戦前・戦中・戦後・躍進するモータリゼーションの時代と長期に亘る時代を顧みることになり、社会の流れから用語の変遷が多々あります。
例えば「体育会」或いは「体育局」など異なった呼称がでてきます。
これは「自動車部」などの体育各部を所管する大学の組織の変遷によるもので、この機会にこれらの変遷を述べておきます
大学公認の体育各部と大学との関係の経緯
『明治30年(1897)発足の「東京専門学校体育部」が明治35年に「早稲田大学体育部」となり、野球、庭球、短艇、撃剣、柔術、弓術の6部を公認したことに始まる』との記述があります。(早稲田スポ-ツ100周年記念誌参照)
その後は下記のような変遷をたどっています。
・大正10年(1921) 「早稲田大学体育会」に名称変更
・昭和27年(1952) 「早稲田大学体育局」の誕生
従来の「体育会」と昭和24年創設の保健体育科目(正科授業)を所管する「体育部」が 合併。
・平成15年(2003) 「競技スポーツセンター」が創設
大学公認の体育各部はここの所管となる。現在44の部が所属している。
「自動車部」の創部
「自動車部」は昭和9年(1934)に早稲田大学の体育部として公認された23番目の部です。
創部の経緯は、同好会として昭和5年(1930)に発足した「早稲田自動車協会」と昭和7年(1932)発足の「モーター研究会」が合併して創部されました。
当時、自動車研究会に従兄弟(昭和11年卒業)が居り自動車部での継続活動を希望しましたが、弓道部に在籍しており複数の体育部所属が認められず自動車を断念しました。
卒業後、日産自動車・東京日産に務め、昭和28年(1953)から開催された「早慶日本一周自動車レース」の企画実現に向けて多大の力添えをしてくれました。
生前、「創部時に弓道を選んだが自動車部にも絆ができて良かった」と述懐していました。
昭和25年早稲田高等学院在学時に大学自動車部の助言のもと「高等学院自動車部」を創り同時に大学自動車部の活動にも参加していました。
これが私の「自動車部」との関わりの起点になります。
早稲田高等学院の自動車部は消滅しましたが、非公式ながら慶應義塾高等学校の選手が「全関東フィギュア」などで大学の選手と互角に競技している情景に親近感を覚えます。
昭和26年大学学部に進学。高等学院時に準部員で活動し免許証も取得したので正部員との判定で、「正部員証」を渡してくれた清水先輩の笑顔は今も忘れません。当時は「正部員」になった嬉しさは格別でした。