紙と墨にこめたメッセージ -書にみる円了スピリット- 展示解説サイト

はじめに

 書は、中国や日本で古来より墨・紙・筆を用いて文字を書くことで表現され、作品にはその人自身の感性や精神、想いが込められてきました。明治20年(1887)、東洋大学の前身となる私立哲学館を創立した哲学者の井上円了もまた、61年の生涯のうちに数多くの書作品を残しました。
 円了が本格的に書の制作を開始したのは、明治30年代初めのことです。この頃、円了が哲学館での教育活動とともに力を入れていたのが、全国巡回講演(巡講)でした。全国巡回講演とは、文字通り、自ら全国各地に足を運び講演を行うもので、民衆に哲学を広めるとともに、寄付を募って、自身が行う教育事業の資金を集めることが大きな目的となっていました。円了は、ひとりでも多く寄付に応じてもらえるよう、各地で寄付してくれた人へのお礼として、自作の書を贈呈しました。このようにして揮毫された書は、旅先で目にした光景や自らの主義・思想を詩にしたもの、さらには、駄洒落を交えたユーモアあふれる歌など、バラエティに富んだ内容で、魅力的な作品が数多く存在します。
 今回の展示では、それら円了の書の中から、主義・思想が表れた作品を中心に年代を追ってみていきます。書を通して、時代ごとの “ 円了スピリット ” を感じていただけたら幸いです。あわせて、本年は、円了が「精神上の師」と仰ぐ勝海舟の生誕200周年にあたることから、これを記念して、井上家旧蔵の海舟の書も公開します。書の制作を含め、円了の行動に大きな影響を与えた海舟との師弟の絆にも思いを巡らせながら、ぜひ、ご覧ください。

展示構成

展示解説動画

第一章 師から受け継いだ書

 哲学館を創立した井上円了は、その2年後の明治22年(1889)、明治維新の立役者の一人である勝海舟(1823-1899)との知遇を得ます。哲学館を経営していくうえで、円了は、勝海舟を師と仰ぎいろいろな教えを受けました。そして翌年から、事業の資金を集めるために、全国を巡回して講演を行いながら、寄付を募るとともに、謝儀として寄付者に書を贈るようになりました。全国巡回講演を開始してからしばらくの間は、海舟が揮毫した書を贈呈していましたが、明治32年に、海舟が亡くなるのと前後して自ら筆をふるうようになりました。

別天地

紙本墨書、額
井上円了書
明治32年(1899)
東洋大学井上円了記念博物館所蔵

当館が所蔵する井上円了の書の中で最初期に制作された作品であり、円了の書家としての第一歩である。落款印には「井上円了号甫水又拙筆居士」とあるが、明治30年代に制作された円了の書のほとんどには、「拙筆」の文字が刻まれた印が捺されている。円了は、能書家である海舟の書と比べると、どうしても自分の書は見劣りしてしまう。さらに、作品の出来に対する自信も持っていなかったのであろう。このことから、自らを「拙筆居士」と称したと考えられる。

吉凶禍福天主張

絖本墨書、掛幅
勝海舟書
明治27年(1894)
東洋大学井上円了記念博物館所蔵

井上円了が、「精神上の師」とあおいだ勝海舟の書。円了が、海舟との知遇を得たのは明治22年(1889)のことである。以来、海舟との面会を重ね、指導・助言を受けたことで、円了は教育事業家として成長していった。海舟は明治32年に没するが、円了は物心の両面から援助を与えてくれた海舟を「哲学館の三恩人」の一人に数え、終生、感謝の念を忘れなかった。本作は、井上家に伝来したもので、制作と入手の経緯などは不明だが、円了に所縁のある海舟の作品・資料として貴重である。

精神一到何事不成

紙本墨書、掛幅
井上円了書
明治34年(1901)
東洋大学井上円了記念博物館所蔵

井上円了が明治34年(1901)に制作した書。同年刊行の『円了随筆』によると、円了が初めて勝海舟に面会した際に、次の言葉を贈られたという。
「精神一到すれば、無限の歳月の間には必ずなるをいう。君もその心得にて哲学館の目的に従事すべし。」
本作において円了は、単に「朱子語類」の有名な一節を引用したのではなく、師の海舟から受け継いだスピリットをこの一行にあらわしたのである。

井上円了が使用した落款印

井上円了が、自作の書に用いた落款印。円了は、落款の署名として、「円了道人」、「井上甫水」、「妖怪窟主人」など、さまざまな雅号を用いており、印も現在確認できているだけで16種を使用している。本展では、それらのうち、当館が所蔵する印章5顆を展示した。

