社会学部メディアコミュニケーション学科
海野敏先生
「バレエの世界史 美を追求する舞踊の600年」(中央公論新社刊)
海野敏先生
「バレエの世界史 美を追求する舞踊の600年」(中央公論新社刊)
毎年百数十本の舞台を30年以上見続けている海野先生。
単著「バレエの世界史 美を追求する舞踊の600年」について、インタビューをおこないました。
イタリア・ルネサンスから現在まで「世界史におけるバレエ」を解説
―――本書の最大の魅力は、「世界史」の流れに沿って「バレエ」を解説しているところだと思いました。広く知られている歴史的事件や人物と、バレエとの関わりについて書かれていましたね。
海野先生:はい、おっしゃる通りです。「世界史におけるバレエ」を書くことに心を砕きました。バレエの起源は、イタリア・ルネサンスにあると思います。イタリア・ルネサンスから現在に至るまでの600年の歴史を「バレエ」を軸にまとめました。
フランス絶対王政期のバレエ
―――まずは国王が圧倒的な権力を掌握し、豪華絢爛な時代だったフランス絶対王政期のバレエについて詳しく聞かせてください。
海野先生:フランスの絶対王政はブルボン朝で栄華を極めました。官僚制を敷き、常備軍を持ち、一般的にイメージされる「国」が成立し始めた時代です。それまでフランス国内ではユグノー戦争(キリスト教の宗派争い)が続き、サンバルテルミの虐殺(再び宗派争い)が起こり……と混乱していたので、国家統合の道具としてバレエが利用されました。
―――「混乱した国家をまとめあげるために王室がバレエを利用した」ということですよね。具体的にどう利用したのでしょうか?
海野先生:政治利用は、ナントの王令(国王アンリ4世による争いの融和策)が出されて宗教戦争が収まった後のルイ13世の時代に本格化します。当時バレエは「アトラクション」であり「宮廷マナー」でもありました。「アトラクション」としては、バレエの大掛かりな舞台を国民に見せることで、国王の偉大さを示しました。「宮廷マナー」としては、優雅に上品に振舞うために、王侯貴族はバレエの所作を身に付けることが必須とされていました。パフォーマンスによる利用と、マナー・エチケットの二重規範として「バレエ」は機能していたんです。
―――絶対王政の頂点といえばルイ14世(太陽王)ですよね。ルイ14世時代のバレエとは、どんなものだったのでしょうか?
海野先生:ルイ14世はバレエ好きで、若い頃は毎日レッスンを受けていました。教えていたのはボーシャン(バレエダンサー・振付家・教育者)です。ルイ14世は親政(国王が自ら政治を行うこと)を始めると、すぐに王立音楽アカデミーを設立しています(ルイ14世は子供のころ即位したため、しばらくは宰相のマザランが摂政)。ボーシャンはそのアカデミーの先生になり、バレエを教えました。これが現在のパリ・オペラ座バレエ団の起源です。
世界史の教科書にルイ14世の肖像画が載っていますよね。あれはバレエの衣装を着ているんですよ。太陽神の衣装です。ルイ14世は10代の頃に≪夜のバレエ≫という演目を踊っていて、アポロン(ギリシア神話の太陽神)の役を演じました。このバレエの上演を企画したのは、宰相マザランです。
―――≪夜のバレエ≫は貴族による王族への反乱フロンドの乱の制圧記念で上演されたそうですね。貴族を倒し、国王ルイ14世こそ絶対的王である、という強いメッセージを感じます。国王本人が「神」の役を踊るわけですからね。
海野先生:面白いことにその≪夜のバレエ≫でルイ14世はコンデ公(フロンドの乱を起こした貴族)と共演しているんですよ。
―――え!? 敵同士ですよね。なんでですか!?
