』(EE)と『ニコマコス倫理学』(EN)は、各書の中心に位置する3巻分の内容を共有している(EE第4~6巻=EN第5~7巻:これらの巻は「共通巻 the common books」と呼ばれる)。EEの最終第8巻第1~3章は、同書に固有の部分として、ENとの違いが特に際立つ内容が論じられている箇所である。「叡知」「幸運」「善美の徳」という各章のテーマのうち、今回は第2章で扱われている「幸運」に着目する。
幸運な人と不運な人の違いはどこにあり、また、彼らを幸運/不運たらしめているものはいったい何なのか。アリストテレスは幸運の原因として、「自然本性」「知性」「神的加護」「偶運(偶然)」などさまざまなものを挙げて検討しているが、とりわけ問題となるのが、生まれながらにして幸運な人のケース、すなわち「自然本性による幸運」の位置づけである。テクストをそのまま読めば、アリストテレスは「偶運による幸運」のみを幸運と認めており、「自然本性による幸運」はあくまで「幸運に見えるもの」とみなしているようにも思われる。けれども、「魂の内なる衝動」による説明(1247b19–29)やそこで語られる「天成の歌い手」の例など、同章の議論における詳細な分析からすると、アリストテレスは「自然本性による幸運」もまた、幸運の一種として積極的に認めていると考えられる。
本発表では、アリストテレスが「幸運の多義性」(b29)を認めていること、および同章の最後で語られている「神的な幸運」(1248b4)に着目して、この問題について考えてみたい。さらに、議論の背景にある「偶運(偶然)」と「自然」の対比については『自然学』の第2巻第4~6章でも論じられており、また『大道徳学』の第2巻8章には幸運を「自然本性」として説明する記述が見られる。2023年に出版されたクリストファー・ロウによる『エウデモス倫理学』の新しいOCTを元にして本文をあらためて検討するとともに、以上のような関連箇所も手がかりにして、アリストテレス倫理学における「自然本性による幸運」の内実に迫りたい。
第86回研究発表会
2024年12月21日(土)
早稲田大学文学学術院(戸山キャンパス)33号館(16階)第10会議室(ZOOMによる同時配信)
幹事会 12時45分 より
研究発表(発表30分・質疑25分) 13時30分 より
1. プラトン『パイドン』の想起における〈類似〉と〈等しさ〉について 小野太陽(東京都立大学)
2. 『カテゴリー論』第二章の「読み書きの知識」について ――Owenの解釈を手掛かりに―― 川端魁(東洋大学)
3. デルヴェニ・パピルスにおけるオルペウスの詩の解釈を巡る論点について 齊藤安潔(椙山女学園大学)
プラトン『パイドン』の想起における〈類似〉と〈等しさ〉について
小野太陽(東京都立大学)
本発表において、私はプラトン『パイドン』の想起説をとりあげる。『パイドン』の想起説はこれまで数多くの問題が指摘されてきた箇所であり、研究の層も非常に厚い。哲学的にも歴史的にも興味深い難問に取り組む前に、74a2-d2における「類似」と「等しさ」をめぐる読解上の難点にとりわけ着目したい。本発表では、この両者の複雑な絡み合いを明らかにすることで、想起説理解に対してある見通しを与えることを目指す。
ソクラテスは、〈日常的な想起経験〉を説明する際、想起の事例を五つ挙げた後、「想起とは一方で類似物から他方で非類似物から生じる」と述べる(74a2-3)。その直後では「類似物から」の想起に限定され、人が何かを類似物から想起する場合、似ているという点で、想起したところのかのものに欠けているかどうかを心に思うのだとされる(74a5-8)。以上が対話相手に同意されると直ちに、話題は「等しさそのもの」へと移行することになる。
74a9-12では、私たちは等しさそのもの(αὐτὸ τὸ ἴσον)があると主張するという事実が、直後のb2では「私たちはまさに〈等しいところの〉あるもの(αὐτὸ ὃ ἔστιν)を知っているね?」という事実が確認される。そしてこの二つの言明を前提として、等しさの知識の起源を問うことになる。しかしその問いへの応答に先立ち、「等しさそのものαὐτὸ τὸ ἴσον」と「等しい個物ταῦτά τὰ ἴσα」との異なりが示される(c4-5)。この「イデアと個物の異なりの論証」を経て、プラトンは〈日常的な想起経験〉において用いられた「類似/非類似」という枠組みを再導入するにもかかわらず(c11)、すぐに棄却しているかのように思われる(c13)。また76a3-4でも「類似/非類似」の枠組みは意識されているが、そこでも重要ではないものとして扱われているのだ。
