since 2026/01/31
A13.長すぎても、速すぎても、明るすぎてもアカン。また、短すぎても、遅すぎても、暗すぎてもアカン。ほどほどが、チョウドええ。
解説
昔の誰かがこうおっしゃっておりました。弦は、張りすぎてもアカン。緩すぎてもアカン。ええ具合に張るとええ音が、なんねんでとね。
対象物との適度な距離や時間を見極めることが求められているのでしょうか。
健康でお悩みならば、ありとあらゆる健康器具、健康食品よりも、適度な運動、適度な食事でしょう。
人間関係でお悩みならば、対象となる人とあなたさまとの距離はどうでしょうか?近すぎてやしませんか?遠すぎてやしませんか?
仕事でお悩みならば、その仕事とあなたさまとの距離はどうでしょうか?近づきすぎて、無理してませんか?遠くて、サボってやしませんか?
恋愛関係でお悩みならば、その人とあなたさまとの距離はどうでしょうか?近づきすぎてやしませんか?離れすぎてやしませんか?
と、昔の誰かが言ったり、言わなかったりしておりましたとさ。
(了)
2026/05/18
神宮寺 司
A12.はい、麻薬患者です。
解説
つれづれなるままに、解説いたします。
先に誤解がないように申し上げておきましょう。正確には、ジョギング愛好家は、脳内麻薬を分泌することで多幸感を味わいづづけているのであります。ジョギングなどの有酸素運動をすると、脳内では、β-エンドルフィンなる脳内麻薬が分泌されます。それは、麻薬であるケシの実から取れるアヘン、そのアヘンから精製されるモルヒネの約6.5倍の鎮痛作用があるとされています。β-エンドルフィンは、ジョギングにおけるランナーズハイの要因とも考えられています。つまりジョギングは、合法的に多幸感を味わうことができる行為なのであります。もちろん適度な運動は、老化防止にもつながります。ジョギング愛好者がこれ程多いのも理解できます。全人口に対してその愛好家が、どのくらいいらっしゃるのかのかは調査してみなくてはわかりませんが。普段の生活で、モヤモヤ、イライラ、ギスギスなど悩みを抱えている方は、まずは、歩くこと、そして走ることをしてみてはいかがでしょうか?
さらなる展開をするならば、同様にサウナ効果も実は脳内麻薬が関係しているかもしれません。サウナ愛好者がよく発言する整うとは、脳内麻薬が分泌された状態のことを表現しているのかもしれません。確認が必要です。
(了)
2026/02/22
卜部不兼好(うらべふけんこう)
A11.”善、聖のままに死を選ぶのか、それとも悪、盗人としての生を選ぶのか、それは問題だ。” 引用応用シェイクスピア
下人は、この自問に対して、後者を選択した。
つまり、彼は、生き抜くために、業なるものを受け入れた。
もし羅生門に続きがあるとするならば、彼もまた最終的には命までは奪われなくとも、いずれご自身の着ぐるみを剥がされる業を支払わされることとなるのであろう。
鬼音もたらす悪の輪廻か?
福音もたらす善の輪廻か?
そんな輪廻に自由はあるのか?
ご興味湧いたかた再読してみてはいかがでしょうか。
令和8年2月6日
神宮寺司 拝
A10.”ゆさぶりたいのか?ゆさぶられたいのか?それは問題だ。”
令和8年2月5日
社会 学太郎
A9.祇園精舎の鐘の声であろう。
お釈迦様がおられた祇園精舎からもれ伝えこられる教えの声のような鐘の音(ね)には、あらゆる行いには、常なるものはありませんよ、たゆたゆう声、音、波のようにはじまりがあり伝わっておわりがあるものです。また、沙羅双樹の花の色に見えるように盛えていたものにもは、衰える時が必ずきます。
それらを称したのが、『平家物語』の一節
”祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす” なのでしょう。
令和8年2月5日
神宮寺 司
A8.天の僕(しもべ)として自らを律する必要があるため。
人は弱い生物であるため、倫理、行動規範、ルール、などから逸脱してしまうものであります。そのようにならないために、自らに足枷、くびき、しばりを入れることで、自身の心に制約をかけていく。その戒めや行動規範として表現されたものがカラーであると感じました。”Don’t think feel”
令和8年2月5日
神宮寺 司
A7.『アンパンマン』の世界を思い出してみましょう。
登場人物のひとりにドキンちゃんがいますよね。彼女は、今まで自身の欲望のために他を、特にバイキンマンさんを振り回していましたよね。無意識的にせよ、意識的にせよ結果として、バイキンマンさんに苦労をかけていましたよね。そこに、新たにコキンちゃんが、登場したわけです。彼女の登場により、ドキンちゃんの環境はどうなったでしょうか?その辺りを考えると業が何であるのかとおぼろげながら感じられるのではないでしょうか。
令和8年2月5日
神宮寺 司
A6.読み方:わたくしごころをしずめ まといる
読み手によって見える世界を変えられるようにした実験的4文字造語熟語
令和8年2月4日
南条 葵
A5.芥子の実の説話を調べましょう。
令和8年2月4日
神宮寺 司
A4.占い師は相談者の話をよく聴いているからです。
占い師さんの仕事を奪いかねないので詳細は控えます。
しかし、彼らは、相談者の話を聞いているのではなく、聴いて、訊いているのではないでしょうか?。
hearよりlisten
listenよりaskしているのでしょう。
令和8年2月2日
南条葵
A3.いいえあなた達に明日は来ません。なぜならば、あなた達にくるのは今日だからです。
令和8年2月1日
南条葵
A.現在のみなさまの目の前にありやしませんか?
令和8年2月1日
南条葵
A1.鬼は内、福は外であろう。
日本では、2月に豆をまき、鬼を祓い出し、福を招き入れるといった風習がある。その豆まきの際に次のような言葉を発する。「鬼は外 福は内」と。つまり考え得るに、鬼なる存在、福なる存在は、どこか外側にあるもであると想定をして、鬼なる不幸は、より遠ざけるように、福なる幸は、より近づけようとしているのでしょう。そのように薄ぼんやりと想定していると考えられます。
しかし、それは本当に実像をとらまえているのでしょうか?より実像に近い言葉は、「鬼は内、福は外」でしょう。なぜならば、鬼なるものに集約される怨念の集合体は、どこか外にあるものではなく、それぞれの心の内にあると考えるからです。他人を恨み、嫉み、時には、暴力で周りを傷つける。そのような負の感情は、あらゆる人の心の内にこそあり、当人が、望もうが、望まざろうが、鬼を大きく育ててしまうものでしょう。ましてや光の見えない霧の中にいればいるほど、その鬼は育ってしまいそうです。だからこそ、強き気持ちでその内にある鬼を封じ制御する必要性が出てくるのでしょう。それとは逆に福なるものは内に込め、自分だけに囲い込むのではなく、他へこそ拡散してみてはいかがでしょうか。これらのことを称して、節分では、鬼は外、福は内ではなく、”鬼は内、福は外”であろうと考えました。
ごもっともごもっともでしょうか?
令和8年1月31
南条葵