関口:本日のセッションに入る前に、私がスクラップしていた今年1月10日付朝日新聞のコラム「天声人語」の一部を紹介します。
地味な仕事といえば、確かにそうなのかもしれない。新聞社にいる校閲記者たちは、記事を書かない新聞記者である。連日連夜、締め切りギリギリに出てくる原稿にも目を通し、間違いがないか、ひたすらチェックする▼成果が見えにくい仕事なので、若い記者には悩む人もいる。「最後の砦(とりで)」とされるけれど、いったい何を守っているのかと。でも、誤りがあれば、深く傷つく人がいる。ひどく困る人もいる。信用を保つためにも、いなくてはならない「縁の下の力持ち」である▼もちろん、確認といっても、限られた時間でのことだ。ミスはある。誤報は出る。ただ、間違いがわかれば、訂正を出す。無数の言葉が無碍(むげ)に飛び交うSNSと、古いメディアと呼ばれる新聞社の大きな違いだろう▼米メタ(旧フェイスブック)が、投稿内容の事実関係を確認する「ファクトチェック」を米国で廃止するという。保守派から、投稿の管理は「検閲だ」といった批判を受け、方針転換したらしい▼「表現の自由」と「有害投稿への対応」のバランスは確かに難しい。だが、メタの利用者は世界で、30億に上る。巨大メディアの影響力と責任の大きさを思うと、危うさを感じてならない。もうすでに、SNSには偽情報があふれ、民主主義を激しく揺さぶっているのだから▼話を戻そう。かくいう当欄もまた、何人もの記者の確認を経て、いま、あなたという読者の目に触れている。自戒と自負を込めて言えば、これが、私たちの仕事である。
※全文掲載に際し、朝日新聞社の許諾を得ています
このコラムを読んで、改めて新聞社発の記事とは一字一句がファクトチェックされた良質な情報なのだと実感しました。コラムの中の「最後の砦(とりで)」という言葉は、梶田さんも講演で触れられていましたが、この言葉をどのように感じていますか。また、校閲の仕事は生成AIで代替できると思いますか。
梶田:新聞社の校閲記者として働いてみて感じたのは、新聞が驚くほど手作業で作られているということです。印刷直前まで人の手が入っており、時間制限ギリギリまでニュースを入れようとするさまざまな人の思いが詰まっています。私たち校閲記者は1本の記事の「どの部分が最新のニュースなのか」「どこが最後に修正されたのか」を冷静な視点で考えられるので、「最後の砦」と言われるのだと思います。大きなニュースが飛び込んできたときは、取材記者も編集者も一気に盛り上がります。そうしたときこそ、校閲記者として少し距離を置いて俯瞰(ふかん)して見ることを意識しています。
生成AIに関連しては、多くの新聞社では校正を支援するシステムを導入しており、記事を出稿する前に機械によってチェックする仕組みがあります。しかし、システムにより一つひとつの言葉について「誤変換ではないか」「使い方が間違っていないか」といった指摘はできますが、今の時点では、記事全体を通して「この言葉が本当に正しいかどうか、適切かどうか」といった判断まではできません。生成AIについても、インターネット上にある膨大な有象無象の情報を学習しているがために、そのアウトプットをそのまま信じるわけにはいかず、人間の手によるファクトチェックが不可欠だと考えています。
関口:デジタル配信に対応するため、校正作業にもますますスピード感が求められると思います。デジタルならではの時間とのせめぎ合いに直面されている立場として、どのようにお考えでしょうか。
梶田:紙の新聞だけを作っていた時代と比べると、1日の出稿量も増え続けている中で、一行一行を吟味する時間が減るのは避けられない流れかと思います。しかし、だからこそ、自分たち校閲記者が立ち止まって確認する役割を担う必要があります。記事を書いている記者も、以前と比べて執筆量が増えているはずです。そうした環境の中で、記者を支えるのは私たち校閲記者ではないかと感じています。効率的に作業を進める工夫や、誰もが見落としやすいポイントを確実に押さえていくような仕組み作りを会社全体として考えています。
関口:朝倉さんは、教育現場におけるICT活用について、さまざまな実践をされてきました。生成AIについても何かお考えがあるのではないでしょうか。
朝倉:講演の中で触れたように、大切なのは、テクノロジーの仕組みをしっかりと理解することだと思います。今やGoogleなどの検索サイトを「信じられないから使わない」という人はほとんどいません。検索サイトが登場した当初は、学校現場で「簡単に検索させるのではなく、まずは図書館で百科事典の索引を使って調べる力をつけさせるべきだ」と言われていましたが、今ではそういったことをさせる人はほとんどいないと思います。生成AIに対する理解が世の中に浸透していくにつれ、誤解も晴れていくと思います。
生成AIの利用については、例えば死刑制度容認の是非をめぐる世論調査の回答割合に関する複数の記事をChatGPTに読み込ませて、論調を比較・分析させることができます。小学生にはまだ難しいですが、中学2・3年生あるいは高校生になれば、こうしたツールで手助けしながら「多角的に物事を捉えて、最終的に自分の視点で意見を構築する力」を育てていくことが大切になってくると思います。
関口:デジタル版の新聞は常に更新され続けるため、教育の立場からは、資料として活用しにくいと感じる部分があります。正直なところ、紙の新聞記事の方が、教育現場では扱いやすいとも感じます。この点について、朝倉さんはどうお考えですか。
朝倉:確かに、即時性のある記事は準備の時間なども考慮すると、教育現場での扱いづらさはあります。関口さんが指摘されるように、授業づくりの観点からすると、やはり少し立ち止まったコラム的な記事などが教材として使いやすいと思います。ただ、一つのテーマを基に子どもたちが情報を追っていくような過程では、新しい記事を積み重ねていくような学び方も可能です。
関口:話は変わりますが、情報には組織として発信されたものと、個人から発信されたものがあります。また、個人の中にも、プロフェッショナルな方もいればアマチュアの方もおられます。それぞれの違いについて、どのようにお考えでしょうか。
朝倉:言論の自由という点では、組織であろうが個人であろうが、発信すること自体は悪いことではありません。最終的には読み手・受け手の側の問題だと思いますし、それがいわゆるメディアリテラシーではないかと思います。受け手がどれだけ情報の発信元の信頼性を判断できるかが非常に大事です。一般的に、新聞社や通信社が発信する情報は多くの編集プロセスを経ているため、信頼性が高いという認識は正しいと思います。だからと言って、新聞社の情報だから正しい、個人が発信している情報は怪しいと決めつける考え方は非常に危険で、プロパガンダにつながりかねません。だからこそ、受け手側のメディアリテラシーが重要です。自分自身でどのように情報を受け取り、考えていくのか、その力をつけることが必要だと感じます。
関口:まさに講演で朝倉さんがおっしゃった「涵養」の部分です。急には育たないけれども、時間をかけて子どもたちの中に蓄積していき、変化を促していく涵養が大切だと、お話を聞いて感じました。