細川忠利の書状
本丸には住めない
本丸には住めない
平成熊本地震の翌年(2017年4月)に,熊本大学文学部付属永青文庫研究センタ ーの調査で初代熊本藩主(細川忠利,1632)も地震に悩まされていたことを物語る書状が存在することが話題になった. 同センターは熊本県立美術館(熊本市中央区)と共催で, 熊本地震の前震1年を迎える日から展覧会を開き、忠利が地震を恐れて書いた手紙などを初公開した.当時の新聞記事を以下に示した(折りたたみ文書).
熊本藩主、地震恐れ転居 江戸初期の手紙「揺れる本丸にいられず」 (西日本新聞の記事)
熊本藩主、地震恐れ転居 江戸初期の手紙「揺れる本丸にいられず」
細川家初代熊本藩主の細川忠利(1586~1641)が1633(寛永10)年ごろに起きた大きな地震と余震を恐れ、熊本城(熊本市中央区)の本丸から、城の南側の邸宅「花畑屋敷」に生活や公務の拠点を移していたことが、熊本大の調査で分かった。
昨年4月の熊本地震後、細川藩の文献を研究している文学部付属永青文庫研究センタ ーが江戸時代の文献などを調査して判明した。稲葉継陽センター長は「熊本地震の被災者と同じように、忠利もたび重なる余震によほど恐怖を覚えたのだろう」とみている。
同センターが江戸初期の資料約1万点を読み込むと、忠利の手紙に地震に関する記述が多いことが分かった。1633年5月、忠利が江戸にいる家臣に宛てた手紙に「本丸は 逃げ場となる庭もなく、高い石垣や櫓(やぐら)、天守閣に囲まれて危なくていられない」 という趣旨の記述を確認。他藩の大名に「たびたび地震で揺れるので本丸にはいられず 、城下の広い花畑屋敷に住んでいる」と書き送っていたことも分かった。細川家の関係 古文書によると、1633年3月~5月にたびたび地震が発生したとされる。稲葉センター長 は「忠利が地震を強く警戒していることがうかがえる」と指摘する。江戸初期は災害が 多く、被害を受けた熊本城の修復に追われていた記録もあった。
同センターは熊本県立美術館(熊本市中央区)と共催で、熊本地震の前震1年を迎える1 4日から展覧会を同美術館で開き、忠利が地震を恐れて書いた手紙などを初公開する。
=2017/04/11付 西日本新聞朝刊=
ウエブ版には,細川忠利が1633年に家臣に送った手紙の写しが掲載されていた. 古文書(くずし字)解読の資料として挑戦してみたが読めない部分があり, そのまま放置していた.ところが,その翻刻(テキスト化)したものがウエブ上(東北大学高等大学院機構)に掲載されていることを知った.稲葉継陽センター長の講演資料の一部(赤字部分)である.
一,熊本地震之事,少ツヽ切々淘候へとも,此程ハ遠の
き候.あふなく候て,庭のなき本丸にハ被居不申候,
本丸二ハ二条敷者有之庭ハ無之,四方高石垣,
其上矢倉,天主,中/\あふなき事二て候事
一,罷下得 御意,地震屋を仕候庭を取不申候へハ,
本丸にハ被居不申候,此由(を)柳生殿へ物語可申候事
注)「地震屋」は,地震の際に藩主が身の安全を確保するための 建物と考えられる.
【このニュース, 以前にも話題になっていた】
本稿をアップする前に, 念のため本史料に関する記事の有無を調べてみた. その結果, 2012年に「津々堂のたわごと日録 またまた地震の間 」で, テキストデータ化したものが紹介されていることが判明した. 熊本縣史料 近世編第二「部分御舊記二」の御書附并御書部・二十(p133)に掲載されているとのことである. 新発見という新聞記事は疑問である.
一 熊本地震之事少つゝ切々陶候へ共此程ハ遠のき候
あふなく候て庭のなき本丸にハ被居不申候本丸ニハ
二条敷と有之庭ハ無之四方高石垣其上矢倉・天主
中/\あふなき事にて候事
一 罷下得 御意地震屋を仕候庭を取不申候ヘハ本丸
ニハ被居不申候此由を柳生殿へ物語可申候事
以上
五月十一日 (忠利)
狩野是齋
2015年の熊本城調査研究センター年報 2(平成27年度)にも忠利の一連の手紙が紹介されている(次図).
熊本城調査研究センター文化財保護主事,木下 泰葉,『寛永期の熊本城本丸御殿と「地震屋」』の記事
熊本藩年表稿に記載されている地震の記事を以下に記した.
大地震
1619 3.17 肥後大地震
1625 6.17 熊本地方大地震 熊本城内も被害甚大
1661 7.10 肥後大地震 翌日まで中小地震3回
1662 9.19 是夜大地震
1695 4 大地震あり
1705 阿蘇大地震
1706 4 大地震,大地破れ家屋の崩壊,圧死するもの多
1723 11.22 辰の下刻,肥後大地震,山鹿温泉湧出
1725 9.25 天草地方大地震,引続余震あり
1769 6.11 川尻方面大地震
7.28 未ノ刻,熊本大地震
8.1 烈風地震.川尻方面も地震
1778 2.5 川尻方面大地震3回
1789 10.8 大地震にて此日迄日数7日昼夜数度襲う
1854 11.5 5日および7日に大地震
忠利が花畑へ移動した件については,熊本藩年表稿に以下の記載がある.
1633年2月19忠利、本丸修覆のため花畑館に移る.
1634年8月15忠利、花畑館より熊本城にかえる.
今回の手紙で,花畑へ移り住んだ理由は地震を恐れていたためであることが判明した.熊本藩年表稿が改訂される際には,永青文庫の古文書から得られた情報が加えられることを期待したい.
参考資料
【2016年10月8日開催】熊本地震から6か月、東日本大震災から5年 ...(熊本大学✕東北大学 市民講座)
熊本城の震災の歴史 熊本大学文学部附属永青文庫研究センター長 稲葉 継陽 教授 東北大学高等大学院機構
津々堂のたわごと日録 またまた地震の間 (2012年に紹介されている)
熊本藩年表稿 (公開サイト)PDF 全418ページ
熊本城調査研究センター年報 2(平成27年度) PDF38ページに「忠利書状」が掲載されている.地震屋についても解説あり(2016年7月).熊本城調査研究センター文化財保護主事,木下 泰葉,『寛永期の熊本城本丸御殿と「地震屋」』
熊本藩年表稿ー話題いろいろ (身近な歴史)
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