類似概念は〈日常的な想起経験〉においていかなる役割をもっているのか。そして〈等しさの想起〉において、そこで再導入されるにも関わらず即座に却下されてしまう類似概念は、いかなる重要性を持ちうるのだろうか。本発表では以上の問いに応答することを介して、『パイドン』の想起説における読解にある見通しを与える。
『カテゴリー論』第二章の「読み書きの知識」について ――Owenの解釈を手掛かりに――
川端魁(東洋大学)
本発表は、アリストテレスの『カテゴリー論』第二章で起こった論争における、Owenの解釈を検討する。その論争は、アリストテレスが第二章で行った「あるもの(存在)」の分類において、「基に措定されたもの(ὑποκείμενον)」の「内にある」が「語られない」もの、すなわち属性の個体性をめぐるものである。Owenは“Inherence”での解釈において、属性の「最下種」を考える。「最下種」とは、種の中でこれ以上分割されないものを指す。これに基づきOwenは、「読み書きの知識(γραμματική)」が知識における「最下種」であり、「特定のある読み書きの知識(ἡ τὶς γραμματική)」は「読み書きの知識」の個体にあたる、とする。そしてOwenは、それ自体個体的な属性が個体的な実体に属する、と主張する。
本発表では、この論争に向かう準備としてOwenと異なる解釈を提示する。「読み書きの知識」の内実は、アリストテレスやプラトンの用例に基づけば、「①音声について考察し、②口述されたものを書き起こしたり、書かれたものを読み上げたりする知識」である。この内実は、Owenの「特定のある読み書きの知識」の個体性の想定がアリストテレスの想定と外れていることを示す。なぜなら、アリストテレスは「読み書きの知識」を個体的な「読み書きの知識」の集合であるとは考えていそうにないからである。つまり、何らかの個体がすでにあり、それが個体的な実体に属するというのではない。したがって、「特定のある読み書きの知識」という個体的な属性が個体的な実体に属する、というOwenの主張には無理がある。
このように「特定のある読み書きの知識」を解釈した場合、Owenの議論は次のような修正を迫られることになる。すなわち、Owenは、「内にある」が「語られない」ものそれ自体に個体性を求めずに、その存在論的身分を説明する必要がある。
Owenの先行研究者への批判点は的確であったが、彼の解釈には無理があった。彼の難点を解消する形で『カテゴリー論』を解釈することができるのであれば、『カテゴリー論』を実体と属性、類種関係の説明に従事している書と読むことができるように思われる。
デルヴェニ・パピルスにおけるオルペウスの詩の解釈を巡る論点について
齊藤安潔(椙山女学園大学)
1962年にテッサロニキ近郊デルヴェニの墳墓から、炭化したパピルスの巻物が発見された。現在デルヴェニ・パピルスと呼ばれている文書である。この墳墓は紀元前300年頃のもので、パピルス自体は同時期の紀元前340~320年頃に制作されたと推定されているが、そこに記されている文章はより古く紀元前5世紀ごろにまで遡ると考えられている。デルヴェニ・パピルスは現存するヨーロッパ最古のパピルス文書という点でも貴重なものだが、その内容がオルペウスに帰される詩とその自然学的な解釈であったことで注目を浴びた。伝説上の詩人オルペウスの名を冠する秘儀宗教であるオルペウス教(Orphism/Orphics)はプラトンやエウリピデス、ピンダロスによってその存在がほのめかされているものの、典拠の多くは古代後期の新プラトン主義の哲学者たちの証言に拠っていた。そのため、オルペウス教の成立がどこまで遡ることができるのか、またその内実がどのようなものであったのかということは、議論の絶えない問題であった。しかし、デルヴェニ・パピルスの発見により、少なくとも紀元前5世紀にはオルペウス教が存在していたことが確実となったのである。
