この欄をグルメ記事にするつもりは全く無いんだけれど、読者のみなさんが北は北海道から南は沖縄まで居られるし、外国からの訪問もちょくちょくあります。おいしいものを食べるのは人間にとって大きな楽しみ。もちろん、気の合った仲間や家族との食事は最高です。そんな楽しいひと時の情報をみなさんと一緒に共有しましょう。
さて、今日はうなぎの老舗『野田岩』のお話です。
創業が江戸時代の寛政年間。(1789年から1801年)その歴史は200年以上にも及びます。
初代の岩次郎が当時麻布田島町にあった人気店の『狐鰻』で修行し、現在の飯倉4丁目に独立して鰻屋『野田屋』を開業した。狐鰻というのは上等な天然うなぎのこと。店の解説によると川で蟹やエビをしっかり食べて成長したうなぎは、顔が引き締まって、まるで狐の顔のようであった事からそう呼ばれたらしい。店は周辺の武家屋敷を商圏として仕出しを行ったり、赤羽橋を隔てた水天宮の参拝客などで大いに繁盛した。現在は、五代目となる。『野田岩』は元来、天然ウナギ専門で代々のれんを守ってきたが、戦後天然ウナギの入手が困難になり、止む無く養殖ウナギの導入に踏み切った。
現在は東京都港区東麻布に麻布飯倉本店を置き、銀座店、下北沢店、日本橋高島屋店、パリ店と繁栄を続けている。五代目金本兼次郎氏は、80歳を過ぎた今でも現役として調理場に立ち、現代の名工として活躍されている。
おいらがこの店をあらためて知ったのはNHK『プロフェッショナル』を見てから。日本橋高島屋に行った時、鰻の高級店があるなとは知っていたけど、まさか200年の歴史があるとは思いもよらなかった。家族でテレビを見ながら、「一度こんなお店に行って見たいね!」なんて庶民の夢を語っていました。そもそも、おいらは食通でも美食家でもありゃしない。下町の『ど貧乏』のお育ちだから、腹が減ってりゃ何でもうまい。スーパーの鰻だっていただくし、デパートの鰻なんかだったら大ご馳走だ。
去年からアパートで一人暮らしを始めた長男が帰ってきた時、
「ボーナス出たから野田岩の鰻でも食べに行こうか。」って聞いた時、びっくりした。
料理評論家の山本益博氏の評論記事でも絶賛していた。何でも焼き上がりが黄金色の様な美しさだとか。五代目の鰻食べて見てぇけど、ちょっと恐れ多い気もする。まっ、息子にゴチになるんだから素直について行きやしょう。老いては子に従え。
息子も行くんだったら五代目金本兼次郎さんが現場に立っている、麻布飯倉本店と決めていた様だ。
ところが予約を入れても一向に席が取れません。三人くらいじゃ中途半端な人数なのかな?それともこういう店は予約などしないで、いきなり行った方が良いのだろうか?
ついに息子も考えを調整して「父ちゃん、銀座店でも良いかな?」って言うから、
「銀座店でも上等でしょ。」と答えた。そしたら、すんなり予約が取れました。銀座店がどこにあるか聞いたら、数寄屋橋でした。それも、塚本素山ビル。ここは、日本一有名なお寿司屋さん
『すきやばし次郎』があるビルです。地下一階でした。確認して見ると、『野田岩銀座店』も地下一階。へぇ~~!すごいね!高級店が並んじゃったぞ!
当日は土曜日で銀座は人通りが多かった。でも、この街が良いのは渋谷の様なガチャガチャした喧騒が無い。昔から大人の街なのだ。最近はますますブランドショップが増えて、街並みの風情が薄れてしまった。「パリじゃねえんだぞ!」って言いたい気持ち。
いよいよ、『野田岩銀座店』入店。
お店に入って見ると、ごくごく普通の鰻屋さん。丁寧に案内されて着いたテーブルも、これまた普通。この普通の居心地がなんとも心地良い。
昔二十代の頃、職場が銀座だったので銀座4丁目の高級フランス料理店『レカン』に行ったことがある。まっ、肝試し的な意味も込めてですよ。ディナーはその頃の給料では遠く手が届かないので、ランチで体験。それでも五千円くらいしたと思う。お店は地下にあって階段を一段一段降りた時、空気が突然変わった。階段から内装が何とも豪華。二十代のおいらはその空気に圧倒されたね。料理を食べる手が小刻みに震えたことを、今でも思い出す。店も、料理も、サービスも一流でした。でもね、おいら日本人だからご飯が出ないとね。フランス料理はおいしいけれど、ちょっと物足りないんだな。
それで出てきた鰻。料理評論家の山本益博さんの言っていた通り、『黄金色』でした。こんなの初めての体験。また、鰻が柔らかい、上品!おいしい!
評論家じゃないので、ここから先は、みなさん実地体験してください。
親孝行してくれた息子に感謝!「ご馳走さまでした。」
目の前に、やはり『すきやばし次郎』がありました。当日は残念ながらお休みでした。