よい陽気の頃、葉桜の繁りに誘われてお外に飛び出したくなる五月も終わるこのごろ。
皆さんはどちらかにお出かけになりましたか。
ごきげんよう、ペイ子です。
先日、江戸川区のとある盆栽園に参りました。
植物の多くは一度根をはると、自らの力では移動できなくその身を置かれた場所に生きるものだと思います。
しかし、人間がその手を加え、植物を鉢に入れ形状や周りの環境を整え育て、併せて景色と美しさを求める不思議な空間。それが盆栽園でした。
盆栽は独特の美しさがあると思います。
木はその土の栄養を吸い、その空気を取り入れ、注ぐ光を効率よく求めるべく伸び育つものです。その形態は、その環境でありのままにできあがるのでしょう。
盆栽にも、盆栽でないものにも同じ事実だと思います。
ではその違いは何かといえば、人の造型意思が形として一本の樹木「すべて」に施されているかないかではないでしょうか。
形があるものが存在すれば、必ず個々に時間の流れがあると、ペイ子は感じています。
物体によって、そのペースは違うと思います。人間のそれ、空気のそれ、大地のそれ、海のそれ、地球のそれ、星のそれ。
実生から出でた「植物」とそれに手を加える「人間」の時間の流れは、同じではありません。しかし、あえてそれを人間の意志であわせて、植物を育てるのだと思います。
園内では、大小・年月・形性質様々な植物が盆栽としてそだてられていましたよ。
国籍も様々なお弟子さんと思しき方が、園側に、家屋で、屋外の台座で、水辺で剪定や手入れに余念がないようでした。
人も植物も道具も建物も小動物もみな空気のごとく自然とそこに存在しているようで、人間のお客さんとして園内にいるペイ子もナチュラルにくつろいでいました。
そう、自分でも気づかぬうちに。
水がかけられればしっとりとした空気あり、日蔭はひんやりと、そんな自然さが気持ちよかったです。
贅沢な時間が流れます。
園の方にお話をうかがうことができたのですが、
園内に存在する、育て上げた美しい樹木たちがあることに等しく、育て上げきらなかったものたちの存在があることと。
植物を鉢に植える。
その植物の生え方をみて、どういかしたら美しさが際立つか、その正面を決める。
配置を計算して、その根張り、幹、枝ぶりをイメージして、形状を針金や添え木で矯正する。(その一つ一つに意味があり手動作に無駄が感じられませんでした。)
同時に置く場所や角度を変え、環境でも全体の調和をはかる。
鉢の中も一定に変え、根を裁ち土を替え、総合的に変貌させつつ生育する。
実から芽が出て育ち、1年のサイクルを経て花を咲かせ実が付き根に還元する、繰り返して大きな流れができていく。
樹木が、何十年何百年と生きそこにあると、大小関係なく、その存在感が感じられます。
人の手のつかぬ山の奥の奥に原生する巨木も、一方で意思をもって人の手をかけられ鉢という限定された土に生きる道にあった木も、人間の存在を超えた圧倒的な美があると思います。
感じることのできる何かに意味を持ち動かすことができるって、すばらしいですね。
何もわからぬ一人間のペイ子にも、盆栽園に数時間いるだけで、そのただならぬ美しさと生命の静かな熱いエネルギーを感じることができました。
太極拳が自由自在にできることにも少しは通じてくれるかな。
ペイ子