パピルスは炭化していたために腐敗を免れたが、同時に脆くなっており、引き剥がされた時にバラバラになった文章を復元して再構成するまでには長い時間がかかった。複数の暫定版が発表された後、2006年に正式な版が出版され、現在でも復元作業が続けられている。パピルス自体の破損のために文章の欠落が大きいということもあるが、文章自体が謎めいたオルペウスの詩の読み解きであることから、その内容の解釈を巡って多くの研究者によってさまざまな見解が提示されてきた。デルヴェニ・パピルスの内容をどう理解するかということはいまだ論争のただ中にあり、定まった見解のようなものは存在していない。そこで本発表では予備的な考察として、全体の内容を概観しながら、オルペウス教研究の観点から特に重要であると思われる論点を整理してみたい。
第85回研究発表会
2024年8月3日(土)
法政大学市ヶ谷キャンパス 大内山校舎 Y804教室(ZOOMによる同時配信)
幹事会 13時00分 より
研究発表(発表30分・質疑25分) 14時00分 より
1. プラトン『クラテュロス』における名前の定義の再解釈 片山寛子(学習院大学)
2. 後期メガラ派閥の哲学と「拡散した」キュニシズム
――メガラのスティルポンの事例に即して―― 長尾柾輝(東京大学)
総会 16時15分頃 より
プラトン『クラテュロス』における名前の定義の再解釈
片山 寛子(学習院大学)
本発表においては、プラトンの対話篇『クラテュロス』の 388b10-c1 の検討を行う。
『クラテュロス』は名前の正しさを主題とした対話篇である。ソクラテスは対話相手であるヘルモゲネスとクラテュロスの自説を順番に検討する過程で、ヘルモゲネスに対して名前の機能を自ら定義してみせる(388b10-c1)。ソクラテスによると、名前によって使用者は「お互いに何かを教え合っているのであり、またもろもろの事物をそのあり方に従って区分して」おり、名前は「何らか教えるための道具であり、そしてあり方を区分するための道具」であるという。この文においては「教え合う」「区分する」という機能を説明する二つの語が接続詞 καί によって結ばれているのだが、まさにこの点に解釈上の問題があると発表者は考える。というのも、この接続詞 καί の解釈次第で、名前には二つの異なる機能が備わっているとも、これらの二つの機能は単一の機能の言い換えであるとも解釈することが可能だからである。しかしながら、前者の解釈を支持するのは Kretzmann のみであり、Barney、Sedley、Ademollo ら他の多くの研究者はこの定義が単一の機能を表していると解釈してきた。ただし彼らが当該箇所について言及する場合、機能が単一か複数かという点は問題視されず、半ば慣習的に単一の機能の説明だと前提されているように思われる。そこで本発表においては、改めてこの問題を取り扱い、それぞれの立場に従って当該箇所を再解釈したうえで比較する。そのうえで、異なる二つの機能だと解釈した場合の方が、『クラテュロス』全体に対する解釈の幅が広がると論じる。
後期メガラ派の哲学と「拡散した」キュニシズム ――メガラのスティルポンの事例に即して――
長尾柾輝(東京大学)
ソクラテスの死後、彼の弟子筋からは多くの「学派」が派生した。それらのうち以下の五派については、現存資料を通じてある程度の概要が知られる。
1.アテナイのアンティステネスに由来するキュニコス派。
2.キュレネのアリスティッポスに由来するキュレネ派。
3.メガラのエウクレイデスに由来するメガラ派。
4.エリスのファイドンに由来し、エレトリアのメネデモスが刷新したエリス゠エレトリア派。
5.アテナイのプラトンに由来するアカデメイア派。
一般にわれわれは、西洋哲学史上きわだって重要な位置を占めるプラトンの学統から自余の諸系統を区別し、後者を特に「小ソクラテス派(Minor Socratics = MS)」と総称するならわしである。
さて、紀元前4世紀末から同3世紀はじめにかけての後期MS思潮は、「拡散した(diffused)」キュニシズムの影響によって特徴づけられる。本発表では時間の都合上、とりわけ後期メガラ派のスティルポンに見出される「キュニコス的」な要素を集中的に分析することで、後期MSがそもそも/いかにしてキュニコス化したのかという問いの一面にアプローチしたい。先行研究は多くの場合、「キュニコス的」という評価をなかば自明のものとして反復してきたが、その妥当性にはいくつかの疑問符がつく。