海野先生:コンデ公をルイ14世にひざまずかせるためです。バレエの舞台の「役」として貴族(コンデ公)が、アポロン(ルイ14世)にひざまずく演出でした。
≪夜のバレエ≫のアポロンの衣装
―――そうやって政治利用されたんですね。バレエ作品≪眠れる森の美女≫(本学図書館では原作小説とディズニーアニメの視聴覚資料を所蔵)に登場するフロレスタン王のモデルも、ルイ14世だと聞いたことがあります。
海野先生:≪眠れる森の美女≫はルイ14世を讃える祝祭的な作品です。後にバレエはロシアに伝わり、19世紀末にロマノフ朝のアレクサンドル3世を讃えるために上演されました。アレクサンドル3世が専制政治を強化したのは、バレエの舞台上で再現された絶対王政への憧れがあったためかもしれません。
フランス革命期のバレエ
―――華やかな絶対王政はやがて崩壊を迎えますよね。血なまぐさいフランス革命の時代に入っていきます。フランス革命期のバレエについても教えてください。
海野先生:世界史の中で、一番大きな変化が起こるのは18世紀から19世紀です。18世紀後半に二重革命(産業革命と市民革命)が起こるからです。まずイギリスでエネルギーの革命が起きて機械が発明され(産業革命)、アメリカがイギリスからの独立戦争を起こします(市民革命)。ヨーロッパ各地でこのような二重革命が起こりますが、とりわけ「フランスの市民革命」にフォーカスします。フランスでは市民革命(フランス革命)によって、アンシャン・レジーム(革命以前の社会・政治体制)が崩壊しました。
―――当時のフランスでは、王侯貴族が贅沢をしすぎて市民は極貧生活を送っていたんですよね。1789年7月14日に市民が激怒して、王侯貴族の贅沢を批判した市民が投獄されていたバスティーユ牢獄を襲撃、フランス革命が始まった……というのは広く一般に知られている話です。マリー・アントワネットと夫のルイ16世もギロチンにかけられ、王侯貴族が市民を犠牲にして贅沢をする「旧制度=アンシャン・レジーム」が崩壊しましたね。
海野先生:アンシャン・レジームの崩壊までバレエは「王侯貴族の踊り」でしたが、モンテスキューやヴォルテールなどの啓蒙思想家もバレエを愛していたんです。面白くないですか?
―――とても面白い話です。でも、どうしてですか? 「王侯貴族の贅沢三昧を支えるために我々が極貧生活を送るのはおかしい!」と市民を扇動した啓蒙思想家たちが、「打倒すべき王侯貴族たち」の踊りである「バレエ」を嫌わなかった、ということですよね。不思議です。
海野先生:バレエダンサーが市民出身だったからです。17世紀末からバレエの踊り手は王侯貴族ではなく、プロのバレエダンサーに変わりました。観客の中心は貴族でしたが、踊り手に市民出身が増えたんです。そのため啓蒙思想家たちもバレエを愛していました。また、この頃にはバレエが(オペラの幕間に行われるなど)オペラの余興化してしまっていたため、「バレエはオペラから独立すべきだ」という運動も起こっています。
―――フランス革命の機運がバレエの世界にも流れ込んでいたんですね。市民が王侯貴族から独立したように「バレエもオペラから独立すべきだ」という革命が起こった、ということでしょうか?
海野先生:そうです。しかもそれ(バレエの独立運動)を推進したのも啓蒙思想家たちでした。フランス革命で市民が王侯貴族からの独立を勝ち取ったように、バレエもオペラから独立を勝ち取ります。ちなみに≪ラ・フィーユ・マルガルデ≫というバレエ作品はわかりますか?
―――わかります。日本では≪リーズの結婚≫のタイトルで知られていますね。「世界で上演されている古典全幕バレエのうち、初演時と同じ筋立てで上演されている最古の作品」と本書で読みました。絶対王政期に作られたバレエ作品は神話や伝説をもとにしたものが多いそうですが、≪ラ・フィーユ・マルガルデ≫の主人公リーズは農家の娘で庶民ですよね。
海野先生:その≪ラ・フィーユ・マルガルデ≫の初演が1789年(フランス革命が始まりの年)なんです。ちょうどバスティーユ襲撃事件が起きる2週間前でした。フランス社会の「主人公」が王侯貴族から庶民になるタイミングで、バレエにも庶民の主人公が登場したということです。
ロマンティック・バレエの興亡
―――バレエの衣装についても「革命」があったそうですね。
海野先生:バレエの衣装は軽量化されていきました。18世紀まで、バレエ衣装は豪華で、靴も重く、重いカツラを被ったりもしましたが、その装いがどんどん軽くなっていきます。衣装の軽量化のピークが19世紀前半「ロマンティック・バレエ」が流行った時代です。衣装は軽く、バレリーナはポアント(つま先立ち)で踊るようになり、「天上をめざす」ようになりました。日本舞踊やインドの伝統的舞踊は重心を低く保つのですが、バレエは徹底的に重心を高く保ちます。
―――それまではポアントではなく「舞台装置でダンサーを吊り下げていた」と本書で読みました。ところが衣装を軽くし、つま先立ちで踊る技術「ポアントワーク」を取り入れて、バレエダンサーが物理的に「上」をめざすことが流行った、ということですね。なぜこのような形の「ロマンティック・バレエ」が流行ったのですか?
