今回は私が車に興味を抱いた頃から自動車部在籍初期の頃のことを綴っていきます。
東京の下町で生まれ育った昭和ひと一桁の頃は、自転車の普及が進み始めた時代で自動車は希少な存在でした。
当時は自転車にも課税され、自動車並みに後輪フェンダーにナンバープレートが付いていたのを覚えています。(その後ハンドル部に付ける鑑札に移行)
自動車の原動力
このような時代に自動車部を創設した先輩方の先見の明に感心すると同時に、自動車部活動の経済面でのご苦労が忍ばれます。
小学校低学年の頃、近所の家で毎朝一升瓶を使って車に水を注いでいるのを見て「水で走るんだ」と思い込んでいました。
その後戦況も厳しくなり、「ガソリンの一滴は血の一滴」と叫ばれ「車はガソリンで走る」ことを認識しました。
木炭車などの代用燃料の車が現れた頃で、子供心に「水で自動車を走らせたら」と真剣に考えた思い出があります。長じてこれに類する経験をしたのでいずれ記述していきます。
私が最初に運転した自動車?は電気自動車(EV)でした。同じ経験の方が多いと思いますが子供心に憧れた遊園地の豆自動車です。正にシンプルな電気自動車でした。
最近、自動車の原動力を「石油系燃料」からから「電気」への転換が進められていますが自動車の構造は原動力ばかりでなく幾多の変遷と発展を辿ってきました。
このような変遷に伴い「自動車整備」の在り方も時代によって大きく変わってきました。
ペダルの配置の違い
高校の物理教科書に掲載された「自動車の構造」に興味を持ったことが自動車に熱中する始まりでした。
高校3年の夏休みを八王子の伯母宅で過ごした折、甲州街道大和田橋河川敷にある八王子自動車教習所で「小型自動四輪車免許」の教習を受けました。
教習車は「ダットサン」、夏休み後に鮫洲運転免許試験場で受験しました。
その時の試験車は「トヨペット」、驚いたのは「ペダルの配置の違い」でした。
教習時の車(ダットサン)は足元の右から「ブレーキ・アクセル・クラッチ」とB A Cと並んでいましたが、試験車(トヨペット)は「アクセル・ブレーキ・クラッチ」とA B Cの配置でした。
緊張しましたが操作ミスも無く実技試験を終え、学科試験も順調に済み合格しましたが、最近頻発する「ブレーキとアクセルの踏み違いによる事故」の報道の度に当時を思い出しています。
この頃(昭和25年)の自動車保有台数は全国で25万台を超えた程度で自動車の普及が遅れていました。
終戦後航空機と共に自動車の製造が禁止されたのも一因と言われています。
このような社会環境のなかで、当時小型車の代名詞とも言われた「ダットサン」も昭和30年(1955)のモデルチェンジまでこのペダル配置で生産されていたのです。
昭和26年(1951)に大学に進学し本格的な部活動に参加しました。
当時、部にはフオ-ド・ワゴン(1936年式)、ニッサントラック(1941年式)、くろがね(和製ジ-プ)、ダッジトラック(1942年式)がありました。
その後、昭和26年秋にパッカード・フェ-トン(1933年式)、昭和28年にニッサンセダン、続いて格式の高いパッカ-ド・リムジン、が加わり部活動も充実してきました。
車の数は増えましたが車齢も高く、排気量の大きい車が多いので燃料消費量が多くガソリンの供給に苦労していました。
当時の自動車の税金はエンジン排気量による区分で課税されていましたが、大学自動車部の在籍車は減免申請の手続きを経て無税の扱いを受けていました。申請書の区分欄に「教育用玩具」と記載していましたが、当時の世相に相応しい呼称だったと思います。
この優遇処置は、自動車部の初代部長であり稲門自動車部倶楽部会長としてご指導戴いた喜多壮一郎先生(元衆議院議員)のご尽力に依ると伝わっています。
いつ頃まで続いたのか定かでありませんが画期的な対策に感謝しています。
この時代に活躍した主な部車の来歴などを紹介します。
戦後復活した自動車部の第1号車で、3度の変身を経て昭和27年まで活躍したアイドル車でした。
車体は、当初のコマ-シャルタイプから当時流行のステーションワゴンに改修されました。
エンジントラブルに終始した車でした。
1回目:ピストンとシリンダ-ブロック破損で4気筒に載せ替え。
2回目:全関東京-大阪間耐久レ-スの出発地点でエンジンのシリンダ ブロック破損。
レ-スは棄権し後日V8型エンジンに載せ替え(昭和26)。
3回目:正科合宿(茂原)中にクランクシャフト折損(昭和27)。
ブレ-キは、ロッドでカムを介してブレ-キシュ-を作動させる構造で車検時には制動力不足で苦労しました。
撮影:S27千葉県茂原(飛行場)合宿
大学のご尽力で購入した車で前身は消防自動車とのこと、当初は木製のキャビンでサイドドァ-にガラスがなく、扉の留め金も簡易な金具止めでした。
部外使用で活躍するトラックなので、快適に運転できるよう乏しい予算を工面してキャビンを改修(昭和27)しました。
日本陸軍の軍用車で、村井総長の所有車でした。
空冷式エンジン(2,000cc)を搭載し全輪駆動車で、主ブレ-キは後軸 の2輪しか作動しない構造のため車検時のブレ-キ検査が難関でした。
十分な制動力が出ず検査官の格別な判断で有効期間6ヵ月の検査証を頂いたことも思い出の一齣です。
クラッチとミッションの故障が多く苦労した車です。
形は小さいが排気量の関係で「小型四輪自動車」でなく「普通自動車」に該当し、運転には当時の「普通免許」が必要でした。
その後同型車が入り、姉妹車で基礎練習に貢献してくれました。
撮影:S28年軽井沢合宿
駐留軍払下げ車で理工学部所属(自動車部に管理委託)の車でした。
最も新しく信頼できる車でしたが、排気量が大きく燃費が悪いこと・タイヤが太くハンドル操作が重いことが難点でした。
理工学部電気通信学科の「超短波無線実験局(JJ2K)」の無線機を搭載し、移動無線局として運行するので特殊用途の「8」ナンバ-の車で後部(荷台)にも座席定員が認められていました。
正規な部車ではありませんが部車同様に扱っていました。