84.「続・ZAZENのツヅキ「Mettā (メッター)のこと」

らんぞうです。

年末年始のバタバタもようやく一息、寒い夜はキムチ鍋で温まりながら、程よく冷えたビールをギュウと流し込む、おかげさまで体調も体重も戻って、日々穏やかに過ごしておりますよ。

まあ結局忙しくても、そうでなくても相変わらず飲んでおるのですなぁ。

ということで、「ZAZEN」ネタのつづきであります。

「ZAZEN」=ヴィパッサナー(vipassanā)についてお話しておりますが、自分自身としては「ZAZEN」=「ココロの部屋のお掃除」というイメージでとらえております。

どんな風にかといいますと・・・

いつもいる自分の部屋、ここ最近どうも居心地が悪いなぁ・・と思って、よくよく部屋を見回してみますと・・・。

うーん、いつの間にか脱ぎ散らかした服やカップラーメンの食べ残し、ポテチの空の袋とかゴミだらけ。うわー、あっちこっち色んな物が転がっていて、良く見ると床もホコリだらけです。

毎日いると気付かなかったのですが、少しずつヨゴれてきていた部屋、いつの間にかココロの部屋中に不快感やら不安感というゴミが残っている・・・。

そんな部屋のゴミを一個ずつ片付けていく、そんなイメージではあります。

ココロ落ち着けてじっくりと呼吸を見つめておりますと、必ず湧き出てくる妄想や不安を一つずつ片付けていきます。仕事のことやら腹が立ったこと、昨日の唐揚げ定食がうまかったことやら・・それはもう際限がありません。

浮かんでは片付け、浮かんでは片付け・・飽きもせず「観察」というホウキで掃き続けておりますと、とりあえず一応目に見えるところ、ココロの表面はスッキリとしてきますよ。

こんな風に日々チョイチョイとお片づけをしておりますと、以前よりはるかに心穏やかに過ごせるようになりってまいります。

そこでようやく気になり始めるのは、普段めったに開かないココロの底、ふかーい押入れの奥にあるダンボールがあることに気付いてしまいました。・・・(あくまでイメージです)。

どうもその中には自分自身も気付かないうちに、そっと封印していたドロドロしたトラウマの根っこのような得体の知れないオソロシイ物があるような・・そんな気がしてまいります。

そのフタを勇気をだして開けて、中身を片付け終わるには相当時間がかかるのでしょうが、そこまでしてようやく「ココロのお掃除」が一段落するのだろうなと考えています。

まずは普段から身の回りのココロの片付けを習慣化しておかないと、その恐ろしいダンボールにまでなかなか手が回らないのですね。

なので掃除(ZAZEN)は日々やらねばならないのでありますよ。

それと毎日毎日ひっきりなしに出てくるゴミを出来るだけ作らない方法も大事なのですね。

その方法が「戒(かい、パーリ語: sīla)」といわれる云わば日々のガイドブック、生活指針だそうです。

実はらんぞうが最も苦手とする(=必要な)要諦なのですが、これはまたの機会に。

ところで、日々のお掃除をするのに大事なことは「ココロ穏やかに」することであります。

「こんなにゴミ散らかして! あったまくるー!キーッ!」って怒りながら掃除をしても怒り(瞋り)というPM2.5を撒き散らしているようなもので、結局部屋はまた汚れてしまって全然意味がないのですな。

そこで必要となるのが、今のココロの高ぶりや不安感、恐怖感をとりあえず落ち着かせる即効薬=「サマタ(三昧)瞑想」といわれるものなのです。ややこしや・・。

つまり落ち着いて「観察vipassanā」瞑想するために「落ち着かせる(集中させる)samatha」瞑想をするのですね。

サマタsamathaはサーマディsamādhi(三昧と訳される)と同じ語源で、心を落ち着け集中する手段のことを言います。

信仰をお持ちの方でしたら心を穏やかにする為に念仏やお題目やらを唱えたり、またアーメンでも良いのでしょうが、あいにく神サマ仏さまには一切お願いごとをしない!と心に決めたらんぞうにとって、心の集中と穏やかさを得るために最も効果があった方法が

「Mettā (メッター):パーリ語」=「慈悲の瞑想」といわれているメソッドです。

名前だけ聞くとこれまた、なんかアブナーい・・と思いますよね。

何せ「慈悲」なんて言葉は普段は使いませんし、何やらチョー上から目線で、どうかお慈悲をー!みたいな使い方しか知らないですからね。

実はこれ、初期仏教の瞑想ではヴィパッサナーとセットで行われている心のコントロール技法なのです。

究極的な心の掃除(=解脱)はヴィパッサナーでしか至ることは出来ないそうですが、まずその前に、今ここにある不安や恐怖、怒り等のマイナスの思考を即効でなくすのに非常に有効な方法なのです。

そして、らんぞうが不眠を克服したのはこの(Mettāメッター)「慈悲の瞑想」の効果が非常に大きかったのでありますよ。

仏教用語として「慈悲(じひ)metta」の本来の意味は、慈しむ=友情、つまり上からではなく同じ目線で見ているということだそうです。

同じ生命を持っている者たち。

人間だけでなく、動物、鳥、虫、ミジンコ、微生物から、妖怪、神様まで(神様も寿命があるらしい?)生きとし生けるもの全てが幸せでありますように・・・と、心に念じることで怒りや不安などの悪い感情を半ば強制的に『上書き』してしまうという方法です。

これもググッてみますと様々な方法があるようですが、自分が一番しっくりきますのは、「ブッダ」が生前語った(経集)「スッタニパータ」の中にある「慈経」(慈しみ)の一節を何度も何度もココロの中でつぶやくのでありますよ。

『・・いかなる生き物、生類であっても・・悉く、一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。』

(ブッダのことば「スッタニパータ」 中村元 訳(岩波文庫)第一 蛇の章)

たったこれだけの事で、即効でココロが落ち着いてまいります。

不思議なことではありますが、真実の言葉には力があることを実感いたしますよ。

ところで、ここでひとつ重要なことは・・「祈らない」ことだそうです。

なぜなら「祈る」とは神様仏様やらに依頼、お願いをすることですね。

先ほど申しましたが、神サマ(達)も宇宙がいくつも生まれては消えるほどの長が~い寿命と絶大な力をお持ちだそうですが、程度の差こそあれ生命としては我々と同じ「生きとし生けるもの」だそうです。(初期仏教の考え方)

神サマも忙しいのですから、お願い事なんぞをしては申し訳ないのですな。

同じ「生命」として生きとし生けるもの、家族も上司も部下もお隣さんも遠い国に住むナントカ族の人たちも近所のネコもゴキブリも(!)、宇宙人も神サマも幸せで穏やかでいてください。とダイレクトにココロで念うのであります。

はじめは言葉が上滑りしてなかなか気持ちが乗っかってきませんが、ココロが不安や怒りで苦しいとき、或いは穏やかな時でも、思いついたら何時でも何処でも呼吸を整えながら、出来れば目を閉じながら・・・

「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ・・。」

実に簡単に穏やかなココロになることを実感できるのでありますよ。

・・そんな時間があるならもっと太極拳の練習せーよ!という声も聞こえてきそうではありますが(汗)

仕事も食事も睡眠も太極拳も・・大事なものは全てココロの上に乗っかっていると思っております。だからこそ全ての土台「ココロ」のメンテナンスとトレーニングは、何にも増して大事なことなのだー!と強く思っておるらんぞうであります。

うーむ、しかしホントに部屋が散らかっておりますなー。

・・・まずはリアルに部屋の掃除をすることにいたしますよ。

(らんぞう)