海野先生:まずは観客層の変化です。バレエを観るのは王侯貴族からブルジョワジー(市民)の男性に代わりました。王侯貴族が観客だった頃は「女性があまりぐるぐる回転したり高く跳ぶのは下品」と評価されていたのですが、ブルジョワジーは「女性が薄い布地の衣装で軽やかに回転したり跳ぶこと」を好みました。
もう一つはロマン主義の影響、つまり、現実逃避です。19世紀のヨーロッパではナポレオン戦争が起こったり、植民地戦争があったり、産業革命のために都市は荒廃しました。衛生問題や労働問題が発生し、貧富の差が拡大、公害も出始めるなど過酷な状況でした。そんな社会では、人々は現実逃避をしたがります。文学でも絵画でも音楽でも、ロマン主義が流行し「現実から目を背けられる芸術」が求められました。バレエの舞台は現実逃避に最適だったんです。フランスから見れば、イタリアもギリシャもトルコも異国なので、そういった異国を設定した舞台や、妖精や魔法の世界を模した舞台が好まれました。人々の現実逃避を望む精神と「バレエ」という舞台技術とがマッチした結果、ロマンティック・バレエが生まれました。
―――しかしロマンティック・バレエもやがて終焉を迎えますよね。当時のことを詳しく教えてください。
海野先生:19世紀後半、ドイツとイタリアが統一される頃になると(人々は実際の社会や庶民の日常を重視するようになり)、写実主義(リアリズム)が流行し、ロマンティック・バレエは飽きられてしまいます。ロマンティック・バレエ最後の作品は≪コッペリア≫でした。初演は1870年5月で、ナポレオン3世とその妻も観たんですよ。人々に飽きられ始めたバレエ界で、久々の大ヒット作となりました。ところがその2ヶ月後の1870年7月に、普仏戦争(プロイセン対フランスの戦争)でナポレオン3世は捕虜になりました。また、偶然にも同じ日に≪コッペリア≫の振付家サン=レオンが心臓発作で急死しています。この時期にロマンティック・バレエも終焉を迎えたんです。
―――≪コッペリア≫の原作はロマン主義を代表する作家・音楽家のホフマンが書いた『砂男』という小説ですが、原作は気味が悪いのに対して、バレエ版はコメディ要素が強いですよね。どうしてですか?