井上円了が使用した筆

柴田甚五郎旧蔵
東洋大学井上円了記念博物館所蔵

朱肉入れ

井上円了旧蔵
東洋大学井上円了記念博物館所蔵

護国愛理

紙本墨書、額
副島種臣書
明治31年(1898)
東洋大学井上円了記念博物館所蔵

哲学館の後援者である副島種臣の書。円了は副島の書を愛好したとみえ、現在、当館には円了の需めにより制作された副島の書が、3点残されている。本作はそれらのうちの1作で、円了の造語である「護国愛理」の4字を書したものである。哲学者として真理を愛し、これを考究するにとどまらず、学問を通して社会の発展につくしていかなければならない。「護国愛理」とは、そのような学者としてもつべき信条をあらわした言葉で、円了が生涯にわたり貫いた行動理念でもあった。

第一章 展示風景

章 充実していく書の制作活動 

 井上円了は、哲学館を大学へと発展させていくために、積極的に講演活動と寄付金募集を行っていきました。それに伴い、書の制作数も増えていきました。
 円了は、自らを「拙筆居士」と称し、明治30年代の作品では、この号を用いた落款が多くみられます。このように、書家としては、自らの作品の出来に自信はもっていなかったようですが、明治30年代半ばにさしかかると、徐々に、書の制作数は充実したものになっていきます。書風こそまだ確立していませんが、次第に、表現に独自性もみえはじめます。

老狐幽霊非怪物

紙本墨書、掛幅
井上円了書
明治34年(1901)
東洋大学井上円了記念博物館所蔵

井上円了の妖怪学に関する自詠自書。円了は、10年来の妖怪学研究の成果をまとめた『妖怪学講義』(明治29年刊)などの著書により、妖怪博士の異名で広く知られていた。全国巡回講演でも、妖怪博士が講じる「妖怪」は人気のトピックであった。それを意識してか、落款には「妖怪窟主人」の書号が署されている。『円了茶話』(明治35年刊)によると、本作の詩のテーマは「妖怪研究によって得られた結論」であるという。すなわち、円了は、自らが学問として体系化した妖怪学のエッセンスをこの14文字にこめたのである。

天地山河是我居

紙本墨書、掛幅
井上円了書
明治35年(1902)
東洋大学井上円了記念博物館所蔵

井上円了が、自らの「志」として詠んだ漢詩を揮毫したもの。その内容は、書物にばかり頼って知識を得るのではなく、現実の社会や人間、ひいては天地万物を活きたテキスト(「活書」)として、そこから学ぶ「活学」が大切であることを説くものである。現代と比べてはるかに海外旅行が難しかった明治時代に、円了が3度も世界中を視察してまわったのも、書物からはうかがい知ることのできない各国の実状について、実際に現地におもむき、自らの目と耳で検分することで、「活学」を究めようとしたからにほかならない。

三余(さんよ)● 読書に適するとされる冬(年の余)、夜(日の余)、陰雨(時の余)の三つの余暇。

井上円了の世界旅行記3部作

欧米各国政教日記(第1回海外視察)
井上円了著 / 哲学書院発行
明治22年(1889)8月10日、12月12日発行
東洋大学井上円了記念博物館所蔵

西航日録(第2回海外視察)
井上円了著 / 鶏声堂発行
明治37年(1904)1月18日発行
東洋大学井上円了記念博物館所蔵

南半球五万哩(第3回海外視察)
井上円了著 / 甲午出版社発行
明治45年(1912)3月10日発行
東洋大学井上円了記念博物館所蔵

井上円了は、生涯のうちに3度、世界一周旅行(海外視察)に出かけている。そのつど各地で実地見聞を行って得た情報と知識を、自身の教育事業等に存分に活かしていった。これら3作の旅行記には、実地見聞を行うなかで、自らの目と耳とでとらえた世界が生き生きと描かれている。さらに、眼前の風景などを端的に描写するために、明治35年(1902)の2回目の視察からは、漢詩を試みるようになった。これを機に、揮毫する内容も名詩・名句の引用から自詩・自歌へと変わっていった。このように、世界旅行をきっかけにして、円了の書はオリジナリティを増していったのである。

哲学館愛知県同窓会於哲学館構内

白黒写真・台紙貼
明治37年(1904)月撮影
東洋大学井上円了記念博物館所蔵

明治37年(1904)3月に開催された哲学館の愛知県出身者による同窓会の集合写真。このとき円了は、哲学館の運営をめぐり、学内での対立に頭を悩ませていた時期である。そのせいか、写真に写る円了は、心なしか暗く沈んだ表情をしているように見える。このような円了の精神状態から、明治37年から明治38年における書の制作数は、ぐっと落ち込んでしまう。だが、円了は明治39年に哲学館大学学長を退任するとともに、講演活動を復活させたことで、再び、書の制作活動も活発化させていくのである。