議論の構成は以下のとおりである。まず第一節で、スティルポンの思想・逸話・伝記における「キュニコス的」な要素を整理する。次に第二節で、そもそも「キュニコス的である」とはいかなることかを一般的・概観的な仕方で簡単に論じる。そして第三節で、かかる検討内容を具体的な事例へと適用し、第一節に見た諸要素は実際には彼の「キュニコス性」を示すものでは「ない」という結論を導く。そのうえで最後に、こうした否定的結論にともなういくつかの積極的な含意を確認する。
第84回研究発表会
2023年12月16日(土)
日本大学文理学部キャンパス3号館3301教室(ZOOMによる同時配信)
幹事会 13時00分 より
研究発表(発表30分・質疑25分) 13時30分 より
1. プラトン『テアイテトス』177c-179bにおける相対主義批判 郷家祐海(慶応義塾大学)
2. 地下に移された楽園 ――『アエネーイス』におけるエリュシオン―― 佐野馨(名古屋大学)
3. プラトン『パイドン』における魂の健康と病 ――「親近性の議論」の分析から―― 三浦太一(中部大学)
『テアイテトス』177c-179bにおける相対主義批判
郷家祐海(慶應義塾大学)
『テアイテトス』161c-183bにおいて、プラトンは相対主義と流動説を批判的に検討する。その批判的議論は、多様な哲学的観点から展開されている。このため、それら一連の批判的議論にはまとまりがなく、各々の議論に応じて別々の哲学的論点が独立に取り上げられているようにみえる。その結果、『テアイテトス』161c-183bの一連の議論のなかで、プラトンの哲学的眼目がどこにあるのか、理解することが難しくなっている。
本稿における私の目的は、『テアイテトス』161c-183bにおける相対主義と流動説批判に通底するプラトンの一貫した哲学的テーマについて、見通しを示すことである。そのために本稿では、177c-179bにおける相対主義批判(以下「未来判断論証」)に焦点を当てる。そこで私は、未来判断論証におけるプラトンの哲学的眼目がどこにあるのか検討する。
未来判断論証のなかでプラトンは、未来の出来事に関する判断に着目することで、相対主義を批判している。この未来判断論証は、比較的注目されてこなかった箇所だと言える。『テアイテトス』の相対主義批判にかんするこれまでの研究は、169d-171dのいわゆる「自己論駁論証」の妥当性を検証することが中心になっていたからである。結果として、自己論駁論証と未来判断論証はそれぞれ別個に取り上げられることが多く、その関連性について論じられることは少ないのが現状となっている。
従来の解釈では、177c-179bの相対主義批判におけるプラトンの眼目は、専門知の可能性を確保する点にあると考えられてきた。本稿で私は、この従来の解釈が不十分であることを論じる。その原因は、そこで言われる「専門知」の内実が十分理解されていなかったことにある。本稿で私が提案するのは、プラトンは「専門知」を「二つの判断が対立する」という文脈、言い換えれば「対話的文脈」とも呼ぶべき文脈のなかで捉えているということである。最 終的に私は、この対話的文脈を十分考慮することで、未来判断論証が前後の批判的議論と共有する哲学的テーマについて、見通しを示すことを目指す。
地下に移された楽園 ――『アエネーイス』におけるエリュシオン――
佐野馨(名古屋大学)
本発表はウェルギリウス『アエネーイス』6歌の冥界下りにおいて、死後の楽園エリュシオンが地下に配置されていることについて考察を試みるものである。
ヘシオドス『仕事と日』の五時代の説話において、英雄の時代の人間たちは浄福者たちの島と呼ばれる楽園に送られたとされている。また『オデュッセイア』4歌においても、メネラオスがエリュシオンの平野に送られるだろうと語られる。このような楽園に関する伝承は、輪廻転生思想などとも結びつきながら、古代世界において語り継がれていた。ウェルギリウスの『アエネーイス』においても、エリュシオンという名で地下世界の一部として描かれ、アイネイアスと父アンキセスとの再会の舞台となった。