海野先生:≪コッペリア≫はロマンティック・バレエをパロディ化した演目なんです。それまで流行りだった「神と精霊の世界」を茶化した。だから、ロマンティック・バレエに飽き始めた観客にも高く評価されたのだと思います。フランスのバレエはロマンティック・バレエの終焉と共に衰退の時代を迎えます。また、バレリーナが高級娼婦化してしまいました。
―――バレエの観客はブルジョワジーの男性ですからね。バレリーナが観客の高級娼婦になってしまったと……。1889年にパリに開設されたムーラン・ルージュ等の劇場でも同様のことが起きていますね。
海野先生:そうなんです。しかしその後、バレエはロシアに渡ってさらなる進化を遂げます。ここでいったん流れを整理しましょうか。バレエの起源はイタリア・ルネサンスです。政略結婚のために(イタリア・ルネサンスを支えた貴族)メディチ家のカトリーヌ・ド・メディシスがフランスへ渡ったことで、フランスにバレエが持ち込まれました。絶対王政やフランス革命を経てバレエも進化し、18世紀にはヨーロッパ全域にバレエ文化が広がりました。19世紀にバレエは西欧化政策下のロシアへと渡っていきます。
ロマンティック・バレエの代表作……≪ラ・シルフィード≫ ≪ジゼル≫ ≪コッペリア≫
≪ラ・シルフィード≫
物語の舞台はスコットランドの農村。若い農夫ジェームズが恋人エフィと結婚式を挙げる日。妖精が現れてジェームズを誘惑する。ジェームズは結婚式を抜け出して妖精を追いかける。森に入ったジェームズは魔女に魔法のかかったスカーフをもらう。魔女は「これで妖精を捕まえられる」という。ところがジェームズがスカーフで妖精をくるむと、妖精は死んでしまった。ジェームズは絶望し、森で息絶える。初演で踊ったのはマリー・タリオリーニ(画像)。この作品からポアントが用いられるようになった。
≪ジゼル≫
物語の舞台はドイツあるいはシレジア地方の農村。農家の娘ジゼルは青年ロイスに恋している。ところがロイスの正体はアルブレヒト伯爵(または公爵)で、婚約者もいた。裏切られたことを知ったジゼルは衝撃のあまり死んでしまう。ジゼルの墓のある森では、夜になると幽霊たちが、男たちを死ぬまで踊らせて殺している。ジゼルも墓からよみがえり、霊の仲間になる。そこへアルブレヒトがジゼルの墓参りにやってくる。ジゼルは霊の女王にアルブレヒトを殺さないでと懇願するが聞き入れられない。しかし朝が来て霊たちは力を失い、アルブレヒトは助かる。人気ダンサーのカルロッタ・グリジ(画像)が踊った。
≪コッペリア≫
物語の舞台はポーランドの農村。村娘スワニルダの向かいの家では、変わり者のコッペリウス博士が魔術で人形に魂を入れようとしている。この人形がコッペリアだった。フランツ(スワニルダの婚約者)は、人形とは知らずにコッペリアに恋をしてしまう。スワニルダは怒って婚約を解消するが、最後にはフランツもスワニルダもコッペリアが人形であることに気付き、仲直りする。≪ラ・シルフィード≫ ≪ジゼル≫で神秘の世界の美しさを表現していたのに対し、≪コッペリア≫は神秘を茶化すコメディ要素の強いバレエ作品だった。ロマンティック・バレエ最後の作品にして最大の大ヒット作。
ロシアで「革命」を迎えたバレエ
―――ロシアへ渡ったバレエはどんな革命を迎えましたか?
海野先生:(振付家の)マリウス・プティパがクラシック・バレエを確立しました。現在残っている古典作品のうちの9割はプティパが作った版が起源となっています。≪ドン・キホーテ≫ ≪ラ・バヤデール≫ ≪白鳥の湖≫ ≪眠れる森の美女≫ ≪くるみ割り人形≫ ≪ライモンダ≫など。また、プティパはチャイコフスキーと共働したことでもよく知られています。それまでバレエ音楽は軽んじられていたところがありましたが、チャイコフスキーという偉大な作曲家がバレエ創作に関わったことで、音楽まで上質なバレエ作品が誕生しました。
―――どれもキャッチーな音楽なので、誰もが聞いたことがありますね。
海野先生:プティパとチャイコフスキーのコラボレーションで創作された3つの作品(≪白鳥の湖≫ ≪眠れる森の美女≫ ≪くるみ割り人形≫)は、多くの人がイメージする「バレエ」像に最も近いのではないかと思います。ところが20世紀初めにバレエ・リュス(ロシアの巡業バレエ団)が登場すると、再びバレエに「革命」がおこります。
―――バレエ・リュスは「空前絶後の最強バレエ団」だったそうですね。詳しく教えてください。
海野先生:バレエ・リュスを率いたセルゲイ・ディアギレフは「プロデューサー」です。バレエダンサーでも振付家でもありません。しかしプロデューサーとして天才でした。バレエの舞台をつくるにあたって、ディアギレフは各ジャンルで活躍していた先進的な芸術家を集めました。ダンサーや振付家だけでなく、作曲家、美術・衣装の担当者、台本の執筆者まで精鋭揃いだったんです。
例えばバレエ音楽の作曲担当は、クロード・ドビュッシー、エリック・サティ、モーリス・ラヴェル、イーゴリ・ストラヴィンスキーなど。美術・衣装担当は、パブロ・ピカソ、ココ・シャネルなど。台本の執筆担当はジャン・コクトーなどでした。1909年から1929年まで、第一次世界大戦をまたいで欧米で20年だけ活動した巡業バレエ団ですが、わずか20年でバレエ界に革命を起こしただけでなく、西洋の芸術の各分野に大きな影響を与えました。
―――伝統的な形式や規則にとらわれず、自由で個性的な表現を追求する「モダンダンス」は、バレエのような肉体改造をせずに踊ることを重視していますよね。バレエ・リュスの方針と似ていると思ったのですが、海野先生はどうお考えですか?
