ワールドカップ予選を見て 2006 年 6 月 20 日

Blog - Yutaka Yamamoto

はじめに

このブログは日記というより,折々に私山本が感じたことを エッセイにして綴ったものです.あくまで個人的な感想なので, 読まれた方の意見とは異なることも多いでしょうが,それに対して 誹謗中傷(ことに匿名の)などはされないようにお願いします.

ワールドカップ予選を見て

サッカーのワールドカップで日本が初戦のオーストラリアに負けた.

当然日本が勝つものと皆期待していたようなのだが,相手だって負けるために 出てくるわけではないのだから,そんなに簡単に事が運ぶわけはない.むろん 選手は楽に勝てると思っていたわけではないだろう.決定力のなさとかいろいろと 言われていたのだから.しかしことこういう国際試合の応援になるとどうして皆 我を忘れて楽観的予想に走るのか,考えてみれば,少し不思議でもある.

無論希望的な観測であることは皆知っているのだろう.知った上での応援だと いう声もあるであろう.にもかかわらず,その後の落胆とある種自虐的な反省やら コメントを見ていると,もうちょっと戦う前に冷静さを持ってみたらと思わない でもない.

どういう事情によるのだろうか.およそ現代においてはスポーツの競技大会は すべて代理戦争の性格を帯びている.いや現代といわず,古代オリンピックの時代から すでにそうだったのだろう.だとすると人々が競技にそして競技者に自己を投影して 興奮し,また応援にすべてをかけるのも不思議ではないのかも知れない.しかし, それは究極のところ幻想なのだ.競技に勝ったものの栄光は競技者のものであって, 応援者のものではない.競技者はしばしば応援者に感謝し,多分それが大きな力に なることもあろうとは思うが,にもかかわらず応援者が自己を投影した分の栄光と 満足が競技者と同じ程度に戻ってくるとは思われない.これはやはり代理戦争なのだ.

代理戦争であるがゆえに競技者に自己を投影しすぎるような錯覚があって,その上で いわば「贔屓の引き倒し」のような現象も生まれるのは,人間であってみれば止むを 得ないのかも知れない.しかし少し冷静になってみよう.サッカーのような競技は 日本人に向いているのか? 世界の一流プレーヤのプレーを見ていると,ボールが来た瞬間に反応している. そこで周りを見てからというような悠長なプレーは誰もしていない.あの普段は 温厚そうに(あくまで「そうに」なのだが)見えかねないジダンだって,瞬間の 反応でボレーシュートを放つ時にはまさに獲物を射るときの狩猟者の目をしている. あれに比べれば,フォワードのT原君の目など仏様のようなものだ.狩猟民族と農耕民族 と言ってみても何がよりよく分かるわけではない.しかしこれに加えて彼我の体格差を考えると その差は絶望的なものに思える.

そんなことは言われなくとも分かっているといわれるのかも知れない.しかしレトリック めいた言い回しになるかも 知れないが,この国ではそのような自分と世界の差をことさらに意識させないような 構造があるように思えてならない.

日本には明らかに,今だに,島国であることの幸せと不幸があるような気がする. 幸せというのは,他国の侵略(軍事的にも文化的にも)を地理的,言語的な壁のために そう気にせずにこれたことであるし,一方で不幸というのは同じコインの裏側で, 世界の中での自分の立つ位置の 確認を出来ずにここまでやってこれたと言うことでもある. 私たちが得てして自国の文化の特殊性に依存したがるのは,おそらくこのような事情を 個々人の心理が反映するからであろう.

さて,それでどうなるのか.世は挙げてグローバル時代であると叫んでいる. 我々は用意が出来ているのか.この国のマスコミはそのような世界との圧倒的な差に 対して,目を開かせるよりは,目を閉じさせ,時には劣等感を刺激するだけに終始して 来たのではないか. 必要なのは平静な,客観的な他者と自己の評価であって,熱狂の後の自己嫌悪ではないと 思われる.

スポーツに例を取って話を進めたが,考えてみれば 学問の世界でも同じようなことなのかも知れない.これについては また別の機会に.

2006 年 6 月 20 日

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