古代ギリシアの楽園にはいくつかの特徴があり、その一つとして、それが地上世界のどこかにあることが挙げられる。オケアノスからの風が吹くという共通した表現はそのことを明示していると言えるだろう。また上述した二つのギリシア叙事詩において、楽園は死者が死後に行く場所ではなく、生者が死の代わりに行く場所とされている。当然、死後の世界である地下ではなく、地上にあると想定されていると考えられる。楽園が地上にあるというこの特徴は、輪廻転生思想を取り入れて魂が地上と地下を行き来すると語ったピンダロスの『オリュンピア祝勝歌』2番に至っても変化していない。
それに対し『アエネーイス』では、エリュシオンが地下世界の一部として扱われている。『アエネーイス』の地下描写は、『オデュッセイア』の冥界下りに加え、オルペウス教をはじめとする秘儀宗教や哲学思想の影響を受けているとされる。しかし、そうした思想において地下で安息を得られるとされていたことと、安息の地が(地上にあるとされていた)エリュシオンであることの関係は複雑である。その事情を整理してみたい。
プラトン『パイドン』における魂の健康と病 ――「親近性の議論」の分析から――
三浦太一(中部大学)
本発表は、『パイドン』篇の魂不死証明の一つ、「親近性の議論」(77d–84b)が示唆する、魂の健康と病に関するプラトンの理解を明らかにする。一般的な健康と病の区分けについては、身体と精神の正常な状態と、それに反する異常ないし欠如状態とが考えられよう。しかし、必ずしも病気とは言えない強い身体的快楽や恐怖、欲望の所有も、当議論では魂に最悪の害悪を引き起こす原因となる。すなわち、身体的感覚を通じた激しい情念は、それらをもたらす事物が最も真なるものだという、虚偽の信念を魂に与えてしまう(83c)。だが、本来魂は、神的で知性的であり不死の存在に最もよく似ており(80a–b)、身体から離れ思惟の働きのみを用いて、自らと同族である神的存在に至らねばならない(84a–b)。また、当議論の導入部では、対話相手らは魂が死後雲散霧消することへの恐怖を有しており、ソクラテスには、彼らの恐怖を追い払う呪い歌を議論によって与えることが求められている。以上の文脈からすると、当議論では、魂のあるべき/悪い状態についての一般的見解を越えた規定が示唆され、哲学的対話を通じて、魂が悪しき状態から自らを改善することが期待されている。
上記の読解では、健康と病という視点から、親近性の議論が有する意義の再評価を行うことになる。『ティマイオス』篇(86b)は魂の病を明示的に規定しているが、『パイドン』でも、ソクラテスの最後の言葉が医神アスクレピオスへの言及であることも含めて、病という主題が研究者たちから注目されている(Betegh 2021, 金山 2014)。また、当議論の不死証明が魂とイデアの間の類似性という曖昧な概念に依拠していることから、議論の厳密性に関する弱さが指摘され(Gallop 1975)、意図的に欠陥のある議論が示されているという解釈もある(Elton 1997)。他方近年では、魂の本性を踏まえた個人のあるべき生き方や(栗原 2013)、死後の魂の在り方を提示している点で(Woolf 2004)、意義が見いだされ、論証の正当性にも肯定的な再検討がなされている(Ebrey 2023)。本発表は、当議論が、魂の病に関する新たな理解と病から回復する実践過程を示唆していると解釈し、その価値を改めて評価する。
第83回研究発表会
2023年8月5日(土)
法政大学市ヶ谷キャンパス 大内山校舎Y804教室
幹事会 13時00分 より
研究発表(発表30分・質疑25分) 14時00分 より
1. プラトン『ポリテイア』と「いかに語るべきか」という問題 平石千智(学習院大学)
2. ギリシア思想史上におけるμῆτις(狡知・策略)の役割
――プラトン『饗宴』におけるエロース誕生神話を手掛かりに―― 梶村哲矢(名古屋大学)
総会 16時15分頃 より
プラトン『ポリテイア』と「いかに語るべきか」という問題
平石千智(学習院大学)