海野先生:似ているようで違います。バレエ・リュスの革新的バレエへの挑戦は、このモダンダンスへの挑戦だったのだと思います。「自分たちの方が上手くできるぞ」と。たとえば基本的にバレエは重心を上にあげて踊るものですが、「重心は低くても踊れる」という新境地を開拓していったのがバレエ・リュスです。「発想の転換」という枠には収まらない、プロの作品を見せたいという意図があったのではないかと思います。
―――モダンダンスは、バレエを踊るために習得しなければならない古典的な技法である「ダンス・デコール」を否定しましたが、バレエ・リュスは「ダンス・デコール」の習得を必須としたうえで「ダンス・デコールを用いない」ことにこだわりがあったんですね。
海野先生:そうです。ところがバレエ・リュスのプロデューサーであるディアギレフが1929年8月19日に没します。その2週間後に世界大恐慌が起こり、バレエ・リュスの時代もここで終わります。
≪パラード≫の衣装。
ピカソがデザインを担当した。
チャイコフスキーの3大バレエ……≪眠れる森の美女≫ ≪くるみ割り人形≫ ≪白鳥の湖≫
≪眠れる森の美女≫
物語の舞台は絶対王政期のフランス。オーロラ姫の誕生祝いに招かれなかったことに怒った邪悪な妖精が、生まれたばかりの姫に「糸紡ぎの針に指を刺して死ぬ」という呪いをかける。この呪いを、善良な妖精が「死なずに眠り続ける」という魔法に変える。姫は16歳の誕生日に紡ぎの針に指を刺し、王宮の人々とともに眠りにつく。100年後、デジレ王子が妖精の導きで姫に出会い、キスによって魔法が解ける。王宮の人々も目を覚まし、王子と姫の結婚式が始まる。
≪くるみ割り人形≫
物語の舞台はドイツ。主人公の少女クララは名付け親のドロッセルマイヤーから、クリスマスプレゼント(くるみ割り人形)をもらう。その夜、くるみ割り人形はおもちゃの兵隊を率いて、ネズミの軍隊と戦いを始める。クララはくるみ割り人形の軍隊に加勢してネズミを倒した。くるみ割り人形はクララにお礼を言うと王子の姿に変身し、クララをお菓子の国へ連れて行く。しかし全てはクララの見た夢だった。原作はホフマンの小説『くるみ割り人形とねずみの王様』。
≪白鳥の湖≫
物語の舞台は中世ドイツ。ジークフリート王子は母から「明日の舞踏会で花嫁を選ぶように」と言われる。その夜、王子は湖畔へ白鳥狩りに出かけ、オデットに出会う。オデットは悪魔に魔法をかけられ、昼の間白鳥に変身してしまう美女だった。魔法は愛の誓いで解けるという。翌日の舞踏会にオデットに似た美女が来る。ところがこの美女は、悪魔が王子を試すために連れてきた偽物だった。王子は偽物と気付かずに愛を誓ってしまう。偽物だと気付いた王子は湖畔へ行ってオデットに赦しを乞う。2人は湖に身を投げ、死の世界で結ばれる。
日本におけるバレエ革命
―――1922年には、ついに日本にバレエが渡ってきます。日本でバレエはどのように迎えられたのでしょうか?