章 展示風景

章 書家「甫水井上圓了」の確立 

 明治39年(1906)、学校教育の現場から退いた井上円了は、哲学堂を拠点に社会教育活動を展開していきました。円了の講演活動は、哲学館時代より講演回数がさらに増え、講演地もこれまでは訪れることができなかった離島や山間奥地など、交通不便な地域にまで足を延ばすようになりました。同時に、書の制作数も飛躍的に増えていきました。明治40年頃から「拙筆居士」の号を捨てた円了は、書家としてさらに作品の内容に独自性が増し、独立した書風を確立していきました。

辛抱の棒で怠惰の鬼を打て

紙本墨書、扇面・額
井上円了書
大正3年(1914)
東洋大学井上円了記念博物館所蔵

井上円了オリジナルの警句を書した作品。数ある円了の作品の中でも、扇面の書は珍しく、内容もまたユニークである。円了は、人の心のうちに宿る悪念・妄想を「心の鬼」と呼ぶ。本作では、人を怠惰にする「心の鬼」を忍耐と良心をもって打ち払うべきと、駄洒落をまじえて表現している。ストイックにしてアクティブかつユーモラス。そうした円了のさまざまな側面がみえ、今回の展示品の中ではもっとも円了らしい作品といえる。

棹忍耐舟渡立身海

紙本墨書、掛幅
井上円了書
明治43年(1910)
東洋大学井上円了記念博物館所蔵

明治43年(1910)、井上円了が、長野県南部の諏訪・伊那・木曽地方で巡回講演(巡講)を行った際に制作したもの。『南船北馬集』第5編(明治43年刊)によると、書画を愛好する気風の強い伊那地方では、多数の揮毫依頼が寄せられ、書の制作に忙殺されたという。このような移動と講演と揮毫に追われる講演旅行は、円了にとって忍耐を要するものであった。それでも、自らの教育事業を成功させるために、亡くなる直前まで、巡講と揮毫を続けたのである。すなわち、本作は円了の人生訓とも言える。

Honest is the best policy

紙本墨書、額
井上円了書
明治43年(1910)
東洋大学井上円了記念博物館所蔵

西洋の格言「Honesty is the best policy.(正直は最善の策)」(本作では「Honesty」が「Honest」となっている)を揮毫したもの。
現在、当館には、300点を超える円了の書が収蔵されているが、英文を書したものは本作が唯一である。円了は、自著『哲窓茶話』(大正5年刊)でこの格言を取り上げ、正直さを尊ぶ精神が欧米諸国の文明のおおもとにあると指摘している。このように、人と社会にとって「Honesty」が高い価値をもつと考えたからこそ、円了はあえてこの英文の書を呈したのである。

邑楽名物御存じないか

絹本墨書、掛幅
井上円了書
大正6年(1917)
東洋大学井上円了記念博物館所蔵

井上円了が、絹本に自作の詩を書したもの。この詩はもともと、講演旅行の途上、群馬県邑楽郡館林町(現館林市)の料理旅館に滞在した際、俗謡として作詞されたもので、邑楽郡(館林)の名物やこの地方の方言・偉人の名を盛り込んだ賑やかな内容となっている。旅館で出された名物の川魚料理に舌鼓を打ちながら、興に乗じて作詞したものであろう。このような陽気でユーモアあふれる感性もまた、“円了スピリット” の一部である。

南船北馬集 第1編~15編

井上円了編・著 / 修身教会拡張事務所発行
明治41年(1908)12月20日~大正7年(1918)11月18日発行
東洋大学井上円了記念博物館所蔵

哲学館大学の学長を退任し、明治39年(1906)4月からおこなった後期の全国巡回講演活動をまとめた紀行文。講演の会場や主催者、宿泊先といった記録のほか、巡講先の風土に親しみ、卒業生や地元の人々の協力を得ながら歩みを進める円了の姿がうかがえる。円了は、哲学堂公園の建築維持資金を募るために講演の合間に筆をふるい、この旅で多くの書を制作した。『南船北馬集』では、各地で出会う風物や事物の印象について漢詩を取り入れながら豊かに表現しており、こうした円了のまなざしや感性が書や詩の制作に生かされている。

奮進如虎 活躍似龍

紙本墨書、掛幅
井上円了書
大正8年(1919)
東洋大学井上円了記念博物館所蔵

井上円了は、大正8年(1919)に亡くなる2年前に刊行した『奮闘哲学』において、学問の普及・実用化に消極的な学界を批判するとともに、自らが哲学の実効化を使命とし、奮闘することを主張した。本作には、このような円了のマッチョな一面がもっともよく表現されている。まさに、英雄・豪傑にもたとえられる龍と虎のイメージに、奮闘する自身の姿を重ね合わせたかのような内容となっている。太く力強い筆致の中に、“円了スピリット” が感じられる最晩年の傑作である。

第三章 展示風景