『ポリテイア』第3巻では、理想国の中で存在が許される創作物を検討する際に、「①全体が真似で語られているもの②作者による報告のもの③その両方があるもの」の3つに分ける。そして、理想国では③の語り方をする創作物だけが認められると主張される。すなわち、なるべく作者による報告(叙述)の部分を多くしつつ、優れた人の真似は作中に取り入れるといった形式の創作物のみが理想国では認められるのである。創作物に優れた人の真似を取り入れることが許されるのは、優れた人の真似をすることが善いことだからである。すなわち、劣った人を真似の仕方で語る創作物は、それを受容する人々にとっては、それを真似したくなってしまう点で悪いものであるし、それを創作する作者にとっても、創作の際に真似を行わざるを得ないので悪いものなのである。実際、正しい人はすべてを真似る仕方で物語を語ることはなく、優れた人の行為に関してのみ真似しようとするだろうということが396D-Eにおいて述べられている。
では、『ポリテイア』そのものはどうだろうか。先の3つの創作物の区別を対話編『ポリテイア』自体に当てはめるのであれば、全体がソクラテスと他の登場人物たちの語りを真似する①の形で語られているものだと考えられる。すなわち『ポリテイア』は、優れた人は全てを真似る仕方で物語を語らないという旨を、全てを物語る仕方で物語るという構造になっているのである。なぜプラトンは、創作物の真似に関する主張を、真似という仕方で語ったのだろうか。本発表ではこの問題について、理想国で用いられる(認められる)大地生まれの神話と金属の神話という物語、いわゆる高貴な嘘の解釈を通して、『ポリテイア』という作品自体が、正義の探求の途上で乗り越えられるべき創作物として書かれていた可能性を示したい。
ギリシア思想史上におけるμῆτις(狡知・策略)の役割
――プラトン『饗宴』におけるエロース誕生神話を手掛かりに――
梶村哲矢(名古屋大学)
本発表では、ギリシア思想史、特にプラトン哲学におけるμῆτις(狡知・策略)の役割を考察する。μῆτιςの発現による「知」は、ホメロスにおいてはオデュッセウスに代表される英雄の資質の一つとして扱われており、μῆτιςは重要な意味を持つ概念であったはずであるが、前6世紀以降肯定的に評価されることが少なくなっていった。M. DetienneとJ. -P. VernantによるLes Ruses de l’Intelligence: La mètis des Grecs (1974)では、μῆτιςが肯定的に評価されなくなった原因として、プラトンによる観想的な「知」の重視がその後の西洋思想において支配的になった点を挙げおり、プラトンによるμῆτιςの排除を批判している。確かに、μῆτιςは「柔軟さ」を特徴とし、不変の性質を持たない点がその特徴であるため、「知」における純粋性を重視するプラトン哲学では評価される余地は無いと言いうる。また、μῆτιςはその力の発現において「策略」や「騙し」といった、道徳上問題とされうる形を取ることもその特徴であるため、倫理性の観点からもプラトン哲学とは相容れないと言いうるであろう。
しかし、実際はDetienneとVernantが批判的に検討しているそのプラトン哲学において、μῆτιςは重要な役割を果たしているのである。『饗宴』(203B-E)において、ダイモーンであり「愛知者」としてのエロースの誕生神話が語られているが、そこでエロースの祖先がμῆτιςを神格化したμῆτις女神であるとされているのである。本発表では、この神話に着目し、プラトンがμῆτιςを真正の「知」から排除したのではなく、むしろ知恵を愛し求める哲学の営みの中に取り込んでいる点を指摘したい。『饗宴』でのエロースは、その父ポロスからσοφία(知恵)を受け継ぎ、そして母ペニアからἀπορία(困窮・行き詰まり)を受け継いでおり、両親の性質が一体となって「知者」と「無知者」との中間的存在である「愛知者エロース」が誕生したと『饗宴』では説明されている。そして、ここには父方の祖母にあたるμῆτις女神より受け継いだμῆτιςも重要な役割を果たしているのである。
発表者は、プラトン哲学においてμῆτιςの「知」はσοφίαを追い求めることをやめない「知的原動力」として作用していると想定している。それは、ホメロス以来μῆτιςの本質として、目的を達成するための「粘り強さ」という面を指摘できるからである。プラトン哲学ではμῆτιςは表面上現れないものの、プラトンによって哲学の営みの中に確かに取り込まれている点を考察してみたい。