海野先生:芥川龍之介は1922年(大正11年) に来日したアンナ・パヴロワ(ロシアの人気バレリーナ)のファンでした。川端康成もバレエファンです。川端康成の小説『雪国』の主人公は「自称バレエ評論家」です。でも、なんとバレエの写真だけを見て批評しているんです。びっくりしました。日本でバレエを見る機会が少なすぎたんでしょうね。当時はそういう職業の人がいたんだと思います。
―――その後、歌舞伎演目の金字塔『仮名手本忠臣蔵』を原作とした≪ザ・カブキ≫など、和風のバレエ作品が創作されるようになりましたね。
海野先生:1986年にモーリス・ベジャールが≪ザ・カブキ≫という名のバレエ作品を創作しました。ベジャールはバレエの振付にアジア・アフリカの民族舞踊を取り入れた前衛的な振付家で、親日家もありました。≪ザ・カブキ≫は「ベジャールの作品」になっているところがすごいです。おそらく日本人が創作したら「バレエでも歌舞伎でもないもの」になってしまっていたのではないかと思います。≪ザ・カブキ≫はバレエ作品ですが、腰を落としてすり足をしたり、助六(歌舞伎の中でも特に有名な演目『助六由縁<ゆかりの>江戸桜』)の演出を取り入れたりしています。
―――近年の日本のバレエ界ではどんな革命が起きていますか?
海野先生:三島由紀夫をイメージしたバレエ作品≪M≫が創作され、2025年秋に再演されます。大人気ゲームのドラゴンクエストもバレエ化されて人気です。また、最近は若手のバレエダンサーをアイドル化することで、「推し活」としてバレエを鑑賞する動きが出てきていると思います。良い盛り上がりです。でも、さかのぼればバレエにおける「推し活」はフランス革命の頃からあるんですよ。
―――モンテスキューやヴォルテールといった啓蒙思想家たちが、バレエダンサーの「推し活」先駆者だったということですね。若い舞台人を批評の対象というより「推す」感覚で見るという現象は、宝塚歌劇でも起きていると感じます。
海野先生:そうですね。その感覚です。「推し」とバレエ団の成長を長期的に見守る鑑賞方法がおすすめです。また、動画視聴でのバレエ鑑賞入門はいいと思うのですが、生のステージを観てほしいです。日本のバレエダンサーの水準は世界的に見てもとても高いです。チケット代は高いですが、観る価値があります。
―――これまでのお話の総括として、改めてバレエの魅力について教えてください。
海野先生:舞台の魅力は「共時性」と「現前性」です。生成AIが社会のあらゆるものを変える時代が到来し、デジタルが身近になるほど、「今」「生身の人間」がステージに立つ魅力が、より際立つのではないかと思います。バレエの魅力の源泉は生身の身体であり、身体の姿かたちだけで感情を表現し、ストーリーを運びます。ターン・アウト(股関節から脚を外側に90度開く)をはじめとしたダンス・デコールを習得することで、ダンサーは全方向に軽やかに動くことができます。ダンス・デコールは空間を最大限効率的に使う技術なんです。バレエはそんな様式美を600年かけて築き上げてきました。つまりバレエの魅力は「舞台の魅力」「ダンスの魅力」、そして「600年の歴史」なのだと思います。
海野 敏 (うみの びん)
東洋大学社会学部メディアコミュニケーション学科教授。
専門は情報学、舞踊学、図書館情報学・人文社会情報学、メディア情報学など。
【担当科目】
身体コミュニケーション論、情報メディア史 、
メディアコミュニケーション学演習など。
東洋大学 社会学部 メディアコミュニケーション学科 サイトにて、
学びについての詳細をご覧いただけます。
【紹介した著書】
バレエはルネサンス期イタリアで誕生し、今なお進化を続けるダンスの一種だ。当初、王侯貴族が自ら踊り楽しんだが、舞台芸術へと転換。観客も貴族からブルジョワジー、市民へと拡大する。十九世紀の西欧とロシアで成熟し、世界へ広がった。ダ・ヴィンチ制作の舞台装置、ルイ十四世が舞った「太陽」役、チャイコフスキーの三大バレエ、シャネルやピカソが参加したバレエ・リュス、そして日本へ――六百年の歴史を通観する。