第82回研究発表会
2022年12月17日(土) 於早稲田大学
研究発表
1. アリストテレスの同名異義と多重実現可能性について
――感覚における多重実現の問題にむけて―― 太田稔(中央大学)
2. ルキアノスと哲学者
――『ニグリノス』『デモナクスの生涯』をめぐって―― 兼利琢也(早稲田大学)
アリストテレスの同名意義と多重実現可能性について
――感覚における多重実現の問題にむけて――
太田稔(中央大学)
アリストテレスは機能主義だろうかという問題は、1990年代のC. シールズ(1)による発現を中心に論じられてきた。シールズはアリストテレスを機能主義の祖として位置付けるために、現代の機能主義の中心概念である「多重実現可能性」(multiple realizability)をアリストテレスのテキストから取り出している。それに対して茶谷(2019)(2)は、アリストテレスに多重実現を読み込むのは、現代の解釈者たちの希望的観測に基づいているとして、こうした解釈を退けている。本稿はこれらの両解釈とは異なる第三の選択肢を探すべく、多重実現可能性の議論を、アリストテレスの同名意義原理との関係に基づいて論じる。こうした解釈を通じて本稿は、アリストテレスが複数の多重実現可能性をテキスト内で論じていると主張する。多重実現可能性はアリストテレスにおいて、①人工物において、②生命体の異質部分において、③生命体の感覚器官において、④魂においての四つの階層において検討されるべきである。
1)Shields, C., "The First Functionalist", Smith J. C. (ed), The Historical Foundations of Cognitive Science. 1990.
2)茶谷直人(2019),『アリストテレスと目的論 自然・ 魂・幸福』, 晃洋書房.
ルキアノスと哲学者
――『ニグリノス』『デモクナスの生涯』をめぐって――
兼利琢也(早稲田大学)
ローマ帝政盛期の諷刺作家ルキアノス(125頃~180以後)は主に独自の対話篇の手法で読書の娯楽を提供した。哲学は当時の教養の要だったので多くの作品で哲学者を嘲笑する。よき生の教導者を自認する彼らの言行不一致の糾弾、彼らの醜業の滑稽譚が基本だが、その人物と教説は特定の側面に限定された類型的描写である。笑いの快を目的とする著者は真摯さの欠如自体が意図的であり、当時の活動した哲学者の実態を求めても空しい。だが彼の描く類型の把握は彼の創作手法の理解に役立つ。この点に関して、既に古喜劇に明確な諷刺文学におけるソクラテス像とソクラテス派の徳と快楽(と知的探求)の両極像に連なる対照的な笑いの性格を見ることができる。諷刺の対象は当時の主流ストア派に典型的な哲学者の自家撞着であり、よき生を実現しない事実から哲学自体も否定的に扱われる。
他方で、哲学に肯定的な『ニグノリス』『デモクナスの生涯』の二作品が存在する(前者は壮年期の対話篇、後者は最晩年の作で人物伝)。著者自ら交際したと明言されるプラトン主義者と犬儒者の称讃文である両篇には、彼が是とする哲学と哲学者のあり方が反映すると考えられる。本発表ではその辺を具体的に紹介検討した(がデモナクスの扱いは少ない)。結論的には、哲学の(プラトン対話篇の読書等に示される)教養の尊重、(ソクラテス的な)個人的な生の快苦の制御の穏やかな訓練と教導、それが実在した哲学者自身に具現する状況が描かれ称えられ、個別的な人物との関連において哲学と哲学者が称えられる。これは良識に合致する穏当な見解だが、著者の作家としての精妙な心的態度の現れと考えることができる。
第81回研究発表会
2022年8月6日(土) 於ZOOM
研究発表
1. 〈滑らかな運動〉としての快楽
――キュレネ派の快楽観をめぐって―― 長尾柾輝(東京大学)
2. ノンノス『ディオニュシアカ』におけるディオニュソスの女性的側面について
――オルフィズムの思想との関わりを中心に―― 矢越藍子(名古屋大学)
〈滑らかな運動〉としての快楽
――キュレネ派の快楽観をめぐって――
長尾柾輝(東京大学)
いわゆるキュレネ派は、エピクロス派に先立つ西洋史上最初の快楽主義学派として知られる。その一方で、彼らの快楽観が具体的にどのようなものであったのかという点をめぐっては、いまだに十分な整理が為されていない。彼らにとって、「快楽」とはそもそも何であったのだろうか。
ディオゲネス・ラエルティオスの報告によると、キュレネ派の「学祖」アリスティッポスは、「感覚知覚へと湧き上がる滑らかな運動」こそが終極目的であると説いていたらしい。その後間もなく、彼の思想を発展させた後継者たち(いわゆるmainstream Cyrenaics)は、〈滑らかな運動〉という独特な概念を、快楽の本質規定として明示的に採用する運びとなる(Diog. Laert., 2.85-96)。そのため、キュレネ派にとっての「快楽」とは、ごく雑駁に言えば、〈滑らかな運動〉だと答えることができよう。とはいえもちろん、この謎めいた規定は、それ自体としてさらなる説明を要するものにほかならない。そこで本発表では、キュレネ派の快楽観・快楽理解を探るための足掛かりとして、〈滑らかな運動〉の内実を明らかにすることをめざした。
議論の出発点となるのは、問題の規定に言及した合計六点の古典資料である。本発表ではまず、これらの資料を複合的に読解することで、〈滑らかな運動〉を取り巻くキュレネ派の快楽論構想の概略を明らかにした。その後、〈滑らかさ〉および〈運動〉というふたつの語の内実を独立に検討し、それらがキュレネ派の快楽論全体に対して有する含意を、消極的なものも含め、多角的に分析した。
結論としてキュレネ派は、おおむね次のような快楽観を抱いていたことが示される。すなわち彼らによると、外界からの刺激に対応した身体表層での物理的変容として、まずは〈肉の滑らかな運動〉たる第一段階の快楽が生じる。そしてさらに、その一部が感覚知覚と関係することで、心理的な性格を含意した〈魂の滑らかな運動〉たる第二段階の快楽が成立する。このさい〈運動〉という用語は、外界の原因を別途示唆する〈パテ―〉とは異なり、結果的変容としての快楽現象そのものを特定して強調する働きをもっている。また、〈滑らか〉という規定は、主観的・心理的な反応と客観的・物理的な性質とを、未分化のまま複合的に示すものであった見込みが高い。
ノンノス『ディオニュシアカ』におけるディオニュソスの女性的側面について
――オルフィズムの思想との関わりを中心に――
矢越藍子(名古屋大学)
本発表では、ノンノス『ディオニュシアカ』(以下 Dion.)におけるディオニュソス(以下 D.)の女性的側面にまつわる描写と、オルフィズム(オルフェウスを教祖とする密儀宗教)の両性性のモチーフとの関わりを検討する。
Jeanmaireが指摘するように D.の権能には太古の女神から引継いだものがあり、この神が持つ特有の女性的要素は女神崇拝からの影響が大きいと考えられる。そこで昨年度の研究では、D.と女性たちの関係が密接な Dion.9巻に着目し、幼い D.を養育する女性が持つ役割を検討した。その結果、彼女らの役割は単なる幼児のケアだけでなく、女神が持つ権威・性質・儀式を幼い神に受け継がせるものでもあったことが予想された。すなわち 9巻は養育という場面を通して、女神から D.への女性的要素の引継ぎを描いているのである。
ではDion.におけるD.の女性性は、太古の女神崇拝のみに由来するものだろうか。ここで着目するのが叙事詩の中のオルフィズムの要素である。Dion.ではオルフィズムの思想の中 核を成すD.の転生神話が描かれている。またオルフィズムの思想は神話だけでなく、διπυής/δισσοφυήςの語の使用にも表れている。この単語は半獣半人の二重の性質を示すために使われることが多いが、男女の「性の二重性」を意味する場合もあった。3世紀頃に成立した 『オルフェウス風讃歌』(以下 OH)では D.を含む性の二重性質を持った神格を表す際にこの語が使用されており(OH.30.2, 42.4, 58.4)、更に OH.40では D.は女神の姿で描かれている。 Dion.47.497においても、D.を表現する言葉としてこの διπυής が使われており、D.の女性的 側面の描写の中にオルフィズムの要素が内在している可能性を推測できる。ここから διπυής を巡る OH と Dion.の描写の比較検討を行い、オルフィズムの「性の二重性」が Dion.に与えた影響を明らかにすることを目指す。